父と娘
玄関の扉を開けると一人娘が駆け寄ってきた。両手を背中へ回しモジモジする娘の前にしゃがみ込み、目線を合わせた男は優しく話しかける。
「授業参観、出られなくてごめんな?」
「ううん。お仕事だもん、しかたないよ。おつかれさまお父さん」
「お前は本当にいい子だね」
聞き分けのよい返事に満足した男は笑みを深くする。頭を撫でてやると娘は頬を赤くしてうつむいた。
あぁ、なんていじらしい。本当にかわいい子――男の笑みはよりいっそう深くなる。最早嫌悪を感じるほどに歪んだ表情だが、幼い娘には醜い本心を見抜くことなどできない。
「家政婦さんは帰ったのかい?」
「うん。……ごめんなさい。ご飯は先に食べちゃったの」
「いいんだよ。ひもじいのは辛いからね」
「ひもじい?」
「お腹がすごく減って、グーグー鳴り止まないってことだよ」
「そうなんだ」
おもむろに立ちあがり家の奥へと歩き出した男の後ろを、娘は雛鳥のように追いかける。
「お父さん、お腹すいてるよね。ごはんをチンするから、その間に着がえてきてよ」
「お前は本当にいい子だね」
足を止めた男は背後を振り返り、娘の頭をまた撫でる。娘はしばらくされるがままにしていたが、急に男の手を掴んで行動を制止した。
男は一瞬眉をひそめたが、娘が自分に向かって突き出してきた物を見て機嫌を直した。それは一枚の作文用紙だった。おそらくは、今日の授業参観で発表した作文だろう。
「あのね、お父さんにこれを読んでほしいの」
娘ははじめのようにモジモジしながら頼みこんできた。
「あぁ、もちろんだよ」
男は快く作文用紙を受け取る。
「楽しみだな」
「あんまり、うまく書けなかったの」
だから期待しないでね……と、うつむく娘の頭に男は再三手を伸ばした。
期待するなだって? そんなこと不可能に決まっている。
娘と別れて自室へ戻った男は、後ろ手に鍵を掛け直し、早速作文を読み始める。
年齢のわりには整った文字で【大好きなお父さん】とタイトルが書かれている。自然に口角が上がった。
【大好きなお父さん / 二年A組 渡瀬椿】
わたしのお父さんは、とってもとってもりっぱな人です。いつもおそくまでお仕事をがんばっています。スーツを着たお父さんはすごくかっこういいんです。
それにお父さんは、むずかしいことをたくさん知っています。宿題がむずかしくて困っているとき、お父さんはいつも、わたしが答えを出せるまで勉強を教えてくれます。むずかしい漢字で自分の名前を書けるようになったのも、お父さんが教えてくれたからです。
わたしにはお母さんがいません。わたしを生んだときに、なくなってしまったそうです。だけどお父さんがいるからさみしくありません。
男手ひとつでわたしを育ててくれたお父さん。わたしはつよくてやさしいお父さんが大好きです。もっともっとがんばって、お父さんにたくさんほめてもらえるようないい子になりたいです。
「お前は本当にいい子だなぁ椿」
作文を読み終えた男はクツクツと喉を鳴らす。
「なぁ、お前らもそう思うだろう?」
男は作文用紙をディスクの上の写真立てに向かって広げて見せた。写真には仲睦まじい様子の男女が写っている。
「今どんな気分だ? 天国とやらで見てるんだろ? お前らが踏みにじった男の手で、大事な娘がかわいいかわいい木偶の坊に育てられている様をさぁ!」
どす黒い感情が歪んだ唇から吐き出される。醜く歪んだ笑顔を勝ち誇ったように写真の男女に向けながら。
「あの子はかわいい子だよ。自分の両親を殺した男を本当の父親だと信じ込まされて。いじらしくも俺に気に入られようと必死になっている。愚かでかわいい俺の娘!」
男はディスクの上に乱暴に手をついた。握られていた作文用紙に、無数の深い皺が無惨に刻まれる。
友人夫婦を手にかけた日のことを、忘れた日など一日もない。いや、友人だと思っていたのは、男の方だけだっあのかもしれない。
男を見下しせせら笑った夫婦の顔も、自分が死んだことに気付かず目を見開いたまま事切れた旦那も、それを見て妻が上げた悲鳴も、妻の首を締めている最中家の中に響き渡っていた赤子の泣き声も、瞳を閉じればなにもかもが鮮明に瞼の裏に浮かび上がってくる。
「こんなに愉快な思いをさせてくれて、ありがとうな。お前らは最高の友人だよ」
目を開けた男は、爽やかな表情で友人達に礼を述べた。
その時丁度、キッチンの方から娘の声が聞こえてくる。
「お父さーん! ごはんあったまったよ!」
自分を呼ぶ愛らしい声に、
「今行くよ!」
大声でこたえた男は「父親」の顔に戻っていた。
地獄のような親子の日常は、まだまだ続くのだろう。正常の皮を被って。




