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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

試作短編

モブ兵士(推し活中)は平穏に暮らしたい ~聖女様、その過剰なファンサは心臓に悪いです!~

勘違いコメディもののお試し版です。

 気がついたら、知らない天井を見上げていた。

 いや、正確には、(すす)けて薄汚れた、見慣れない木製の天井だ。

 身体のあちこちが(きし)むように痛む。頭も鈍く重い。ひどい二日酔いのような感覚だが、それ以上かもしれない。

 確か俺は、昨夜も終電近くまで会社で働き、帰り道にコンビニで買った安酒を勢いよくあおって、そのまま安アパートの万年床に倒れ込んだはずだったが……。


「……どこだ、ここは?」


 思わず声が漏れた。しかし、それは聞き慣れた自分の声とは少し違う、やや若い響きを持っていた。


 混乱しながら上半身を起こすと、そこは見慣れた自分の六畳一間のボロアパートではない。

 簡素で硬そうな木製の二段ベッドがいくつも並んだ、だだっ広い部屋だった。

 壁はごつごつした石造りで、窓は小さく鉄格子まで(はま)っている。

 漂ってくるのは汗と埃と、そして……なんだろうか、これは。革製品と鉄の匂いか?


 状況が全く飲み込めない。まさか拉致監禁だろうか? 

 いや、俺のようなしがない会社員を(さら)ってどうするというのだ。借金はあったかもしれないが、臓器が売れるほど健康体だった自信はない。


 呆然としていると、近くのベッドから、むくりと上半身を起こす男がいた。寝癖だらけの頭をガシガシとかきながら、俺を一瞥(いちべつ)する。


「よう、ジョン。やっと起きたか。もう朝礼の時間だぞ、遅れると隊長にどやされる」

「じょん……? たいちょう……?」


 俺は鸚鵡返(おうむがえ)しに呟いた。ジョン? 誰のことだ。俺の名前は山田太郎(やまだたろう)のはずだが。


 わけが分からないまま、俺は周囲の男たち――同じような粗末な服を着た若い男ばかりだ――に急かされるようにベッドから降りた。

 壁に立てかけてあった水桶に顔を映して、俺は言葉を失った。


 そこにいたのは、三十路を越えた疲れ顔の山田太郎ではない。


 年の頃は十七、八だろうか。平凡だが、それなりに引き締まった体つきをした、全く見覚えのない青年が、困惑した表情でこちらを見つめ返していたのだ。


 ……異世界転生。


 その言葉が、妙にすんなりと頭の中に浮かんだ。

 そうだ、これはいわゆるアレだ。前世でネット小説などで散々読んだやつだ。まさか自分がその当事者になるとは、夢にも思わなかった。


 しかし、そこに喜びはなかった。むしろ絶望に近い感情がこみ上げてくる。

 なぜなら、俺が転生したのは、どうやら剣と魔法が存在するファンタジー世界の、しがない一兵士「ジョン」らしいからだ。

 鏡に映る自分の姿にも、ベッド脇に無造作に置かれた薄っぺらな革鎧と、錆びかけた剣にも、チート能力の欠片も感じられない。

 ステータス画面? 開けるわけがない。アイテムボックス? 夢を見るな、と言いたい。


 俺の異世界転生、初期装備が布の服とこん棒レベルどころか、マイナスからのスタートではないだろうか……。

 モブ兵士なんて、物語が始まれば真っ先に魔物に食われるか、戦争で流れ矢に当たって死ぬ運命に決まっている。ハードモードにも程があるだろう。


 数日間、俺は来る日も来る日も続く過酷な訓練と、味のない食事、そして絶望的な未来予想図に打ちのめされ、完全に心を閉ざしかけていた。

 前世の記憶があるせいで、余計にこの世界の理不尽さが身に染みて分かる。

 帰りたい。元の世界の、ブラック企業だったけれど一応冷暖房は完備されていたあの会社と、狭かったけれど自分だけの城だったあのボロアパートに、心底帰りたかった……。


 そんな風に、うつろな目で訓練場の隅の地面を眺めていた、ある日のことだった。

 ふと、訓練場を横切る一団の姿に気づいた。その中心にいる人物の姿を認めた瞬間、俺の心臓は、これまでの人生で感じたことのないほど激しく高鳴ったのだ。


 純白の、清らかな光を放つかのようなドレス。

 陽光を浴びてキラキラと輝く、絹糸のように滑らかな金色の髪。

 透き通るような、慈愛に満ちた青い瞳。

 そして、その微笑みは、まるで穢れを知らぬ天使そのもの……! 

