第三章 7
リンゴは息を切らしている。
それでも、振り返らずに必死に走っている。顔に樹の枝が当たり、擦り傷が出来ていた。靴も汚れている。
「キャンディ…を……呼んで…いい?」苦しそうに、リンゴは言った。「もう……走れないかも」
「待ってください。この位置が敵にばれていない可能性があります。その場合は、息を潜めた方が得策です」私は言った。
私は疲れないので、走りながらずっと考えていた。警備システムの映像では、ベルさんもあっさりやられてしまった。敵は、ベルさんが指さした方向に向かい、捜索をしているが、私たちが途中で方向を変えた事を知らないようだ。
今の場所は、樹の枝に遮られて、衛星からは見えないはずだ。ボードを呼べば、それが私たちの居場所を知らせる事にもなりかねない。
「もう、無理」リンゴは、走るのをやめて、歩きだした。苦しそうだ。
「敵の位置は把握しています。ここから、一キロほどの距離がありますし、ここの位置を掴んでもいません。どこかに、隠れてもいいかもしれません」
私は周りを見渡した。樹木に覆われた所だ。遠くを見渡すことが出来ない。ここなら、やり過ごせるのではないだろうか?足跡だって、地面が枯れ葉に覆われて残っていない。
敵の目的はなんだろうか?
リンゴは暗殺対象では無いはずだ。でも、明らかに、あれはリンゴを狙っている。次に接近されたら終わりだ。
ベルさんでも、機関銃でも駄目だったのだ。私にはどうしようもない。
あれが怖い。
銃を突きつけられている様な感覚だ。
あとは、殺されるのを待つだけ。
どうしたらいいのだろう?
リンゴの呼吸は整ってきたが、汗が噴き出していた。それを、グレィのパーカで拭っている。
「あれはなに?」リンゴが言った。
「わかりません」
「なにが狙いなの?」
「わかりません」
リンゴが縋るように私を見た。
「ごめんなさい」私は謝る事しか出来なかった。
どうしようもない。
なにも出来ない。
ただ、見つからない様に祈るだけだ。
なにかの音が聴こえた。
「これ、なんの音?さっきのあれ?」リンゴが言った。
「いいえ。敵は、この付近にはいません」私は、カメラ映像をずっと見ている。敵はさっきの位置から、殆ど動いていない。
でも、この音はなんだろう?
聞いたことがある音だ。
私は周りを見渡した。
その時、上空の樹の枝の隙間から、それを見た。
そう。
この音は、ドローンの飛行する音。
リンゴもそれを見ていた。
ドローンはそこから動かず、私たちを見ているようだ。熱を感知したのだろうか?
「まさか」私は最悪のシナリオを想像した。「ボードを呼んで。早く」私はリンゴに言った。
「もう呼んでる」リンゴはそう答えて、走り出した。私も、それに続いた。
警備システムを見ると、あの蜘蛛は、私たちの方向に向かってきていた。
「やっぱり、あれは敵のドローンで、私たちの位置を知らせてます」私はリンゴに言った。
私は、振り返った。ドローンは、私たちから一定の距離を取って、ずっと付いてきている。
……どうする?
ドローンをどうにかしないと、隠れる事も出来ない。
いや、そもそも、ドローンが一機とは限らない。一機だけのはずがない。あれだけの武装をしている機体だ。相応の準備をしているに違いない。
だったら、もっと早くボードを呼べば良かったのかもしれない。
私の判断ミスだ。
違う。
反省は後だ。
後があれば……。
今は、気持ちを切り替えないと。
あのドローンを排除する。そして、ボードが来るまでの時間を稼ぐ。
「このまま走り続けて」私はリンゴに言った。
辺りを探す。
ベルさんは石を投げていた。あれしかない。
探すとなると、適度な大きさの石が、なかなか見つからない。
早くしないと。
あれが、近づいている。
落ち着いて。
もっと周りを見渡して。
なにかヒントが……。
地形図を思い出した。この先には、崖があったはず。
あれを突き落とす?
