天のうるま ─後日譚・最果ての宇流麻─
──もともと、人と神の狭間に生まれた眞與には、全てが酷すぎたのだ。
「さわるな!」
命の抜け出た躰に眞與は覆いかぶさった。
「さわるな……さわるな……!」
仲宗根豊見親の手を振り払うと、子供のように泣き喚く。
「眞與……」
茫然と呟いた豊見親は跳ね除けられた手を無為に彷徨わせ、そして力なく下ろした。
かつての戦場に、無関心な風が吹き続けていた。
肩に掛けられた手に振り返りもせず、豊見親は呟く。
「……誰も付いてくるなと、命じておいたはずだ」
「僕は誰の命令も聞かない」
用緒の強気な声に、オゾロの馬が駆けてくる音も重なっていた。
無言の豊見親を押しのけると、用緒はおもむろに眞與の肩を掴む。
「めそめそするな」
「用緒……!」
咎めるように囁く豊見親を厳しい目で見つめ返し、用緒は言い放った。
「このままこうしておいて、これが辱められるのを放っておくのか?」
その言葉に衝撃を受けたように、眞與が顔を上げる。
「大逆人の死体だ。……晒ものにされる前に、何とかしないとな」
「用緒……」
静かな驚きを含んだ声を無視して顔を背けると、用緒は外套を脱ぎ捨ててオゾロに投げつけた。
「オゾロ! それでくるんで、どこかに隠しておけ! 日が落ちたら僕のヒラクボの屋敷に運んで来い!」
血塗れの豪奢な外套を受け止め、オゾロはそっと眞與に近づく。
「さあ、眞與さん……」
優しく呼びかけるオゾロから奪い取るように、用緒が眞與の腕を掴んだ。
「さっさと立て」
眞與が赤子のような抗議の声を上げる。
「甘えるな! それは何とかしてやる! だからお前もしっかりしろ!」
眞與は涙で濡れた目で長い間用緒を見つめ、やがて首を縦に振った。
ぐずぐずするな、とどやすと、用緒は自分の馬に眞與を押し上げ、自分も跨る。
「おまえは早く兵士たちをなだめて来い! 大里がヤケを起こしてるかもしれないぞ!」
ようやく曖昧な笑みを浮かべた豊見親を一瞥すると、用緒は不機嫌な声で言った。
「先に行ってる。さっさと後片付けして来い」
「なるべく早く、行く」
豊見親としばし目を合わせると、用緒は馬をひるがえした。
包みを載せたオゾロの馬も別の方向に消えてゆく。
それが、あの戦の最後の日のことだった。
混乱に陥った兵士たちを鎮め、動揺するイシガキ島の民を導き……豊見親がようやく用緒の元に駆けつけたのは、それから数週間後のことだった。
邸宅の前に馬を止めると、すでにその臭いがしていた。
崩れて行く臭い。この世とのつなぎ目が切れてゆく臭い。
夕暮れの薄暗い屋敷は静まり返っていた。この状況に下男たちも遠ざけられているのだろう。
豊見親はそれでも、毅然と暗い邸内を進んだ。目を逸らさないこと。それだけが、自らにできる唯一のことだと思いながら。
廊下の奥に、見慣れた姿が立っていた。異国の着物に、闇に光る豪華な首飾り。その顔は幾分やつれたようだった。いつもは念入りに整えているくせっ毛が乱れている。
用緒は豊見親としばらく見つめ合ってから、無言で顎をしゃくった。その先に、細く開いた襖がある。
豊見親はほんの少しの間黙ったまま襖に手を掛け、それから一気に引いた。
覆いかぶさってくるような臭い。そして、薄闇に白く浮かび上がる痩せた背中。流れるままの黒髪が揺れ、振り返った。
唇が、あどけなく言葉を紡ぎだす。
「げんがさん」
幼い声と、空洞のような瞳が豊見親をその場に貼り付けにする。
「げんがさん、げんがさん……。おねがいします。ぼくのたいせつなともだちなんです。なのにほら、むしがたくさんいて、」
青白い指が指し示す先を見て、豊見親は思わず口を引き結ぶ。
闇にうごめく無数のもの。それに、濃さを増したような臭い。
「ぼく、もうハテルマにかえりたいっていいません。
けんのれんしゅうも、おしゅうじのれんしゅうもちゃんとします。
だから、ぼくのともだちをたすけてください」
幼い眞與はそれをゆすり、何度も何度も虫をつまんでは捨て、豊見親の袖を掴んで懇願した。
すぐ横で用緒がため息をつき、首を振った。
「……ずっとこの調子だ。誰にも、あれに触らせない」
視線を戻すと、潤んだ瞳で袖を掴んだままの眞與が見上げていた。
豊見親はその瞳を知っていた。それは、ずっと昔に自分の翼の下に庇っていた雛鳥の瞳だった。
「いいか眞與」
眞與の両肩に手を置くと、身をかがめて瞳を覗き込む。
「このままではお前の友人がかわいそうだ。だから、きれいにしてやろうな」
