海と牧童(1)
春先の風は時に強く剃刀の薄刃のように少年の頬を撫でつけていく。
産毛が陽光にきらめく柔らかい皮膚は、その度ごとに鋭く傷つけられている
かのようだ。
少年の、透き通るように白い、両手の細かな指が、横笛をそのなめらかな唇
に寄せている。
流れる曲は悲しい憧れにも似た、細やかなさざ波のようである。
(なんてきれいな少年でしょう)
最初、牧場にやって来た彼を見て、羊たちは皆、目を細めたものだった。
と同時に、少年の横顔や肩の線にほの暗い心の陰りを見て、気持ちの中に舞
い落ちる松葉の優しさを覚えるのであった。
少年は、当惑したような表情とともにこの牧場での日々を向かえたが、やが
てここで果たすべき自分の仕事がなんであるかを知った。
彼はこの広い牧場を歩きながら、羊たちの一匹一匹に語りかけることから始
めた。
しかし最初のうちはそれはなかなかうまくいかなかった。
ひとつは少年が羊たちの言葉に慣れていなかったからであり、ひとつは羊た
ちに話しかけるとき照れてつい表情がぎこちなくなるからである。
それでも少年は羊たちが傷ついていたならば、薬草でその傷口を癒したし、
不幸に出会っているならば、その心の悲しさを聞いてあげた。
そうしてやがてこの牧場で見かけた楽しい話を聞かせてあげたり、明るい歌
を口ずさんだりして暖かい日差しの時を過ごしたのである。
当初の日々を経て、この牧場の全部の羊たちを覚えてしまった頃から、少年
は彼に特徴的な自分自身の行事を持ったのである。
すなわちそれは、夜になって寝る前に牧舎の中で一匹ずつの羊を思い起こし
て次のようにコトバでそれぞれの羊たちをなぞっていくのである。
(西の泉のほとりで、いつも水辺を見みつめている可愛い子羊、おまえは
妖精を見たいと願っている。妖精なんていったいどこにいるのだろう。でも
おまえのそのあこがれは、僕の海への希求によく似ている。泉を見つめてい
るから、おまえは僕の友達さ)
(南のポプラの大樹の下で、いつも昼寝をしている大きな羊、おまえは僕が
通りかかると薄ぼんやりした小さな目を開いてこちらを見ようとする。視線が
合ったなと思った途端、すでにおまえの目は閉じられていて、再び眠りに落ち
ているのだ)
少年はこうして、その日出会った全部の羊に心の中で優しく語りかけると、
やがて深い満足とともに眠りにつくのである。これは彼の夜ごとの習慣となっ
たが、こうした儀式を持つことが、自分のどのような性癖からきているのかは、
彼自身にもよくわかっていなかったのである。
羊たちは牧童に、最初はその容貌の美しさと心の暗さを認め、また一方では近
づき難い気持ちの隔たりを感じていた。しかし、彼が悪い人間ではないということ、
だから自分達を決して傷つけたりすることがないことは彼等にもすぐわかった。
そればかりか茨を踏みつけたけがの治療をしてもらったり、仲間にいじめら
れてしょげているときに励ましてもらったりしているうちに、次第にこの牧場
のどんな場所より彼の近くが一番安全であり安心出来るのだということを知っ
た。
にもかかわらず、羊たちはこの少年のことで時々ひそかに心を痛めた。なぜ
なら羊たちはしばしば、この牧場のひと隅にたった一人でいる少年の姿を認め
たからである。そんな時、彼は寂しげに肩を落として、悲しい笛の音を小さく
永くいつまでも奏で続けているのである。
今日の少年がそうであった。昼寝から覚めた一匹の子羊は、茨の茂みの片隅
にある木の切り株に腰掛けている彼をみつけたのである。少年は澄んだ悲しげ
な瞳で遠くを見つめていた。そしてその唇に寄せられた横笛は、細やかなすす
り泣きのようであった。
それを聞いて、子羊はとても驚いたのである。そして思わず少年の側に駆け
寄ろうとして、危うく茨の茂みに飛び込むところであった。立ち止まって、再び少
年を見て、なにか声をかけようとしたのであるが、子羊にはそれが出来なかっ
た。
それほどに悲しげな牧童の世界が、そこにはあったのである。
少年の瞳は、この時なにを見つめていたのであろうか。
彼の心は海に臨んでいた。
この牧場にたどり着くまで、彼はいつも海を夢見ていたのであった。
少年は「船乗り」になりたかった。しかしいつも心の中で海を求めなが
ら、彼は決して現実の海にたどり着くことがなかった。
実際、この牧場にたどり着くまでに、彼は様々な海を見て歩いた。
ある時は、砂丘の彼方に広がるはるかな海を見た。それは絵のように遥々とし
ており果てしなく壮大で静かだった。
またある時は岸壁から望む猛々しい海を見た。
