第一章 王の道
そして、気がつくと膣太郎はそこにいた。
不愉快な耳鳴りが潮のように引いていく。たった今、なにかが終わったことを告げるみたいに。膣太郎はその場に横たわったまま、身じろぎすらできんかった。静けさに支配された時間の中で、小さく丸まったまま、小鹿みたいにプルプル震えてたわけ。おそるおそるまぶたを開けると、驚くほど鮮やかな群青が広がってた。その瞬間――意識の波がどっと押しよせた。透きとおる風の匂いや、頬をなでる草の優しさが五感を包みこむ。口蓋に舌で触れると鉄の味がじわりと滲んだ。ゆるやかに体の震えがおさまると、さざ波のような鈍痛が全身を揺さぶった。温かなものが鼻孔からしたたり落ちた。滴は頬を伝い、耳たぶをぬるりと濡らした。
少し離れたところに視線をやる。霞のむこうに人影が見えた。
きっと、お母さんだべ。
膣太郎の帰りが遅いから、心配して見にきたんだべ。
ガクガクと震える手で地面を押して、ゆっくりと体を起こした。
もう大丈夫。膣太郎、ちゃんと一人で起きあがれるよ。
お母さんが泣いてる顔なんて、見たくないもん。
だから、心配しないでほしいべ。
人影は膣太郎のそばまで来ると、ふいに立ちどまった。
それは知らない顔――十七かそこらの、あどけなさを残したナオンの顔だった。つぶらな瞳は緑碧玉の深みを宿し、繊細な顔立ちは仏蘭西人形を思わせる。ナオンは絹のような銀髪を風になびかせ、植物の紋章が織りこまれた外套を羽織ってたね。細い首にかけられた装身具が、お目めにとまった。黄金の鎖が取りつけられた立体構造の円錐で、中心に大きな水晶玉がはめこまれてるの。球体の奥で鮮やかな煙が渦巻いて、石自体が脈打ってるみたいだったよ。
(キレイだべなぁ……)
膣太郎がピカピカ光る水晶に見とれてると、ナオンはそれを頭上に持ちあげた。
その所作に呼応するように、木々のざわめきがピタリとやんだ。冷気があたり一帯を包みこんで、太陽が消えうせたみたいに闇が濃くなった。銀の蛾の群れが一斉に舞い、ぽうっと円錐の輪郭が浮かびあがる。膣太郎の意識に、直接なにかが触れようとしているのを感じた。ほんの五秒くらいの出来事だったけど、水晶を通して断片的な記憶が蘇った。ビニコンに行くためにお家を出たこと。路上で中学生の集団にカツアゲされたこと。殴られて、むりやりお洋服を脱がされたこと。不良から逃げようとして、車道に飛びだしたこと……記憶はそこでプツリと途切た。
額とこめかみの熱が引くにつれて、周囲に明かりが戻ってきた。膣太郎、まだ心臓がドキドキしてたけど不思議と恐怖は感じんかったね。あまりにも現実離れした体験のせいかもしれん。
ふと、呼吸が楽になったのに気がついた。寒気も感じないし鼻血もとまってる。
凝然と膣太郎を見つめたまま、ナオンがお口を開いた。
「言葉はわかりますか?」
外人さんに流暢な日本語で話しかけられて、ビックリしちゃった。ひょっとしてハーフなのかな。膣太郎、アメリカ語は苦手だからちょっぴり安心ってわけ。
「貴殿のご到着を心よりお待ちしておりました。私、召喚儀式を執行いたしました聖バブリオ修道会の異界査問官フリア・メーベレフェンと申します」
「わぁ、ロックンローラーの膣太郎だよ。よろしくね」
ペコリと頭をさげて、ご挨拶。
よくわからんけど、フリアって名乗ったナオンはなんとか会のなんとか官らしい。膣太郎、きっと知らないうちに教会の敷地に入りこんじゃったんだね。見渡せば周囲の山々は深緑に満ちて険しく、同じ町内とは思えんかった。
「膣太郎、道に迷っちゃったの。お家に帰るから、交番まで案内してほしいな」
「それはなりません」と、無下に断られた。
「どうしてダメなんだべ」
「貴殿は修道会の厳重統制下にあります。今後は我々査問官の認可なしに一切の権限を行使することは許されません。とはいえ、異界者には当界に関して説明を受ける権利が認められています。貴殿が現在置かれた状況を認識し、順応できるように手助けするのが査問官の役割でもあるのです」
なにを言ってるのか、よくわからん。
要するに勝手に帰るなってこと? なんで?
「案内がダメなら道順だけでも教えてほしいべ」お願いしたけど、
「申しあげておきますが、ここは貴殿の知る世界ではありません」言葉を切って、フリアちゃんは慎重にあとを続けた。「アルファヴィル。それが当地、オスタニア北東に位置する共和制国家の名です。いずれ教会にて司祭の拝謁を賜る際、詳しい説明がなされるでしょう」
「え? なに? アルファルファ?」
「ひとまず我々の宿営地にお越しください」
混乱する膣太郎を尻目に、フリアちゃんは背後に茂った森のほうを指さした。深々と入り組んだ樹林の彼方に、一筋の煙が見える。膣太郎たちがいる場所から、そう遠くない距離だった。
「私が先導いたしますので、貴殿はあとに続いてください」
まだ梅雨が明けたばかりなのに、やけに大気が肌寒かった。頭上の雲は四方にちぎれ、乾いた群青を覆いつくそうとしてた。お日様を背に受けて、クネクネと細長い影が旋回してる。鳥さんかな? それともヘリコプターかな? 影は羽音を立てて遠ざかり、やがて峰の縁へと消えていった。
膣太郎たちは鬱蒼とした森に足を踏みいれて、無言で奥へ進んだわけ。
林の下生えを通るたび、突きだした小枝や鋭利な青葉がチクチクと体に刺さる。膣太郎はほとんど半裸だったから――不良に脱がされたお洋服はどこかに捨てられたらしい――あちこちに擦り傷ができちゃった。お靴も履いてないから、ぬかるんだ泥土に裸足をすくわれることもしばしばあった。
ときどき、フリアちゃんはヨタヨタと歩く膣太郎を振り返った。
瞳に戸惑いを浮かべて、なにかを探るようにジッとお顔を見つめてくるの。
「どうしたんだべ?」膣太郎がたずねると、
「気になっていたことがあるのですが」フリアちゃんが言い淀んだ。
「ずいぶんと……風変わりな装いをしておられますね」
「ブラザーは膣太郎の見た目が気になるわけ?」
「ええ。我々が知る異界の文化様式には存在しないものです」と言って、膣太郎の半裸をまじまじと観察する。あんまり見られると照れちゃうね。
自慢じゃないけど膣太郎、体格だけは一人前。筋骨隆々の大柄な肉体で、腹筋がバキバキに割れてるわけ。ふくらはぎの筋肉も競輪選手みたいに盛りあがってる。カッコいいね? だけど、お顔はクマさんの赤ちゃんにそっくり。まん丸お目めに大きなお耳。寒がり屋さんだから、いつもお母さんが編んでくれた白いマッフラーを巻いてるんだよ。
「それは……なんという装束ですか?」