あどけない顔が首をかしげる。
「きれいにする……?」
「そうだ。空に帰すんだ」
う……ん? とわかったような、わからないような声を漏らした眞與はたどたどしく言いつのった。
「ぼくから、とらない?」
「ああ、盗らない」
傾けた首が、逆方向に傾ぐ。
「ちゃんと、かえしてくれる?」
「ああ、ちゃんと返す」
そこで眞與はふわ、と笑った。澄み切った微笑みが、恐ろしかった。
「じゃあ──おねがいします」
曇りの無い瞳から逃げるように振り返り、豊見親は用緒に頷きかける。
そうしてその晩、月明りの下、荷車に乗せられて一つの包みが運び出されていった。
「おい──こんな薄っ暗がりで何やってるんだ」
かさ、と茂みをかき分ける音に振り返ると、深夜の月明りが用緒の姿を青白く照らし出していた。
波打つ髪の輪郭が白く輝くのを、豊見親はぼんやりと見つめる。
「お前までおかしくなったとか、勘弁してくれよ」
ああ、と上の空の返事を返す豊見親の傍らに、用緒は肩を並べた。
「……借りが出来てしまったな」
ふん、と用緒は鼻を鳴らす。
「別に……。屋敷は掃除すればいいだけだし」
本当は大切にしていた南蛮の敷物も、織の布団も、高価な香料も虫がたかってだめになってしまったというのに──。豊見親は弱々しく笑って首を振る。
「すまん」
やめろよ、らしくない……、そう呻いた用緒は少しの間黙った。
屋敷の庭に二人は立ち尽くす。
用緒が集めている異国の花々が咲き乱れていた。手のひらほどもある白い花が顔のように闇に浮かび上がり、むせ返るような甘い香りを放っていた。
見つめる闇の先に、蛍が一つ二つ、舞っている。
「……私があれを、壊してしまったのだな」
用緒は首を振る。
「違う。あいつ自身が選んだんだ。あいつと……共に在ることを」
俯いて黙った用緒は、そして続けた。
「……あの時、お前が斬られて──」
ためらいがちな声が闇に響く。
「僕は、おかしくなるかと思った。だから……僕はあいつのことを笑えない」
黙って見つめる豊見親と少しだけ視線を絡めると、用緒はまた首を振った。
「僕たち……疲れてるな」
「ああ」
豊見親の前に回り込むと、用緒は真剣な声で言った。
「お前が心配だ」
「別に私は、」
黙らせるように、用緒は豊見親の両手を強く握る。
「今夜は僕の言うことを聞け」
見上げる大きな瞳が月明りに煌めく。
「眠るんだ。今夜は、何も考えないで」
いいな? と念を押す用緒に豊見親は頷く。
そして、闇夜を行く二人の子供のように、豊見親は手を引かれて屋敷に戻って行った。
長い話し合いの末、眞與は用緒が預かることになった。
これから王府の役人たちが押し寄せるこのヤイマで、こんな状態の眞與を表に出すことは考えられず……なによりイシガキ島には長田の一族に反感を持つものも多かった。
──裏切者。
それが、「王府の味方をした」彼らに押された烙印だった。
眞與を引き受けることに用緒が同意した時、豊見親は感情を持て余したように顔を歪め──それから頭を下げた。そんな姿を見るのは初めてのことで、用緒は言葉にならない悪態をつき、そして、哀しくなった。
「僕の気も、知らないでさ」
不機嫌に甲板で呟く用緒の傍らでは、眞與が掛け布にくるまって海鳥を眺めていた。
その顔はどこか呆けたようで、海風に煽られる鳥達を指を折り折り数えている。
眞與はまるきり子供になってしまっていた。
かつてあれだけのことがあったのに、用緒にも全く警戒心を持たず、にこにこと後を付いてくる。船が荒波でどんなに揺れようが、無邪気に笑い声を上げるだけなのだった。
そして──あの戦のことも、失った友のことも、一言も口にすることはなかった。
用緒の視線を感じたのか、眞與がこちらを見てふわ、と笑う。非の打ち所がないほど整った顔が、幼児の笑みを浮かべているのにはどこか背筋の凍るものがあった。
ため息をついて視線を水平線にやると、緑の島が見えてきていた。
イリオモテ──用緒の懐かしい牙城だった。
イリオモテの港は出迎えの人々でごった返していた。
先に帰した兵士たちを含めれば、この島からもかなりの人数が戦に加わっていた。
船上でも、港でも、……皆、知った顔を探し合い、いくつもの歓声が上がっていた。
人垣の中でひときわ輝く姿を認めた用緒も、笑いながら船を降りる。
「ただいま、僕の美しいひと」
唇で軽く頬に触れると、婦人は優美に同じことを返した。
