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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

バターフライエフェクト

作者: 高松 勇魚

初投稿です。よろしくお願いします

 むしゃくしゃしていた。ハイカロリーなものを胃にぶちこめば何かが落ち着く気がした。


そう、たとえば僕の中の虎とかが。



 のしかかる夜闇の重さを和らげようと、常夜灯が必死に輝いている。月はない。星のあるはずの空には、靄のような薄雲がマーブルを描いている。


 安アパートの赤い扉を前に、震える手。

 がりがりと鍵が鍵穴を引っ掻く。

 苛ついて二度、扉を蹴る音。


 なぜこの人はこんなに乱暴なのだろう。そう考える自分に気がついて、ドッペルゲンガーを見たような気分になった。だって『この人』ってつまり、僕のことだ。


 派手に音を立てながら僕は僕の部屋に上がり込む。

 ほどほどに散らかった生活感のある部屋の短い動線を二歩で跨ぎ、僕でない僕は冷蔵庫を開け、しばし躊躇ってからその扉を閉め、冷凍庫を開いた。


 そうして、なけなしの生活費で買ってきた本物のバターを、ぺらぺらの化学繊維で織られた買い物袋から取り出す。

 袋の中身はこれ一つ。それと、先ほど寄った近所のスーパーのレシートが一枚。ぐしゃぐしゃにしてポケットに突っ込む。


 黄色い箱は見た目よりも重い。こんなことをして何になるんだ、と、数時間前に言われた言葉が頭の中でぐるぐると回っていた。けれども僕はそんなこと気にもせずに、バターを丸ごと冷凍庫に収めて扉を閉じた。


 僕は人間の思い通りには決してならない。


そして、僕も人間である。なので、僕は僕の思い通りにはならない。明快である。



 エアコンをつけたほうがいい、と頭の隅で思ったが、僕はその声を無視して、ジーンズの尻を冷蔵庫の前の床にぺたんとつけて座った。

 なまぬるい夏の空気の中、ぽろぽろと涙が溢れるのがわかったが何もしなかった。

 何もしないことで僕自身に罰を与えたかったが、ふだんから何もしない僕にはたいして堪える仕置きでもなかった。


 僕は心の中に虎を飼っている。

 虎は時々なにかのきっかけで起き出しては、暴れて人を困らせる。



 今日もまたその『時々』だった。


 僕は暴れた。暴れて、三隅を殴ろうとした。


 午後三時過ぎのことだ。




 僕はやおら立ち上がり、小さな吊り下げ収納からホットケーキミックスの袋を取り出した。真白い粉のパウチの下のほうには、賞味期限、という添え書きで半年前の日付が書かれているが、気にしない。


 牛乳はないので、水で溶いたホットケーキミックスに卵を練り込む。この順序が正しいかどうかは知らないが、こうやって段階的に液ものを加えるとダマになりにくいことを、僕は経験則で知っている。


 出来上がった、どろりとした甘い生地を、凍ったバターにまとわせる。そして、揚げる。三隅はそう言っていたし、僕はそれをしっかりと聞いたはずだった。

 




 その時、空席の目立つ大学構内のカフェスペースで、三隅は僕を相手にバカ話をしていた。いつもの、教室で四限を講じている教授たちが怒鳴り込んできそうな大声で。


 そうそう、あれってさあ、試したことある?結構美味くて、云々。


バターをフライにして食べた話、というのは、まあ大学生のバカ話の中ではまともなほうの話題である。僕がそれを聞きながら思ったことは二つ。


 なぜそんなに楽しそうなことに僕を誘わなかったのか。


 どこの誰と一緒に食べたのか。


 僕はそのどちらもを口にしなかった。ただ頬を釣り上げて、巷で「オタフク」と異名をとる微笑みの仮面をかぶって頷いていた。

 面倒な友達だと思われたくなかったし、僕ばかりが三隅と行動を共にしたがっている、とわかると、友情の対等なバランスが崩れてしまう気がしていた。


 けれども。


「それで、カノジョがさあ……あ、そうそう、俺彼女ができたんだよ。それでそいつにもバター食わせようとして、でもって」



 虎が咆哮した。僕はそれを制御できなかった。


 僕が立ち上がって椅子を振り上げた時も、それを叩きつけるのをなんとか抑えてゆっくりと地面に下ろしても、僕が唸りながら走り去った時でさえ、三隅は動かなかった。

 おそらく動けなかったのだろう。三隅は最初から最後まで、猫騙しを食らったような顔をしていた。


 たぶん僕もそういう顔をしていたんじゃないかと思う。

 


