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キャンドラの灯火  作者: 膣太郎
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第三章 ロックンロールの鳴らない世界

 決闘騒ぎが収束したあと、膣太郎とゴーマ君は医務棟へ運びこまれたわけ。

 ゴーマ君は見るからに重傷だった。胸部に深々と十字傷が刻まれて、衝撃波が内臓まで食いこんでたらしい。乱暴に動かせば命にかかわると、先生たちは五人がかりで教室から担ぎだした。

 医務棟の一階は診察室と治療室で、二階には病人用のベッドが並んでた。サイドテッブールには純白の輝きを放つ鉱石が設置され、柔らかな光で室内を照らしてる。奥のベッドでは、患者衣を着せられたトビック君が静かに寝息を立ててたよ。お顔の腫れは綺麗に引いて、手足の骨折も嘘みたいに治ってた。どうやったのか不思議だったけど、膣太郎はそれどころじゃなかったわけ。ベッドに横たわったまま、長い間オムツ一枚でうめいてた。一向に治療がはじまる気配がなかった。出血はとまらんし、このまま死ぬんじゃないかと思ったね。

 ようやくゴーマ君の治療を終えて、校医のドルネコ・タッショ先生が現れた。

 四十代の中肉中背で、黒い巻き毛のおじさん。にやついた目尻に、無精ヒゲを生やしてる。不審者みたいな外見だけど、学院での信頼は厚いらしい。

「どうです、うちの生徒たちは可愛らしいでしょう」

 医務棟の窓からは、芝生でボール遊びに興じる少年たちの姿が見えた。タッショ先生は元気に駆け回る男の子を眺めて、和やかに微笑んだ。

「ついさっき、診療室でムルージュに会ったんですがね。あいつもずいぶんと成長しましたなぁ。ついこの間まで、ほんの子供だったのに……おっと、あんたの治療を忘れるとこだった」

 タッショ先生がベッドに腰かけ、白いローブの下から聖珠を引っ張りだした。

「なぁに、大した怪我じゃねぇですよ。ちっとばかり出血しとるがね。この程度の傷なら治癒術(エテリカ)でちょちょいと治せますわ」

 そう言って、先生は膣太郎のお顔に手をかざした。

砂塵の癒やしを受けよ(プリク・ウル・エテル)

 汗ばんだ手のひらから、生暖かい風が吹きつける。眠気を誘う匂いがして、身体の痛みが引いていった。鼻血もすっかりとまったみたい。おそるおそるオムツの中を覗くと、刺された金玉がピンピンしてたよ。芋虫チンポコもご機嫌ってわけ。

「すごいべ! 膣太郎、元気になっちゃった!」

 ベッドの上でピョンピョンと飛びはねる膣太郎を見て、

「そうですかい」とタッショ先生がため息をついた。「簡単に怪我が治るもんで、生徒たちは無茶するんでさ。ダジュロの奴も、美少年だが限度を知らん。どうせ治ると思っとるんだ……死んだら俺にも手の施しようがねぇってのに」

 そのとき、マブいナオンがベッドに近づいてきた。年齢は膣太郎より少し若く、青みがかった髪を結いあげてる。射貫くような双眸が一羽のタカを思わせたね。

「生徒たちの容態はどうですか?」

「問題ねぇですよ、オーティンス教頭。みんな完治しちょります」

 教頭先生はニコリともせず「感謝します」と言って、手の甲でお口を覆った。それからオムツ丸出しの膣太郎に視線を投げ、オリヴァー学長のお部屋まで来るように指示したわけ。

 学長先生のお部屋は中央棟の最上階、物々しい燭台の通路を抜けた先にあった。学長室の扉は現代的で、周囲の装飾とは対極的だったね。白塗りの扉は木で造られ、ご丁寧にインターフォンまで取りつけられてた。隣には『プレジデント・オフィス』とアメリカ語で書かれた表札がかかってる。教頭先生がチャイムを押すと、鐘の音がしてドアが開いた。室内の床は板張りで、異界(メトリア)の新聞や映画のポスターが壁一面に貼られてたよ。革張りのソッファーに、コードの繋がってない小型テレビ。机には弓矢を構えたスズメさんのお人形が飾ってある。どうやって持ちこんだのか、巨大な冷蔵庫まで置いてあって、まるでリサイクルショップみたい。

 お部屋の奥で腰かけてたオリヴァーさんが、膣太郎を見て立ちあがった。

「ブラザー! 遊びに来ちゃったべ!」

「ああ、サムラァイ殿。お呼び立てして申し訳ない」

 そう言って頭をさげた学長先生を、オーティンス教頭が諫めた。

「他生徒との差別待遇は控えるよう申しあげたはずですが」

「いや、彼は異界からの客人であって……」

「詭弁は結構」教頭先生はピシャリと言い放った。「我が校の指導を受ける以上、異界人といえど一生徒にすぎません。ましてや、聖石を暴力沙汰に用いるなど言語道断。到底許されるべきではありませんよ」

 ぐうの音も出ない正論ね。ぐうだって。ハハ。

「膣太郎、退学になっちゃうわけ? まだ入学初日だべ?」

「まぁ、ナニエルの話だと正当防衛のようですし……」

 学長先生は弱りきった口調で弁解した。

「放校にすべきです!」と教頭先生が激しく抗議する。膣太郎、いきなり大きな声を出されて、ビクッてなっちゃった。「今回は怪我人で済みましたが、この者はいずれ大惨事を引き起こすやもしれません。聖職者として公正な判断を望みます」

 教頭先生はあくまでも校則に則った退学処分を主張した。

 だけど、学長先生は最後まで譲らんかった。結局、ゴーマ君が先に聖石を持ちだしたって証言が決め手になって、オーティンスさんが折れることになった。こうして、騒ぎの主犯となったゴーマ君には一ヶ月の、正当防衛が認められた膣太郎とテルレス君には一週間の停学処分がくだされたわけ。