 間違いない。あの神々しいお姿は……!


 俺は内心で、これまでの人生で最大級の絶叫を上げた。


「せ、セレナ様ああああぁぁぁ……!」


 そうだ、思い出した。

 この国の名前はアルストロメリア王国。この騎士団の制服に描かれた紋章。そして聖女セレナ様! 


 ここは、前世で妹が「これこそが私の人生!」とまで言い切って熱中していた乙女ゲーム、『光の聖女と七色の騎士』の世界なのだ! 

 そして、彼女こそが、このゲームの正ヒロインであり、俺が妹のプレイ画面越しに一目惚ひとめぼれし、影ながらその幸せを願い続けた、俺の魂の最推さいおしキャラ、聖女セレナ様ご本人!


 俺は打ち震えた。

 マジか……。推しと同じ世界線に転生とか、どんな徳を積んだら可能なんだ俺は……?

 神様、いや女神様、ありがとうございます……。ハードモードとか言って本当にごめんなさい。全力で訂正します。ここは天国でした……。


 ……いや待て、落ち着け俺。危うく推しのあまりの尊さに魂を持っていかれるところだった。

 ここは乙女ゲームの世界だ。そして俺はモブ兵士ジョン。下手にヒロインである聖女様に関わろうものなら、どうなるか。

 そうだ、攻略対象である王子様や騎士団長様たちに、嫉妬されたり邪魔者扱いされたりして、良くて辺境送り、悪ければ秘密裏に闇に葬られる……そういう死亡フラグがそこかしこに乱立している世界なのだ。


 そうだ、俺はモブ。モブに徹するのだ。

 決して目立たず、決して関わらず、聖女セレナ様の幸せを、壁のシミとなり、道端の石ころとなって、陰ながら見守り、応援し続ける。

 それこそが、この世界で俺が生き残る唯一の道であり、そしてモブとして許される最高の推し活なのだ。


 俺は固く、固く、そう誓いを立てた。

 俺の目標は「平穏なモブライフ」と「安全圏からの推し活」の両立である、と。


 それからの俺の兵士生活は、ある意味で、非常に充実したものとなった。

 朝五時起き、地獄の基礎訓練、武具の手入れ、砦の清掃、見張り任務、そして相変わらずマズい食事……。

 そんな過酷で代わり映えのしない日々の中に、俺は至高の癒やしと生きがいを見出したのだ。


 朝、訓練場へ向かう途中。運が良ければ、神殿へ向かわれる聖女様ご一行の姿を遠くから拝むことができる。

 ああ、今日も尊い……。そのお姿だけで、一日分の活力がチャージされる気がした。


 昼、中庭の掃除当番は、俺にとって最高のボーナスタイムである。

 回廊を散策されるセレナ様の横顔を、柱の陰から(細心の注意を払い、気配を完全に消して)拝見できるかもしれない。

 風に乗って運ばれてくる、あの清らかな残り香(これは俺の脳内補完かもしれないが)だけで、硬いパンが高級フレンチのフルコースの味に変わるのだ。


 夜、むさ苦しい兵舎のベッドの中で。今日お見かけしたセレナ様の残像を脳裏に焼き付け、そのご健勝とご多幸を心の中で深く祈る。

 これぞ、モブ兵士ジョンにのみ許された、究極にして至高の推し活と言えよう。


「おいジョン、また聖女様のこと考えてニヤニヤしてんのか? そろそろ本気で気味が悪いぞ。訓練に身が入ってないって、隊長も怒ってたぜ」


 隣で槍を磨いていた同僚のマイクが、呆れ顔で言った。

 マイクは、この世界で俺が唯一、多少なりとも気を許せる相手だ。まあ、俺のこの熱い推し活への情熱は、全く理解してくれないのだが。


「うるさいマイク! これはニヤニヤではない! 信仰心の自然な発露だ! 貴様のような俗物には、この一点の曇りもない、聖女様の清らかな魂の輝きが、万分の一も理解できんのだ!」