空を暗く閉ざして打ちつける波は船や岸壁の家々を巻き込み、見る者を怒り
のただ中に引きずり込んだ。
しかしどちらの海も、彼を満足させることはなかった。そのような海に出
会えば、最初は強く感動するが、しかしすぐに彼の心の中でこう叫ぶものが
あるのだ。
(ちがう、これは僕の求める海ではない)
その実、どのような海も、彼の瞳に映る時には、その現実の姿を変えてい
るのである。すなわち、どのような広大な眺望を誇る海を見る時にも、彼の目
はただひとうねりの波涛を捉えるか、それとも現実のそれとは別の彼自身の心
の海を対象に投影しているかのどちらかである。
すなわち彼の心は海を求めながらも、決してそれを現実の海と重ねてひと
つにすることが出来ないのであった。
しかし、それでもひとつだけ彼を満足させた海があった。それは南の国の、
小さな半島と半島に囲まれた煤けた工場街の、汚れた港の海である。
その港には幾艘かの船が停泊していた。その内のひとつ、砕石船が、夕焼けに染
る港を出てゆき、半島の彼方に見えなくなるのを彼の心は追った。そして彼は思っ
たのである。
(これこそ海だ)
少年にとって本当の海とは、そこに船が乗り出して行くような海である。
この小さな港を出た砕石船はどこに行くのだろうか。ほど遠い半島の港を、
それは目指すのであろう。だが、もしこれが、もっともっと大きな船ならどう
であろう。
それは港から一度大海原に乗り出すや否やもう陸地を見る日は程遠い。やが
て遥かな島々や異郷を巡り巡って、そしてまた何事もなかったかのようにこ
の港に帰ってくるのだ。
海原の真っただ中で海は陸地をなんと小さく感じる事だろう。船だけが、
海の広さを知っているのかもしれない。
船乗り達にとっては、海こそすべてだろう。あらゆる地上の人々が、生活
と人生の最中にあって、喜びや悲しみを味わう時に、また労働やその後のひ
と時の楽しみ、あるいは愛し合う者と共に語らうその時に、彼等は船と共に
海に挑むのだ。
雄々しい海
静かな海
想いに満ちた海
少年は、船乗りになることを夢見た。しかし、彼はついに海に出会う事なく
この牧場にやって来たのである。
彼は海に憧れすぎたのだ。
海や、船乗りについて、想いを寄せすぎたのだ。
船に乗り、現実のものとして海に出る前に、彼はそれらに夢を託しすぎた。
海とは僕にとってこういうものだと、海について考えるだけで、彼は充足し
たのである。
そうして彼の心の中で海が広がるたびに、現実の海は遠ざかった。
しかしこれは、あるいは仕方のないことであったのかもしれない。
と言うのは、砂丘の海の時にもそうであったように、ここでも彼が見たのは
現実の海ではなかった。
「海」というのは決して夢見ることの許される領域ではないのかもしれない。
憧れというのは全て陸の世界でのみ許されうることなのかもしれない。
海への憧れに、最後に彼は疲労してしまった。
すぐ目の前に海はあるのに、歩けども歩けどもたどり着けない。
今や海のレンズを透かしてしか現実を見ることが出来なくなっているのに
海の現実にはついに到達出来ない。
疲れた体をひきずるようにしてとぼとぼ歩き、ふと気づいたら着いていた
のが、この牧場であった。
牧場で羊たちの世話をしながら、彼はここに海を見ようとした。海の持つな
にかを、ここに求めたのである。
海とは、陸の彼方にあり、陸を包むものであった。
(海のように、この牧場を包みたい)
羊たちの足に刺さった茨のトゲを抜いてやる時には(海の優しさ)を夢想
した。そして自分の中にある、すべてのそうした人間的なものを、彼は海の
波のように自分の心の中に刻んだのである。
そうした牧場の日々の合間に、ふと気づくと、彼は海の事を想い、横笛を手
にしていた。
その笛の音も、最初は遠い海鳴りの中に聞えるあの細い音のみが出せたの
であるが、海の音により近いものをと繰りかえす内に、それはいつの間にかひ
とつのメロディーとなって牧場の一遇を浸していた。
けれども彼はいつも「海のように」この牧場を包みたいと想ったのだけれど
やがていつの間にか少しずつ、そのかつての海を忘れかけていた。
それは、自分が羊たちにとって必要な存在であるということが次第に分かっ
てきたからである。
今や羊たちは少年の中に優しさを認めており、困ったことがあれば自分から
進んで相談に来たし、そうすることをまた少年が欲しているのだということ
に気づいたのである。
こうして牧場には、牧童と羊たちからなる、穏やかで平静な世界が成立って
いった。