 シンクレール神聖学院の校舎を挟む学生寮は、外壁を苔やツタで覆われ、まるで樹海に佇む廃墟のように見えた。正門広場と接する玄関扉は古めかしく、魔女の棲み処を思わせる。寮舎は東西と別棟の三つに分かれてて、それぞれに三千人ほどの生徒が暮らしてるらしい。膣太郎が所属するティルティウス寮は、東棟を割り当てられてた。屋根には知性を司るフクロウさんの像が足をかけて、広場を見おろしてるの。外観に反して寮内は清潔だった。床のタイルは白と黒のハーリキンチェック。壁を装飾する植物模様が、窓からさす光を受けて輝いてた。膣太郎がオーティンスさんに案内されたのは二階の『237号室』だった。中には絨毯が敷かれ、簡素な家具がいくつか置いてある。膣太郎は一週間の外出禁止を言い渡されて、その日からお部屋に引きこもった。ボーっと何時間も天井を眺めたり、金玉のシワを数えたりして過ごしたよ。元の世界にいたときも似たような生活だったから、別に苦しくなかったね。だけど、夜中になるとお母さんのことを思い出して、ちょっぴり悲しくなっちゃった。

 謹慎三日目の朝、アミスちゃんとトビック君がお部屋を訪ねてきたわけ。今日は授業がお休みなのか、二人とも私服姿だった。アミスちゃんは赤いベストを着て、カーディガンを羽織ってる。トビック君はサスペンダー付きのショートパンツを履いてたよ。膣太郎はオムツ姿でワオワオ腰を振りながら、二人を中に招き入れた。

「トビックがね、どうしてもあなたにお礼を言いたいんですって」

 アミスちゃんの陰に隠れてたトビック君が、頬を赤らめて膣太郎を見た。医務室で眠ってたときに比べると、ずいぶん体調がよくなったみたい。

「みんなから聞いたよ。僕のためにゴーマと決闘してくれたんでしょ?」

「決闘っていうより、半殺しにされたべな。ハハ」

「ありがとう……チツタロさん」

 黒く濡れたお目めが、キラキラと膣太郎を見つめてる。気にしなくてもいいべと言って、照れ隠しに笑ったよ。膣太郎は硬派だから、こういうの恥ずかしいね。

「これは私からのプレゼント」アミスちゃんが小さな袋を差しだした。

「わぁ、ひょっとしてオナホール?」

「なにそれ。違うわよ、先生たちの目を盗んで拾っておいたの」

 ワクワクして袋を開けると、決闘騒ぎのときに紛失した聖珠が入ってたわけ。

「すごい! これ改良されてる!」トビック君が叫んだ。

「騎兵団の秘術兵が使ってる聖珠と同じだよ! どこで手に入れたの?」

 バージェスさんの石がよっぽど珍しいのか、トビック君は球体を光に透かしたり、お顔を近づけて観察したり、とにかく興奮した様子だったね。膣太郎にはよくわからんかったけど、この聖珠がどれほど高性能なのかを熱心に話してたよ。

「ブラザーは詳しいべなぁ。膣太郎、感心しちゃった」

「僕、学院を卒業したら騎兵団に入るつもりなんだ」トビック君は聖珠を袋に戻すと、はにかんだ口調で言った。「秘術の才能はあんまりないけど、たくさん勉強して、偉くなって……誰かの役に立てたらいいなって」

「なかなか素敵な夢ね」アミスちゃんが微笑んだ。「私はガスタニアの大図書館で働くつもりよ。あなたは元の世界に戻ったらどうするの?」

「膣太郎はロックだから、成りあがって武道館目指すべ」

(ロック)は関係ないでしょ」アミスちゃんがお首を傾げる。そういえば、フリアちゃんにも同じことを言われたね。膣太郎、こっちに来てから聖歌以外の音楽を聴いたことがなかった。楽器はもちろん、バンドがあるかどうかもわからん。この世界にはロックンロールが存在しないのかな? そう考えたら、お胸がズキズキ痛んだよ。

「岩じゃねぇべ。ロックンロールは音楽なんだべ」

 トビック君が「どういう音楽なの?」とたずねた。

 言葉じゃロックの魅力は伝わらないよね。だから、実際にお歌を聴かせてあげることにしたわけ。曲は膣太郎が作詞した『オムツヒーロー』だよ。その場で四つん這いになって、リズムよく地面を叩きはじめる。膣太郎は楽器が弾けないから、机や壁をポコポコ叩いて演奏するの。お目めをとじると、殺風景な寮室も武道館に早変わり。頭の中でギターの伴奏が流れて、黄色い悲鳴に目眩がしちゃう。

 ここが膣太郎のステージだべ。

「戦争は止めようよーッ! 黒人差別は止めようよーッ!」

 膣太郎の大声にアミスちゃんがお耳を塞いだ。

「ただの雑音じゃない!」

 だけどトビック君は、真剣な表情でお歌に聴き入ってたよ。はじめて聴く音楽に魅了されたように、神経を集中させて膣太郎のことを見つめてる。曲を歌い終えると同時に、トビック君は興奮した様子でお手てを叩いた。

「こんなの聴いたことないや! 秘術みたいだ!」

「オフコース!」膣太郎、お歌を褒められて最高に嬉しかったね。「ロックの力はすごいんだよ。昔、自殺しようと思ってた膣太郎のことを助けてくれたの」

 自殺という言葉に、アミスちゃんが眉をひそめた。

「そんな音楽があるなんて、異界の人が羨ましいな」

「ブラザーもロックに興味があるわけ?」

「うん。僕も……ずっと死にたいって思ってたから」

「ちょっと、なに言いだすのよ!」アミスちゃんは心底意外そうに、トビック君をまじまじと見た。「それ本気? どうして死にたいなんて考えるの?」

 トビック君はさっきまでの興奮を失って、現実に引き戻されたみたいだったよ。視線を落として椅子に座ると、失言を悔いるように沈黙した。十秒、二十秒と気まずい時間が流れていく。その間、アミスちゃんは追求を緩めようとはせず、じっとトビック君を睨みつけてたわけ。瞳に浮かんでるのは、純粋な義憤だった。きっと虐められっ子がどんな思いをしてるかなんて、考えたこともなかったんだろうね。