「はいはい、分かった分かった。そういうのは心の中だけにしとけよな。それより、午後の訓練、隊長が新しいメニューを試すって言ってたぞ。また地獄を見るな、こりゃ」


 うぐ……現実は、いつだって厳しいものである。


 そうだ。俺はモブ兵士。セレナ様とは、決して交わることのない、天と地ほどの差がある存在なのだ。

 それでいい。それがいい。俺は、この慎ましやかで平穏なモブライフと、安全圏からの推し活を続けられれば、それで十二分に満足なのだ。この適切な距離感こそが尊いのだ。


 俺は心の中で強く願った。


「頼むから、神様! 俺にこれ以上の幸福も不幸も与えないでください! ただひたすらに、空気のように、目立たず騒がず、壁のシミのように、この世界で生きていけますように……!」


 柄にもなく真剣に祈りを捧げながら、俺は午後の地獄……いや、合同訓練へと向かった。


 この時の俺は、まだ知る由もなかった。

 俺のそのささやかで切実な願いが、ほんの数時間後には、他ならぬ俺の最推し、聖女セレナ様ご自身の手によって、木っ端微塵に、それはもう見事に打ち砕かれることになるということを……。


 *****


 その日の午後は、騎士団の全部隊が参加する大規模な合同訓練だった。

 普段は顔を合わせることすらない、近衛騎士隊やら魔法騎士隊やらの、いかにも「選ばれしエリート」といった感じのキラキラした方々も勢揃いしており、訓練場には尋常ではない緊張感が漂っていた。

 俺たち末端の歩兵部隊は、完全に彼らの引き立て役……いや、障害物役と言った方が正しいかもしれない。


「いいかジョン、今日こそは絶対に目立つなよ。特にエリート様方の邪魔になったりしたら、どんな嫌がらせを受けるか……」

「分かってるよマイク……。俺は今日も完璧な『背景』を目指す。壁になる。石になる。訓練場の砂利の一粒になるのだ……」


 俺はマイクとそんな悲壮感漂う会話を交わしつつ、ひたすら気配を消すことに全神経を集中させていた。頼むから誰も俺に注目しないでくれ。俺はここにいない。いいね?


 訓練メニューは、よりによって模擬戦形式の障害物突破競走だった。最悪だ。これ、絶対に誰かと接触するやつじゃないか。

 俺はスタートの合図と共に、集団の後方、できるだけ目立たない位置をキープしようと努めた。しかし、訓練は熾烈しれつを極め、あちこちで怒声や金属音が飛び交う。

 俺は必死で流れに身を任せ、障害物の丸太を飛び越え、壁をよじ登り……そして、次の障害物であるぬかるみに足を踏み入れた瞬間だった。


 後ろから来た、やけに体格の良い兵士に、ドン、と思い切り突き飛ばされたのだ。


「うおっ!?」


 俺はバランスを崩し、無様にぬかるみへと足を取られ、最悪の角度で右足首を捻ってしまった。


「ぐえっ……!」


 足首に、燃えるような激痛が走る。これは……やった。確実に、重症だ。


「いってぇ……! 動けない……!」


 俺はその場にうずくまり、あまりの痛みに脂汗を流した。周囲の兵士たちは、訓練に夢中で俺のことなど気にも留めない。ああ、最悪だ。このまま誰にも気づかれずに放置されたらどうしよう……。


 そんな絶望的な状況の中、まるで天からの救いの声のように、あの清らかな声が俺の耳に届いたのだ。


「まあ、大丈夫ですか!? お怪我をなされたのですか!?」


 顔を上げると、そこには……そこには、訓練の様子を視察に来られていたのであろう、聖女セレナ様のお姿があった!

