ピーターパン
人間誰しも一度は「空を飛びたい」と思ったことがあるはずだ。だけど、歳をとるにつれ「飛べない」ってことに気付いてしまう。気付いた瞬間、みんな大人になってしまうんだ。
「わたしに空は飛べますか?」
たずねると、お医者の先生は難しい顔をした。わたしと並んでパイプ椅子に座るお母さんは、両手で顔をおおったままで、グスングスンと鼻を鳴らし続けている。
ちらりとお母さんを見た先生は、口を小さく開いてすぐ閉じた。けれど、ジッと答えを待つわたしに向き直ると、
「人間は空を飛べないよ。そういう体のつくりをしていないからね」
と答えた。先生の答えを聞いたわたしは「大人だなぁ」と思った。
大人はそれぞれの匂いを持っている。診察室の中はツンとした薬の匂いに満たされていて、きっと先生はそんな大人なんだろうなと、わたしはあいまいに感じとった。
先生はわざとらしく咳払いをして、肘かけのついた立派な椅子に座り直した。そうして改めてわたしと真正面から向かいあう。先生がこれからなにを言うのか、なんとなくわかってしまった。
「つらいのはわかるけれど、病気には向き合わないといけないよ。先生もお母さんも、絶対に君の味方でいるからね」
*
帰りの車の中はしずかだった。お母さんは相変わらず鼻をすすっていたけれど、わたしはそれをただ聞き流しながら、窓の外をぼんやりながめていた。
わたしは病気らしい。先生の言うことには、とても珍しい病気で、治し方がわからないのだそうだ。一般的には「ピーターパン症候群」だとか呼ばれているらしい。先生の話は難しくてよくわからなかったけれど、つまり、大人になれない病気だそうだ。
成長期を過ぎてもずっとチビのまま、子どもの姿で生きていかないといけないらしい。先生の話を聞いたお母さんは泣き出して、それっきりずっと泣きやまない。柔軟剤のやわらかい匂いがするハンカチが涙でグシャグシャになるまでなき続けて、それでも泣き足りないみたいだ。
お母さんが泣いていると悲しい。だけどわたしがなにを言っても逆効果だから、今は口をつぐんでいる。早く泣きやんでくれないかなと思いながら、すごいはやさで流れていく街並みを見ているだけ。
ギュンギュン、ギュンギュンと通り過ぎていく景色を見ている内に、ふと、空を飛んでいるときもこんな風に見えるのかなぁと思った。
*
家に帰るとお父さんがいた。いつもは帰りが遅いのにめずらしいなと思ったけれど、お母さんがわたしのことで連絡をしたせいだとすぐにわかった。
帰宅したわたしを見るなりお父さんは、
「それで、どうなんだ? 本当に治せないのか?」
と詰め寄ってきた。待っている間ずっとタバコを吸っていたのか、家の中もお父さんからも、けむたい匂いがした。わたしは口と目をギュッと閉じる。本当は耳もふさぎたかったけど、お父さんとわたしの間にお母さんが割って入ってくれて、マシンガンみたいな言葉の雨からかばってくれた。
「やめてあげて。一番つらいのはこの子なのよ!」
だけどお母さんが悲鳴じみた怒鳴り声をあげると、そこから両親の口ゲンカがはじまってしまった。誰が悪いとか。別の医者をあたれとか。ただ不安をぶつけあうだけの口論を聞いていられなくなって、わたしはその場から逃げだした。原因はわたしなのにね。
*
逃げだすといっても、子どものわたしに行ける範囲なんて限られている。家から逃げだしたわたしは今、自分の住むマンションの屋上にいる。
フェンスに寄りかかり目を閉じるわたしの体を、冷たい風が包んでいく。風に匂いはない。空を飛ぶってこんな感じかなぁ。わたしはフェンスの上に上半身を乗り出す。どこか遠くから車のクラクションの音が響いてきた。空を飛ぶって、どんな感じかなぁ。少しずつ体が傾いていき、足先が空中に浮いた。あと少しで飛べそうだ。そう思ったときだった。
「やめといた方がいいぜ。君は落ちたらしんじゃうだろ」
そんな言葉が、風音をさいてわたしの耳に届き、意識が空から引き剥がされた。ハッとして目を開けば、マンションの足下から小さな街並みが広がっていた。不安定な体の横を風が通り過ぎていく。一瞬にして血の気が引いた。
慌てて足をコンクリートに降ろし、フェンスから遠ざかる。バクバク鳴る胸の上に手のひらを重ねると、そんなわたしを笑う声が屋上に響いた。振り返ればそこに男の人が立っている。わたしの知らない人だった。
「よかったよかった。なにがあったか知らないけど、若い命を簡単に散らすもんじゃない。目の前でしなれたんじゃあ、僕も気分が悪いしな」
まるでお芝居みたいな話し方だ。それがなんだか癪に触ってわたしは、彼を睨み返した。
「落ちたかったんじゃない! 飛びたかったの!」
お腹の中から声を張り上げる。キーンと空に響き渡って、隣のビルやマンションに小さく木霊した。息を荒げて肩を上下させるわたしを、男の人は興味深そうに見てきた。
「君、飛べるの?」
またバカにしたような言い方だ。だけど今度は言い返せなかった。昼間に先生に言われたことを思い出したからだ。唇を噛む。無言のわたしに、男の人は「ふぅん」と答えた。つまらなそうな反応をされて、出会ったばかりの人なのに、何故だか悲しくなってうつむいた。
空を飛びたいなんて世迷い言だ。それじゃあ大人になれないわたしは、それをどう受け入れればいいの?
体をささえる足がひどく重たく感じる。立っていられなくなってきた。とうとうフラフラとたたらを踏んで、わたしはフェンスに背中を預けた。固い感触が背骨を痛めつけ、金属の冷ややかさにたまらず目をつぶる。
「僕は飛べるぜ」
暗い闇の中に、歌うような声がスルリと入りこんできた。コンクリートを踏みしめる、しっかりとした足音もそれに続く。人の気配が近付いてきて、わたしはつられるようにゆっくりまぶたを上げた。隣に目を向ければ、笑顔を浮かべた男の人が、フェンスに胸を預けている。
「一緒に飛んでみる?」
一際強い風が、わたし達を包み込んだ。




