第十二魔「吐露」
「ご主人、今さらじゃが。本当に良かったのか」
夜更けも夜更け。
いわゆる丑三つ時になっても、小さなデスクライトに照らされた俺へ、九尾はそう問い掛けてくる。
「良かったて何が」
「小童のことじゃよ。別に、同居する必要なんてない。それにここは汚く、人の住処にするには不十分すぎて、不衛生じゃ。数日はいいとして、数週間もすれば小童の体が壊れてしまうぞ」
「まぁ、それはそうだ」
カビも、ホコリも。舞い散る中眠るのは、過ごすのはとても健康にとっても良くない。
むしろ肺炎やらなんやら。風邪をひきやすい環境なのだ。
まぁ、その中に俺は何年も暮らしているわけだが。
「儂みたいな妖怪であれば、食い物の心配もしなくてよいし、寝床なんて必要ない。例え汚かろうが、住み心地が最悪だったとしても、儂にはどうでもよい。風邪もひかんし、不調になるなんてない。至って健康体で、ある種の病に冒された体でもある。
そんなところに、いつまでも小童を住ませるのならば、儂はささやかながら抵抗と抗議の声を上げさせてもらおう」
「なんだ珍しい。お前が他人を思いやるなんて」
今までの傍若無人な姿からして、他者への思いやり、気遣い、心配りなんて皆無だと思っていた。
しかし、小さな光に照らされた九尾の顔は、見たこともないほど憂いていた。
それも、泣きそうなほど。
見たこともない表情に思わず九尾へと体を向き直す。
姿勢を正さなければいけない。
そんな気がした。
「昔の話じゃ。気にすることは無い。ただ、過去と被ってしまっての。思うところがあるだけじゃ」
「じゃ、気にしない」
「あれは、冬空の中じゃ」
いや、喋るんかい。
ここら辺は歪みないようだ。しおらしくなっていようと。悲観していても。
「冬景色が綺麗でな。大粒の雪が珍しく降り続ける真夜中だったんじゃ。儂はその時、勇猛果敢に、いつものように人間共と戯れておってな。人肌が恋しい宵頃」
思いに浸るよう、真上を見上げる九尾。
その顔に降りかかるホコリが、雪であればもっと優雅な、侘び寂びのある厳格な雰囲気になっただろう。
「夜枷も済み、適当にふらついて適当に男でもおれば貪ってやろうかと思っておったら、いつの間にか貧民の住処へと辿りついてな。いつも名家の連中しか相手にしなかったから、初めて同じ街にあるとは思えない肥溜めにびっくりしたんじゃ」
「肥溜めて……」
「実際酷いもんじゃ。蝿は飛び回り、寝床すらない子どもや大人が裸同然で土の上で寝ておる。唯一、そこら辺の雑草で編み込んだものを掛けておるくらいで、とても雪が降るような時期を越せる状態ではなかった」
いつ頃の話だろうか。
九尾が妖怪だった頃なのか。
それとも、式神としての記憶からなのか。
少なくとも、生々しいのは事実であった。
「まぁ、見てくれもとんでもないものじゃ。貧しさを体現したというか。異臭も凄まじかったんじゃが、そこではそれが普通じゃったんじゃ。むしろ、こんな綺麗な儂がそこにいることの方が異端であった」
「まぁ、お前はどこにいようと異端だろうけども」
「そこでな。儂を見て声を掛けてきた童がおったんじゃ。なんと命知らずか。儂が儂と知らずに、儂へお情けを求めてきたんじゃよ。
まだ、齢五歳になるかどうかくらいじゃったかな」
とてつもない貧困の話というか。一つの街でそれだけの貧富の差が激しいのも珍しいというか。
少なくとも、五歳の子が乞食をするのは現実としても、世界の残酷さを表しているようだ。
「仕方ないからのう。適当に貰った物を渡したんじゃ。ちょうどさっきまぐわった人間から貰った物じゃったんじゃが、飛び回るほど喜びおってな。善行を積むのはいい気分がしたんじゃ。こんな貧しい奴にいらない物を渡せば、死ぬほど喜んでくれるからのう。自分の裕福さを感じて愉悦に思うたんじゃ」
「清々しいほどに屑の思考だな」
「それから、何度か通っておったんじゃ。いらない物ばっかりな住処を整理する場所ができたからのう。使い道があるなら、儂が腐らすよりいいじゃろうと。
その子へ何度も、何回も、度重なるほど渡しに行ったんじゃ」
「なんだ、いい話じゃないか」
そのまま、貧民の間で人気になって大団円――という雰囲気でないのは確かだ。
現実はそんな簡単に物語とならない。
幸せになるには資格がいるのだろう。
「ある日、雪の中その子は死んでおったよ。口から血を吐いておってな。流行病で死におったんじゃ。全く、人間とは優しくすればつけあがるどころか、天にすら勝手に昇りおる。
じゃから、のう。ご主人。無理は言わん。小童のことを思うならば、ここを住処にするのは勧めん。今すぐ直談判でもして、よりよい空気の澄んだ場所に住まうべきじゃ」
九尾の言っていることはもっともで。
今まで、そんなことを言わなかったから、とても意外に見えて、とても儚く見えて。
「…………まぁ、話だけはしてみるよ」
なんとかしてあげたい気持ちにさせる魔力があった。
「うむ、ありがとうご主人」
そんな後ろめたさのある俺に対して、九尾の笑顔は穏やかな優しく、今まで見せたこともないほど優雅なものであった。