 泥まみれの俺とは対照的に、純白のドレスは一点の染みもなく輝き、そのお顔には心配の色が浮かんでいる。後光が差しているように見えるのは、きっと気のせいではない。


「せ、聖女様! な、なぜこのような……!?」


 俺は痛みも忘れて叫んだ。


「訓練の様子を拝見しておりましたの。それよりも、あなたのお足が……! まあ、ひどい捻挫ですわ……! こんなに腫れてしまって……」


 セレナ様は、俺の汚れた訓練服や足元の泥濘(ぬかるみ)など全く意に介さず、その場でふわりと屈み込むと、俺の腫れ上がった右足首に、そっとその白魚のような、神聖な御手を触れられた。


 ひゃっ……! ひゃああああぁぁぁ……!? 


 俺は内心で、今度こそ意識が飛びそうなほどの衝撃を受けた。


 推しに! 推しに直接触れられている!?

 しかも怪我の手当てを!?

 マジか!?

 俺の思考回路は完全にショート寸前だ。尊すぎて、痛みを忘れそうだ……!


「お痛わしい……。わたくしが癒やしましょう」


 セレナ様が優しく微笑む。ああ、その微笑みだけで、骨折すら治りそうだ……! 


 彼女の手のひらから、温かく、清らかな黄金色の光が溢れ出した。聖なる力が、奔流のように俺の足首に流れ込んでくる。

 あれほど酷かった燃えるような激痛が、まるで嘘のように、すうっと引いていく。腫れもみるみるうちに収まっていく。


 これが、聖女様の治癒魔法……!

 すごい……すごすぎる……!


「あ、あ、あ、ありがとうございます! せ、聖女様! このジョン、感激の極みであります! まさか聖女様直々に、こ、このようなモブ兵士のために御手を汚していただくなど……! も、もったいのうございます! し、しかし、聖女様の御手は太陽のように温かく、その御心は海のように深く……ああ、尊い……! この御恩は一生……いや、来世まで決して忘れませぬ!」


 完全にパニック状態だった。俺の語彙力は地に落ち、何を口走っているのか自分でも全く分からなかった。ただ、目の前の推しの尊さと、この奇跡への感謝を、どうにかして表現したかったのだ。それだけなのだ。


 治癒魔法が終わり、痛みが完全に消え去ったことを確認すると、セレナ様は満足そうににっこりと微笑み、立ち上がろうとされた。


 その時、俺は……またしても、やってしまったのである。

 前世からの、アイドル握手会などで培われた(そして現世では百害あって一利なしの)限界オタク的反射神経が、最悪のタイミングで、暴発してしまったのだ。


「あのっ! 聖女様! 最後に一言だけ!」


 俺は、セレナ様の純白のドレスの裾を掴みかける勢いで(実際にはミリ単位で触れていないと、俺は固く信じている)、心の奥底から湧き上がる、もはや制御不能なパトスと共に叫んでいた。


「どうか、これからもお体にお気をつけて! 無理などなさらないでください! あなたのその、一点の曇りもない、太陽のような清らかな笑顔が! 俺たちのような名もなき兵士にとって、一番の力であり、明日を生きる希望の光なのですから! 影ながら、心の底から、いつもあなたの輝きを応援しております!」


 言ってしまった……。

 ファンレターの締めによく書くような、熱烈で、そして若干……いや、かなり痛いオタク的賛辞を、この異世界の、本物の、生ける伝説の聖女様に向かって、そのままぶちまけてしまった……!


 しまった、と思った時には、もう完全に手遅れだった。

 俺の魂からの(?)叫びを聞いた聖女様は、その美しい青い瞳を、これ以上ないというほど大きく見開き、そして次の瞬間、みるみるうちにその白い頬を薔薇色に染め上げ、潤んだ瞳で、俺を熱っぽく見つめ返してきたのだ。


「まあ……!」


 彼女の形の良い唇が、感動に打ち震えるように、小さく開かれた。


「わたくしの……笑顔が……希望の光……? なんて……なんて、心に響く、魂からの言葉なのでしょう……!」


 え?