 トビック君は観念した様子で、ポツポツと言葉を紡いだ。

「……嫌われるのが怖いんだ。すごく怖い。僕のせいであの人が怒ってるんだって思うと、頭が真っ白になって、生きてるのもイヤになって、それで……」

「だから自分が死ねばいい? バカじゃないの!?」

 アミスちゃんが声を張りあげる。本気で憤りを感じてる様子だった。

「確かにゴーマは危険だし、怖いのはわかるわ。だけど、あなたはなにも悪くないじゃない。イヤなことはイヤって伝えないと、なにも変わらないわよ」

「そうだね。僕がもっと強かったら、はっきり言えるのにな……」

 最後にそう呟いたきり、トビック君はお口を閉ざしちゃった。

 窓ガラスに絡みついたツタの隙間から、小粒の雨が打ちつける。空には厚い雲が垂れこめて、すっかりお日様を覆い隠してた。膣太郎たちはしばらく異世界や学校のことを話し合ったけど、どうしても重苦しい雰囲気が拭えんかったね。結局、一時間ほどして二人はそれぞれのお部屋に帰っちゃったわけ。寮室を出ていくとき、トビック君が膣太郎を振り返った。

「学校に来たら、また僕とおしゃべりしてくれる?」

「当たり前じゃん。膣太郎、トビック君のお友達だもん」


   *


 停学が明けた膣太郎は、擾乱をもって学院に迎えられた。

 最初に異変を感じたのは、ティルティウス寮の談話室に入ったときね。ワオワオ腰を振りながら現れた膣太郎を見て、生徒たちが一斉に叫んだわけ。「オムツの英雄がお出ましだ!」それから何人かの男子に取り囲まれて、決闘騒ぎの一部始終について詳しく教えてほしいってせがまれたよ。どうやら噂が独り歩きして、いつの間にか膣太郎がゴーマ君を成敗したことになってたらしい。膣太郎、初日は完全に不審者扱いされてたから、ビックリしちゃった。

「キモタロ! すごいじゃないか!」丸眼鏡の少年に肩を叩かれた。

「ムルージュと協力してダジュロを倒したんだって?」と赤毛の少年が言う。

「あいつには秘術の才能があるから、誰も反抗できなかったんだ」

「君、クネクネしてて気持ち悪いけど見直したよ」

「そうそう。死んだカエルみたいとか言ってごめんね」

「臭いのも我慢するよ! 君は僕らの救世主なんだから!」

 子供たちはそれを聞いて、ワァワァと喝采をあげた。

「だべ……だべ……」

 褒めてんのかバカにしてんのか、どっちだよって感じ。

 そのあとも低学年の生徒たちに握手を求められたり、廊下ですれ違った男子にお辞儀されたり。膣太郎、すっかり有名人になっちゃった。心なしか、ナオンたちの視線も熱っぽい。膣太郎は硬派な童貞だから「興味ねぇべ?」って平静を装ってたけど、チンポコはバキバキに勃起してた。

 膣太郎は約束通り、トビック君と二人で行動するようになった。今度はお世話係じゃなくて、大切なお友達としてね。アミスちゃんもこの前の出来事を境に、少しだけ優しくなった気がすんべ。同じ日に停学が解けたテルレス君だけは、以前と変わりない態度に見えた。噂を訂正するわけでもなく、生徒たちの集団から少し離れたところに立って、ときどき膣太郎のほうを睨んでくる。

 お昼休みになると、膣太郎とトビック君は急いで階段を駆けおりた。東棟一階のエントランスホールを抜けて大食堂に向かったよ。中は広く、石製の長机がいくつも並んでる。天蓋を支えるのは数十本の柱。巨大なステンドグラスの上には、炎の中で鏡を掲げる少年のレリーフが見えたね。土台には『賢人オルビスの死』って彫られてた。机の上では豪勢な料理が湯気を立て、生徒たちが我先にと群がってた。綺麗に盛りつけられたサラダをはじめ、牛や子羊の肉料理、七面鳥の丸焼き、塩漬けのニシンやタラ、オイスターにムラサキ貝、パースニップのポタージュにフルーツ・パイまで、香ばしい匂いが漂ってる。膣太郎、謹慎中は用務員さんが運んでくるお野菜とパンだけで生き延びてたから、豪華な食事に圧倒されちゃった。

「チツタロさん、すっかり大人気だね」

 お皿に野ウサギのローストを取りわけながら、トビック君が苦笑した。

「変な感じだべ。膣太郎がゴーマ君をやっつけたわけじゃないのに、ロックスターみたいにチヤホヤされてさ。お尻の穴がむず痒くなっちゃう」

 そう言って、七面鳥をお手てで直接わしづかみにする。お口に放りこむと、むせ返るような香辛料の刺激が鼻腔を満たしたよ。ムッチャムッチャ。鳥さんのお肉、おいしいね。膣太郎は食器を使えないから素手でご飯を食べてるんだけど、異界ではそれが普通だと思われてるのか、トビック君はなにも言わんかった。