不可能だ。
石は見つかった。三つほど手に取り、一つだけを右手に。
ドローンはすぐに見つかった。一定の距離をとるように、プログラムされているのだろう。単純な動きだ。
やはり、ドローンはリンゴを追っている。つまり、今の私の位置は、メインカメラに映っていないのではないか。
それなら、飛んでくる石を避ける事も、出来ないはずだ。
コントロールさえ良ければ、撃墜出来る。
ドローンの移動速度は一定だ。
一球目を投げた。
大きく外す。
調整して、もう一球投げる。
また外れ。
でも、近付いている。
もう一度投げようとしたら、樹の枝に遮られた。
走っていいポイントを探す。
すぐに見つかる。
もう、慣れた。
自分が、落ち着いているのがわかる。
深く沈んでいる様な。
短く息を吐く。
的を睨む。
投げる。
投げた瞬間、当たったと思った。
石は、ドローンに見事当たった。ドローンは落下している。成功。
敵の位置は?
すぐ近くまで来ていた。
この距離なら、隠れるのは無理か?
音が聴こえる。
あれが接近している音だ。
振り返る。
蜘蛛の様に、近づいてくるのを、遠くに視認した。
もう、無理だ。
リンゴも近くにいる。敵に位置を把握されているだろう。
私は、リンゴに追いついた。
「あれが来ました」私は言った。
でも、どうすれば?
リンゴは、一直線に走っている。道もないのに、軽快に進む。
でも、敵の方が速い。脚を時には伸ばして、時には縮めて、走っている。
体の大きさが自由に変わっているみたいだ。
生卵がパチンコの釘の隙間を、黄身を潰さずに卵白で衝撃を抑えながら、落下するみたいに移動している。卵白の部分が脚だ。
気持ち悪い。
怖い。
それが、もうすぐそこまで。
あと、二十メートル。
突然、リンゴが立ち止まった。
「どうしたの?」私は言った。
少し後ろを走っていた私も止まった。
そこでわかった。
目の前には、道が無かった。
崖だ。
高さは、三十メートル程。
落ちたら即死だろう。
「こっちに走って」私は、崖に沿う方向を指さした。
でも、走ってなんになるのだろう?
もう……。
「違う。ネオンがそっちに走って、そして、五秒後に崖にジャンプして」リンゴが言った。
「え?」
「早く」リンゴが叫んだ。
そして、リンゴが崖から飛び降りた。
そのすぐ後に、敵の脚が、リンゴのいた位置に向かって伸びていた。
風を切るような音が目の前でした。
大きい。
怖い。
ほんの僅かな差だった。
私は、走り出した。
敵から離れる為に。
逃げる為に。
崖から落ちたリンゴを見る余裕もなかった。
少しして、振り返った。
敵は崖の下を覗き見る様な仕草だ。
こっちには来ていない。
「ネオン。飛んで」リンゴの声がした。
崖の下を見る。
リンゴがキャンディに乗っていた。
間に合ったのだ。
私はすぐに、リンゴに向かってジャンプした。リンゴが、私を抱える様にして支えた。ボードも下に下がって衝撃を和らげてくれた。
「しゃがんで重心を低くしてて。落ちないように」リンゴが言った。私は、その指示に従った。その瞬間ボードが加速した。崖からさらに遠ざかる方向に。
これで、もう大丈夫だろうか?
敵が銃を備えている可能性もある。
「なるべく低く飛んで、樹の枝で姿を隠してください」私はリンゴに言った。
振り返って、敵を見る。銃を撃つような仕草はなかった。
でも、敵は、昆虫の様に、崖を伝って降りてきた。
落石の音もする。
「あれが追ってきました」
「うん」リンゴが一度だけ振り返って、すぐに進行方向を見た。
もうすぐ、樹の中に隠れられる。
音。
上空を見ると、ドローンが二機飛んでいた。さっきと同じタイプの機体だ。
私たちを逃がさない為か?