フリアちゃんが膣太郎の下半身をさしてたずねた。
「紙オムツだよ」
「不躾な質問ですが、どういった身分の方が着用されるのでしょうか」
「赤ちゃんが履くんだよ。常識じゃん」
「貴殿は成人とお見受けしますが、ご年齢を伺っても?」
「今年で三十一歳だよ」
「ええ……」
頭が混乱してるのか、フリアちゃんは眉根を寄せて黙りこんじゃった。
「膣太郎はさ、まだオムツが取れてないの。赤ちゃんのころ、おトイレのトレーニングに失敗したわけ。小学校に入ってからも、毎日オシッコ垂らし放題だったよ。お父さんが居間にペット用のおトイレシートを敷いてくれたけど、やっぱりダメだった。お出かけするたびに、我慢できなくて人前で漏らしちゃうの。恥ずかしい経験もいっぱいしたね。物心ついたころから、ずっと虐められてた。それで膣太郎、オムツを履いて生きていくってバッキリ決めたんだよ」仁王立ちになってニッコリと笑顔を浮かべた。「オムツは膣太郎の誇りなんだべ」
「貴殿は心身の発育に遅滞があるのですか?」
回りくどい言葉でディスられた。ちょっぴりSHOKってわけ。
「違うべ。膣太郎はロックなんだべ!」
「岩は関係ありませんよ」と、フリアちゃんがはじめて笑った。
「え? なんのこと?」
「岩をご存じではないのですか」
フリアちゃんは憮然とした表情で前方の大きな岩石を指さした。
むき出しになった地面から巨人の拳が突きだすように、圧倒的質感を持った塊が鎮座してる。近寄ってみると膣太郎の背丈よりずっとずっと大きくて、周囲には草木も生えちょらんかった。
「これは十五年前に大陸を襲った厄災の痕跡です」とフリアちゃんが説明した。「被害の甚大な地域では、数十倍の噴石が観測されたと伝えられています」
「厄災ってなんだべ……」
「アルヴァランズ王国の秘術師グリムファンドが引き起こした大量殺戮です。彼は寡頭体制への武力革命を計略し、崇拝者たちによるテロ行為や政治的動乱が各地で頻発しました。王国と和睦協定を結んでいた当地においても、数十万人に及ぶ民衆が虐殺されたのです」
膣太郎、フリアちゃんのお話を聞きながら適当に頷いてた。言ってることはなに一つ理解できんかったけど、真剣なお顔で「なるほどべ」とか「ロックだべなぁ」とかブツブツ言ってた。
するとフリアちゃんは岩肌にお手てを置いて、
「いいですか、これがロック。岩です」
幼児に言い聞かせるみたいに「い、わ」と繰り返した。
膣太郎、それくらい知ってるもん。馬鹿にすんじゃないよって感じ。
*
森を抜けて宿営地に到着したころには、陽が傾きはじめてた。
長々と続く木柵に囲まれた土地には石造建築の小屋が立ち並んで、ちょっとした村の様相を呈してたね。山岳地帯から平野へと流れこむ小川が宿営地を東西に縦断して、二つの半円を組み合わせた地形になってるらしい。俯瞰すると、円形の直径と重なるように大通りが貫いてるんだって。膣太郎たちは南側の主門から中に入ったわけ。道の両側を挟むように修道士さんの営舎が点在してて、奥には古びた教会が建ってたよ。教会の右手に見える建物は衛兵所っていうの? 周辺には穀物倉庫や公衆便所、それに地元の人たちと物品を売買するための交易所が並んでた。左手に広がるなだらかな斜面では、薄紅色の服を着た人がお馬さんにご飯をあげてた。膣太郎、モノホンのお馬さんが見られるとは思わなかったから、感動しちゃった。ハハ。行きかう修道士さんたちは黒いローブに身を潜めて、誰もが陰気にうつむいてたよ。小川にかかった石橋の北側についても説明されたけど、兵舎とか言ってて意味がわからんかった。「交番はどこにあんだべ?」たずねると、フリアちゃんはちょっぴり悲しそうに「ここにはありません」とだけ答えた。
膣太郎はフリアちゃんに案内されて、司教さんと会うことになったわけ。儀式の成果を報告して、祝福を受けるためらしい。膣太郎はそういうの興味なかったんだけど、電話を貸してもらえたらお母さんが迎えにきてくれるかもしれん。
教会に向かう途中、修道士さんとは思えない中年男性とすれ違った。
荒くれ男っていうの? 赤らんだお顔にたっぷり髭をたくわえて、野暮ったい麻のボロ布を身につけてる。首には安っぽいネックレスをぶら下げてたね。その人はオムツ一枚の膣太郎を見た途端、口元を歪ませて汚い言葉を浴びせてきた。
「嬢ちゃん、白痴なんざ連れ歩いてご満悦だなァ」
「黙りなさい」
フリアちゃんが一喝すると、男性は嘲笑を唇に浮かべて膣太郎を睨め回した。「とんだ間抜け面だ。まるで腐ったロバじゃねぇか」と言って、地面にツバを吐き捨てる。男性が「メグドめ」と呟いた瞬間、フリアちゃんが大声をあげた。
「バージェス! 立ち去らなければ審問会議に引ったてますよ」
膣太郎はアメリカ語が苦手だから意味が理解できんかったけど、きっとひどい言葉なんだね。男性が歩き去るとフリアちゃんは手の甲でお口を覆って謝罪した。
「申し訳ございません。あの者は極貧層の生まれで、礼儀を知らないのです」
「膣太郎、平気だよ。悪口には慣れてるからね」
ホントのことだった。
さっきも言ったけど、膣太郎は物心ついたころから虐められてたの。
そんなとき、神様は助けてくれんかったけど、ロックが膣太郎を守ってくれたんだよね。どんなに悲しいことがあっても、お耳をふさげば大好きなミュージシャンのお歌が聴こえてきたわけ。お目めを閉じれば武道館のスポットライトを浴びて、ギターをかき鳴らすこともできた。世界中が膣太郎を嫌っても、ロックンロールだけはいつも味方だった。ロックがあれば、膣太郎は無敵なんだよ。
だから膣太郎、なにを言われてもへっちゃらだい。
「お心遣いに感謝いたします」
恐縮するように、フリアちゃんが視線を落とした。
「元来、修道会直属の神聖騎兵団は高邁な救世精神で民の尊敬を集めていたのです。しかし、近年では南方大飢饉の惨事を受けて反強兵派が勢力を増し、騎兵団とは名ばかりの雑兵集団になり下がってしまいました。嘆かわしいことです」
それから赤い屋根の建物――ここは首都から派遣された執政官っていう人の宿舎らしい。膣太郎は地理が苦手なんだけど、日本の首都は知ってるよ。これ東京ね。あと北海道県と大阪県と京都県と山下県も知ってる。膣太郎、意外と物知りだね?――を通りすぎて、目抜き通りと教会が交わる十字路にさしかかった。そのとき、今度は反対側から近づいてくる男性に呼びとめられたわけ。