「ねぇ、僕がいっしょにいて……迷惑じゃない?」

「そんなことねぇべ。ブラザーが強引に連れだしてくれんかったら、今も談話室で質問攻めに遭ってたかもしれん。チビやんがいてくれて本当に助かったべ」

「チビやんって僕のこと?」トビック君がお目めを丸くした。

「そうだよ。ブラザーはいろんな人にチビックって呼ばれてるから、膣太郎もチビやんって呼ぶことにしたの。ひょっとしてイヤだったかな?」

「ううん……友達にあだ名で呼ばれたことがないから、変な感じ」

 トビック君は少し俯いて、気恥ずかしそうに微笑んだ。

 そのとき、知らない男の人がお盆を手に近づいてきた。最初は先生かと思ったけど、よく見ると学生用のローブを着てたね。転校初日に見かけた、留年生のおじさんだったよ。痩せこけた頬、ハエみたいに飛び出した目玉。おじさんは媚びるような笑みを浮かべて「君が異界人(メトリウス)の転校生かな?」と膣太郎に声をかけた。トビック君のことは眼中にないみたいだったね。

「一度君と話してみたかったんだ」そう言って、おじさんがお手てを差しだした。

「僕はポーティン・シコリウス。在学二十年目のベテラン学院生さ」

 初対面で失礼だけど、可哀想な名前だなって思った。

「どうも、膣太郎です」手のひらを握り返すと、異様なほど湿ってたよ。

 シコリウスさんはねっとりとした笑顔で隣に腰かけ、

「年齢も近いし、君とは気が合うと思うんだ。なにしろこの学校、ガキばっかりで困っちゃうだろ?」と、同意を求めるように悪態をついた。向かいの席に座ってたトビック君が、居心地悪そうに身じろぎしてる。

「そんなことないよ。膣太郎、すっごく楽しいべ」

「まぁ、物珍しいのは最初だけさ。そのうち飽きてイヤになるよ」

 シコリウスさんは右手で髪をかき上げ、お鼻を鳴らした。

「ところで、君も来月の検定は受けるんだろう」

「検定ってなんだべ」

「おやおや、知らないのかい?」大げさに両手を広げて、無知を嘲笑うような口調で続けた。「この学院じゃ年に一回、卒業検定に合わせて異界人の修了検定が実施されるんだ。そこで簡単なテストを受けて、合格基準に達していれば無事に卒業。ダメなら留年してもう一年通うことになるのさ」

 そういえば編入の手続きをしたとき、コクトさんからも説明された気がすんべ。膣太郎、チンポジを直すのに夢中であんまり聞いてなかったけど、フリアちゃんが「頑張ってくださいね」って、お手てを握ってきたのは覚えてるよ。

「僕はね、今年こそ神聖大学(ギリジウム)に進学する予定なんだ。将来は政務官様だよ。学院を出たら騎兵団に入りたがるバカが多いけど、現実的じゃないよねぇ」

 黙って会話を聞いてたトビック君が、唇をギュッと噛みしめた。膣太郎、だんだんシコリウスさんに腹が立ってきたね。この人、十四回も留年してるくせになんで偉そうなの? トビック君の夢を笑うなんて、許せねぇべ。

「バカじゃないもん。騎兵団に入るのだって、立派な目標だもん」

 膣太郎が反論すると、シコリウスさんは「ご立派だって? 教王様のロバじゃないか!」とせせら笑った。「給料は安いし野蛮だし、地方の三流学院ならまだしもシンクレールを卒業して肉体労働に就くなんて頭がおかしいとしか……」

「――黙んべ」

 膣太郎は我慢が限界に達し、ドンと机を叩いた。

 シコリウスさんは、唖然としたまなざしで膣太郎を見つめてる。

「君、そんな言い方はひどいんじゃあないか? 僕はただ当たり前のことを……」

「お前なんかキラいだべ! あっちいっちゃえ!」

 ブンブンと両腕を振り回して、追い立てるように大声をあげた。これ以上、一秒たりともシコリウスさんのお顔を見たくなかったね。マルケスさんやフリアちゃんのことも侮辱されたみたいで、目尻に涙が滲んだよ。シコリウスさんは動揺して、お皿の上のお魚みたいに膣太郎を睨みつけた。

「な、なんだよ……バカヤロウ……」

 逃げるように去っていく背中を見ながら、膣太郎、悔しくて泣いてたの。

 トビック君がそっと、震える肩にお手てを置いた。

「僕なら大丈夫だよ。もう行こう」


 午後の授業は東棟三階の特別教室で行われることになってたわけ。ドアの石板には、光る文字で『実戦剣術 本日の講義:模擬試合』と書かれてた。また三寮合同で講義が行われるのか、廊下には濃紫やオリーブ色のローブを着た子供たちがひしめいてたね。室内は灰色の壁に囲まれて、寒々しさを感じるほどだった。浅黒く日焼けした男性がお部屋の真ん中で仁王立ちしてる。年齢は五十代前半。厳めしく寸の詰まったお顔に、鎖帷子を身につけた巨体。青の装束には、カブトムシを象った紋章が縫いつけられてたよ。膣太郎を嫌ってた教習所の教官にクリソツだった。

 男性は膣太郎の姿を認めると、低い静かな声で言った。

「わしは剣術を担当するテセルバ・ドーキンスや。お前が新入生か?」

「年金滞納者の膣太郎だよ。よろしくね」

 ペコリと頭をさげて、ご挨拶。

「学長から武士(サムラァイ)やて聞いとるぞ」ドーキンス先生は膣太郎のローブをめくりあげ、バキバキに割れた腹筋を睨みつけた。「ええ身体しとるな。お前、アホみたいな顔しとるけど素人ちゃうやろ。どこで鍛えたんや?」

