第一章 2
失敗は許されない。
失敗したなら、不安定な状態で立っている積み木から、軸となっている部分を取り除く事になる。積み上げた時間も努力も、一切顧みる事なく、あっという間に、崩れてしまうだろう。崩れてしまった後は、瓦礫が邪魔して、修復どころじゃなくなってしまう。
だから、今回の依頼は特別だ。
モニタには、青い水の中を、気泡が下から上に昇っている映像が流れていた。
「今回の件で、新しい情報はない?」僕は、イオに言った。
イオは、AIだ。この部屋での会話なら、全て拾う事が出来るので、方向も気にする必要はない。物凄く小さな声で囁く様に呟けば、流石に聴こえないだろうが。
すぐに、モニタに要点のまとまった記事が、いくつも表示された。広告をカットされているのが一番優れている所だろう。でも、今回は知りたい情報は一切なかった。それは、イオの情報収集能力の問題ではなく、情報そのものが漏れていないということだ。
イオは、僕の知りたい事を調べてくれるだけじゃなく、この部屋や僕の体のメンテナンスまで、全てを任せている。僕よりも、僕の体に詳しいだろう。
モニタを見ると、気泡の映像に切り替わっていた。僕が記事を読んでいない事を、瞳の動きや呼吸から察して、イオが切り替えたのだろう。
時間を確認すると、もうすぐだった。
要人警護の経験はない。エンプティの操作になら自信はあるが、それはゲームみたいなもので、実戦経験は数える程だ。ネオンも経験はないと言っていた。あるのは、ラムネくらいだろう。ラムネにアドバイスを求めたが、返って来た答えは、「周囲の全てを犠牲にしてでも、対象を守ればいい」とのことだった。ラムネが言っていた事は極端だが、優先順位は決めておいた方がいいだろう。
今回は、リンゴを守るだけじゃなく、もう一つの目的がある。
長時間のダイヴに備えて、準備が必要だ。ブラックボックスと呼んでいる金庫が部屋の隅にある。中の荷物を取り出すのに、幾つもの手順が必要だ。ブラックボックスは、内径が二メートルの立方体なので、中に人が隠れる事も出来る。当然、その中に大切な物がある。今回の任務に必要な物を取り出して準備をした。いつもは、飲み物をグラスに移して、デスクの上に用意しておくが、今回は、ボトルと空のグラスを用意した。
マツリノ氏が用意したエンプティは、一応はプロ仕様のボディだ。ステーションにいる量産型よりは性能は優れているが、もっと上のエンプティもある。最上位のモデルは、莫大な費用が掛かるのに、普通の人ならその能力を発揮する事が出来ない。これは、カメラや車や端末にも共通するだろう。でも、あのクラスのエンプティを持っているのは、大富豪だからだ。
椅子のリクライニングを倒して、楽な姿勢になった。
「イオ、例の件は大丈夫?」
「その質問は三回目です。今回の依頼は精神的な負担が大きいと考えられる為、休息を提案します」
僕は思わず笑ってしまった。
でも、その通りかもしれない。少しだけ緊張しているだろう。
あの時は失敗した。もう、これ以上の失敗は許されない。
もう、後が無いのだから。
大きく息を吐いた。そして深呼吸。
「そうだ。なにか素敵な映像を見せてよ」僕は言った。
モニタには、望遠鏡で覗いた様な大きく丸い月が既に映っていた。