その人は燃えるような赤髪を逆立てて、紫のお馬さんにまたがってたよ。琥珀色のお目めに、鋭い鼻筋。全身から漂う野性味は虎や若駒を思わせた。あと、中学のころ膣太郎を虐めてたサッカー部の杉山くんにちょっと似てた。さっきのおじさんと同じようなネックレスをぶら下げて、肩に赤い刺繍のマントを羽織ってる。首元には薔薇みたいな形の傷痕が見えたよ。
「よう、フリア。そいつが例のアレか?」
「慎みなさいマルケス。我々の救世主となるお方です」
注意しながらも、フリアちゃんの声色には怒気が感じられない。
膣太郎を横目で見て「彼は騎兵団長のドーミエ・マルケスです」と紹介した。
「どうも、膣太郎です」
マルケスさんは膣太郎を注視して「これが救世主ねぇ。そうは見えねぇけどな」とカラカラ笑った。「黒死病にかかった年寄りのほうが役に立ちそうだぜ」
「失敬ですよ」お口を尖らせるフリアちゃんは、ちょっぴり子供っぽい。
「私は、このお方こそ聖珠を導きし者と信じています」
「枯れ木も祈れば石になる、ってやつかね」
マルケスさんは懐疑的に呟いた。
「つーか、なんで半裸? 追い剥ぎにでもあったのか?」
「膣太郎ね、中学生にカツアゲされちゃったわけ」
「中学……?」と首をひねるマルケスさんに、フリアちゃんが助け船を出した。「中等教育学校。満十三歳から十五歳の児童を対象とした、ニフォン国と呼ばれる異界の教育機関です。修道養育院に相当すると、前に教えたでしょう」
「んなもん、いちいち覚えてねぇよ」
膣太郎、二人の会話を聞いてビックリしちゃった。マルケスさんは中学に行ってないんだね。小卒? まだ二十歳そこそこなのに、義務教育も受けないで働いてるわけ。立派じゃん。三十一歳で無職の膣太郎とは大違いだべ。
「ってことは、なにか? ガキ相手にやられたのか?」
「そうだよ。膣太郎はロックだから、暴力はNGなんだよ」
「情けねぇ!」マルケスさんはため息をついた。
「フリア、どうやらお前の見込み違いだぜ。儀式は失敗、とんだ欠陥品だ」
ひどい言われようだね? 膣太郎、またまたSHOKってわけ。
「こいつに聖珠は扱えねぇよ。なんなら、銀貨十枚を賭けてもいいぜ」
「……心さえ清らかであれば、問題ありません」
「まぁ、好きにすりゃいいさ」
それだけ言い残すと、マルケスさんは去っていったよ。
膣太郎、フリアちゃんに「聖珠ってなんだべ」訊こうと思ったけど、声をかけられんかった。だって、すごく悲しそうなお顔をしてたから。フリアちゃんは小さな唇を噛みしめながら、前方にそびえる灰色の尖塔を黙って見つめてた。
*
石扉を押し開けてお堂に入ると、中は想像以上に薄暗かった。
膣太郎は教会に来たことがなかったから、奇妙な内装に圧倒されちゃった。外から見ると直方体の建物なのに、内部の壁が微妙に湾曲して楕円形になってたわけ。木張りの床は不均等な赤と緑で彩色されて、薔薇園の迷路を思わせたよ。電灯も蝋燭も見当たらない室内では、壁と天井にはめこまれた無数の鉱石が、水晶を使ったペグ・ソリティアみたいに幾何学的な凹凸を作ってた。この鉱石がとっても不思議でね。土ボタルみたいに青白く発光して、照明の代わりを果たしてるらしい。壁面に埋めこまれた球体の一つを指でなぞると、穏やかな熱が伝わってきた。
教会堂の床は劇場みたいに傾斜して、奥に進むほど低くなってた。楕円の先端に内陣が設けられてて、幅広く並んだ石製の信徒席では、憂鬱そうな男性や年老いたナオンたちが無人の説教台を眺めてた。そばの柱には、会衆に対して物静かに語りかけるように碑銘彫刻が飾られてたよ。両目を失ったおじいさんが、ひざまずいて両手で地面に触れてる像。台座に彫られた文字は見たこともない言語だったけど、ぼんやり眺めてるうちに、不思議と意味がわかった気がした。
『聖アルバレスの献身と守護を讃え、石碑を刻みてここに建立す。
炎の誘惑を退けし三賢人 オルビス、アルバレス、クレモニウス』
膣太郎とフリアちゃんは前方に席をとって、司教さん待つことにした。
しばらく経って膣太郎があんよをブラブラしはじめたころ、右奥の扉から顔色の悪いおじさんが現れた。会衆の視線が一斉に向けられる。おじさんは物静かに説教壇へとのぼって、堂を制するように手を挙げた。ひどく痩せた長身と枯れ枝のような四肢。大きな鉤鼻に、金縁の片眼鏡をかけてたよ。深いしわの刻まれたお顔は、絵本に出てくる魔法使いみたいだった。
「ガーランド司教です」と、フリアちゃんが言った。
司教さんは彫像と同じポーズで体を屈めて、両手を地につけた。それからお目めを閉じて祈りを捧げると、堂内の人たちも似たような姿勢であとに続いた。誰もが敬虔さを誇示するように、深く頭を垂れたまま微動だにしない。フリアちゃんに促されて膣太郎もお祈りした。短い沈黙のあと、司教さんは聖書(変な感じだけど、表紙が石でできてるみたいにツルツルしてるの)を開いて、会衆に語りかけた。
それは、こんなお話だった。
「親愛なる大地の子らよ。砂の泡より生まれし人々よ。『創地書』一章五節には『混沌より大いなる石巌は解き放たれたり』とあります。我らの父は天でなく、原初に陸を創られました。砂塵より最初の人を創られたとき、脚を頭に先立たせました。人間は生まれながらに地を踏みしめ、成長につれ神性から引き剥がされる命運を負っているのです。この大地は――」そう言って説教台の横に立つと、司教さんは再び地面に手のひらをついた。「――神の永住地です。我らが恩恵を享受する御石とて主の依代に他なりません。なぜ人は楽園を離れ、罪を犯すのでしょうか? まず罪とはなにか? ここに興味深い逸話があります。『ロラン伝』を思い出してください。我らの祖先、ロランという鉱夫の苦難が記されています。これは人間の行いを戒める訓話ですが、同時に大地神聖の永遠を意味しています。ヨラムの息子ロランは唯物論者であり、地への敬いを持つことがありませんでした。彼は水と炎による採掘を生業としていましたが、あるとき馬代のために岩石の裂罅より余分に鉱物を掘りだしたのです。その晩、神は銀の蝶に姿を変えてロランの前に現れました。一章二十五節を読みあげます……神は言い給うた。我が血肉は硬貨にあらず。奪う者より奪い、与うる者に与うるべし……肝心なのはここです。ロランの罪は盗掘自体ではありません。神物たる鉱石を人間的価値で推し量り、一頭の馬代としたことなのです。ロランが大地から奪ったものは自然物の神性でした。彼は神の啓示を理解せず、そのためにひどい病に侵されました。身体が大理石のごとく硬化し、やがて一躯の像に成り果てたという不治の病です。この奇病は高慢のアレゴリーとも解釈できますね。ロランは高慢の代償として人間性を地に帰したのです。ああ、愚かなロランの末裔たち! 炎を操り、神の御業を解き明かしたと慢心する者たちよ! 彼らは国家を荒廃させ、大地を穢しています。南方飢饉や邪教復古が市井の人心を惑わせていることは否定できません。ですが、人間とは本質的に高慢であるがゆえに罪深いのです。我らが罪を逃れる道は、自覚と信仰より他にありません。地にまします我らの父よ、願わくは慈悲を与え給わんことを……」