「床オナで鍛えたべ」

「ほお……民族解放戦線(ユカオラ)かい」

 ドーキンス先生は鋭いまなざしで、品定めするように膣太郎を見た。

「膣太郎は筋肉ムキムキだけど、ケンカするのは苦手だべ」

「謙遜せんでええがな。お前の実力、模擬試合で見してもらうぞ」

 先生が指示を出すと生徒たちは三人一組に分かれ、鎖帷子と練習用の模造刀を渡された。膣太郎はトビック君とテルレス君のグループに入れられたよ。模造刀は剣身八十センチほど、薄い両刃の片手剣だった。柄頭には象眼の装飾が施され、円盤状の鍔には聖人クレモニウスを讃える文言が綴られてる。作り物とはいえ、お手てにずっしりと重みを感じたね。膣太郎は一人でお着替えできないから、トビック君に手伝ってもらってオムツ姿の上に鎖帷子を直接着たわけ。鎖が乳首を圧迫して、エッチな気分になっちゃう。膣太郎、変態みたいな格好をしてた。

「ええな、試合は三分一本先取で選手交代や」

 先生の合図で膣太郎たちは前に出た。円状に引かれた白線の外で、グルムバッハ寮の生徒たちと対峙する。見たところ十三歳前後の男子が三人。半裸にチェーンを巻いた膣太郎の異様さに圧倒されて、膝が震えてる子もいたよ。

「身体は斜に構えて、バインド後の重心移動を忘れんなよ。剣は振り回さんと、弓を引くように急所を狙うんや。では……双方構え!」

「チビやん! 頑張んべ!」

 先鋒のトビック君が最初の試合に臨んだ。相対するのは癖毛の少年。お互いに礼をして、二本の剣が突きだされる。じりじりと様子見をしながら、二人とも緊張で額に汗をかいてたね。先に動いたのは癖毛の少年だった。鈍い動作で繰り出された上段斬りを、トビック君が間一髪ではね返す。続けて二度、三度と斬撃を防いだ後、今度は癖毛の少年目がけて刺突した。だけど、大げさに身体をひねりすぎたせいでバランスを崩し、切先は胴から二十センチも離れた空を切っただけ。その隙に相手の剣がトビック君の脇腹を捉えた。不快な金属音に、膣太郎は思わずお顔をしかめる。ドーキンス先生が一本を認め、第一試合は相手チームの勝利となった。

「ごめん……負けちゃった」脇腹を押さえながらトビック君が戻ってくる。

 黙然と勝負を眺めてたテルレス君が苦言を呈した。

「脇の守りが甘すぎるぞ。腰は引けてるし、気圧されてるのが丸わかりだ。刺突を回避された後、踏みこんで切り落とせば一本取れたはずだ。違うか?」

 トビック君はお顔を真っ赤にして、悔しそうに俯いた。

「よく見てろ」と言って、今度はテルレス君が白線の中に入った。

 相手側の副将は、黄色い瞳の少年だったよ。剣術には自信があるのか、右肩の上で剣を構えて不敵な笑みを浮かべてる。テルレス君は下段に構え、切先を地面に向けたまま視線を外さない。開始の合図と同時に、敵の少年が動いた。機敏な所作で振るわれた刃を、テルレス君は剣身で受け流す。さらに袈裟懸けの追撃を紙一重でかわし、力強く踏みこんで右上段から水平斬りを放った。突差に少年が防御の態勢を取る。テルレス君の薙ぐような剣筋が垂直に折れ、瞬く間に反転し、裏刃による左上段攻撃へと切り替わった。切先は美しい幾何学的曲線を描いて少年の肩に吸い寄せられる。試合は十秒で終わった。

 テルレス君はすましたお顔で円を出た。誰もが剣さばきに魅入って、物音一つ立てんかったよ。やがて先生が小さく咳払いして、勝者の名を告げた。

「すごいべ! 今のどうやったわけ? バグ?」

「うるさいな……ほら、あなたの番ですよ」

 興奮する膣太郎の腕をつかんで、テルレス君が引っ張った。

「最終試合や。相手は子供やさかい手加減したれよ」と、先生が忠告する。

 異界の剣術に興味を示して、生徒たちが白線のそばに詰め寄った。

「それでは、双方構え! はじめい!」

 円の中で相手チームの選手と向かい合う。敵の大将は、幼いプラチナ・ブロンドの男の子だった。頭髪をオールバックに整えて、傲岸不遜な顔つきで剣を握りしめてる。だけど、乳首丸出しで仁王立ちの異界人に恐怖を感じたのか、両膝が惨めなくらい震えてたよ。膣太郎、よくわからんまま試合に参加させられたけど、はじめから戦うつもりはなかったわけ。だって、こんな危ないもの振り回して怪我でもさせたら可哀想じゃん。それに膣太郎はロックだから、暴力はNGってわけ。

 そっと地面に剣を置くと、観衆がどよめいた。

 ドーキンス先生も膣太郎の意図が理解できず、眉をひそめて試合を見守ってた。膣太郎はそのまま四つん這いになると、お尻をプリンと突きだして、元気よく歌いはじめたよ。こんな不毛な戦い、ラブ&ピースでバッキリ終わらせてやる。

「戦争は止めようよーッ! 黒人差別は止めようよーッ!」

 ところが、お歌を聴いた瞬間、少年が絶叫しながら剣を振りかざしたわけ。

 ヤバい儀式かなにかと勘違いしたのか、無我夢中で斬りつけてくる。恐怖に引きつったお顔は、正常な判断力を失ってるみたいだった。垂直に振りおろされた剣身が背中に直撃した。背骨がミシミシと軋んで、膣太郎はその場に転げ回った。子供の力といっても、模造刀の重量を加味した猛攻は砲弾のように激しかった。

「死ねッ! 邪教徒め! 死ねッ!」

 脳天に金属の塊を叩きつけられ、勢いよく鼻血が噴き出した。ドーキンス先生が試合を中止するよう制しても、少年は攻撃をやめる気配がない。膣太郎は両手で頭をかばいながら、ヒィヒィ言って逃げだした。

「アオォ……やめてべ……痛いべ……」

 全身を震わせて懇願する膣太郎のお腹に、剣身がめりこんだ。みぞおちに打ちこまれた刃が内臓を叩き、胃液が逆流する。膣太郎はその場にゲロを撒き散らして、エビみたいな姿勢で悶絶した。お尻の割れ目から、プスプスと屁が出たよ。温かな感触がねっとりとオムツの中に広がっていく。

