0270ワールド・タワー45(2142字)
そんなこと全然聞いてないんだけど――とつぶやきかけて、ラグネはやめた。戻ってくることができると保証されるなら、むしろありがたい話ではある。もっとも、10億カネーをそろえてくる客としては、ラグネは最初となるのだろうが。
まずはラグネから、問題のクリスタルへと飛び込んだ。現れたのは――
地面だった。
「ぐはっ……!」
19階に入るとともに、いつの間にか倒れている。頭をもたげることさえできない。17階の「ふわふわする空間」とは真逆で、ここでは地面へと押し付ける力が強烈に働いていたのだ。隣でクネスも轟音を響かせ倒れこんだことから、自分だけではないと知った。
奥から艶に欠けたガラガラ声が響いてくる。青年のものだった。
「はあ、面倒くせえな……。またお前らもガンシンさまに会いたいってか? 今の状態で分かるだろうが、この階に入った生物は、誰もが強い『重力』に支配されるんだ。受け付け兼農場支配人のこのメユさまと、魔神ガンシンさまを除いてな」
ラグネは重たいあごをどうにか動かしてしゃべる。
「じゅ、10億カネーを持ってきました! 僕を20階に通してください!」
それだけでもひと苦労だった。青年が驚いたような声を発する。
「何!? 本当か?」
クネスが息も絶え絶えに『重力』へあらがって、革袋を差し出した。
「こ、このなかです……!」
「初めてだな、本当の10億カネーとは……。どれ、面倒だが俺が確認してやる」
メユは呪文を唱えた。
「『鑑定』の魔法!」
ラグネの視界の外だったが、革袋が急上昇し、また落ちてきたようだ。メユは興奮の吐息をもらす。
「間違いない、10億カネーだ! すげえな……!」
青年はひとしきり感心した。
「よし、確かに金は受け取った。人間、お前が20階のガンシンさまにお会いしたいのだな?」
「はい」
「こっちの鉄くず巨人のほうが強そうだがなあ……。まあいいか」
メユが指をぱちりと鳴らす。とたんに、ラグネは重たい力から解放された。ようやく見ることができたメユの姿は、ボサボサの桃色の長髪、切れ長の目、淡い紫のチュニックに黄色いズボンというものだった。
ラグネは改めて19階――『審判の階』を見渡す。そこには野菜の畑と果物の木々が生い茂り、複数の人間が牛や馬で農作業をしていた。天井の光球が太陽の代わりとなって、日差しと熱を彼らにもたらしている。彼らも今のラグネのように、『強い重力』からメユによって解き放たれているのだろう。
12階の――キュービィーの残った、あの畑の階によく似ていた。自給自足のための農園なのだ。
と、そのとき水がほとばしる音が聞こえてきた。前ではなく横からだ。そちらへ振り向いてみれば――
「な、何やってるんですか、メユさん!」
何とメユが陰茎を取り出し、クネスの頭に小便を引っかけていたのだ。ちょうど終わるところだった。
「ああ、すっきりした。じゃあな、鉄くず巨人!」
メユがズボンを穿き直した後、また指を鳴らす。するとクネスの巨体は、クリスタルに吸い込まれるように後退し、そのまま消えていった。
「クネスさん……! メユさん、ひどいじゃないですか! クネスさんが可哀想です!」
メユは気にせず、金の袋を担いでラグネに手招きした。
「ついてこい」
「あの、クネスさんが――」
「あれは毎回やってるのさ。この19階についてあれこれ詮索や疑問を招かれないように、小便をかけて侵入者を辱めておくんだ。これが結構効いて、10億カネーに満たないものは二度と来なくなる」
だから19階から帰ってきたものは、詳しいことを語りたがらないのか。確かに尿をかけられたなど、羞恥ゆえにおおっぴらにできないだろう。
それにしても小便って……。ほかにやりようがあると思うけど。
ラグネはメユの後についていった。
「20階には魔神ガンシンさまがいらっしゃるんですよね?」
「もちろんだ。最近は何らかの研究をなさっていて、こちらへは滅多に顔をお出しにならないがな」
19階の端っこに螺旋階段があった。錆びついているが、ここまで精巧な鉄の階段なんて初めてで、ラグネは貴重な経験をしているなあと実感する。
階段の一番上にはクリスタルがあった。
「では入れ」
ラグネは肩をつかまれて、メユともども水晶体のなかへと飛び込んだ。
頂上の20階は、ラグネに既視感を覚えさせる作りだった。
玄室で、空気入れの開口部が天井近くにある。壁を覆うヒカリゴケがほんのり光っていて、室内の構造が薄ぼんやりと分かった。奥の壁には巨大な玉座が設置され、あるじの体格が人間離れしていることが判明する。
――そう、これは勇者ファーミ一行と組んでダンジョン探索におもむいた際、最後の行き止まりとなった場所に似ていた。
ラグネは思わずつぶやく。
「ここは魔人ソダンの部屋にそっくり……」
そのときだった。
『魔人ソダン、だと?』
不意に目の前の空間が歪む。透明から黒へ、黒から白へと、彩色されたような何かが渦を巻いて、急速にひとつの巨大な人影を形成していった。
そうして出来上がった人物は――まるっきり魔人ソダンだ。
青い肌で鍛えられた上半身を露出し、下半身は熊のような茶色い毛でみっしり覆われている。左右のこめかみからは雄牛のような角が生えていた。
ただひとつ違う点があるとすれば、それはその両目に宿った奥深い知性だったろう。