司教さんは息も荒く、地面に伏せて身動きしなくなった。会衆の中には涙を流す人もいたよ。膣太郎、お説教の意味はわからんかったけど、ロックを感じたね。
堂から人がいなくなったあと、フリアちゃんは膣太郎を連れて司教さんのそばに近づいたわけ。「ガーランド司教」声をかけると、説教壇の上からやつれたお顔が現れた。こうして見たら、膣太郎のお父さんと変わらない年頃だべ。
「おお、フリアですか。儀式の首尾はどうでした」
「問題ありません」そう言って、膣太郎を内陣の前に立たせる。
「すると、そちらの方が?」
「ヤッホー! 膣太郎だべー!」
膣太郎、ワオワオ腰を振りながら司教さんにご挨拶したよ。司教さんはうっすらと笑顔を浮かべたまま、なんとも言えない表情で硬直してた。壇上から静寂を誘うように、ゴクリとつばを飲む音が聞こえた。
「失礼を……いささか面食らってしまいました」司教さんはお手ての甲でお口を隠しながら、説教壇からおりてきた。それから膣太郎の正面に向き直って、うやうやしく言った。「聖バブリオ修道会より派遣されたパドック・ガーランドです。異界よりのご到着、心から歓迎いたします」
さっきまで白痴とか欠陥品とかボロクソに罵倒されてたから、普通に接してもらえて泣きそうになっちゃった。「ありがとござますべ」と頭をさげる。
「膣太郎、お家に帰りたいんですべ。きっとお母さんが心配してるからね。教会の電話を使わせてくれたら、すぐに出ていくよ」
「お気の毒ですが、それは不可能です」
ガーランドさんは申し訳なさそうに首を振った。見かけによらずケチだね?
「じゃあスマーホ貸してよ。お母さんに電話して迎えにきてもらうもん」
「スマーホとはなんのことでしょう」
「スマートンフォンのことだよ」
「スマートンフォンとはなんのことでしょう」
「スマートなフォンのことだよ」
「スマートなフォンとは――いえ、結構」困ったような目つきでガーランドさんはたずねた。「ひょっとすると、査問官からなにも聞かされていないのですか」
フリアちゃんは反論しかけて、ぐっと言葉を呑みこんだ様子だった。
ガーランドさんは得心したようにうなずくと、左の扉に向かって歩きはじめた。「それでは司教室でお話いたしましょう」膣太郎、ぶっちゃけ早く帰ってエロサイトが見たかったよ。ベッドに転がって、哺乳瓶で温かいミルークが飲みたかった。なんで初対面のおっさんとお話しなくちゃいけないんだ、って感じ。
そんな膣太郎の気持ちを見透かしたように、ガーランドさんが振り返った。
「ところで……なぜあなたは半裸なのですか?」
司教室のある別館は、教会堂から一本の廊下で繋がれてた。
通路の窓から見える菜園には青葉が茂り、小鳥さんが熟れた実をついばんでた。敷地の向こうを流れる小川に夕焼けの紫が反射してる。石橋を行きかう人びとの背中に、教会の尖塔が影を落としてたね。廊下の隅には、もぐらさんやネズミさんのお人形がいくつも置かれてたわけ。両側の壁は教会堂と同じように、小さな球体で一面が覆われてたよ。
「これらは聖珠と呼ばれる神の御石です」
不思議そうに壁面を眺めてたら、フリアちゃんが説明してくれた。「鉱物中の微細粒子が生体電流に反応し、自然発光しているのです。それだけではありません。聖珠には炎を起こし、風を操り、他者の精神にさえ影響を及ぼす恩恵があると知られています。我々の社会では、この聖珠が文明の中心的機能を担っているのです」
最後まで説明を聞いてたけど、膣太郎、信じなかった。
だって、そんなのテレビで見たことないもん。
テレビで報道されないことは、みんな嘘っぱちだい。
ガーランドさんに通されたお部屋は暖かくて、教会堂みたいな寒々しさは感じなかった。隅っこには小さな書き物机と木製のベッドが置いてあったよ。壁には両目のないおじいさんの絵が何枚も掛かってたね。奥に据えつけられた本棚には『多重実体論』や『変位相世界の観照』、『キャンドラ鉱石の採掘と神聖学的応用』、『神秘術』、それから全四十二巻におよぶ『異界百科大全』といった分厚い装丁の専門書がずらりと並んでた。どれも背表紙が貴金属みたいにピカピカ光って、眺めてるだけでも楽しかったべ。
「わぁ、それはなに? ひょっとしてWARLD MAP?」
机に広げられた一枚の地図を見て、膣太郎はワオワオ腰を振りはじめた。
そこには四つの大陸が描かれてたわけ。
ガーランドさんはその左端、扇形をした大陸の南半分を指で囲んで「ここが現在地のオスタニア地方ですよ」と言った。「オスタニア連合は複数国家で構成された――ちょうど異界におけるEUのような地域統合体ですな」
EUってなんだべ……
「オスタニアの諸国関係には少数国家による支配的構造が見られ、北東に位置するアルファヴィル、北西のベルタヴィル、南一帯のガスタニアがその中核を成しているのです。これらは連合における面積の八割を占め、ゲルテ三国と呼ばれます」
「へぇ……」全くわからんかった。
膣太郎はさ、難しいお話が苦手なんだよね。お勉強だって、大キラい。小中高と成績はずっとオール1だったし、まだ九九も覚えてないわけ。アナログ時計も読めないし、日本の大統領が誰かも知らんべ。一応大学には入ったけど、偏差値三十のド底辺クソFランだった。それも八年まで留年して、退学になっちゃったの。学費全額ドブに捨てたようなもんよ。笑っちゃうね? ハハ。笑うな。
説明を聞き終えたあと「日本はどこにあんだべ?」たずねると、ガーランドさんはちょっぴり悲しそうに「この世界にはありません」とだけ答えた。
「司教、実際にご覧いただくのがよろしいかと」
部屋の後ろで保護者参観みたいに会話を見守ってたフリアちゃんが言った。手招きされるがまま、大きな窓に近づく。植物のシンボルが刺繍された真紅のカーテンを開けると、お外はすでに真っ暗だった。
「天体の違いが、おわかりになるでしょうか」
膣太郎はお空を見上げて愕然とした。
なんだべこれ、なんだべこれ。
お月様が真っ赤だべ!