 膣太郎、怖くてウンコを漏らしちゃったんだね。

「なにしとんねん! ボケッ!」

 血相を変えたドーキンス先生が、膣太郎の顔面をブン殴った。少年は寮長たちに羽交い締めにされ、狂ったように泣き喚いてたよ。低学年の生徒はSHOKINGな光景に言葉を失い、ナオンたちが方々ですすり泣いてる。膣太郎はヨタヨタと立ちあがると、先生に教室から閉め出されたわけ。ゲロとウンコの悪臭を漂わせながら、近くのトイレに駆けこんだ。手洗い場の鏡には、血だらけのお顔が写ってた。こんなはずじゃなかったのに。膣太郎、悲しい気持ちでお胸がいっぱいになって、涙を抑えられんかった。

 背後でドアが開く音がして、テルレス君がトイレに入ってきた。

「まったく。危なっかしくて見てられませんよ」

 テルレス君はハンケチを水で濡らすと、膣太郎に差しだした。

「毒なんか染みこませてませんから。洗って返してください」

「ブラザー、心配して来てくれたの?」

「寮長ですからね」と言って、つま先立ちで膣太郎の頭部を確認する。細い指先が触れるたび、傷痕がジンジンと疼いた。「皮下血腫ができてますね。あとで医務室に寄ってください。一応タッショさんに見てもらったほうがいい」

 渡されたハンケチで血を拭って、鎖帷子を脱がせてもらう。チェーンに挟まれて乳首がもげそうになったけど、膣太郎、唇を噛んで我慢したよ。立派だね?

「……なぜ剣を捨てたんですか」

 視線をあげると、ガラス玉の碧眼が膣太郎の瞳を見つめ返した。

 心を見透かすような冷たさの奥に、うっすらと困惑の色が浮かんでる。

「あまりにも無防備だ。敵にあんな姿を晒す必要はなかった」

「膣太郎、誰とも戦いたくないんだべ」

「だから争いはやめろと?」

 テルレス君の声色に、かすかな苛立ちが混ざった。

「悪意を持った者に襲われたどうするんです。常に誰かが助けてくれるとはかぎりませんよ。現にダジュロと決闘して、散々な目にあったでしょう?」

「ブラザーの言うとおり。膣太郎、元の世界にいたときは近所の不良にカツアゲされて、毎日ズタボロに殴られてたわけ。いくら暴力はダメって言っても、不良は殴るのをやめんかったよ。通行人は知らんぷりだし、ポリースだって助けてくれん」

 少し言葉を切って、それでもね、と続けた。

「膣太郎は信じてるの。ホントは悪い人なんか、どこにもいないんだって。ちょっとしたすれ違いや誤解のせいで、みんなケンカしたり、憎しみ合ったりしてるだけなんだって。平和が嫌いな人なんているわけないもん。誰かが剣を向けてきても、どんなにひどく傷つけられても、膣太郎がロックを歌いつづけたら、きっとみんながお友達になって、いつか世界は一つになるはずだよ」

 テルレス君が噛んで吐き出すように言った。

「理想論です。性善説の奴隷だ。人間はあなたが思っているほど賢くない」

「それでも膣太郎は、人間を信じたいべ」

 二人は手洗い場で対峙したまま、長いこと沈黙してた。言葉を超えた信念が激しくぶつかり合い、頭上で火花を散らしてるようだった。膣太郎はテルレス君の双眸を覗き返し、その奥に深い孤独が沈殿してるのを見たよ。年相応の無邪気さと冷酷さの狭間で、チラチラと苦悶の炎が揺らめいてる。それは世界に絶望した人間が、一縷の希望を捨てきれずに発する救難信号だった。

 しばらくするとテルレス君は視線を落とし、

「……僕にはわかりません」と、ため息をついた。

「あなたほど高潔に生きられそうにない。理想を叫ぶより、僕はこれからも剣を振るうつもりです。愛する者のためなら殺人も厭わないでしょう。必要ならば、人間であることさえ放棄する。その覚悟がなければ、なにも変えられないと思います」

「ブラザー……」

「だけど、あなたの考えは嫌いになれませんね」

 テルレス君は気恥ずかしそうに呟くと、膣太郎の頬をグリグリとつねった。

「ワオッ!?」思わず変な声が出て、テルレス君がおかしそうに笑ったよ。

 はじめて見せる子供らしい仕草。屈託のない笑顔だった。

「見せてもらいます。チツタロさんの理想論がどこまで通用するのか」

 膣太郎はハンケチを握りしめた。そうだよ。弱気になってる場合じゃないよ。証明してやんだべ。ロックンロールが世界を変えるってこと、異界の人たちに教えてやんだべ。テルレス君がお名前で呼んでくれたのが嬉しくて、勇気がモリモリ湧いてくる。今ならどんなことでも、不可能はないって思えたね。でも、太ももに垂れたウンコをハンケチで拭いたら「もう返さなくていいですよ」テルレス君にマジなテンションで怒られた。膣太郎、ちょっぴり反省ってわけ。ハハ。


   *


「それで、お友達ができたのですね」

 学院に入ってからはじめての休日、膣太郎はフリアちゃんと市街地に出かけた。修道院から馬車で三十分も北上すると、官庁関係の建物や酒場が見えてくる。石材でこしらえられた簡素な露店が軒を並べる広場に馬車をとめ、膣太郎たちは学校生活のことを話しながら、漫然と散策したわけ。晴天の市場は賑わい、多種多様な専門書を扱う書店が散見された。ヘルマンはアルファヴィル西部の盆地に作られた学研開発地区らしい。シンクレールを筆頭にハンス神聖大学やペニフェザー修道女学院といった名門校が集中し、三百もの公的研究機関を擁してるんだってさ。住民の大半が教育や研究職に携わってて、市街地には数え切れないほどの書店が密集してた。膣太郎たちは何度か路地を折れ、落ち着ける場所を探したよ。悪魔の書物庫と呼ばれる古本屋街を通りすぎたところで、寂れたコーヒー・ハウスに立ち寄った。《フクロウの墓穴》と書かれた看板は錆びついて、建物自体もひどく古めかしい。店内は薄暗く、カビの匂いが立ちこめてたね。膣太郎たちは無愛想な店主さんにテラス席へと案内されて、ようやく一息つくことができた。

