エピローグ 5
カップの中の紅茶は、僅かな振動で波紋が出来て、そして消えた。カップを覗きこんでいる自分の顔が見える。
あの日の事を考えていた。
僕は紅茶を飲んだ。もう、冷めてしまっていたが、湯気が出ていないので、口を付ける前からわかっていた。
テーブルの向こう側のラムネは、優雅に紅茶を飲んでいる。育ちの良さが、こういう日常的な仕草に現れる。これは、演技ではどうにも出来ないだろう。
結局、あれは、マツリノ氏の自殺という事になる。自分で自分の暗殺を依頼したのだ。でも、世間的には、他殺と思われているだろう。
マツリノ氏が自分の暗殺依頼をした今回の場合と、他人が暗殺依頼をした場合の違いは、やはり、リンゴへの影響が大きい。もし、他人がマツリノ氏の暗殺を依頼すれば、暗殺のルールも変わっていたはずだ。攻撃範囲の大きい武器の使用も認められたはずだし、リンゴや他の人にも被害が出たかもしれない。マツリノ氏は、先手を打ち、それをルールとして禁止したのだ。
そんな事なら、自殺してしまえば、被害は少なく済んだのに、最後に自分の警備システムを試してみたくなったのだろう。
その矛盾が、とても人間らしい。
「マツリノ氏が死ぬ事も、神様の計画の内だったのかな?」僕はラムネにきいた。
「人の生死にまで関わるとは思えない」
「だったら、エンプティメーカへの出資を止めれば、彼は、死なずに済んだんだ。それを宣言したら、身の危険も無かったんじゃないかな?つまり、死ぬ必要は無かった。血を捧げるのが、信仰とでも思っていたのかな?」
「死ぬ理由が無い事は、生きる理由にはならない」
「マツリノ氏は、最後に、我儘を通してみたくなったんだろうね」僕はラムネに言った。
「でも、マツリノは、最後までシェルタには入らなかった。窓越しに狙撃されるポイントに、たった一人で座り続けた。シェルタに入ると、リンゴにも危険が及ぶ可能性がある、という理由で。誰でも出来る事じゃない。お金持ちの道楽でも、ゲームでもない。普通の人なら酒でも飲まないとやっていられないはず。それでも、あの椅子に座り続けた。自分が死ぬ最後の瞬間まで。どれ程の覚悟があったのだろう」ラムネは優雅にカップを口に付けた。
「ずいぶんと肩を持つね」僕は言った。
「君は、自分の計画が頓挫して、頭に血が上っている。感情的になって、冷静な判断が出来ていない。頭が熱くなっている割に、冷たいやつだ」ラムネはカップを置いてこっちを見た。「どうして、自分がそんなに怒っているか、わからない?」ラムネは、首を僅かに傾げる。
「別に怒っていないよ」
「そんな顔には見えない」
顔の表情は一切変えていないはずだ。
「でも、十二年掛けた計画が失敗に終わったんだ。怒るというよりも、喪失感の方が大きいかもね」僕は今の心境を言葉にした。
「そう」
「マツリノ氏は、神様の命令に従っていたらしい。月への不可侵条約を提示したのも、同じ神様だよね。だったら、ムーンウォーク計画がこうなる事も初めから知っていたんだ。僕は最初から泥船に乗っていた事になる」僕は溜息をついた。「最初から決まっていたなら、教えて欲しいよ」
「シンジュもマツリノも、自分の命を捨てられる程に隷属していた。君には、その覚悟が無い。違いはそこにあった」
「マツリノ氏は、リンゴを神様から授かったって、言っていたけど、ミクに子どもでもいるの?」
「それは無い」
「どうして?」
「あの天才は、そんな価値観を持っていない」
「…そうかもね」僕は、冷めた紅茶を飲み干した。「それにしても、誰かの為に死ぬなんて、考えられないよ」
「私は、考えた事がある」
「嘘?」僕は驚いた。
「一緒に死のうって言ってくれたら、その時に死んでいた」
「そんな人がいたの?」
「いた」ラムネは、どこか遠くを見ていた。
「ふーん。それじゃ、マツリノ氏がなんで死んだのか、理解出来るの?」僕はきいた。
「私は、君と違って、人の気持ちがわかるから」
僕とラムネは、見つめ合ったまま同時に笑った。
きっと、二人の間で、なにかが通じ合ったのだろう。