遥かな峰の上空には、夜の帳を塗りつぶす真紅の満月が浮かんでた。どこまでも巨大な、意思を持った宝石のように地上へと神々しい光を投げかけてた。それだけじゃないよ。漆黒の天蓋に散らばる星々は、どれも異様に迫って見えたね。お空は深青や桜色の輝きに満たされて、ステンドグラスの様相を呈してた。お月様のそばには檸檬によく似た惑星が、従者のように寄り添ってる。少し離れたところでは、萌黄と紫の衛星が明滅を繰り返してる。満面に広がる天体の舞台が、ダイヤモンドの光で満たされてたんだよ。
こんなの、今まで見たことねぇべ。
こんなの、膣太郎は知らねぇべ。
否定してほしいと願いながら、フリアちゃんを振り返った。
「膣太郎、違う世界に来ちゃったってこと?」
「端的に申しあげれば、そういうことになりますね」やっと理解してくれたかと、安堵するような表情だった。「ですから、はじめに申しあげたではありませんか。ここは貴殿の知る世界ではない、と」
そのとき――頭の中で、なにかが切れたね。
「イヤだべぇぇぇぇ!!!!」
あらんかぎりの大声をあげて、床にゴロリと寝転んだ。フリアちゃんたちが狼狽するのも構わず、手足を振り回したよ。何度も床を踏み叩き、机に激しく頭をぶつけた。腕が石製のランプを弾き飛ばして、大きな音で壁に跳ねかえった。
膣太郎、二度とお家に帰れないんだべ。
死ぬまでお母さんに会えないんだべ。
そんなふうに考えると、頭の中がグチャグチャになって涙がとまらんかった。
怯えた表情のガーランドさんが壁際に後ずさって、必死の声色で訴えた。
「落ち着くのです! 神はあなたを見放しません!」
そんなこと、知るもんか。
膣太郎はお顔をくしゃくしゃに歪ませて、声が枯れるまで叫び続けた。
「母ちゃんに会いたいべぇぇぇぇ!! 母ちゃああああん!!」
しばらくして、絶叫を聞きつけた修道士さんたちが顔面蒼白で司教室に駆けこんできた。誰もが膣太郎の狂態に物怖じしてる様子だったよ。
すると突然、我を取り戻したフリアちゃんが装身具を構えて唱えた。
「静謐を求めよ!」
次の瞬間、全身から力が抜けていくのを感じた。
なにが起こったのか理解できんかった。指を動かすことも困難なほど身体がダルくて、膣太郎は床の上でぐったりと倒れちゃったの。その隙に、周囲を取り囲んだ男たちに手足を取り押さえられたわけ。
「ガーランド司教!」背後からフリアちゃんの声が聞こえた。
「お怪我はありませんでしたか?」
「ええ、大丈夫です」そう言いながら、ガーランドさんの声はどこか上ずってる。「ですが、今度の客人には深く失望しました。まさかこれほどまでに野蛮とは……フリア。お前もそうは思いませんか」
ガヤガヤと慌ただしい足音にかき消されて、そのあとはよく聞き取れんかった。膣太郎は水揚げされたマグロみたいに足を引きずられて、お外に連れだされたよ。背後で石扉が閉まると、一切の光が断ち切られた。
球体の放つ青白い明かりが、足元の像を照らしてる。
そこは、宇宙のどこよりも孤独だった。
*
膣太郎は年若い修道士さんに両脇を抱えられたまま、居室の一つに連れて行かれたわけ。しばらくすると、まだ幼い男の子がお水を運んできてくれたよ。もらったお水を一口飲むと、ハーブの香りが胸を落ち着かせた。膣太郎にあてがわれたお部屋は巡礼者室と中庭の間、敷地の南側に位置してた。
あれから何時間泣き続けたのか、はっきり覚えちょらん。
気がつくと倦怠感は消えて、自由に身体を動かせるようになってたね。膣太郎はのそのそベッドから起きあがると、なにをするわけでもなくぼんやりと天井を見て過ごした。お部屋を訪ねてくる人は誰もおらん。お腹がグーグー鳴って、ちょっぴり心細かい。あんなふうに大騒ぎしちゃったから、フリアちゃんもガーランドさんも膣太郎を無視してるのかもしれん。教会の中には見張りの修道士さんたちが多勢いて、廊下を通りかかるたびにヒソヒソなにかを囁きあってるみたいだった。
すっかり空が白みはじめたころ、誰かがドアをノックした。
「はいべ」と返事してドアを開けると、通路にマルケスさんが立ってたわけ。
「おい、そろそろ時間だぞ。さっさと表に出ろよ」
マルケスさんは不機嫌そうに言って、膣太郎のお手てを引っ張った。
「膣太郎をどこに連れて行く気だべ……」
「風呂に決まってんだろ。あっちにも入浴の習慣くらいあるだろうが」
教会の敷地を出て宿営地の通りを歩く。まだ夜が明けはじめたばかりなのに、活動をはじめてる人たちが多勢いたよ。相変らず陰気な修道士さんや、人相の悪い大男たち。後者はフリアちゃんが言ってた騎兵団員に違いなさそうだった。そういえば、あのバージェスとかいう意地悪なおじさんと同じボロ切れを身にまとってる。
「お前、面白いことやらかしたそうだな」
前方を歩いてたマルケスさんが楽しげに言った。
「ガーランド様なんざ、脅えて司教室に引きこもってるそうだ。ご高説垂れ流すときは聖職者面してるけど、いざとなりゃ我が身が大事なんだよ。いずれ来たる神災から民を救う? こんなロバ一匹にビビってるくせに、馬鹿言ってんじゃねぇ」
「ロバじゃないよ。膣太郎だよ」
「こっちの世界じゃマヌケをそう呼ぶんだ。あんまり気にすんな」
要するにただの悪口じゃん。知りたくなかったべ。
「フリアちゃんはどうしてるわけ?」
膣太郎がたずねると、マルケスさんは鼻で笑った。
「なんだよ、気になるのか」
「当たり前じゃん。膣太郎はフリアちゃんが好きだもん」
「率直な奴だ」と、呆れたようにため息をつく。「あいつ、落ちこんでるぜ。今回の儀式に人生賭けてたようなもんだからな」
きっと、膣太郎がみっともないところを見せたせいだべ。三十一歳にもなって、床に寝転んでダダこねたから、フリアちゃんを悲しませちゃった。そう考えると、お胸がズキズキ痛んだよ。
「ブラザー、もう一つ教えてほしいべ」
「俺は兄弟じゃねぇ。なんだ?」
「どうしてフリアちゃんは膣太郎を呼び出したのかな」
突差に“呼び出した”なんて言い方をしたけど、実感は湧かん。
「調査のためだ。知らなかったのか?」
マルケスさんは歩みをとめて、近くの柵に寄りかかった。
「そうだな……俺たち現界の人間は、長いこと異界を研究してきたのさ。なんとかって哲学者がいた二〇〇〇年も前から、鉱石の秘術とやらで異なる宇宙を観察してきたらしい。科学っていうのか? お前らが雷や火を使って、いろんな技術を生みだしたのも知ってる。こっちじゃ自然法則が違うとかで発展しなかったけどな」
つまりだ、と言って膣太郎のほうに身を乗りだした。
「微妙にズレてるんだよ。いろんなことが」
「どういうことだべ」
「例えば、お前らの世界にはナザレのイエスって救世主がいたよな?」
そんなこと訊かれても、よくわからん。
膣太郎にとっての救世主はロックだからね。ハハ。
「俺たちの世界じゃ、預言者はアルバレスって爺さん一人だ。だからジュージ架も存在しないし、天に祈ったりもしない。宗教の分岐が原因で歴史に差異が生まれたわけだよ。まぁ、そもそも大陸の形が違うんだから別世界かもしれねぇけど」
もし元々が同じ世界だとしたら、お月様が赤いのはなんで?
