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感動の再会

男はソファに腰かけていた。電気のついていない部屋の中を、カーテンの隙間から差しこむ日射しが薄ぼんやりと照らしている。テーブルの上では飲みかけの缶ビールが汗をかいていて、床の上ではスナック菓子の袋が空っぽの中身を晒していた。それらには一目もくれず、男は電源の入っていないテレビの画面に空虚な瞳をむけている。真っ黒な液晶画面には、やつれた顔に無精髭を生やした中年の男が一人、ぽつねんと映っていた。

しんと静まり返ったダイニングキッチンの中、神経質に時を刻む時計の音が、男のか細い呼吸音をカチコチカチコチと上塗りしていく。まるで時が止まったように、男はソファの上で背中を丸めたまま微動だにしなかった。時節、道路を走り抜ける車の音が聞こえてきて、そのときばかりはカーテンの隙間から覗く窓の外へと意識を向けていたが、動きらしい動きはそれだけだ。


カチコチカチコチ

カチコチカチコチ


カチコチカチコチ


何度秒針が円盤の上を駆けただろうか。気付けば室内は淡い茜色に染まり、ビールはすっかりぬるくなっていた。しかし男は相変わらず、表情の抜け落ちた顔でテレビ画面に目を向けている。静けさに満ちた室内を支配しているのは、カチコチカチコチといたずらに時が過ぎ去る音と、家具の裏から這い出しはじめた影だった。ともすれば、情緒を暗闇に引きずり込まれそうな状況だ。だが男にとってはそれがよかった。それこそが彼にとっての安寧の証だったからだ。

しかし平穏とはなんの予告もなく、そして呆気なく崩れ去るものだ。男はそれをよく知っていた。

前触れもなく聞こえてきた異質な音が、ついに静寂を破る。それは玄関ドアの開く音だった。男の止まっていた時間が動き出す。


「みっちゃんバイバイ。また明日ね!」


部屋と廊下をへだてる壁の向こうから、幼い少女の声が聞こえてくる。男はこの時初めて表情らしい表情を見せた。隈に縁取られた落ちくぼんだ目に焦りの色がにじむ。

ドアの閉まる音がしたかと思えば、直後に廊下を駆ける軽快な足音が響き、またたく間に大きくなったそれは、居間の入り口の前で完全に停止した。曇り硝子越しに小さな影が見える。指先一本動かせず、男は固唾を呑んだ。カチコチカチコチ、時計がタイムリミットを数えあげる。ドアノブが回り、扉が無慈悲に口を開いた。それを見た男は、自身の心臓が一瞬動きを止めたのを確かに感じた。

はたして、開いた扉から現れたのは、ランドセルを背負った少女だった。先ほど聞こえてきた声の通りにあどけなく、外見から推察するに一年生から三年生の低学年くらいだろうか。黄色い帽子を被ってはいないから、一年生ではないかもしれない。短く切られたショートカットからは快活そうな雰囲気を受けた。男はいやに冷静に回転する自身の頭に嫌気がさした。

少女は元々大きな瞳をこれ以上は無理だろうというほどに見開いて、ソファに陣取る男を凝視してくる。男の方は男の方で、何も言えないまま少女を見つめ返す。揃って口をつぐんだまま、互いに視線だけを交わす両者の間を、忙しなく回る時計の音が、我が物顔でカチコチカチコチ通りすぎていった。

さて、秒針は何周しただろうか。


「……ただいま」


しばらく続いた沈黙の後、先に口を開いたのは少女の方だった。ランドセルのストラップを握りしめ、不安そうに眉の端を垂らしているが、そんな彼女の発した言葉は男の意表をつくには十分すぎる威力を持っていた。

今度は男が目を丸くする番だ。彼は混乱の中で口を無意味に開き、しかし、やはり何も言わずに間抜けな面を晒した。すると、頼りなさげに表情を曇らせていた少女は一転して「くふっ」とかわいらしく吹きだす。