 フリアちゃんがかしこまって、膣太郎と対座した。

「では、検査の結果を教えていただけますか?」

 リックサックを開いて、一通の封筒を取りだす。学院を出る前、ポーティ先生から受け取った報告書。フリアちゃんは封蝋を外し、書類に視線を滑らせた。 

「〇パーセント……貴殿には御石への適応性が……ありません」

 やっぱりね、って感じ。

 膣太郎は停学が明けてから五回の授業で特訓を重ねたけど、一度も術を発動させることができんかった。最初は呪文が間違ってるんだと思ったわけ。でも、児童向けの簡単な秘術――この世界の人たちが養育院で最初に教わる、石動術(ア・ウラ)って呪文を試しても、力むたびに屁が出るだけだったよ。素質の有無ではなく体質的な問題、というのがポーティ先生の下した結論だった。

 フリアちゃんは愕然として、今にも失神しそうに見えた。

「ほんの、一匙ほどの才能もなかったのですか?」

「異界の月光を浴びた人間には聖珠が使えないって、先生が言ってたべ」

「わかっています。そのようなことは、最初から承知していたのです」真っ青な唇を震わせて、フリアちゃんは言葉を絞りだす。「しかし、貴殿は特別だと……」

 膣太郎は思い出した。召喚儀式を執行したとき、フリアちゃんは救世主となる者を遣わせるように、神様にお祈りしたんだっけ。本来使えないはずの聖珠を操り、乱世に安寧をもたらす異界人。それがフリアちゃんの願いだったんだね。ところが実際に現れたのは、なんの特技も持たない膣太郎だった。秘術はもちろん、剣術の才もなく、知能さえ人並以下。オムツを履いた三十一歳の無職。

 立場が逆なら死にたくなるな、って思った。

「秘術の授業は毎日あるから、次こそうまくいくべ!」

 元気づけようと、椅子から立ちあがってワオワオ腰を振る。だけどフリアちゃんはすっかり意気消沈した様子で、報告書を握りしめたまま虚空を見つめてた。

「フリアちゃん――」

 突然ガラガラと轟音がして、静寂が破られた。

 慌てて振り返ると、そばの路上で少年が男たちに囲まれてたわけ。目深に帽子をかぶり、煤けたお顔に小さな傷を作ってる。どうやら、さっきの衝撃は露店の荷台をひっくり返した音らしい。石造りの地面に、壊れた木箱や果物がいくつも転がってたね。男たちのほうは麻のローブを着て、深紅のマントを羽織ってたよ。騎兵団の人たちだべ。兵士さんは三人がかりで少年を追い詰め、今にも飛びかかろうとにじり寄った。少年は親指で鼻をこすり、憎々しげに男たちを睨みつける。やがて、兵士さんの一人がお腕を伸ばした。

 すると少年は「僕に触るなッ!」と叫んで、奇妙な動きを見せたわけ。

 身体をやや斜めに構え、トントンと軽やかに大地を蹴る。と同時に男のお腕を払いのけ、左拳を脇腹へと突き立てた。続けて男の左手をはたき落とし、流れるように顔面へと裏拳を叩きこむ。男はうめき声をあげて、その場に両膝をついた。もう一人の男が背後から襲いかかった。少年は身を翻して奇声を発し、躊躇なく首元に蹴りを入れた。男の巨体が吹き飛んで、露店の壁にブチ当たった。

 膣太郎、()()()()()()()()()()気がすんべ。

 最後に残った兵士さんが、帯刀していた片手剣を抜いた。

 遠くのほうから、増援のお馬さんが迫ってくる。三頭、いや五頭。

「チッ……しつこい奴らだな……!」

 少年は分が悪いと見て、退却しようと身体を反転させた。そして、直線上にいた女の子に衝突したわけ。アッと思う間もなく少女はバランスを崩し、空中に投げだされた。石畳に頭を打ちつけたら、怪我じゃ済まないかもしれん。芝生に横たわるトビック君の姿がフラッシュバックして、膣太郎は息をのんだ。

重力の束縛を逃れよ(エプス・ウル・グラム)!」

 冷気が足元を凍らせ、蛾の幻惑に襲われる。フリアちゃんが秘術を発動し、少女の身体は木の葉のように浮きあがった。そのまま大地から吹きあげる風に揺られ、ゆっくりと着地する。見れば、男の子は背後を顧みることもなく逃げだそうとしてたよ。膣太郎は頭に血がのぼって、フリアちゃんの制止も聞かずに駆けだした。

 いきなり現れた半裸の男に、少年は虚を突かれた様子だったね。

「……なんだよ、オッサン」

「ちゃんと謝んべ」

「はぁ?」

「ごめんなさいって、あの子に謝んべ」

 どんな事情があっても、ナオンにぶつかって無視する奴、ロックじゃないよ。

 後方から蹄の音が近づいてくる。逃げられないと判断したのか、少年は憎々しげに悪態を吐き、膣太郎のお腕をつかんで背後を取った。一瞬の出来事。なにが起きたのかわからないまま、首筋に冷たいものが押し当てられるのを感じた。

 フリアちゃんが青ざめたお顔で、なにかを叫んでる。膣太郎は自分が人質に取られたと知って、手足をジタバタ動かしたよ。だけど少年の威圧は凄まじく、か細いお腕が針金のように巻きついて解放してもらえんかったね。意識を取り戻した兵士さんたちが、遠巻きに隙をうかがってる。少年は腹立たしげに言った。

