0186ザオター04(2137字)
ザオターは異変を感じて、荷物を置いてそっと短剣を取り出した。
「ラネッカ。ラネッカ……?」
返事はない。ザオターは自宅の入り口に近づいていった。
そのときだ。
ザオターの前に、血だるまになったラネッカが飛び出してきたのは。
「えっ……」
ザオターは彼女がうつぶせに倒れて、なのに「痛い」のひと言も上げなくとも、それがお芝居であると信じた。
「おいおい、冗談はよせよ、お前」
ザオターは両膝をついて、妻を揺すった。ラネッカの瞳孔が開いているのを見ても、ザオターは事実を受け入れがたく感じた。そんなわけがない。彼女が死んでいるなんて、そんなわけがない。
だってそうだろう? お腹には待望の赤ちゃんがいて、順調にいけば数ヵ月後に生まれてくるはずなんだ。俺とラネッカはその子とともに、楽しく明るい家庭を築き上げていくはずなんだ。
それが、こんな最後を迎えるわけがない。
「は、ははは……」
まったく動かず、呼吸すらしていない伴侶の姿に、両目から涙があふれてくる。
「ラネッカ……何でだよ……」
そのときだった。
家のなかから、頭がおかしくなったような笑い声が響いてきた。その声音には聞き覚えがある。返り血で真っ赤に染まった男が、ぬっと入り口から現れた。
「よう、ザオター。元気そうじゃないか」
キョコツ。去年の一揆の首謀者で、反乱の野望が潰えたあとは、確か奴隷としてよそへ売られていったはずだ。
そのキョコツが、今なぜ俺の家に……。その疑念を波動として感じ取ったのか、キョコツは血塗られた剣を握ったまま教えてきた。
「俺さまを買い取ったあるじは、すぐに病気で死んだ。そのあと俺さまは、またこっちの地方貴族に売られてな。そして今、そこを脱走してここまでやってきたんだ。お前への復讐を果たすために」
復讐といっても、なぜなのか。心当たりがない。
「俺が、ラネッカが、お前に何をしたっていうんだ」
「一揆の情報を漏らしただろう」
凄まじい憎悪で顔面を変形させて、キョコツはにらみつけてきた。明らかな被害妄想だ。
「俺はそんなことはしていない。誤解だ」
返事は間髪入れなかった。
「いいや、俺さまたちの一揆が潰されたのはお前のせいだ! お前のせいだぁっ!」
キョコツが剣を振り回してくる。ザオターは後ろに転がってそれをかわした。キョコツはラネッカの死体につまずいて派手に転ぶ。
「痛てっ! くそ、この女は殺しても邪魔だなぁ!」
キョコツが狂気の色彩を両目ににじませて、死体の頭部を何度も何度も剣で叩いた。あまりの衝撃に頭蓋骨が露出するほどの、激しい殴打だ。変形して原型をとどめなくなっている妻の頭部が、その光景が、ザオターに覚悟を決めさせた。
ザオターは短剣を構える。脳が沸騰しそうなほどの怒りと憎しみが、その切っ先から飛び出すようだった。
「お前が……」
ザオターは奥歯を砕かんほどに歯軋りする。
「お前がラネッカを殺したのかあっ!」
キョコツは殺人の背徳性に興奮したまま、ザオターへ嘲笑を投げかけた。
「そうさ。一揆で大勢の農奴が殺されたのに、お前だけは幸せに、嫁なんかもらって平和に暮らしている。この腹なら妊婦だろう。ますます憎たらしい」
キョコツは恐ろしい笑みを浮かべる。
「お前のすべてを奪った上で、それをお前に知らしめた上で、お前を殺す。それが俺さまの復讐だ。こんな素晴らしい劇はまたとないだろう」
汚い乱杭歯を露出した。
「さあ、死にやがれザオター! 嫁と子供があの世で待ってるぞ!」
キョコツは剣を振り下ろしながら襲いかかってくる。ザオターはその刃を短剣で受け止めた。鍔を使って左へ流すと、キョコツの鼻っ柱に頭突きを見舞う。
「げぇっ!」
苦悶して顔をしかめる相手の、今度は股間へと蹴りを叩き込んだ。睾丸に打撃をもらい、キョコツはあまりの痛みに剣を手放す。
ザオターは彼の髪をつかむと、その頚動脈をナイフで切り裂いた。鮮血が噴き出し、キョコツは白目をむく。
「があぁ……っ」
彼は横倒しに倒れ、そのまま動かなくなった。監督官として、人間の制圧方法をはじめとする訓練を受けていたザオターだ。農奴のひとりやふたり、簡単に倒すことができるのだった。
「ラネッカ!」
キョコツなどどうでもいい。ザオターは彼をまたいで妻のもとへ向かった。血の海と化した周囲で、彼女はすっかり冷たくなっている。ザオターは涙ぐんで鼻をすすり上げ、ラネッカを仰向けにした。
その両目は何ものも見てはいない。完全に死んでいた。もう蘇生させる術はなかった。
「ラネッカ……何でこんなことに……」
そのときザオターは気づいた。ラネッカのお腹には、赤ん坊がまだ眠っているのだ。
「子供だ。子供を助けてやらなくちゃ!」
ザオターは完全に狂っていた。彼はラネッカの腹を短剣でていねいに裂いていく。内臓が飛び出し、ザオターの両手は血まみれになった。それでも作業を進めると、羊水のなかから小さくか弱い赤子が発見された。3頭身だ。
すでに死んでいた。というより、体中がまだ発育段階にあり、個体で生きる準備を整えていないのだった。
「うおおおお……っ!」
ザオターは泣き崩れた。どんどん体温を失っていく我が子を前に、彼は何かできないか、どうにかこの子――ガセールと名づけよう――を生き返らせられないか、人生でも初めてぐらいに脳をフル回転させた。