「ごめんね、びっくりしちゃって。『おかえり』って言った方がいいのかな? それとも『はじめまして』?」


するするとよどみなく問いかけてくる少女。大きな瞳と小さな唇は、そろってゆるやかな弧を描いている。

予想もしなかった流れに男は戸惑い、何故だが途方にくれたような心地になった。「ただいま」も「おかえり」も「はじめまして」すら、友好的な言葉はもちろん、なにより笑顔を向けられるだなんて、男は思いもしなかった。


「あ、えっと……」


男が答えられずにいる内に、少女は部屋の電気をつけて、ランドセルを大儀そうにおろした。一度二度まばたきをした電灯は、次の瞬間にはまばゆい光を放つ。ずっと薄暗い部屋にいた男は、突然視覚を襲ってきた刺激にうめきつつ目を閉じた。目がいたい。

男は自分のことを、それなりに頭の回る方だと自負していた。思い込んでいただけでそうではなかったからこその今の有様なのだが、この年端のいかない少女に、男は完全に翻弄されていた。何度かまばたきをして部屋の明るさに目を慣らしている間に、少女は勝手に話を続ける。


「お母さんから聞いてた見た目そのまんまだったから、ついおどろいちゃった。わたしがまだお母さんのお腹にいるときにいなくなっちゃったって聞いたけど、戻ってきてくれたんだね?」


胸に重くのしかかる話だ。それをあっけらんかんと語られて、いたたまれなくなった男は力なくうつむき、膝の上で握り合わせた手を意味もなくすり合わせた。そうしている間にも、少女は軽やかな足取りで室内を行き来する。その軽快な足音にいかんともしがたい心地で耳をかたむけていると、やがてそれは冷蔵庫を開く音と共に止んだ。


「お父さん、お腹すいてるよね?」

「は?」


男は勢いよく振り返った。ようやく光に慣れた目で、冷蔵庫をあさる小さな背中を穴があくほど凝視する。少女の放った不意の一撃「お父さん」。それは鬱々とした思考に支配された男の頭の中に突然飛びこんできて、ほんの一瞬ですべてを吹き飛ばした。

男のぽっかりと空いた胸の中に、温かななにかが滲み出す。それは産声をあげる赤子のように、あるいは母親の腹を内側から蹴りあげる胎児のように、男の心臓にはたらきかけて、鈍った鼓動を速くした。自分には「お父さん」だなどと呼ばれる資格などないと思っていたのに、いざ呼ばれてみればこれだ。ゆるされるはずのないことを、これまでいくらもしてきたというのに。


「……まぁ、少し」


男ははっきりしない返事を返す。今はそれが精一杯だった。複雑に絡まり合った心が喉に詰まって、言葉を腹の奥へ押しやっていく。きっと素っ気なく聞こえただろうに、少女は気にした風もなく、冷蔵庫から取りだした食材をキッチンの上に置き、ついでフライパンを戸棚から引っぱりだしてきた。


「わたしもお腹すいちゃった。なにか用意するねお父さん」


まただ。「お父さん」と呼びかけられるたび、これまで感じたことのない感覚が溢れてくる。自身の変化に気をとられ気もそぞろな男は、唇のわずかな隙間から「ありがとう」と言葉を落とした。今度は聞こえなかったのか、少女からの返事はない。代わりにネズミの鳴き声に似た音がして、コンロに火がともされた。少女は手慣れた動きでフライパンに油を垂らし、その上から卵を二つ割り入れ、続け様にウィンナーを四つ放り込み、最後に少量の水を垂らして、それらすべてを蓋を被せて閉じこめた。一分もすれば食材の焼ける音と匂いが室内に漂いはじめる。