「マリャーもただいま」
婦人の傍らで大きな瞳の少女は背伸びをする。
「お父様、私にもしてよ!」
「あれは子供にはしないの」
婦人が笑みを含んだ視線を投げてくる。
「あらあら……今度の方、随分お綺麗ね?」
「違うよ、こいつは預かりもの。中身はマリャーよりも子供……赤ちゃんだ」
なによう、と少女が抗議の声を上げる。
「マリャーの遊び相手にでもしてやってくれよ。な、僕を助けると思ってさ」
途端に得意げな顔になった少女は腕を組んで笑う。
「どうしようかな。これは“貸し”よね、お父様?」
「……ちょっと会わないうちに、また生意気になってるな?」
恨めしそうに呟く用緒に、婦人が柔らかく笑う。
「どんどんあなたに似てきた。きかんぼうで型にはまらないのよ、この子は」
肩をすくめる用緒の頬に婦人はもう一つ口づける。
「イシィは?」
「あなたが留学させたんでしょうに。『一人前になるまで帰ってくるな!』って」
「そうだっけ?」
朗らかに笑い合う用緒と美しい婦人の傍らで、眞與は目を丸くしていた。
「ようちょの……かぞく?」
そうだよ、と用緒は誇らしげに言う。
「僕の美しい妻と娘。僕の宝、宝石さ」
ふふ、と夫人は眞與に笑いかける。
「この人、臆面もないでしょう?」
「本当のことなんだから、いいじゃないか」
くすくす、と笑いあう夫婦に呼びかける者がいた。
視線の先で、浅黒い肌の男が異国の言葉でこちらに呼び掛けている。
「おっと悪いね、僕はこれから商談だ。今度の話も大きいぞ」
夫人は優雅に微笑んだ。
「この人、いつもこうなのよ。落ち着きがなくて、頭の中はまだ見ぬ世界のことで一杯。自分の長男まで異国にやってしまうんだから」
ふふ、と用緒も笑う。
「これから私も、侍女と遊ぶ予定がありますの。後はマリャーに任せるわね」
夫人は眞與の頬に触れる。
「ではまたね、赤さん」
ほほ、と笑いながら優雅に去ってゆく姿を見つめる眞與に、マリャーが飛びついた。
「ねえ、遊び相手にしてあげる! 私、綺麗なお友達だーい好き! 貸しをお父様にどうやって返してもらうか二人で考えましょ!」
「おいおい……」
呆れた声にも構わず、少女は声を弾ませる。
「私の馬に乗せてあげるわ! 玄雅のおじさまにもらったミャークの馬よ!」
「きみ……おんなのこなのに、うまにのれるの?」
まあ、と少女が呆れたように言い、用緒は朗らかに笑った。
「この赤んぼは随分保守的なんだな。
ここはイリムティ、この慶来慶田城用緒の島さ。そんなつまんないこと、誰にも気にさせないぞ」
さあ、いくわよ! とマリャーがぐいぐいと眞與を引っ張っていく。
眞與の顔に久しぶりに血の気が差したのを見て、用緒は安堵の息をついた。
「なんたって、預かりものだからな」
再び呼びかけてくる異国の声の方に、笑顔を作った用緒も急ぎ足で向かう。
イリオモテ──イリムティ。緑の島。全てを抱きとる深い森の島。
おそろしくお転婆なマリャーに付き合わされる形で、眞與はイリオモテのありとあらゆる場所を連れ回されていた。
森での虫取り、魚釣りなどは序の口で、滝登りやら沢下りまでさせられているらしかった。
おかげで眞與は日に焼けて、一日中遊び回った反動でよく食べてよく眠るようになった。
「きゃああ! ミャウが引っかいたあ!」
わあ、と泣きわめくマリャーを「しっぽなんかつかむからだよう」と眞與が諫めている。
「またやってるよ、あの二人は……」
隣の部屋の大騒ぎに苦笑いしながら、異国の椅子に身を預けた用緒はかさ、と書簡を開ける。
豊見親からの手紙だった。
乱の後のイシガキ島の様子を、豊見親は定期的に寄越してきていた。用件だけのあっさりした手紙を、用緒はそれでも心待ちにしていた。本当は、用緒からの返事──つぶさに眞與の様子を記した長い手紙──を豊見親が待っているのだと分かっていても。
──乱の後のイシガキ島では、
流れるような達筆を用緒は気だるげに追う。
──混乱が続いている。反乱軍に付いたオーハマ一帯の住人達と、長田大主の勢力圏であったシカ村一帯の軋轢は日に日に増している。
用緒はお気に入りの南蛮の杯を取り上げて、ちびりと舐める。
──イシガキ頭職に任じられた我が次男・祭金は民に人気が無い。
「おいおい……親がそれ言うか」
何事にも率直な豊見親の文に、用緒は思わず苦笑いを漏らす。
──今後の人事には一考を要する。
ふう、とため息をつくと、用緒は手紙と杯を傍らに置いた。
