安心できる場所
ようやく家に着いた。玄関に入った瞬間、急に足の力が抜けた。
「おい、水野! 大丈夫か?」
「家に着いたら、安心しちゃって……。ごめん、手を貸してくれない?」
山辺君に何とか立たせてもらい、ついでにリビングにもつれて行ってもらった。
「今日は色々とごめんなさい」
「何に謝ってるんだよ」
「自分の身を危険に晒したこと。相手を助けても、私自身が傷つけば周りの人も傷つくって教えてくれたこと。正直、自殺も考えていたわ。ほんの少し前まではね……」
そう。ほんの少し前までは、私が死ねばよかったのだと考えていた。
今もまだ、私はどうなってもいいという気持ちが、心の隅には残っているのかもしれない。
「今回は俺がいたからよかったけど……。もうあんな危ないマネすんなよ、あおい……」
「え?」
急に下の名前を呼ばれ、ドキッとして山辺君のほうを見る。
その目は、私を見ているのだろうか。ものすごく、悲しそうな目をして、私を見ていた。
「山辺君?」
「あ、いや、悪い。俺、今お前のこと名前で呼んじまったな……」
「なんで謝るのよ。さっきまで私のこと彼女扱いしてたくせに」
「友達って言うよりはいいかなと思って……。嫌だったか?」
「別に。助けてくれたし、悪い気はしなかったからいいわ」
私自身、まさか俺の女だなんて言われると思っていなかったからびっくりしたけど。
「あ、山辺君」
「どうした?」
「時間、大丈夫? 私から呼んでおいてなんだけど」
時間は現在7時を回ったくらい。外が明るかったから、まだ大丈夫だと思ってしまった。
「クラブだって言えば何とかなる。それよりも、お前は大丈夫か? 今日1人なんだろ?」
「大丈夫よ」
――ガタッ!
「キャッ!」
大丈夫と言った矢先、急な物音にびっくりし、思わず山辺君に抱き付いてしまった。
「ちょ、水野。大丈夫だって。犯人はあいつだから」
恐る恐る、山辺君が指差したほうを見ると、犯人がいた。
犯人は雪だった。どうやらお腹が空いたらしく、ご飯皿をひっくり返して催促していたようだ。
「雪か……」
「あの、そろそろ離れてくれるか?」
「あ……」
犯人が分かったところで、私は今置かれている状況を見て焦った。
「ごご、ごめんなさい!」
慌てて離れたものの、お互いの間に気まずい沈黙が流れた。
ここ最近、雪に振り回されているような気がするのは気のせいだろうか。
「本当にごめんね……。その、えっと……」
何とか話を繋げようとするも、心臓がうるさく、まともに話をすることが出来ない。
「ふっ……」
「え?」
私が落ち着きを取り戻せていないなか、山辺君が急に吹き出した。
「あ、ごめん。普段はクールなお前が、こんなに取り乱した姿を見るの初めてで、なんか、おか、しくて……」
喋っている間も、笑いをこらえられないようで、ついにはお腹を抱えて大笑いしだした。
「ちょ、そんなに笑うことないでしょ!」
「ごめん、やっぱ無理……」
しばらくの間、ずっと1人で笑っていた。
「もう。雪、こんな人は放っておいて、ご飯にしましょうか」
「おい、逃げるなよ」
ようやく笑いを止め、私の後を追って、キッチンまでついてきた。
「あのさ、あお……じゃなくて、水野」
「よく間違うわね」
「まぁ、その……。俺の初恋の人をあおいって呼んでいたから、つい癖で……」
キャットフードをお皿に入れながら、山辺君の話を聞いていた。
「なら、いっそのこと、名前で呼ぶ?」
「へ?」
間抜けな声と顔で私を見つめていた。
絵文字みたいな顔だな。写真を撮りたいが、さすがに怒られるだろうな。
「冗談よ。私のことを名前で呼んでいいのは、私の両親と葉月と、それとユウ君だけよ」
