0189ザオター07(2171字)
雨が降っていた。大地から容赦なく熱を奪い、生きとし生けるものを寒からしめる、冷たい雨が。
ザオターはまぶたをこじ開けた。俺は確か、あの山賊どもに斬り捨てられ、ただの肉片に変えられたはずだ。なのに、目の前には世界がある。遠く野鳥の鳴き声も聞こえた。目の前を蟻が行進している。
俺は死んだのではなかったのか?
ザオターは全裸のまま起き上がった。地面は水平だ。あの「東の山」ではない。うっそうと茂る森のなかで、ここがどこかも分からないまま、ただ冷雨に打たれた。
「傷が――ない」
思わず独語するほど、自分の体には何の損傷もない。痛みもなかった。血溜まりも消え失せている。あの東の山での出来事は、すべて悪い夢だったのか――そう思ったときだ。
「信じられない……!」
女の声だった。その音源へ振り向くと、白い髪で褐色の肌の若い女性が立っている。こちらを見て目を丸くしていた。
従者なのか、小男が背後にふたりついている。手には棍棒が握られ、腰には矢筒、肩から袋と弓を提げていた。それはいいとして、奇妙なことに、彼らの肌は青い。染料を塗りたくったようだった。
3人ともフード付きローブを着込んでいる。それが雨避けになっていた。
ザオターは『人間』と関わることなどもうたくさんだった。とはいえ、このどことも知れない森のなかで、ひとり雨に打たれていてもしょうがない。とりあえず嫌々ながらも頭を下げて助力を乞うた。
「すまないが、ここはどこだ? なぜ俺はここにいる? あんたらは誰だ?」
「あたしはルバマ。こっちは召し使いのヌリタクとヌリマツ」
ルバマは二十歳ぐらいに見える。ヌリタクとヌリマツはともに50代ぐらいか。彼女は再び繰り返した。
「それにしても信じられないわ。あたしやネケツと同じ、人間界から転移してくるものがいるなんて……。さぞかし恐ろしく深い恨みを抱いているんでしょうね」
ルバマはそういって目を細める。うっすら笑っていた。
その後、ザオターはヌリマツのローブを借りて全裸を隠すと、歩いていくルバマたちについていきながら話を聞いた。
ルバマはこの世界を『冥界』と呼んでいる。冥界は青い肌の人間だらけだ。そして、死の概念というものがない。
「青い肌の原住民たちは、ある日突然まっさらな場所から生まれ落ちてくるの。『発生』といってもいいわ。それはもう、無差別に、唐突にね。そしてそのときから個別に上限年齢が決まっているの。その年になるまで成長すると、勝手にそこから年を取らなくなるわ。そうなるともう、その見た目姿で恐ろしいほど長い年月を、ただただ緩慢に生きていくことになるの」
ルバマはそういえば、とばかりにザオターを見た。
「あなた、何て名前だっけ」
「ザオターだ」
「へえ。変わった名前ね」
ルバマはまた前を向く。4人は雨のなかをひたすら歩いていった。森はまだまだ続くようだ。
「あたしもザオターも、青い肌の原住民とは違う。あたしたちは人間界からこの冥界に転移してきたのよ。人間に無残にもなぶり殺され、底の見えない怨恨――それこそ気が狂うほどの――を抱いたものだけが、この世界で再生するの」
ザオターは首をかしげた。
「何でそんなことが分かるんだ?」
「昔、ネケツという年上の女性転移者がいてね。彼女とあたしは打ち解けて話したんだけど、ふたりに共通するのは『人間への極度の恨み』という点だった。あなたもそうなんでしょう、ザオター?」
「……否定はしない」
そう返しながら、ザオターは少し気になる点があった。ルバマの言い回しだ。
「女性転移者が『いてね』。いてね、とはどういうことだ? この世界に死の概念はないんだろう? ネケツは死んだのか?」
ルバマは少し重たそうに答えた。
「ネケツは死にたがってた。人間界での家族との幸せな暮らしを追想しては、どうすればこの冥界で死ねるのか考え続けていたの。そして、結局彼女は火山の火口に飛び込んで、骨まで溶けてしまったそうよ。彼女が望みどおりに死ねたのか、無限の苦痛にさいなまれているのかは、分からずじまい……」
なるほど、そういうことか。ザオターはもし自分がこの冥界に耐えられなくなったら、ネケツと同じことをすればいい、と脳に明記した。
「まだ聞きたいことがある。この森で何をしていた?」
「野鳥の狩りよ。それと木の実の採集。始めたばかりであなたを見つけて、さすがにやめたけどね」
ザオターは厳しい目で彼女をにらむ。
「死の概念がないなら食事は必要ないはずだ。眠ることさえもな。おかしいだろう」
ルバマはくすりと笑った。笑殺というやつだ。
「食事を取らなくても死なないけど、空腹にはなるわ。着物も着る必要はないけど、風邪を引くかもしれないわ。眠らなくても生きていけるけど、頭はうまく働かなくなるわ。ただ漫然と過ごすのではなく、『快適に』生きていくためには、やっぱり人間らしい生活は必要ってことよ」
優れた回答だ。ザオターはいつの間にか雨が上がっていたことに気がついた。
「着いたわ、ザオター。あたしの砦よ」
森が途切れる。曇天から差し込む陽光が、目の前の建築物をひと撫でしていった。
木を縦横に組み合わせた柵。石造りの土台に木造の平屋。オレンジ色の瓦で葺かれた屋根。それらが居並ぶなかを、人や馬、牛、豚、鶏、羊たちの立てる音が雑に絡み合って響いている。
これがルバマの砦だった。彼女は権力者だったのだ。