 魂からの言葉?

 いやいやいや、違うんです聖女様!

 それはただのオタクの常套句というか、脊髄反射によるポエムというか……!


「あなた様のような方に、わたくしは……生まれて初めてお会いしました……!」


 セレナ様は、うっとりとした表情で、俺の両手を(ひぃぃぃ! だから触らないでくださいってば!)ぎゅっと握りしめてきた。


「あなた様こそ、わたくしの心を、その真実の言葉で照らしてくださる、運命の……いいえ、真の騎士様ですわ……!」


 ……騎士様?


 ……俺が?


 ……運命の?


 ……………………。


 俺の脳内で、なけなしの理性とか、平穏なモブライフへの希望とか、そういう大事なものが、ブツン、ブツン、と次々に焼き切れていく音がした。


「違う、違うんです聖女様……!」と俺は心の中で絶叫した。


 俺は騎士様なんかじゃない!

 ただのしがないモブ兵士!

 しかも中身はしがないオタク!

 運命とかそういう高尚なものとは無縁の存在なんです!

 あなたの隣に立つべきなのは、キラキラ輝く王子様とか、寡黙でクールな騎士団長様とか、そういうちゃんとした攻略対象の方々であって、俺みたいな道端の石ころレベルのモブじゃないんですぅぅぅ……!


 あああああぁぁぁぁぁ……! やっちまった……! やらかした……! 完全にフラグを立ててしまった……!

 しかもこれ、絶対ハッピーエンドにならないやつだ!

 むしろ死亡フラグか、社会的に抹殺されるやつだー……!

 周囲の視線が痛い!

 マイクが口をあんぐり開けて完全に固まってる!

 隊長がこめかみをピクピクさせて鬼の形相だ!

 護衛騎士ライナスさんの殺気が実体化して俺の首筋を撫でてる気がする!

 王子様が遠くからものすごい形相でこっちを睨んでる気がする!


 俺の! 俺の平穏な! モブライフがあああぁぁぁ……!!!


 あまりの衝撃と絶望に、俺の視界は急速に白く染まっていった。

 最後に見たのは、キラキラと輝く、それはそれは美しい瞳で俺を見つめる、世界で一番尊い推しの笑顔だった。


 ……ああ、なんてことだ。推しは遠くから見ているだけで、それだけで十分尊いものなのだ。勘違いした推しは、物理的にも精神的にも、めちゃくちゃ怖い……。


 ゴーン……。


 どこかで、俺のモブライフの終了を告げる、無慈悲で荘厳な鐘の音が鳴り響いた気がした。俺はもう駄目かもしれない。


 *****


 聖女セレナ様に「真の騎士様」と認定されてしまったあの日から、俺の人生……いや、俺の平穏なモブライフは、完全に崩壊したと言っていい。

 まず、聖女様による過剰ファンサービス(という名の精神攻撃)が、凄まじい勢いでエスカレートしていったのだ。


 毎朝届けられる手作りお菓子は、もはや日課を超えて義務の域に達している。

 断ろうものなら、あのピュアすぎる涙目攻撃が待っているため、俺は胃痛と引き換えに、毎日美味しく頂戴するしかなかった。


 訓練場には、ほぼ毎日セレナ様が降臨され、俺限定の熱烈応援が繰り広げられる。

 その度に俺は羞恥心で爆発しそうになり、訓練に全く集中できず、教官や隊長からの評価はだだ下がりだ。

 プレゼント攻撃も止まらない。手編みのマフラーに始まり、手作りの護符、果ては「ジョン様の剣に似合うかと思いまして」と、どこからどう見ても高級品な宝石付きの剣飾りまで渡されそうになった。


 もちろん、全力で辞退したが、その度に繰り広げられる押し問答は、周囲の好奇と嫉妬の視線を集め、俺の精神をゴリゴリと削っていく。

 かすり傷一つで発動しかける超回復魔法(推定・腕ごと再生レベル)も健在で、俺は常に自分の身に傷を作らないよう、細心の注意を払って生活しなければならなくなった。モブ兵士なのに、無駄に生存スキルだけが上がっていく……。