そう、名前で呼んでいいのは、4人だけだ。
「そうか……」
「あ、ごめん。その、えっと……」
「何慌ててるんだ?」
「いや、誤解したかなって……。私、男の子の免疫ないから、ユウ君以外、まともに接したことないから、急に名前で呼ばれたら、ちょっと自分が自分じゃなくなるって言うか……」
なんで私は、こんなに慌てているのだろう。舌が上手く回らない。顔も熱い。
「お前、顔真っ赤だぞ?」
「いや、何でもない!」
顔を覗き込まれ、思わずさっきの出来事を思い返してしまった。
「おいおい、茹でダコみたいだな」
「ち、ちがっ!だから!その……」
ダメだ。完全に冷静さを欠いている。
「少し落ち着けよ」
山辺君に言われ、少し落ち着きを取り戻した。
「やっぱ、お前、面白いな」
「う、うるさい!」
どうしよう……。完全に感情が表に出ている。これでは山辺君の思うつぼである。
「お前の過去に何があったかは知らねぇし、無理に聞かねぇけど、感情っていうのは生き物特有のものだろ。なぁ、水野」
「な、何?」
「なんで警戒してるんだよ」
どうしよう……。まともに、山辺君を見られない。
なんで……。なんなの、この気持ちは……。
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫……。ごめん」
ダメだ。山辺君の前だと、感情がすぐに出る。
「お前、腕……」
山辺君が私の腕に触れた。
「い、いやっ!」
私は掴まれた腕を思い切り振り払った。
「触らないで!」
私はさっき起こったことを思い出し、その場にうずくまった。
「おい、水野……」
山辺君は私に手を伸ばそうとするが、私の怯えようを見て手を引っ込めた。
「ごめん……。さっき、手首掴まれたの、思い出して……」
「俺のことは気にするな。でも、よほど強く掴まれたんだな。痛くないのか?」
「え……?」
山辺君に言われ、左手首を見ると、確かに赤くなっていた。このままだと、多分青あざになるだろう。
「だい、じょうぶだから……。だから、放っておいて……」
今日はさっきから感情が乱れてばかり。やはり、さっきのことがあったからだろうか。
「放っておけるわけないだろ!」
急な怒鳴り声に、私は体を震わせた。
「お前、今日1人なんだろ? 今日あんなことに巻き込まれて、大丈夫じゃないだろ。小さな物音にも反応するくらいだ。お前、我慢しすぎなんだよ」
怒鳴ったかと思えば、今度は諭すような優しい声で私に言った。
「少し、ここで待ってろ。雪、こいつのこと頼むな」
雪の頭をひと撫ですると、廊下の方へ歩いて行った。
「どうしたんだろうね」
とっくにご飯を食べ終わっていたようで、私の足にすり寄り、小さく鳴いた。
15分くらいだろうか。リビングで雪の相手をしていると、山辺君が戻って来た。
「遅かったわね。何かしていたの?」
「いつもの調子に戻ってやがる」
「そりゃ、落ち着かなければ、あなたの思うつぼじゃない。それに、こんなことで取り乱していたら、この先やっていけないわ」
「嘘つきだな、お前」
山辺君は私を見ながら、私の体を指差した。
「何よ」
「お前、もしかして気付いてないのか? 体、さっきから震えてるぞ」
「え?」
ふと私は、自分の両手を見た。微かだが、確かに私の手は震えていた。
「武者震いよ」
「意味分かって言ってる?」
「いや……」
「はぁ……。武者震いって言うのは、重大な物事をしようとする時に体が震えることを言うんだよ」
「……よく知ってるわね」
「だてにあの高校受かったわけじゃねぇよ」
何を言っているんだと言わんばかりの顔。
「と、とにかく。私は大丈夫。それより、あなたさっきまで何を……」
―一ドタドタッ!