そのまま椅子の背に頭を預けると、天井を見上げる。
前回の手紙には、眞與の実姉のマイツのことが書かれていた。
マイツは乱の後、王府から神職を授かっていた。掛け値なしの名誉、権力の象徴であるはずだった。それでも──ヤイマが王府に組み入れられるきっかけになったあの乱で、結果的に王府側についた長田の家の人々は複雑な立場に置かれているということだった。
戦で焼け出された人々に食べ物を施し、親を失った孤児たちを集めて面倒を見て……そんな慈善に尽力しているマイツにすら、中傷が絶えないという。
これで眞與がイシガキ島に戻ったりしたら──用緒は首を振る。
ただでさえ普通の状態でない眞與を、かつての領民たちが見たらどう思うか。
「ああ……めんどくさいなあ」
呟いた瞬間、マリャーが部屋に駆け込んできた。
「お父さまあ! ミャウがひどいの! 怒ってよ!」
すぐ後に眞與もぱたぱた、と付いてくる。
「ちがうよう。マリャーがいじめるからだよう」
ようちょ、と眞與は抱いた山猫を鼻先に突き出して来た。
「ミャウはおやからはぐれちゃったんだもの。かわいそうだねえ。なのにマリャーがいじめたらもっとかわいそうだよねえ」
みゃう、と大きな瞳の山猫が鳴きかけてくる。
「……ああ、そうだね」
動物がさほど好きではない用緒は、お愛想程度にふわふわした頭を撫でてやる。
「もう遅いから、風呂を使って寝なさい」
「いや! 眞與はこれから私と南蛮の本を読むの!」
「寝ないと肌が荒れるぞ? いいのか?」
唇を尖らせたマリャーは用緒を睨み付けると、踵を返す。
「マリャーの次はお前もだ。で、さっさと寝なさい」
うん、と眞與は素直にうなずき、抱いた山猫に頬を寄せた。
「こんやはぼく、ミャウとねるんだ。ミャウがね、こわいゆめをおいはらってくれるって」
「怖い夢──? そんなの見るのか?」
うん……と眞與は頷く。
「でも大丈夫。あれは夢だもの。昔の夢だよ」
そう言って見つめ返す眞與の目がやけに大人びていて、用緒はたじろぐ。
だが、その瞳の光はすぐに溶けて消える。
眞與はいつものようにふわ、と笑った。
「おやすみ、ようちょ」
「ああ……おやすみ」
幼い足音が暗い廊下を去って行く。その後ろ姿を用緒は見つめ続けた。
そんな風に、用緒の一家と眞與の同居生活は続いて行った。
眞與は概ね落ち着いているように見えた。それでも、月が満ちる日と欠ける日──そんな時分には不穏な影が付きまとうことがあった。
何も食べずに眠り続けている時もあれば、マリャーや用緒の妻の呼びかけにも応じないで物入れに閉じこもってしまう事もあった。
それでも、大抵はマリャーや猫と遊んだりしているうちに表情がほどけてゆき、やがて普段の生活に戻るのだった。
だから──その日も、いつもの不安定が出た、と高を括っていたのが裏目に出た。
新月だった。その日はやけに海が引いていたし、星の光が怖いくらいに澄んでいた。
何となく目が冴えてしまって眠れず、用緒は南蛮の杯で酒を啜っていた。
外の景色に、海に浮かぶ島々が星明りにぼんやりと照らし出されている。
──やっぱり、昼間見る方が好きだな。そんな風に思っていたところに眞與が来た。
どことなく、靄がかかったような目をしていた。
眞與は用緒の長い南蛮衣の裾を引っぱる。
「ねえようちょ、ぼく、ほたるがみたいなあ」
「蛍?」
こく、と頷く眞與に用緒は面倒くさそうに返した。
「別に珍しくもないじゃないか。森の中とかにうじゃうじゃいるやつだろ? 飛ぶやつとか、飛ばないやつとか。なんでそんなの見たいんだよ」
ん……と俯くと、眞與は少しの間もじもじと留まり、やがてぱたぱたと踵を返して行ってしまった。
「変な奴……」
そう呟きながらも、用緒の胸は不吉に波立っていた。
蛍。魂の化身──そんな話を、いつかどこかで聞いたことがあったかもしれない。
半刻程夜の島々を眺めてから、用緒は立ち上がった。
胸騒ぎが止まらなかった。
「おい、誰か──」
下男に呼びかけようとした時、マリャーが飛び込んできた。
「お父様!」
蒼白の顔の瞳に、涙が一杯に溜まっている。
「眞與は⁉」
マリャーが唇を震わせながら首を振る。
「いなくなっちゃったの。蛍が飛んできたから、二人で縁側で見てたの。ちょっと目を離したら、いなくなってた……」
自分の顔から血の気が引いて行くのが分かる。
「くそっ、あいつ……森に行ったな⁉」
駆けつけた下女たちが必死の形相で取りすがる。