 当然、周囲の反応も日に日に悪化していた。


 マイクは「お前、もう聖女様の専属になった方が楽なんじゃね?」と完全に諦めモード。

 隊長は、俺と顔を合わせるたびに胃を押さえ、「頼む……頼むから穏便に……」とうつろな目で懇願してくる。その姿は痛々しすぎて直視できない。


 護衛騎士ライナスさんの俺への殺気は、もはや隠す気配もなく、常に背後から突き刺さってくる。いつか背中から刺されてもおかしくない。

 エドワード王子は、俺のことなど存在しないかのように無視を決め込んでいるが、時折向けられる視線は、絶対零度の冷たさを帯びている。怖すぎる。


 四面楚歌(しめんそか)。孤立無援。

 俺はただ、平穏に、目立たず、壁のシミのように生きていきたいだけなのに……。なぜ、こんなことに……。


 もういっそ、何か大きな事件でも起きてくれないだろうか。そうすれば、皆の注目もそっちに向くだろうし、どさくさに紛れて俺の存在感も希薄になるかもしれない……。

 そんな、あまりにも都合の良い、そして不謹慎極まりない願いを抱き始めていた矢先のことだった。本当に、事件は起こってしまったのだ。


 その日は、王宮の中庭で隣国からの賓客を迎える歓迎の式典が催されていた。

 俺はもちろん、会場の隅っこで壁と化す警備任務だ。「今日こそ完璧な壁になるぞ……」と固く決意していた、まさにその時。

 式典の余興で披露されていた珍しい魔獣――小型のグリフォンだ――が、突然暴れ出し、会場内を飛び回り始めたのだ。


 悲鳴、怒号、混乱。まさに阿鼻叫喚あびきょうかんの地獄絵図。

 そして、その興奮したグリフォンが、あろうことか、賓客席の近くにいた聖女セレナ様に向かって突進していくではないか! 護衛騎士ライナスさんは別の場所で対応中! 間に合わない!


「セレナ様っ!」


 俺は、考えるよりも先に体が動いていた。推しが危ない! その一心で、セレナ様の前に飛び出し、警備用の盾で彼女をかばった。


 ドン! という衝撃。盾がグリフォンの鋭い爪を受け止める。


「くそっ、どうすれば……!?」


 暴れるグリフォンを前に、俺の脳裏に前世の記憶が(ひらめ)いた。


「鳥系の魔物は光るものに弱い……確かゲームでそんな設定があったような……?」


 俺は咄嗟(とっさ)に、腰に下げていた磨きすぎた水筒を、グリフォンの顔めがけて投げつけた!

 当たれ!

 ……いや、当たらなくてもいいから光ってくれ!


 キラッ!


 放物線を描いた水筒は、奇跡的に陽光を反射し、グリフォンの目の前で鋭い光を放った。それに驚いたのか、グリフォンは一瞬動きを止め、その隙を突いて駆けつけた騎士たちが、見事に取り押さえることに成功したのだった。


 ……助かった。俺は安堵のため息をついた。

 しかし、次の瞬間、俺はその安堵を激しく後悔することになる。


「まあ! ジョン様!」


 セレナ様が、キラキラと輝く瞳で俺に駆け寄り、その両手を(だからやめてください!)固く握りしめてきたのだ。


「わたくしを……危険を顧みずに庇ってくださったのですね! しかも、あの凶暴な魔獣を、あんなにも見事な機転で退けるなんて……! ああ、やはりあなたは、わたくしの探し求めていた、真の騎士様ですわ! なんて勇敢で、なんて聡明で、なんて……なんて、素敵なのでしょう!」


 違うんです! 違うんです聖女様! 俺はただ、推しを守りたい一心で反射的に動いただけ!

 水筒だってただの偶然! 活躍なんてしてません!

 目立っちゃった! またしても目立っちゃった!