疑問に思ったけど、面倒くさいから訊かんかった。
どうせ説明されても理解できねぇべな。
「そんなわけで、修道会は異界の人間を召喚して文化的な違いを調査しようと考えてるのさ。教王省のお偉方は異界の知識を治世に活かそうって魂胆だ。なにしろ、お前たちの世界は平和だからな。それに比べて、こっちは饑饉に内紛、テロリズムに権力闘争……腐りきった連中が音頭を取ってるせいで悲惨だぜ」
「膣太郎がいた世界も、あんまり変わらんべ」
「そうなのか?」
「黒人は奴隷にされて、マンコグローブも伐採されて、世界中で核戦争が起きてるわけ。毎日何億万人も死んでる。それに、人間は環境を壊して多摩ニュータウンを作ったね。そのせいでたくさんの動物たちが住処をなくしたんだべ。これマジよ? 膣太郎、テレビで観たもん」
「なんだそりゃ……世も末じゃねぇか……」
「膣太郎のお父さんなんか、毎朝ニュースを観て怒ってるよ」
特に無職が事件を起こしたりすると、いつも膣太郎にお説教するの。三十一にもなって実家でゴロゴロしてないで就職しろって、一晩中ネチネチ言われる。
「だから、膣太郎の世界も平和じゃねぇべ」
「まぁ……異界に幻想を抱いてる奴が多いってことか」
マルケスさんが複雑な表情で呟いた。「フリアもその一人だな」
「ブラザーは物知りだべなぁ。大学八年通った膣太郎より、よっぽど偉いじゃん」
「ガキのころに修道養育院で聞いた話だ」
膣太郎たちは柵から離れると、またゆっくりと歩きはじめた。
「親切にいろいろ教えてくれて本当に助かんべ」
「俺はお前に期待してるんだぜ。今までの連中と違うからな」
マルケスさんはそう言って、宿営地の外れにある石造りの小屋を指さした。
「ほら、着いたぞ」
公衆浴場は宿営地の西端、小川沿いの平地にポツンと建ってたわけ。想像してたお風呂屋さんとは違って、内部は壁で仕切られた浴室がいくつも連なってた。室内の床には五角形の石板が敷きつめてあったの。中央に大きな木製の浴槽が置かれてて、天井から周りを囲むようにテントが吊られてる。入浴するときはお外から覗けないようになってるらしい。石棚には剣山みたいな形の櫛や、奇妙な形の瓶が備えつけられてた。浴室の入口には『聖職者の湯浴を禁ず』『乱交および売春を禁ず』といった、注意書きの石碑が掲示してあったよ。
膣太郎、オムツに両手をかけたまま浴室で固まっちゃった。
困ったべ。どうしようべ。
ボーっと突っ立ってる膣太郎に、マルケスさんが声をかけた。
「なにやってんだよ。ここで見張ってるから早く入れ」
「……お風呂に一人で入れねぇんだべ」
「誘ってんのか? 悪いけど男色の気はねぇぞ」
「違うべ。膣太郎、いつもお風呂はお母さんに入れてもらうの。お洋服を着るのもご飯を食べるのも、みんなお母さんに手伝ってもらうわけ。だから、どうやってお風呂に入ればいいのか、わからないんだべ」
「は?」マルケスさんはお顔を歪ませた。「お前、本当になにもできないのか? 今まで親に全部やってもらって生きてきたのか? その年で? 冗談だろ?」
開いた口がふさがらないとは、まさにこのことね。
マルケスさんは嫌悪感をむき出しにして、膣太郎のオムツを脱がせてくれたよ。途中で何度も「前言撤回だ。お前にはなにも期待しねぇ」言ってた。
膣太郎が裸ん坊になると、マルケスさんは見張りに戻った。適当に入って五分で出ろって言われたから、ちょっとだけ浴槽に浸かることにしたよ。
「チャプチャプ、お風呂気持ちいいべ」
膣太郎、たらいの中でパチャパチャやりながら、マルケスさんとの会話を思い出してたわけ。異世界のことや、膣太郎が呼び出された理由について。フリアちゃんの悲しむ姿を想像して、お胸がキュッと締めつけられた。それから、元々いた世界のことを考えた。お家を出るときに「早く帰ってくるんじゃよ」言ってたお母さんの笑顔が、テントの白地に浮かびあがる。優しくて、大好きなお母さん。
膣太郎、やっぱりお家に帰りたいな。
お母さんに、会いたいな。
『俺はお前に期待してるんだぜ。今までの連中と違うからな』
その言葉が脳裏に蘇った瞬間、目の前が真っ白になった。
つまり、他にも膣太郎みたいな人たちがいたんだべ。
突然この世界に呼び出されて、研究に協力させられた人たちが。
みんな、どこに行っちゃったのかな? ちゃんとお家に帰れたのかな?
もしそうなら、きっと元の世界に戻る方法があるはずだべ!