「用緒様、なりません! 雨上がりです、ハブが出ます! 月も無い夜に森に入るなど……!」
「うるさい黙れ! 僕はあいつを探しに行ってくるからな!」
──眞與に何かあったら、あいつに合わせる顔がないじゃないか。
心の中で悪態を吐くと、用緒は夜闇に向かって声を放つ。
「眞與!」
湿った空気に、鳥の声が反響する。
「眞與! どこだ⁉」
イリオモテの森は深い。
繁茂する羊歯。獣の息遣い。地を這う蛇や蛭。
夜の森──そこは人間の領域ではない。
ぬかるみに足を取られて舌打ちをしながら、用緒は闇の中で名前を呼び続けた。ぽと、ぽと、と絶え間なく木々の雫が落ち、松明に虫が群がる。
「くそっ……僕は絶対、あいつを連れて帰るからな!」
着物の裾が水を吸い、髪が汗ばんだ肌に張り付く。
闇の森と格闘しながら、やがてかなり奥に進んだ場所──清らかな沢のほとりの対岸に、用緒はようやくその姿を見つけた。
宙に無数の蛍が舞っている。
そしてその光る虫を纏うように──眞與が沢の岩場に腰かけていた。
着物がはだけて、白い肌が闇夜に浮かび上がっている。
足を流れる沢の水に浸した眞與は、やはり真っ白い腕を闇に上げてみせていた。
椀のようにした掌に、蛍が何羽も留まっては離れ、を繰り返している。
「おい眞與……」
安堵と怒りが混じった声で呼びかける。だが、その声も聞こえないように、眞與は蛍たちを眺めて笑っていた。
いつの間にか、用緒はその眺めに引き込まれていた。闇に灯る黄色い光も、青白い青年も、果たしてこの世のものなのか──。
だが、用緒は瞬時に現実に引き戻された。
白くはだけた眞與の首筋──そこに、太いハブが這っていた。
三角の頭が白い肌の上を滑る。眞與は首を傾げ、首をもたげた蛇と見つめ合い、そして笑った。
ぱか、と蛇が口を開ける。闇に小さな二本の牙が浮かびあがった。
「眞與! 眞與‼」
必死の呼びかけにも気づかないものか、眞與は微笑んでいるだけだった。
「おい眞與! 眞與‼ ……マツー‼」
その声に、眞與が弾かれたようにこちらを向いた。ハブがするすると離れて闇に消えて行く。
見つめる先で、眞與は小刻みに震え出した。
駆け寄った用緒は思わず眞與を抱きしめる。
「ぼくはマツーじゃない!」
驚いて見下ろす用緒の胸を拳で何度も叩きながら、眞與は震える声で言いつのった。
「ぼくはマツーじゃない! ぼくはマツーじゃないよ!」
そしてわっ、と泣き始める。
胸の中で震える姿を見下ろしていた用緒は、やがて背中を軽く叩いてやった。
「ああ、そうだ……。おまえは、眞與だね」
二人はしばらくそうしていた。足を浸す、どこか懐かしい水の温かさを感じながら。
ようやく落ち着いたのか、眞與は濡れた目で用緒をじっと見た。
「……何だよ?」
眞與は闇の向こうを指差した。
「ほら見てようちょ」
星明りに浮かびあがる木々の向こうに、無数の陸蛍が光る絨毯を広げていた。低い茂みで明滅し、ふ、と闇に動く数え切れない光たち。
視界一杯に広がる金の星の海を、二人は言葉なく見つめるばかりだった。
「きれいだねえ」
赤ん坊のように、眞與はそちらに手を伸ばした。そのまま用緒を押しのけて歩いて行こうとする。
「……だめだ!」
口を開けた眞與が無邪気に見つめ返す。それでも用緒は激しく首を振った。
「あっちは、だめだ……!」
──人間の、領域じゃない。
眞與は首を傾げて用緒を見る。そして、急に興味を無くしたように空を見上げた。
「わあ」
あどけない声につられて見上げた宙には、幽玄に舞う空の蛍たち。
そしてその向こうには、降るような満天の星空。
「──きれいだねえ。みんなみんな、きれいになるんだねえ」
先ほどまでの涙は消え、澄んだ目をした眞與が笑っている。
このまま眞與も光の一粒になってしまいそうで、用緒は震えた。
「──帰るぞ」
眞與はただ微笑んで、曖昧に頷いただけだった。
そんな日々の中でも、用緒と豊見親は折に触れてイリオモテとミャークを行き来していた。
「たまには、あいつに会ってやればいいじゃないか」
不機嫌に言う用緒に、豊見親は黙って首を振る。
「これ以上、あれを傷つけるわけにはいかん」
豊見親の態度は徹底していて、用緒の妻がマリャーと眞與を連れて実家に里帰りしている時以外、屋敷に一歩も足を踏み入れなかった。
もちろんソナイの街中で顔を合わせることはあったが、豊見親の通り一遍の挨拶に眞與が小さく頷くのが関の山だった。
──臆病者。そんな悪態を心の中で吐いて、用緒は黙って首を振る。
