第一章 1
「なにか、気を付けた方がいい事はありますか?」私はきいた。
「ラムネから送られた注意事項を熟読しておけば大丈夫だよ。いつもと違うのは、マツリノ氏が所有するエンプティにダイヴする事になるって事だね」ベルさんは、カップを口に付けた。
「ログが見えるってやつですよね?」私は確認した。
「うん」ベルさんは頷く。
「それってどこまで見られるんですか?」
「僕らがステーションのエンプティにダイヴして、得られる情報の全てだよ。視覚や聴覚や会話内容に位置情報まで、全部見られると思った方がいい」
「見られない様に、ブロックする事は出来ないんですか?」
「その攻撃は許されていない」
「ああ。防衛じゃなくて、攻撃になるんですね。なら、仕方がないです」私は、ケーキを一口食べて、紅茶を飲んだ。
紅茶は、ぬるくなっていた。ベルさんの部屋にあるテーブルには、保温や温め直す機能が備わっていない。シンプルなテーブルなのに、重さだけはある。ここを簡単には動かないという、揺るぎない意志を感じる。そういう意志を持ったテーブルは、一般的には値段が高い。その内、鉄製の高級テーブルが販売されるかもしれない。
「でも、不可能じゃないんですよね?」私はきいた。
「僕には出来ない。向こう側のシステムに侵入する必要があるから、それなりの腕は必要だろうね」
「そうなんですね。具体的には、どんな事に注意すればいいですか?」
「普段通りでいいよ。ちゃんと真面目に、依頼を全うすればいい。あえて言うなら、余計な事はしない。好奇心で動いたり、私情を挟んだりすれば、後で難癖付けられるかもしれないからね」
「そうですか。そういうのは、結構得意だと思います」
「そう」ベルさんは紅茶を飲んだ。ジョークは無視されたようだ。
「マツリノ・リンゴについて、知っている事はありますか?」私はきいた。
「ラムネから送られたデータにある通りだよ。十四歳の時に、専門分野で論文を発表している。かなり頭がいいみたいだね。マツリノ氏の娘になるけど、血縁関係は無い。リンゴが生まれてすぐの時に、養子に迎えられている。リンゴの生みの親は、二人ともわかっていない」
「なにが複雑なんですか?」
「複雑?」ベルさんは、眉を寄せた。
「昨日、言ってませんでしたか?今度話すって」
「ああ。マツリノ氏は、日本でもトップレベルの大富豪だけど、スキャンダルが多い事でも有名なんだ。色んな人と関係を持っているって噂もあるし。ただ、彼自身は、今までもずっと独身のままだったから、なにか問題があるわけでもない」
「そうなんですね。私、その手の事には、興味が無いのか、よく知らないんです」
つまり、これまでに多数の女性関係のトラブルがあったという事だろうか?それとも、実は、リンゴと血縁があったりするのだろうか?
「知らなくても、今回の依頼とは関係ないからね」
私は思わず笑ってしまった。
「なに?」ベルさんは、首を僅かに傾げている。
「いえ。なんか、ラムネさんが言いそうなセリフだなって」
「そうかな?」ベルさんは、下を向いてケーキを食べた。
私もケーキを頬張る。甘くて美味しい。
私は、ベルさんの事も、ラムネさんの事も、まだ、あまりよく知らない。二人と知り合って二カ月も経っていない。二人は、元々、ここで一緒に暮らしていたそうだ。私は、とある依頼の為に、ここに呼ばれた。その事件が解決した後も、成り行きで一緒にいる。この生活がいつまで続くのかは、わからない。
ベルさんとラムネさんは、名前のない組織に属している。外から観察しても、詳しい情報はわからなかった。結果として、私も、そこに属する事になったが、中にいても、何もわからない。
シェルタの役割を果たす地下にいて、ここから外に出る事は出来ない。私はそれを承諾していないが、拒否権も無かった。でも、外に出られないのは、体だけで、ネットでは外部とコンタクトを取る事が出来る。ヴァーチャルの世界にも行けるし、エンプティにダイヴすれば、世界中を見て回る事も出来る。
エンプティドールは、人間とそっくりな機械人形で、専用端末を使ってダイヴすれば、エンプティの体を、自分の肉体を操るのと同じように、操作する事が出来る。エンプティにダイヴすれば、実際に自分がその場にいる様に感じられるので、部屋にいながら、世界中を見て回る事も可能だ。一般的には、エンプティは、世界中に建設されたステーションに常駐していて、予約を取ってダイヴする事になる。でも、一部のお金持ちは、自分でエンプティを所有するケースがある。今回の依頼者も、それにあたる。
この組織に属していると、たまに、依頼を受ける事がある。それが、ここの家賃だと、ベルさんは言っていた。私への依頼は、捜索かと思ったが、今回は警護だ。
要人警護の経験は、勿論ない。心配しかないが、ベルさんと一緒に行動するので、そこだけが救いだ。
目の前で美味しそうケーキを食べているベルさんは、エンプティパイロットの世界ランク第七位だ。世界ランクは、知名度や社会への影響力ではなく、単純な戦闘能力で選ばれる。その第七位は、年齢も性別も所属も顔も不明だったが、その全てを、私は知る事が出来た。
歳は、私と同じ二十歳かそれより五歳位上だろう。性別は少し複雑で、体は女性だが、本人はどちらでもいいと言っていた。ベルさん曰く、自分を女性だと思った事がないらしい。確かに、男性的な性格をしていると思う。整った顔立ちで少し中性的だが、可愛い寄りだと思う。少しだけ、幼さが残っている。
隣人のラムネさんは、とびっきりの美人で、エンプティみたいに綺麗だ。人間とは思いない程、美しい造形をしている。
「なに?」ベルさんが、私の視線に気付いて言った。
「いえ」私は、首を左右に振る。「そういえば、今回の依頼って、長時間のダイヴになりますよね。私、初めてです」
「そう」
「トイレとかってどうするんですか?」
エンプティにダイヴしている間、専用端末を付けた生身の体は、眠っている様に横になっている。その状態で、実際に腕を上げる様に動かすと、その脳波や電気信号を専用端末が受け取り、エンプティの体を動かす事になる。だから、横になっている生身の体が、動く事はない。勿論、エンプティは、トイレなんてしない。そんな機能があったとしても、生身とリンクしているわけでもない。
「一番いいのは、高性能なカプセルを用意する事なんだけど、今からだと間に合わないだろうから、オムツを履くか、離脱するかだね」ベルさんは答える。
「それじゃ、一択ですね」
「うん。オムツなら、余っているのをあげるよ」
「そっちじゃないです」