「余計なことをするな。この男が死んでもいいのか?」

「そりゃ困るなぁ」

 危険を察知した少年が、慌ててその場から飛び退いた。

 膣太郎は背中を突き飛ばされ、石畳をゴロゴロと転がった。お顔をあげると紫紺のお馬さんが見えた。たった今少年がいた空間に、巨大な剣が突き刺さってる。

「マルケス!」とフリアちゃんが安堵の声をあげた。

 赤い刺繍のマントをはためかせて、再びマルケスさんの剣が振りあげられる。尋常じゃない速度で乱舞が繰りだされ、大気を断ち、少年に襲いかかった。「薔薇の傷痕……部隊長か!」男の子はなんとか体勢を立て直し、奇声をあげながら猛攻をすり抜ける。だけど馬上の敵に翻弄されて、うまく間合いを保つことができない。

「そこまでだ、クソガキ」切っ先が少年の喉元に突きつけられた。

「教王庁直属の騎兵団に対する反抗は極刑に値する。覚悟はあるな?」

「ふん。権力者気取りか」少年は観念したように両手を挙げ、三白眼でマルケスさんを睨みつけた。「教王省は腐ったロバの骸だ。そこの女からも腐臭がするぞ」

「フリアちゃんをバカにすんなべぇ!」

「お前はなんだ? 奴隷か?」

 と膣太郎を一瞥して、不愉快そうに眉を寄せる。

「奴隷じゃないよ、ロックンローラーの膣太郎だよ。よろしくね」

「めでたい奴だ。疑問も持たずに生きるのがそんなに楽しいなら――」

 血の混じったツバを吐き捨て、少年は低く唸った。

「首輪に繋がれて野垂れ死ねばいい」

 なんだべそれ、なんだべそれ。

 簡単に死ねとか言っちゃ、ダメなんだよ。

 六人の兵士さんたちに取り囲まれて、今度こそ少年は捕らえられた。両腕に石の手錠をかけられ、有無を言わせずに連行されていく。カラスを思わせる風貌の牧師さんが遅れて到着し、団員たちに指示を出してた。この国ではポリースの代わりに修道会が治安維持の責任を担ってるんだって、フリアちゃんが教えてくれた。

「よう、チツタロ。元気にしてたか?」

 マルケスさんが人懐こい大声をあげて近づいてきた。今までの殺気が嘘みたいに鳴りを潜め、優しい表情に戻ってたよ。膣太郎、嬉しくなって飛び跳ねた。

「ブラザー! 助けてくれてありがとうべ」

「お前、ちゃんと寮生活できてるのか? 風呂入れよ、歯磨けよ、顔洗えよ」

 再会を喜ぶ膣太郎たちの間に、フリアちゃんが割って入った。

「ご苦労でした。怪我はありませんね」

「お、珍しいじゃねぇか。心配してくれるのか」

「あの少年のことです。手加減はしたのでしょう?」

「当たり前だろ」マルケスさんは兵士さんたちに視線をやって、長く重苦しいため息を吐いた。「ったく、騎兵団も質が落ちたもんだぜ。ガキ相手にこのザマたぁ」

「あの子、これからどうなっちゃうんだべ?」

「窃盗に加えて暴行および反逆罪。タンダルスの監獄に移送されるだろうな」

 どうやら、少年は露店から果物を盗んで追われてたらしい。あんなに必死だったのは、お腹がグーグーすいてたからなんだね。そう思うと、可哀想になってきた。

「あんまり乱暴しないでほしいべ。きっと、反省してんべな」

 私からもお願いします、とフリアちゃんが加勢した。

 マルケスさんは頷いて「査問官様の命令だと伝えとくぜ」と約束してくれたよ。

 去っていく騎兵団を見送ったあと、フリアちゃんがポツリとこぼした。

「……今の修道会は神の代理とは言えませんね」

 この国の治安は、数年間でひどく悪化したらしい。南方大飢饉と国家経済の停滞によって都市部は荒廃し、犯罪率は増加する一方。相対的に騎兵団の抑制力が凋落の一途を辿り、闇賭博や違法薬物もかつてないほどに横行してるんだって。そして経済衰退の主たる原因は、アルヴァランズ王国の圧政が広範囲に及ぼす影響だと、フリアちゃんは語った。

「誤解なさらないでください。中にはガーランド司祭のように、高潔な志を持った信徒も大勢おられます。ですが、アルヴァランズの悪政を黙認して和睦締結を推進する今の教王省に、民は反感を覚えているのです」

「なるほどべ……」

 真剣に頷いてたけど、ほとんど理解できんかった。

 膣太郎には、政治がわからん。だって出身高校の偏差値二十五だもん。元の世界では哺乳瓶をチューチュー吸って、ワオワオ腰を振って暮らしてきたよ。だけど、苦しんでる人たちに対しては、人一倍に敏感だった。

「私はこの国を変えたい。絶望の底にいる人々を救いたいのです」

 フリアちゃんが膣太郎の両手を握って、強く訴えかけた。

 柔らかいお肌に、ドキドキしちゃう。

「聖石の才覚がなくとも、私の確信は揺らぎません。貴殿こそ世界が待ち望んだ救世主です。どうか、その心臓を……私のために使っていただけますか?」

 ふたりの間を、一陣の風が吹き抜ける。

 答えは最初から決まってたよ。

 あの日――フリアちゃんが光を浴びて天使みたいに輝いた瞬間――膣太郎はこの子のために、なんでもするって決めたんだもん。フリアちゃんを笑顔にできるなら、命だって惜しくねぇべ。

 今はまだ、ロックンロールが鳴り響くことはないけど。

 いつか膣太郎が、この世界を音楽で満たしてやる。

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