「ん?何、この音……」
「葵!」
「は、葉月?」
「よかった! 無事なのね!」
「え?」
会話を遮られた挙句、なぜ今ここに葉月がいるのかが理解できなかった。
「ちょ、葉月。落ち着いて。なんで泣いてるのよ」
「よか、よか、た……。ほん、とに、よか、た……」
「な、なんで泣いてるのよ。とりあえず、ここ座って」
私は椅子に葉月を座らせ、私はキッチンに行き、コップに水を注いだ。
「とりあえず、これ飲んで」
私から水を受け取ると、勢いよく飲み干し、机の上に割れんばかりの勢いで置いた。
「落ち着いた?」
「それどころじゃないわよ!あんた、何ともないわけ?」
泣いたせいで目は真っ赤になり、その目で体中を見られるとさっきの不良たちよりも怖い。肩を掴まれ、見つめられているから怖さは倍増。
「悪い、水野。立花を呼んだのは俺なんだ」
「何でよ」
「お前が心配だったんだよ。それで、立花にさっきのことを話した。そしたら、ここに来るって言ってな。そしたらものの数分で、ここに来ちまったわけだ」
そういうことか。
「でも、よかった……」
「ちょ、葉月……」
私の体の無事を確認し、安心したのかまた泣き出した。
「あなたはお人好しね。私のことは放っておいてくれていいのに。ねぇ、彼氏さん」
「……はぁっ?!」
さっきまでの泣き顔はどこにいったのか。今度は怒りの目が山辺君に向けられている。
「彼氏って、どういう意味?」
「いや、こいつを助けるための嘘というか……。そんな軽蔑する目で見るなよ。今回は見逃してくれよ」
「今回は葵を助けてくれたから許すわ。ありがとう」
「お前、空輝の前だけじゃないんだな、女らしくするの」
「失礼ね。お礼くらい言えるわよ」
ようやくいつもの感じに戻った。安心できる。
「お前……」
「どうしたの?」
「いや、何でもない。それより、立花、水野のこと頼む」
ん? 頼む?
「ちょっと、山辺君。頼むってどういうことよ。って、その前に葉月。あそこにあるカバンは何?」
そこには出かける際に持つようなハンドバッグやショルダーバッグではなく、旅行に行く際に持っていくようなボストンバッグが置いてあった。
「ああ。今日は泊まろうかと」
「……えっ!」
聞いてないし!
私が驚きを隠せないでいると、山辺君が代わりに説明してくれた。
「俺が話したら、それじゃあ私が葵の家に泊まるから、あんたはとっとと帰れって言われたもんでね。まさか本気で泊まりに来るとは思ってもみなかったけど」
「ってことで、よろしく」
「よろしくじゃないわよ。まぁいいわ。この暗い中1人で帰すわけにもいかないし。あ、山辺君」
「ん? 俺は邪魔ってことか?」
「違うわ。もしよかったら、夕飯一緒にどう?」
一瞬、私たちの間に静かな沈黙が流れた。この静寂を破ったのは葉月だった。
「いやいや。なんでそうなるのよ」
「借りを返すだけよ。まぁ、山辺君がいいならだけど」
「いや、さすがにそこまでは……」
「何よ。葵からの誘いを断るわけ?」
「お前はどっちなんだよ。俺にいてほしいのか? とっとと帰ってほしいのか?」
「まぁまぁ。で、どうする?」
「俺はいいけど。ちょっと待て。親に聞くから」
山辺君は携帯電話を取り出すと、電話をかけ始めた。
「ねぇ、葵」
「ん?」
普通に話しかければいいのに、なぜか葉月は小声で話しかけてきた。
「不良に絡まれて、山辺君が助けてくれたのは分かったけど、なんでここにいるわけ? 家は反対方向じゃない」
「これを届けに来てくれただけよ」
私は生徒手帳を取り出した。
「ちょっと落としちゃって。山辺君はこれが私の大事な物だって知ってるから」
「そう。今回はそれのおかげで助かったわね」
そう言われてみるとそうだ。もしこれを私が落としていなかったから、山辺君は来てくれなかった。今回は落としたおかげで助かったのだ。
「もしかしたら、優月さんが助けてくれたのかもね」
「だったらいいけど」
あとで仏壇にお礼を言いに行かないといけない。でも、本当にそうなのか、ただの偶然ではないのか。そんなことも思ってしまう。
「はぁ? いやいや!そんなこと出来るわけねぇだろ! 明日学校だぞ?」
何を話しているのか、声を荒げて反論している。普段は静かなほうなのだが、ここまで声を出すなんて一体どんな話をしているのだろうか。
「ちょ、ちょっと!」
電話が終わったようで、ぎこちなく私たちを見た。
「何かあった? ものすごく声荒げていたけど」
「いや、その…。ごめん、水野。少し廊下に出て話さないか?」
「へ?」
「あら? 私に聞かれたくない話なの?」
私だけ呼び出しをされたから、葉月は疑いの目を向けた。私を助けてくれた人が変なことをするわけないけどね。
「いや、ちょっとな」
「分かった。葉月、ごめん。少し待ってて」
私は山辺君と共に、廊下に出た。