大胆不敵で、時に不遜で、いつまでも用緒を子ども扱いして。そんな豊見親であるのに、眞與に対する態度ときたらまるで南蛮の硝子細工にでも触るようで、用緒は芯から苛々する。
ささくれた気持ちも手伝って、用緒は一度だけ聞いてみたことがあった。
「あの時の赤ん坊、どうしてる?」
その問いに豊見親はひどく遠い目をして──そして、言った。
「元気だ。よく育っている。……よく、似てきた」
誰に、だとか、どっちに、だとか……そんなことは聞きたくもなかった。
それでも用緒は理解した。豊見親は豊見親のやり方で、罰を受け続けているのだと。
そんな豊見親は、ある日一抱えもある布包みを送って来た。
「なんだ、これ?」
その見慣れないものの紐を解く用緒の傍らで、マリャーが得意満面で言う。
「知らないのお父様? これ、サンシンよ」
サンシン? と首をかしげる父の横で、娘は布の中からそれを取り上げた。丸い胴から長い棒が伸びていて、三本の弦が張ってある。
「ほら、こうやって弾くの」
弦をはじくと、ぺ──……ん、と丸い音が響いた。
「みて眞與! サンシンよ! イリムティにはなかなか無いのよ!」
小走りに姿を消したマリャーは眞與の手を引いて戻ってくる。
ね、珍しいでしょ? と得意げに床の上を指差すマリャーの横で、眞與は懐かしそうに微笑んだ。そのまま、楽器と、添えてあったバチを取り上げる。
優雅に楽器を抱く慣れた手つきに、用緒もマリャーも意表を突かれる。見つめる前で眞與は何度も弦をはじいて音を合わせた。
やがて、はじいた音が繋がり、旋律をつくる。
── ぺーん とんとん らん らん らん ……
のどかで、やさしくて、どこか心を絞め付けられる素朴な音楽。
その楽の音は屋敷を越えて、イリムティの深い森の隅々までも響き渡るようだった。
知らぬ間に、用緒は涙を流していた。
演奏はもちろん見事だった。それでも、穏やかな顔で音楽をつま弾く眞與の姿に、用緒は泣いた。
「僕は同じ曲は飽きた! 何か新しいのを作れ!」
それからというもの、用緒は機会があるごとに眞與をたきつけてサンシンを弾かせるようにした。
おこらないでよう、とぐずりながらも、眞與はいくつかの音を組み合わせ始める。
そうして、眞與は何曲も、何曲も新しい曲を作った。大抵は歌もついていた。
イリオモテの美しい浜の歌。深い森の歌。それに、屋敷から見える島々の歌。
曲が増えるたびに、眞與の顔に生気が戻ってくるようだった。
「ねえ、私の曲もつくってよ」
いつの間にか女らしさを帯び始めたマリャーにせがまれて、苦笑いしながら甘い曲を作ったこともあった。マリャーは大喜びして、自分で作った振りに合わせて踊ってみせたりした。
今日もひとしきりサンシンを引いた眞與は、膝の上の山猫を撫でながら外を眺めていた。その横顔は穏やかだった。
この先──マリャーは誰かと結婚して、自分は交易を続けてイリオモテを豊かにして、まあ時々は豊見親と会って……妻と一緒に年を取って──そんな穏やかな風景に、眞與がいてもいいかな、と用緒は思うようになっていた。
「なあ眞與」
なに? と相変わらず幼い声が返ってくる。
「お前、幸せかい?」
眞與はしばらく澄んだ瞳で用緒を見つめ、そして寂しそうに笑った。
「うん。サンシンもあるし、ミャウもいるし、ようちょもいるし。ぼく、しあわせだよ」
その言葉が本心でないと分かるくらいには、眞與との付き合いも長くなっていた。
「ん……。そうか」
用緒は眞與の隣に行くと、膝を抱えて座る。みゃう、と山猫が用緒を見上げる。
「あのな、眞與」
なあに、とまた幼い声。
「次の船で、あいつが来るんだ」
「……げんがさん?」
「ああ」
きょとんと眼を見開いた眞與は首を傾げる。
「お前はその船に乗ってイシガキ島へ行ってもいいし、行かなくてもいい。……時が、来た」
ぽかん、と口を開けて用緒を見つめていた眞與は、おもむろに立ち上がった。
そして、いそいそと傍らに放ってあった手ぬぐいを畳む。
「ぼく、いかなくちゃ」
今度は広げたままだった巻物を巻きなおす。
「ぼく、はやくいってあげなくちゃ」
部屋の中を片づけ続ける眞與を、用緒は寂しい気持ちで眺めた。
「……船は、まだ来ないよ」
ううん、と眞與は首を振る。
「だって、まっているもんねえ。ぼく、ずうっとひとりにしちゃったもんねえ」
「お父様、眞與はどうしたの?」