 バターをフライにする工程は単純なようでいて奥深い。らしい。その奥深さの頂点とも呼べる瞬間は、バターを油から引き上げた時から始まる。


 曰くに。油が切れないうちに口に突っ込むと火傷をする。

しかしぐずぐずしているとバターは溶け、熱さと冷たさの繊細なバランスもろともグズグズに崩壊する。

 ちょうど良いタイミングで齧ると、熱い衣の内側にひやりとしたバターが溶けて、えも言われぬ感覚を呼び起こすのだという。


バターフライはそういうわけで、揚げたら即座に食べなくてはならない。

なんともバカ騒ぎ向きの、ノリと勢いでできた料理である。きっと三隅も楽しんで作ったことだろう。


そう、僕ではないそいつと。

 



「あいつ怖いよ」

 三隅は言った。


「ニコニコ話聞いてたと思ったら、わけわかんないところで急にブチギレて」

 三隅は言っていた。


「見てくれよ、椅子で殴られそうになって俺、転んだんだよ」

 三隅は言ったらしかった。……彼には申し訳なく思う。

 僕は時々虎になる。

 それは大抵友人が誰かに取られた時で、特に女に取られた時だ。

 仮に僕の中の制御できない嫉妬心が虎の形をとって暴れるのだとしたらそれは、僕が本当は、彼らと友人以外の関係になりたがっていた証左に他ならない、のかもしれない。



 その感情はしかし、自覚したところでどこにも出せるわけがない。

 出せないからただただ僕の腹の中に溜まっていく。虎の形をとるほどに濃厚に。


虎は唸る。


虎は餌を求める。


虎は僕の感情を食い物にする。



 僕の素直な感情は虎を肥らせる餌になる、それが真実だとして、では僕は虎に餌を与えるために生きているのだろうか。

 そうではないはずだ。虎に餌をやらないことだって、制御することだって、本当はできるはずだ。そう信じてはいつも、僕は僕自身に裏切られている。



 きつね色に揚がったフライはただひたすらに巨大だった。よく油を切った後、僕はその一口目を齧った。


むせ返るほどのバターの匂い。

ぼたぼたと溶けたバターが顎を伝って垂れて、それが床に落ちるのを防ぐために首に皿を当てる。

もう一口。


 よく冷やしてもバターは溶ける。どんなに頭を冷やしても、僕の中に燃え上がる嫉妬は止められない。熱く強くその場を焦がして、残るものは何もない。



 食べながらどんどん後悔が湧き出てきた。


 何だこれ、衣を食べるためにバターを食べているのか、バターを食べるために衣をつけたのか。


 ていうかバターを食べるって何だよ。何が悲しくて固形の油をわざわざ食わねばならないんだ。僕はステーキの脂身は残すタイプだぞ。


 そうだ、三隅。お前は脂身ばかり好んで食うタイプだったな。

 



「ねえ、僕さ、お前が言ってた、バター揚げるやつ作ったんだけど」


「でもやっぱり胸焼けしてさ、食べきれなくて」


「お前がいればなあ、って」


 虎が僕を迎えに来た。


 僕の部屋の中に暴風が吹いた。


 あるいは、それに似た暴力が吹き荒れた。

 



 気がつくと、部屋は荒れ放題に荒れていた。カレンダーは壁から引き剥がされ、モノというモノは床に転がっていた。


 けれども壊されたものは一つもなかった。

 皿はすべていっそ丁寧なほどばらばらにして引っ張り出され、本はすべて開くだけ開いていた。


 それは片付けの困難さだけを追求したような荒れ具合だった。僕の中の虎は、理性的で臆病で尊大だった。


 僕は思い出したように、床に投げ出されたバターフライの残りを見た。


 夏の空気の中に放置されたバターは溶け出して衣の中に染み込み、皿に黄色くへばりついていた。


バターの形の四角い暗闇だけがそこにあった。

ぽっかりと空いた穴。

空洞。


 そこにいずれ、虎がやってきて棲みつく。そうして僕のわずかな安らぎを壊して、去る。


 僕は虎を殺すために、何をするべきなのだろう。

 言わず、表情に、態度に出さないこと以外の何を。 口をつぐみ目を閉ざし耳を塞ぐ以外の何を。


 あるいはいつか、この空白を埋めるほどの誰かが、僕の前に現れるのだろうか。僕の世界を変える何かが。




 こつん。


 静かになった部屋に、その音はノックのように染み込んだ。


 こつん。


 玄関扉から、何かがぶつかるような音がした気がした。

 僕は夢遊病になったみたいにふらふらと歩み、扉を開けた。


 こつん。


 大きな蛾が、羽ばたきながら常夜灯にぶつかっては落下していた。


きみのもとに蝶はこない。


お読みいただきありがとうございました。良かったら評価のほうもお願いします

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