 しかもなんか良い方向に! 最悪だ! と俺は内心で絶叫した。


 周囲からも、「おお! あの兵士が聖女様を!」「見事だ!」「ジョン殿、大手柄だな!」といった称賛の声が上がっている。

 もう完全に言い逃れできない状況だ。

 俺のモブライフ計画は、完全に、粉々に、砕け散った……。


 その事件の後、俺は「聖女様を守った勇敢で聡明(という大いなる誤解)な兵士ジョン」として、さらに砦と王宮で有名になってしまった。

 そして、セレナ様のアプローチは、もはや誰にも止められない勢いで加速した。


 ある日の訓練後。

 疲労困憊ひろうこんぱいで抜け殻のようになっている俺の元へ、今日も今日とて、セレナ様が満面の笑みでやってきた。

 その手には、見たこともないほど豪華で巨大な、三段重ねのデコレーションケーキが乗った銀の皿が……。


「ジョン様! いつもお疲れ様ですわ! 今日は、わたくしの特別なレシピで作りました、七色のフルーツをふんだんに使いました、特製ケーキをお持ちしましたの!」


 ……だからその七色のフルーツって何なんですか……。


「ささ、どうぞこちらのお部屋へ。今日は特別に、わたくしの私室に、二人だけのティーパーティーをご用意いたしましたの。二人きりで、ゆっくりと、このケーキを召し上がりましょう?」


 二人きり? 

 聖女様の私室? 

 特製ケーキ?


 俺は思った。無理だ。絶対に無理だ。死ぬ。確実に死ぬ。いろんな意味で。


 しかし、俺の口から漏れたのは、もはや抵抗する気力すら失った、か細い声だけだった。


「は……はいぃぃ……」


「まあ、嬉しいですわ! さあ、参りましょう、ジョン様♪」


 セレナ様は、それはそれは嬉しそうに微笑むと、俺の腕を(もう慣れた……くない!)取り、有無を言わせぬ力で引きずるように歩き出した。


 その無様極まりない俺の後ろ姿を、訓練場に残された人々が、それぞれの想いを込めて見送っていた。

 マイクは、「……ご愁傷さま」と呟きながら、そっと敬礼をした。完全に弔意だ。


 隊長は、ついに限界を超えたのか、白目を剥いてその場に崩れ落ち、地面に「胃……限界……」と力なく書きなぐっていた。誰か介抱してあげてほしい。

 護衛騎士ライナスは、顔を真っ赤にして「き、貴様あああ……!」と呻きながら、腰の剣を抜きかけては鞘に戻す、という謎の行動を繰り返している。不気味すぎる。

 そしてエドワード王子は、持っていた六枚目(推定)の純白のハンカチを、ついに奥歯でギリギリと噛み砕いていた。……もう人間じゃないかもしれない。


 ああ……カオスだ。これが乙女ゲームの世界の現実か。厳しすぎる。


 俺は心の中で、天に向かって叫んだ。


「ああ……神様、仏様、聖女様……! どうしてこうなってしまったのですか!? 俺はただ、ひっそりと、目立たず、平穏に、大好きな推しを遠くから眺めて、たまにお菓子を頂戴して(これは正直嬉しいが)、陰ながら応援するだけの、ささやかで幸せなモブ兵士ライフを送りたかっただけなのに……!」


「なのに現実は、聖女様に完全にロックオンされ、周囲からは白い目で見られ、上官の胃を破壊し、護衛騎士には命を狙われ、王子には嫉妬され……挙げ句の果てには、聖女様の私室で二人きりのケーキパーティー(死亡フラグ確定演出)だと!? これが乙女ゲームの世界の洗礼というものなのですか!? 厳しすぎやしませんか!?」


「俺の平穏なモブライフは、もう二度と戻ってこないのだろうか!? この受難は、一体いつまで、どこまで続くというのだ!?」


 俺たちの戦いは、これからだ……!


 ……どうやら、いろんな意味で、俺の苦難に満ちた戦いは、まだまだ、本当に、始まったばかりのようだった。

 誰か……誰か、俺を助けてほしい……。マジで……。



評判次第では続きを書くことも考えていますので、ぜひ評価、感想などをお願いします。

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