「いつも遅くまで一人なのか?」


空きっ腹をおさえつつ、男は壁掛け時計を一瞥する。自身の職務を忠実にまっとうし、カチコチカチコチと時を数え続けていた時計は、丁度六時を示していた。


「うん、そうだよ」


ずいぶんあっさりした返事だ。おまけにまたこちらに背中を向けている。炊飯器からボウルへ白米を移す作業の方が、少女にとっては大事らしい。

調理の様子からなんとなく事情を察していたものの、男はまたもいたたまれなくなって、


「なにか手伝えることはあるか?」


とたずねた。ボウルへふりかけを混ぜ入れていた少女は手を止めて、怪訝そうに男を見てくる。男自身、彼女に同感せざるをえなかった。まったく馬鹿げた発言だ。

おかしなことをしていると自覚しつつ、男は体面を取り繕うように、はたまた自身を納得させるかのように、ベラベラとご託を並べたてた。そうするとだんだんと、いつもの調子が戻ってくるような気がした。


「作ってもらうだけじゃあ申し訳なくてな。大人のチャチなプライドってヤツだよ。それに、働かざる者食うべからずっていうだろ? お前には俺に労働を課す権利があるんだ」

「ふぅん? よくわかんないけど。それじゃあ、お皿を出してもらおうかな」

「承知しました料理長。それで、皿はどちらにございますか? わたくしめに教えてくださいませ」

「あはは! 料理長?」


ボウルの中身をしゃもじで混ぜていた少女は手を止めて、大口をあけてカラカラと笑った。男の方も頬をゆるめる。こんなに清々しく愉快な気持ちを味わうのは久しぶりだった。


その後、指示に従って男が棚から取りだした皿に料理を乗せると、「ごめんなさい。ちょっとお花を摘んでくる!」と言い残し、少女は部屋から出ていった。調理の手際もさることながら、子どもらしくない語彙に複雑な想いを抱きつつ、男は皿をテーブルに並べ、勝手に麦茶なぞも引っぱりだしてきて食卓の準備をした。

部屋に一人きりになると、待っていたとばかりに時計の音が鼓膜を打つ。


カチコチカチコチ

カチコチカチコチ


席につくと、憂鬱が再び襲ってくる。重くなった頭を垂れると、テーブルに並ぶ二つの皿が視界に入ってきた。皿の上には目玉焼きとウィンナー、そして小さなおにぎりが身を寄せあって仲良く並んでいる。不思議と目頭が熱くなる光景に、男はかさついた指で眉間を抑えた。これまで高級なものはいくらも口にしてきたが、眺めているだけで満足できるほどのものには出逢ったことがなかった。

自分はこれを食べてもいいのだろうかと、男の中に罪の意識が芽生える。こんな贅沢がゆるされていいのだろうか。カチコチカチコチ、時を奏で続ける時計は男を責め立てている。

しかし、その責め苦を打ち破ったのも、やはり少女だった。

急に騒がしい足音がして、勢いよくドアが開かれた。部屋の中に少女が飛び込んできて、その勢いのまま走り、男の真向かいの席に座った。沈んだ顔をしていた男は、気を取り直して少女へ向き直った。


「先に食べててよかったのに」

「それはマナー違反だろう」

「マナーとか、わたしは気にしないよ。そもそもよくわからないし」

「そうか。それじゃあ、遠慮なく。戻ってくるまでずいぶん長かったなぁ?」

「……デリカシーがないのはどうかと思う」

「女の子っていうのは、色々時間がかかるもんなんだな。そういうのよくわからなくてなぁ、おじさん」


片目をすがめて男がおどけて笑うと、一方の少女は目を見開いた。小さく開かれた唇から「あ……」と吐息によく似た声がこぼれ落ちた。呆然とする少女の視線を受け止めた男はいっそう愉快になって、クツクツと喉の奥で笑いつつ、「いただきます」と一言断りを入れて箸をとった。

おにぎりを崩し、口に運ぶ。香りのよいゆかりの風味と塩気、米の甘さが口一杯に広がった。


「うまいよ。きっとお嬢ちゃんはいいお嫁さんになる」

「……ありがとう」


少女は気まずそうにうつむいた。男は構わず食事を続ける。こんなに美味しいものはしばらく食べられないと、男は一口一口を噛みしめるように味わった。気の毒な少女はうなだれたきり、膝の上で拳を握っている。