「また、ドローンが私たちを捉えています」私は伝えた。
振り切るのは無理か。
「私は、走ります」私は、ボードから降りた。転びそうになったが、アシスト機能が働き、一回転して受け身を取った。すぐに走り出し、リンゴと並んで走った。
リンゴは、樹林帯の中を低空飛行で飛んだ。地面から一、二メートル程の所だ。
樹や枝をよけながら、リンゴは飛んでいる。時には、枝を避ける為に、しゃがんだり、体を逸らしたりしながら。
何度もロールを繰り返す。
速い。
これなら、追いつけないのでは?
振り返ったら、明らかな人工物が目に映った。
アレが来ている。
アレも速い。
「すぐそこまで来ています」私は言った。
凹凸の地面や樹が邪魔で走りにくいが、リンゴと並走くらいは、なんとか出来た。
振り返ると、さっきよりも敵が接近している。
アレの方が速い。
どうする?
このままじゃ、追いつかれる。
私がやるしかない。
でも、ただ向かって行っても無駄死にだ。
なにか策を。
進行方向に、折れた樹木が横たわっていた。
そこに向かって走る。少し持ち上げる。
重い。
でも、持てないことはない。
その折れた木を、両側に太い樹がある所まで運んだ。
両側の樹が支えになって、バリケードの様になるかもしれない。
相手を見る。
近くまで来ている。
変幻自在に形を変える敵が、液体の様に思えた。
なのに、怖い。
なのに、不気味。
敵が接近する。
すぐそこまで。
目の前。
木を持ち上げて、上に投げた。
ぶつかれ。
バカ。
敵の脚が、蛸の脚の様に、柔軟に曲がり、木にぶつかる衝撃を和らげた。
あの速度でぶつかって止まったのに、衝撃を和らげたのだ。
そして、何本もの脚が私を襲う。
左手でそれを払い除けようとする。
なにかが壊れる音。
地面に打ちつけられる。
敵が頭上を通り過ぎる。
私は、ぎりぎりで避けていた。
否。
左腕が無い。
駄目だ。
このままじゃ、リンゴが殺される。
一秒しか時間を稼げていない。
「バカ」
私は、右手をついて、立ち上がった。
全速力で追いかける。
枝に当たる。
樹に躓く。
その場にあった、石を拾う。
すぐに立ち上がる。
でも、まだ。
間に合え。
後少し。
後ろは、見えないだろう。
ただでは転ばない。
当たれ。
石を敵に向かって投げた。
コントロールもいい。
でも、敵の脚があっさりと石を払った。
後ろも見えてるのか?
もう、敵がリンゴに追いつく。
「後ろ」私は叫んだ。
敵の脚がリンゴに向かって伸びた。
リンゴは、寸前のところで、上空にループして、こっちに方向を変えて飛んできた。
インメルマンターンだ。
リンゴと私はすれ違った。
リンゴの顔は、傷だらけだった。
でも、まだ、諦めていなかった。
生きようとしていた。
必死だった。
歯を食いしばる。
敵が何本もの樹に脚を絡めて止まった。
枝が折れる音。
葉が幾つも舞った。
踏ん張る時に出来た痕で、地面が抉れている。
そして、こっちに向かってきた。
怖い。
でも、逃げない。
助けたい。
だから。
拳を握る。
叫ぶ。
殴る。
敵の何本もの脚が私を襲う。
もう……駄目だ。
でも、拳をくれてやる。
バカ。
なにかが壊れる音。
体が後ろに飛んだ。
受け身は体が勝手にとってくれていた。
だから、その間、体の自由が無かった。
目を開ける。
なにが起こった?
体は?
右脚が潰されていた。
これじゃ、走れない。
敵は目の前。
悍ましい体。
怖い。
でも、それよりも前に。
私の目の前に。
誰かがいる。
木漏れ日が当たっていた。
そして、その誰かを照らしていた。
私は、その人を知っていた。
そのエンプティを知っていた。
忘れた事なんて無かった。
ずっと、憧れていたから。
ベイビィ・ブルー。
世界ランク第一位が、私に背を向けて、敵と向かい合う様に立っていた。