部屋を片付ける物音にやって来たマリャーが、いぶかし気に問いかける。
随分背が伸びた娘の頭に手を乗せると、用緒は静かに言った。
「お別れだ。お前も、さよならを言いなさい」
泣くかと思ったマリャーは、父親似の大きな瞳を伏せて、そして呟いた。
「ん……わかった。それが、眞與にとって一番いいことなのね」
「……そうだね」
曲も随分、増えていた。用緒もマリャーも、屋敷の者達も、それぞれに気に入りの曲が出来ていた。皆、口ずさめる歌があった。
眞與が思い出を畳んでゆく。美しい小島と、青い空を背にしながら。
イリオモテからイシガキに向かう船の中で、眞與はずっとうつらうつらしていた。
生成りの掛け布に包まり、小さく丸まった姿はどこかさなぎを思わせた。
「なあ……こいつ、大丈夫なのかな」
ようやく眠りに落ちた背中を見つめながら、用緒は呟く。
いつもの不器用な沈黙だけが落ちる。
豊見親もまた、眞與の背中を見つめていた。
「……分からん」
「蝶々になる前にさ、」
その虫の名に、かつての戦の苦い記憶が蘇る。
「さなぎになるだろ。で、時々、出てこられなくて、ねじくれて死ぬやつがいる……」
すうすう、と眞與の寝息だけが響く。
しばらくその平和な音を聞いてから、豊見親は呟いた。
「分からんな。出てくるのがいいのか、悪いのか……」
「ん……」
船の床が揺れる。
「なんでもいいんだよ。地味なやつでも、蛾でもなんでも」
「──泣いているのか?」
「うるさい」
気遣わし気に見つめる視線を振り払うように、用緒は言う。
「やっぱり、年のせいかな」
ふ、と豊見親が笑う。
「お前が年なら、私はどうなる」
「そうだな……おまえは爺さんだ」
どちらともなく小さく笑い合うと、二人は眞與を見やった。
「こいつが選ぶことだからね」
「ああ」
イシガキ島に着くまで、あと数刻だった。
縁深い島に着いてからも、眞與は夢うつつのままだった。
あまりによたよたと歩くものだから、しまいには豊見親と用緒が片方ずつ手を繋いでやらなくてはならないありさまだった。
遅い午後の光の中を、眞與は手を引かれて進む。
人里離れた荒道だった。イシガキ島のとある場所、用緒と豊見親が色々な人間に金を握らせて隠し通したその場所──。そこに、三人はひっそりと向かっているのだった。
自然のままの上り坂に、眞與が不意に躓きかける。
両側の二つの手に支えられ、眞與はふと、はっきりした目で二人を見た。
「ようちょ」
幼い声で、眞與はもう片方を見やる。
「げんがさん」
「どうした?」
怪訝そうな用緒の声に微笑むと眞與は言った。
「ありがとう」
「はあ?」
「ようちょも、げんがさんも、ありがとうねえ」
「だから、何が?」
にこにこ、と笑うだけの眞與は道の先を見た。
「きれいにするんだねえ」
用緒と豊見親は顔を見合わせる。
その後も眞與はにこにこしたままだった。
それは道の先で待っていた二人の女性を見ても、涙を流して頬に触れる実姉のマイツを認めても、多田屋遠那理の豊満な胸に抱きしめられても変わらなかった。
用緒と豊見親に挟まれて、眞與は土の上に敷いた茣蓙に正座をした。
眞與は、じっとそれを見つめていた。
鬱蒼とした木陰に隠れるように佇む、簡素な石積みの墓。周りに繁茂する枝の隙間から、天井を覆う白い珊瑚の一枚板が見えていた。
マイツと遠那理が墓の前で祈りを唱えている。
その傍らには、水を張った大きなたらいと、乾いた布の山が置かれていた。
夕陽に照らされる女たちの後ろ姿を見ながら、用緒はひとりごちる。
──死者は、
祈りの声が高くなる。
──珊瑚の天を見上げながら眠るんだな。
遠那理が振り返って目で合図をした。
促されるように豊見親と用緒は立ち上がる。
石の扉に手を掛け、二人がかりで横にずらすと、墓の内部に夕陽が差し込んだ。
運び出されたそれが橙色の光に照らされる。
眞與が息を飲むのが聞こえた。
「……大丈夫か?」
用緒の言葉など聞こえないように眞與は口を薄く開け、震える手を上げ……そして、地面を蹴った。
無我夢中で豊見親と用緒を押しのける。
そして眞與は、長い間押し込められていたその名前を呼んだ。
震える腕が、それを拾い集めるようにかき抱く。
「ごめん……ごめんよ、一人にしてごめん……」
取りすがり、声を掛け続ける後ろ姿にも夕陽が落ちていた。
陽の名残と夜の訪れ──生きていることと死んでいること。その境界が曖昧になる刻限だった。
抱きしめる腕から茶色っぽい粉がぱらぱらと落ち、形が崩れてゆく。