膣太郎、いてもたってもいられんかった。
このまま教会にいたら、いつまでも解放してもらえん。
そんなの待てねぇべ。逃げだしてでもお家に帰る方法を見つけてやる。
幸いなことに、マルケスさんが見張ってるのは浴室の入り口だけだった。膣太郎は早速テントを抜けだして、こっそり窓枠を調べてみたわけ。木製の枠には強固なガラスがはめこまれてたけど、見たところ格子はついてなかったね。試しに二三回引っ張ると、カタリと小さな音を立てて窓が外れた。
足音を殺してお外に出る。オムツを履いてる時間はないから、もちろんチンポコ丸出しだった。構うもんか。小川に沿ってさらに西へと進む。見張り番の兵士さんに見つからないよう、宿営地の柵を乗り越えた。
肌寒い冷気が、濡れた身体の温度を奪っていく。
膣太郎はプルプル震えながら足早に駆け、一目散に森を目指した。
濃密な樹木の中を迂回して、入り組む木々の迷路を突き進んだ。最初に膣太郎が目を覚ました場所に、なにかがあるに違いねぇべ。フリアちゃんと会話した巨岩を通りすぎ、変わった形の木の根を飛び越しながら、息が切れるまで走り続けた。
暗鬱とした樹林を抜けた途端、パッと視界が開けた。
「ワオ……」
お目めの前に、嘘みたいな虚無が広がってた。
薄い靄が景色を遮って、まるで磨りガラスを通したみたい。前方には断崖絶壁。おそるおそる崖縁を覗きこむと、遙か下のほうで密集する森林が波打ってた。どれほど高いのか、想像もつかん。近くにあった石を落としてみる。瞬く間にお米粒くらいの大きさになって、やがて緑の波に呑みこまれていったよ。
引き返そうと立ちあがったとき、背後からガサガサと音がした。
膣太郎が息を殺して草陰を見つめてると、
「やっぱりお前か」と、木の後ろから声が聞こえた。
「人影が走り去ったのを見て追ってきたんだが、正解だったな」
薄闇の中でもわかる赤ら顔が、ぬっと姿を現した。
顎ひげをたくわえた巨体を揺らして、崖のほうに近づいてくる。
「素っ裸のメグドがなにやってんだ?」
バージェスさんは気味の悪い笑顔を浮かべ、右手に立派な剣を握ってた。
「違うんだべ……膣太郎は……」
「あそこから逃げようとしてたんだろ」
図星を突かれて、思わず足がすくんじゃった。バージェスさんはなにが面白いのか、膣太郎の芋虫チンポコさんをじろじろ見て、笑いをかみ殺してる。すぐにでも逃げだしたかったけど、一歩も動くことができんかった。
ふと、バージェスさんのお顔から笑みが消えた。
殺意とも悪意とも違う。心から膣太郎を憐れんでるような、奇妙な表情だった。高校時代、膣太郎が不良に殴られてるのを見つけたときの先生にそっくりだった。先生はいつも不良をとめることもなく、こんなふうに曖昧なお顔でじっと膣太郎を見つめてたわけ。
「これでも、あんたには同情してるんだぜ」
バージェスさんは剣身を右肩に担いで、一歩、また一歩と近づいてきた。
「いきなり知らない世界に呼ばれたんだ。俺なら発狂しちまう」
背筋を冷たい汗が流れ落ちる。
イヤだべ。イヤだべ。こっち来るな。
パクパクとお口を動かすけど、言葉にならん。
「それにな」バージェスさんは膣太郎のすぐ目の前で立ちどまった。
「あの噂が本当なら……あんた、ここで死んだほうがマシだよ」
トン、とお胸のあたりに軽い衝撃が走った。
膣太郎は突差に腕を振り回して、バージェスさんのネックレスをつかんだ。安っぽい紐がブツリと切れる。無表情のまま左手を突きだしたバージェスさんの姿が、だんだんと遠ざかっていく。永遠とも思える時間の中で天地が反転し、身体を支える大地の感覚が完全に失われた。
荒々しい風の流れを切り裂いて、重力の求めるままに吸いよせられる。
手のひらにつかんだネックレスを、強く、強く握りしめる。
どこまでも、どこまでも落ちていく。
膣太郎、ここで死ぬんだべ。
誰も知らない世界の、誰も知らない場所で死ぬんだべ。
お母さんもお父さんも妹も渡辺もいない世界で、死にたくないべ。
寂しいのは、もうイヤだべ。
*
放課後のチャイムを聞きながら教室に入る。生徒の姿は見当たらなかった。
黒板には卑猥な落書きと、膣太郎の悪口が書かれてた。日直の生徒が黒板を掃除することになってたけど、その日直さんが書いたこと、膣太郎は知ってたよ。机の周りに散らばったプリントや筆記用具をかき集める。膣太郎の席は教室の隅っこ。汚物で黒ずんだ机の表面には、ひどい言葉がたくさん刃物で彫られてた。掃除用具のロッカーを開けると、不良に脱がされた制服が丸めて放りこんであった。シャツがビショビショに濡れて、黄ばんでる。手で持ちあげるとオシッコの匂いがした。こんなの着て帰ったら、またお母さんが悲しんじゃうよ。膣太郎は制服をそのままにして、オムツ一枚でお家に帰ることにした。
トボトボと廊下を歩いて、下駄箱の前を通りすぎる。
どうせお靴は捨てられちゃったし、確かめるだけ無駄だった。
校舎の前で先生たちとすれ違ったけど、すぐにお目めをそらされたよ。膣太郎がお鼻から血を流してても、身体中に痣を作ってても、いつも見て見ぬ振りされる。膣太郎は先生たちにとって、存在しない生徒だった。
いつもは我慢できる傷なのに、今日はお腹の傷がジンジン痛んだ。不良の一人がカッターナイフで、どこまで深くお肉をえぐれるか実験したの。四つん這いで土下座する膣太郎を踏みつけて、鋭利な刃を押し当てた。「やめてべ、やめてべ」何度もお願いしたけど、みんな楽しそうに笑ってた。
理由は膣太郎がお金を持ってこなかったから。明日までに三万円用意しないと、今度はお耳を切り落とすって脅された。膣太郎、悲しくて……悔しくて。ポロポロ泣きながら、ずっと「産まれてきてごめんなさいべ」謝ってた。
出血がとまらんかった。頭がぼんやりして、なにも考えられん。
お母さんが見たら、どんなお顔をするのかな?
先週、膣太郎が髪の毛を全部剃られて帰ったとき、お母さんは一晩中泣いてたの。お父さんも怒り狂って、膣太郎を助けるために中学まで来てくれたよ。でも、学校の先生は「やんちゃな子供たちですからねぇ」笑ってばかりで、真剣に聞いてくれんかった。次の日、教室の前に立たされた膣太郎は不良たちと握手させられたわけ。「はい、これで仲直り」先生はニコニコしながら言ってたけど、そのあと、不良に指の爪を剥がされた。お家に帰ると、お母さんが心配そうに訊いてきた。
「もう、虐められたりしちょらんね?」
だから膣太郎、本当のことが言えんかった。
お母さん。
大好きなお母さん。
膣太郎がいなかったら、お母さんが悲しむことないんだべ。
膣太郎なんかのせいで、泣かなくてもいいんだべ。
産まれてきてごめんなさいべ。
気がつくと、膣太郎は知らない場所にいた。そこは高台の小さな公園で、見下ろすように街を眺められたわけ。世界と膣太郎を隔てるフェンスに、残酷な夕陽の赤が影を落としてる。どこか遠くのほうから、子供の泣き声が聞こえてくる。
なにかに誘われるようにフェンスを乗り越えた。金網がお腹の傷に触れるたび、気を失いそうなほどの激痛が走ったよ。でも、躊躇ったりしなかった。ここから一歩踏みだせば、なにもかも終わるから。また、お母さんが笑顔になれるから。
膣太郎は高台の端に足をかけ、ゆっくりとお目めを閉じた。
