0277ワールド・タワー52(2124字)
「少し違うな。余は冥界のマシタル国に戻りたい。それからフォニとかいう女は、人間界のジックリン王国に帰りたいそうだ」
『ほう、冥界か。ではまずそこからにしよう』
話を聞いていたラグネは、ガセールの決断に驚いた。あわてて話しかける。
「帰っちゃうんですか、ガセールさん」
その言葉に反応したものたちがいた。冒険者で魔法剣士のブラディ、近衛隊長カオカ、近衛副隊長トナットだ。
カオカは言っていた――『この塔を上り切り、再び外へ出られるときまで、冥王ガセールのことは黙認する。ただし、お前が我々を裏切ったら、そこで協力はおしまいだ』と。『再び外へ出られるとき』は、まさに今なのだ。
3人は次々に武器を携えてガセールを包囲した。特にブラディは、以前仲間のトミーをスライムたちに殺されている。あの化け物たちの総帥である『冥王』を殺害し、トミーの敵討ちを果たすことは、彼の念願となっていた。
ガセールはしかし平然としている。
「そんなに余を殺したいか?」
周囲がこの状況に気づいてざわついた。ロモンとナルダンがラグネに問いかける。
「ガセールって誰だい、ラグネくん」
「い、いや、その……ははは」
笑ってごまかすしかなかった。
ガセールたちに無頓着に割り入ったのはユラガだ。彼女は神の使い『漆黒の天使』であり、冥界の管理者でもある。
「はいはい、やめやめ」
ブラディが激怒した。
「何でですか」
「わらわとしては、また冥界に戻ってきてほしいのよ、ガセールに。だってガセールの部下で冥界を率いているリューテとツーンは、早速部下の謀反にあってるし……。冥界の統一者として、やっぱり指導力のあるガセールが必要なの」
トナットが眉をしかめた。
「私たちにとっちゃ、冥界のことなんかどうでもいいんだけどな」
ラグネは何とかガセールを助命してほしくて、必死に口を挟む。額に汗をかいていた。
「カオカさん、トナットさん、ブラディさん! あのときから今まで、ガセールさんが何か裏切り行為をしましたか?」
そこをつかれると困るのだろう、3人の殺気が鈍る。そうと見て、ラグネはなおもまくし立てた。
「僕はガセールさんが人間として好きです! 確かに多くの人間を殺してきたかもしれません。スライムたちに人間界の蹂躙をやめさせなかったかもしれません。でも、でも……」
ラグネは声を張って援護する。
「ガセールさんは天使との戦いで変わったんです! それが決着した後、ガセールさんは『もう人間は殺さん、余らは冥界に戻る』と断言しました。本来ならもう冥界に帰還していたはずなんです」
カオカ、トナット、ブラディが目を丸くした。
「それは本当か、ラグネ」
「はい! 手違いで戻れなくなってから、たまたまこの塔に僕らと一緒に閉じ込められたんです。そして、ガセールさんは『人間は殺さん』との自分の発言を、この塔の旅で証明してくれました。それは皆さんもご存知のはずですよね?」
ラグネは汗かと思って拭いた水分が、自分の涙であることに気がつく。
「よい方向に変わったもの、よくなったもの――そうしたものを殺してしまえば、結局何一つ残らないじゃないですか。少なくとも、ここでガセールさんが殺されれば、僕は悲しみます……」
絞り出すように訴えた。
「お願いです……殺さないで……お願いしますから……どうか……どうか……」
嗚咽が止まらない。ラグネは自分のほうが間違っているとはっきり認識していた。だが、どうにか、何としてでも、ガセールを助けたい。
そのときだ。
「ラグネ、もういい……」
ガセールがぼそりとつぶやいた。それを聞いてブラディが再びいきどおる。
「何が『もういい』だ! お前は……」
ガセールは彼に正対すると、両膝を屈して地面に座った。
「すまなかった」
両手をつく。そして、深々と頭を下げた。床と額が接するまで……
「このとおりだ。許してくれ」
ブラディはガセールの土下座に言葉を失った。カオカ、トナットも信じられない光景を見た、とばかりに息を呑む。
「すまなかった、ブラディ、カオカ、トナット。頼む。許してくれ……」
耳ざといものが聞けば、その声が泣いているもののそれだと気がついただろう。少なくともラグネにはそう聞こえた。
「許せるわけがないだろう……!」
ブラディの長剣を握る手がぶるぶると震えている。
「トミーはいい奴だった! それがスライムに食われて死ぬなんて……! そんなこと、絶対に許してはいけない! いけないんだ!」
武器を振り上げた。
「死ねぇっ、ガセールーっ!!」
ああ、もう駄目だ。ラグネは目をつぶった。光の矢を仲間のために使ってはいけないことがあるなんて、思いもよらなかった。ガセールの断末魔の悲鳴が今にも響きそうで、耳を塞ぎたい――
だが。
「……!?」
それは一向に鼓膜を震わせなかった。おそるおそる、ゆっくり目を開く。そこには――
ガセールの頭の上ギリギリで、静止した剣があった。ブラディが振り下ろしながらも、直前で止めたのだ。
ブラディはわななく手で剣を鞘に納めた。泣きじゃくりながら言葉を吐き出す。
「ラグネくんに免じて許してやる。その命は大事に使え、ガセール。僕の復讐は、もうこれで終わりだ……」
「……すまない」
ラグネは土下座から身を起こすガセールに駆け寄った。その背中をさすって喜ぶ。