思わず豊見親が一歩踏み出した。
「空広」
腕を掴んで止めた用緒に、豊見親が怪訝な瞳を向ける。
用緒は黙って首を振った。
「僕たちは、いない方がいい」
心配そうに振り返る豊見親の腕を掴んだまま、二人は連れ立って来た道を下りて行った。
坂を下り切った所、開けた地面の上──そこで二人はしばらく無言で立ち尽くした。
坂の上からはもう祈りの声も聞こえず、ただ風に揺れる木々の音と、みみずくたちの声が聞こえるだけだった。
そうしているうちに、闇が深くなった坂を遠那理が下ってくるのが見えた。
無言で、布包みを差し出す。
豊見親はやはり無言で包みを受け取ると、しばらくじっとそれに目を落としていた。
踵を返した遠那理を見送ると、二人はどちらともなく枯れ枝を集めはじめた。
地面の上の包みに小枝を被せ、うず高く小山をつくる。
そして、火を点けた。
赤い炎が布を飲み込み、長い間朽ちるに任せていたものたちが炎の向こうに揺れる。
身に着けていたものや、一緒に葬られたささやかな品……。
まるで持ち主を追いかけるように、煙が空へと昇ってゆく。
時々長い棒きれで燃える塊を動かしながら、二人は無言で炎を見守っていた。
炎の中で形は無に戻り、ただ空へ還っていった。
「──……終わったな」
「ああ。終わった」
頬に舞い降りた灰と一緒に、用緒は目を拭う。
ほんの少し俯いた豊見親の目も、薄闇に光ったように見えた。
と──燃え残りの火の粉が一粒、ふわと宙に舞った。
いや、それは最初から火の粉ではなかったのか──いつのまにか蛍が二匹、ふうわり、ふうわりと闇が落ちた空に舞っていた。
あ、と用緒は声を上げる。
二匹の蛍は坂を目指して飛び──そこには、眞與が二人の神人を従えて下りてきていた。
マイツと遠那理に挟まれて、眞與の姿はなぜかとても神々しかった。
ゆっくりと坂を下る三人の周りを、二匹の蛍は少しの間飛び回る。
そして、一匹がぴか、と大きく輝いて、眞與の体の中に消えた。
唖然と見つめる中、もう一匹が用緒と豊見親の前に飛んできた。
その光の粒はくる、と舞い、姿を結んだ。
七つか八つ位の少年──その赤毛の少年ははにかんだように笑って、二人に会釈をするように頷いた。
穏やかな、青い目をした少年だった。
少年が振り返った視線の先で、眞與も頷いた。もう闇が落ちているはずなのに、用緒には見えた。眞與は少年を見つめて笑っていた。穏やかに。そして、決意を込めた瞳で。
そして瞬きの間に、少年の姿は消えていた。
用緒と豊見親が言葉なく立ち尽くす間に、三人の神々しい者達は坂を下り切り、二人の前に立つ。
「二人とも……随分迷惑をかけたね」
眞與の瞳は、何かから浄化されたように澄んでいた。
「僕はもう、大丈夫だよ」
「大丈夫って……お前、何が」
眞與は用緒の手を取り、小さく頷く。
「約束したんだ。この島のために頑張るって。……時が来て、迎えに来てくれるまで」
そして眞與は豊見親へ視線を移し、頷いた。
マイツと遠那理も、黙って首を縦に振った。
二人の神人の託宣に、二人の男は黙って従う。
眞與はイリオモテに帰る船には乗らなかった。イシガキ島に残った。
しばらくの後、豊見親の計らいで眞與にはイシガキ頭職の地位が与えられた。
用緒の心配をよそに、眞與は立派な治世者として戦で荒れたイシガキ島を立て直しているということだった。
実の息子が罷免され、その地位を眞與が継いだ──そんな豊見親の心中を思うと、用緒は複雑な気持ちになる。それでも、眞與が長らく別れていた妻子に再会し、マイツ達と協力して家を盛り立てていると聞くのは嬉しいことだった。
「これで僕も、お役御免だね」
呟く用緒の足元にすり寄るものがあった。山猫が大きな瞳で見上げている。
そのふわふわした生き物を抱き上げると、用緒は外を見やった。
広がるのは青い海に浮かぶ島々の景色。
しばらく外を眺めていた用緒は、山猫を床に下ろす。そして壁に立てかけられたそれを取り上げ、つま弾いた。
ぺ──……ん、と柔らかい音が零れる。
「ったく、肝心な物を置いて行きやがって。そのうち、返してやらなきゃな」
用緒は小さくため息をつく。
「僕は聴く方が性に合ってるんだけどな……」
それでも、懐かしい旋律をたどたどしくなぞってみる。
── ぺーん とん とん らんらん らん……
何度も繰り返し聴いた、その穏やかな旋律を。
いつかイリムティの風に乗った、やさしい歌を思いながら。
<了>