8・真織宮2
「お支度ができました」
「うむ。参る」
真織宮は白装束で足袋裸足のまま庭に降りる。平石の連なりをいけばすぐに静かに落ちる滝からの涼やかな気配に包まれる。それでも護るように滝を囲う木立をふたつばかり越えないと辿り着けない。
滝は細く、高さも無いため勢いも強くはないが、身を切るように冷たい。ここが王城であった理由はこの滝のためと聞いているが、ならばなぜ王城を動かしたのか、確かな理由を真織宮は知らない。
――なにもわからないのは同じだというのに。
玉緒宮は「なぜ父上が亡くなられたことを知らせてくれないのだ」と、「葬儀のこともこれからのことも話さなければいけないことはたくさんあるだろう」と執拗に真織宮を攻め立てた。だが真織宮とて、王が亡くなったのを知ったのは一昨日のことで、すでに崩御から数日が過ぎていた。
――聞きたいのも同じだ。
滝に打たれる場所に置かれた大きな岩に新たな筵が置かれて滑らないように固定されると、侍従が無言で真織宮を促し、真織宮は冷たい水の下に座る。冷水に全身が痛み、頭の中にはキンキンと音が響きわたるが、すぐに慣れてしまう。立太子してから毎日水垢離をしているのに、相変わらず自信も覚悟も龍の気配もわからないままだ。滝に打たれながら、ぼんやりと考え事もできてしまう。慣れは恐ろしいものだとは思う。
――まったく。
崩御の時に傍らにいた王の侍従は、王太子である真織宮でも、西や東の大臣でもなく、ましてや後宮にいた正妃にでもなく、香具宮に駆けていき、残っていた乳母夫婦にどうしたらいいかを細かく指導してもらったと言う。
「突然のことで狼狽えましたが、主上の御遺志でありましたので」
怜悧な一重の眦で、狼狽えたことなど生まれてから一度たりとないという顔で、古参の侍従はそう言ってのけた。
曰く、我が儚くなったら香具宮へ行け、あそこの乳母夫婦には全てを任せてあるからと。
――なぜだ。
真織宮は王が亡くなったらどうしたらいいかなど、1度も聞いたことがない。
「姫皇子様はすでに出奔された後でございました」
――それはそうだろう。
気配が無くなったのがわかったのだろう。すぐに師となるべく人のところに駆けていったに違いない。そのことに関しては王から聞いている。香具宮は次代の龍と王のために姫皇子という立場を捨てると。だからこちらから働きかけてはいけないと。
香具宮からは、「脚が速くなりました」と聞いたことがある。龍気がわかるようになってから何か変わったかと尋ねた時だ。
少し誇らしげに、「脚が速くなったので、壬京は1日もあれば駆け抜けられます」と言った顔にはそれ以上の意味は無いようだった。本人は自分が香具宮でいるうちに龍が倒れるとは思ってもいなかったのだろう。ただ脚が速くなって嬉しいと、そればかりだった。
宮を出ると姫皇子ではなくなる。香具宮は、香女はそういう立場である。だがそれでも香具宮は。
――伽木は考えなかっただろう。
何も考えることもなく、ただ走り出しただろう。
――そういう娘だ。
駆けて行った先の師の事も真織宮は教えて貰っていない。龍気の師に関しては王と香女以外に知るものは侍従ひとりである。居所に関しては侍従も知らないだろう。
――次代の龍のため。
滝に打たれながら何度目かの溜息を吐いた時、自分の侍従が渇いた布を持って滝の傍らに立ったのが目に入った。真織宮は脚を滑らせないようにそろりと立ち上がると、またひとつ、溜息を吐いた。