時間の止まった世界。火星みたいに孤独な世界。
心臓の鼓動を残して、すべての音が消え失せた。
そのとき……閉じたお目めの向こうに、ステージが浮かびあがったわけ。
降り注ぐスポットライトを浴びて、膣太郎は宇宙の中心に立ってたの。観客に埋め尽くされた暗闇に、熱狂と興奮が渦巻いてるのが見えたよ。突然、美しい音色が鳴り響いた。四方から割れんばかりの喝采が湧きあがる。物静かにはじまったその曲は、しわがれるような歌声を乗せて虚空を漂いはじめた。ドラムが優しくビートを刻み、ベースに導かれるように膣太郎は黄金の道を進んだ。一歩ずつ、メロディが大地を踏みしめるように高揚していく。ギターの伴奏に突きあげられて、激情が頂点に達した瞬間――なにかが弾けた。
ゆっくりとお目めを開ける。世界の表情は一変してた。
頭上にはどこまでも広がるお空が見えたよ。振り返ると、膣太郎と世界を隔てるフェンスに鮮やかな夕陽の赤が反射して、宝石みたいにきらめいてた。どこか遠くのほうから、子供の笑い声が聞こえてきた。お目めに映るなにもかもが美しくて、世界は音楽であふれてることに気がついた。
それが、それこそがロックンロールだった。
*
「天に墜ちよ!」
大気を切り裂くような声に続いて、一陣の風が吹きあげる。
膣太郎は意識を取り戻すと、宙に浮いた身体がみるみる大地から遠ざかっていくのを感じた。ビデオの映像を逆再生するみたいに、岩の足場が近づいてくるわけ。断崖の上には、装身具の水晶を突きだしたフリアちゃんの姿があったよ。見えない力に引っ張られるように、ゆっくりと着地する。膣太郎の周りを吹き巻いてた風がやんで、すべてが元通りになった。
「ご無事みたいですね……本当によかった……」
フリアちゃんは膝から崩れ落ち、両手でお顔を覆った。安堵のため息をついて、小さく肩を震わせてたよ。淡い光を放つ鉱石が、フリアちゃんの足元に転がってた。膣太郎は放心状態のまま、お手てに握りしめたネックレスに視線を落とした。バージェスさんからむしり取ったネックレスにも、小さな鉱石がはめ込まれてたわけ。二つの結晶は共鳴して、お互いを求めるみたいに明滅を繰り返してた。
「フリアちゃん……なんでここにいんだべ」
「貴殿が脱走したと報告を受け、捜索を続けていたのです」
「バージェスさんはどこだべ?」
「私がここに到着したときには、すでに誰もいませんでした」言いながら、フリアちゃんはお手ての甲で涙を拭う。「マルケスたちが追跡術で行方を追っています。午後までには身柄を確保されるでしょう」
膣太郎はその場にお尻をついて、放心したまま草むらを見つめてた。
チョロチョロと生暖かい感触が広がって、太ももが気持ち悪かったよ。膣太郎、安心してオシッコ漏らしちゃったんだね。同時に、バージェスさんと出会ってから今までの記憶がフラッシュバックした。
崖から突き落とされたあとの記憶が、嘘みたいに空白だった。
「膣太郎、ずいぶんと昔の夢を見てた気がすんべ」
「ご家族のこと……ですか」
「ううん。中学時代の夢だよ。膣太郎、物心ついたころから虐められてたの」
「そのようなことを仰っていましたね」フリアちゃんは納得した様子で俯いた。「当時の体験が原因で、私を信用できなかったのですか」
「違うべ、違うべ。そうじゃないべ」
「では、どうして脱走などしたのです?」
「だって……フリアちゃんが落ちこんでるって聞いたから」
「私が?」と眉をひそめる。
「膣太郎が大騒ぎして、迷惑かけちゃったもん。親切にしてくれたのに、悲しませちゃったもん。だから、他に別世界から来た人たちがいるって聞いて、お家に帰る方法を探そうとしたんだべ。膣太郎がおらんかったら、またフリアちゃんが元気になれると思ったんだべ」
「……バカなお人ですね」
そう言いながら、フリアちゃんは膣太郎の肩を抱きしめた。
膣太郎、ナオンに抱きつかれるのなんてはじめてだから、ドキドキしちゃった。どうしたらいいかわからなくて、しばらくチンポコ丸出しで震えてた。
フリアちゃんはおもむろに立ちあがると、
「あれを――」と言って、崖上から遠くのほうを指さした。
靄がかかってたときは気づかんかったけど、遙か彼方に尋常じゃない大きさのクレーターが見える。円環状に盛りあがった大地が周囲の木々を断絶して、そこだけ見えない筒で囲まれてるみたいだった。
「十五年前の厄災が残した傷痕です」
膣太郎、ぼんやりと思い出したよ。悪い奴らが反乱を起こしたこと、たくさんの人が殺されたこと。あのときは理解できんかったけど、生々しい光景を目の当たりにして血の気が引いた。
「元々、あの地にはキングという街が存在していました。かつてこの国を黄衣の王が統治したという伝説から、その名を異界語の王に由来し、伝統と象徴主義を重んじる平和な地域だったと伝え聞きます。ですが、厄災によって一万三千人の住民が死滅し、地図上から葬り去られてしまったのです」
私の両親もあそこで亡くなりました、とフリアちゃんが付け加えた。
「そうだったんだべな……」
恥ずかしいね。恥ずかしいよ。
二十歳にもなってないナオンが孤独と闘ってるのに、三十一の膣太郎はお母さんお母さんって、ピーピー泣いてんの。オシッコまで漏らしてさ。
膣太郎、ゆっくり立ちあがってフリアちゃんの隣に並んだ。
こうすれば、同じ景色を見ることができる。
同じ風を感じることができる。
もう足は震えなかった。
「この現界は今、未曾有の危機を迎えています。諸国では政治腐敗が凶変を招き、飢餓のため幼子たちが間引かれています。修道会が求めるような異界の知識では、もはや世界の崩壊を防ぐことなどできません」
話しながら陽光にきらめくその姿は、銀髪の天使みたいに見えた。
こんなに誰かを美しいと思ったこと、一度もなかったね。
「私は儀式を執行したとき、強靱な心によって平穏をもたらす者を遣わせるよう、神に祈りを捧げました。そして……他の誰でもない貴殿がそこにいた」
フリアちゃんが膣太郎のお目めをじっと見つめる。
「お願い申しあげます。私に命をお貸しください――チツタロ様」
膣太郎がこの世界に呼ばれた本当の理由。
それは、フリアちゃんが強く願ったからだった。
神様とか関係ないよ。この子のために、ここに来たんだね。
「膣太郎はさ」言葉が詰まりそうになる。深呼吸して、ゆっくり噛みしめるように言った。「まだオムツ履いてるし、人よりちょっぴりおバカさんだし、大学も八年通って中退したし、無職だし、年金だって払っちょらんべ。世界を救うどころか、町内の不審者リストに載ってるわけ。ダメダメだね?」
ハハと笑ってみせると、フリアちゃんは落胆の表情を浮かべた。
「でも、お胸を張って誇れることが一つだけあるの」
「誇れること……ですか?」
「膣太郎はロックンローラーなんだよ」
腰にお手てを当て、お尻を左右に振りはじめる。チンポコが太ももに当たって、ペチペチと音を立てた。フリアちゃんは困惑した様子で、突然ワオワオ踊りだした膣太郎を見つめてる。いつか、きっとわかるよ。ロックンローラーは悲しんでる人を笑顔にするためなら、なんでもできるってこと。ロックンローラーに不可能なんかないってこと。フリアちゃんに教えてやんべ。
だから膣太郎、バッキリ言ったね。
「オーケイ。この世界を救ってやる」