二人の心を置いて、時は無情に過ぎ去っていく。


「あのね、おじさん」

「どうしたお嬢ちゃん」

「ありがとう、家に来てくれて」


カチコチカチコチ


「お嬢ちゃんはおもしろいことを言うな」

「そうかな?」

「そうだよ。おじさんが悪い人だって、最初から知ってたんだろ」


カチコチカチコチ


「……わたしも悪い子だよ」

「そうかい?」

「おじさんのことわかってて利用したんだもん」

「そんなのまったく悪い内に入らないさ。おじさんなんて、これまでたくさんの人を騙したり傷付けてきたからね」


カチコチカチコチ


「……おじさん、ごめんね。わたし、さっきトイレに行くって嘘ついて、本当は」

「おっと、それ以上はマナー違反だぞ。食事中にする話じゃない」

「でも……でもぉ……」


腹を満たした男は空になった皿の上に揃えた箸を置き、手をあわせて頭を下げた。鼻をすする音がつむじにぶつかる。


「ごちそうさま」


これ以上ないほど丁寧に言葉を紡いだ。やはり自分にはもったいないほどのものだったと、満足感と切なさが男の胸を満たしている。

顔を上げると、少女は静かに涙を流していた。大きな瞳から生まれ落ち、丸い頬を伝う雫はもの哀しく、それでいてひどく美しいと男は感じた。まるで、雪解けの水のよう。


カチコチカチコチ

カチコウーウーウーウー!


時計の音が、けたたましく響くパトカーのサイレンに塗り潰される。男は無言で席を立った。ついにタイムリミットがきたようだ。部屋の出口へと向かう男の背中を、涙混じりの声が引き留める。


「おじさん、また会いに来てくれる?」


少女の懇願を受け、男はたまらず「ふはっ!」と噴きだした。


男は詐欺師だ。老若男女誰かれ構わず、人の心の隙につけ込み、利用できるものはすべて利用し、騙せる者はすべて騙して、搾れるものは搾りとれるだけ奪い続けてきた。ただ、自分のためだけに。

しかし、どれほど富を得ようとも、男は常に孤独だった。両親を早くに亡くし、所帯は持たず、友もなく、信頼できる者など存在しなかった。すべては因果応報の末路。人を騙し続けた男に、人を信じることなどできなかった。

「人を騙し続けることはできない」。男はそれをよく理解していた。男は男自身をこそ、欺けずにいたのだ。

更に因果は巡る。犯した罪が暴かれた。男は裁かれたくない一心で必死に逃げた。詐欺師は逃亡犯へと身をやつし、隠れ続けること半年。心安まる時はなく、男は常に人の影に怯え続けていた。それはこれまで騙してきた被害者達かもしれない。自分を捜索する警官達かもしれない。もしかしたら自分自身かもしれなかった。ただ一つ確かだったのは、その誰にも捕まりたくなかったことだけ。

半年は短いようで長い。寄る辺のない心はすり減り、満足な食事も睡眠もとれない肉体はやつれ果て、太陽の光を浴びることすら恐ろしくなった。「いっそ永遠の闇の中に落ちてしまいたい」とそう思ったとき、男は自身の限界を自覚した。

もう駄目だ。そんなとき、勝手に上がり込んだ他人の家で出逢ったのがこの少女だった。

詐欺師としてキャリアを詰んだ男の目には、少女の嘘はすべてお見通しだった。けれど、どことなく自分に似た匂いのする彼女を、男は拒絶することができなかった。その結果が今である。男はまんまと少女に騙された。わかっていて、騙されることを選んだ。


――バカだなぁ。


男は心の内で呟いた。

ドアノブに手をかける。重い音をたててドアが開く。男は部屋の外へ出た。


「当たり前だろ。おじさんは悪い人だけど、約束だけは絶対に守る主義なんだ」


少女の方を振り向くことなく、男は後ろ手に扉を閉じる。


「また会いたいな、お嬢ちゃん」


囁き声は扉の閉まる音に掻き消された。

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