魔術士の力
続くもの。
それは、静寂。
誰の呼吸音も、誰の吐息も聞こえたりはしない。
そこには、生命活動がないとすら、思えてくる。
此処は、「生命」のはじまりの場所であったはずなのに。
今では、その面影はまるでない。
むしろこれでは、終わりの場所と呼ぶべきだと、それが相応しいと思える。
(こうして、ひとは朽ちていく)
誰にも、邪魔をされることはないことを、私は知っている。目の前に居るアリシアは、私の邪魔をしたがっている。それは分かっている。でも、もうそれは過去のことであると、認識している。今のアリシアは、自分が託されたその「力」の制御で、それどころではないはずなのだ。
ライエスとアスグレイの力。
そのふたつを掛け合わせたものを、今、アリシアは手にしている。
(もしかしたら、私はもう、魔術士ではないのかもしれないな)
どうだっていい。
そう、それこそ、どうだっていいことである。
『ルシエル……お願い、力を戻して!』
再び、ヒステリックになりはじめているアリシアの声が、頭上より降り注ぐ。沈黙を破ったその声に、応対するつもりはもう、なかった。
私は跪き、俯いている為、彼女の顔を見ることは出来ないが、彼女のそこには「絶望」が浮かんでいるのではないかと、考えが及ぶ。
しかし、間違っているのは彼女の思考であると、私は考える。大切なことは、私が力を取り戻すことではない。私は、私の「役割」を果たしたに過ぎない。私が「先導者」であることも、「神護り」であることも、「魔術士」であることも、捨てた。これから先に残っているものは、そうなると「滅び」しかないと、思える。いや、それが事実。
私は、別に「死にたがり」ではない。命を無駄にしようとしている訳ではなかった。ただ、すべてを、より、多くのものを守る道を選んだ結果が、自らの滅びへと結びついてしまっただけである。そう、これは結果論である。すべては、結果。
うずくまる。身体から力が抜けていくのはわかるが、まるで、血液さえ流れ出ているかのようで、寒さを感じてきた。感覚がなくなっていく。これが、「死」と直結しているというのであれば、難なくうなずくことができるだろう。私は口の端を上げた。皮肉っているのではない。ただ、笑えてきただけだ。こころが、崩壊しかけているのかもしれない。私は、「普通」ではいられなくなっているのかもしれない。これもまた、「死」にゆくものの、定めであろうか。
思考回路は、間違ってはいないと主張を繰り返す。私は間違ってはいないと。この決断こそが、最善であると。そうでなければ、私は犬死にだ。
『ルシエル……ルシエル!』
とても、耳障りだとは思えない。それは、叫びにも近い声だったけれども、私には、子守唄のように、心地よく思えた。薄れかかっている記憶から、私が「ルシエル」と呼ばれた人間であるという「事実」を、引き戻してくれる。きっと、消え行く私を最後の最後まで、「ルシエル」だと認めてくれる存在のはずである。
『お願い、やめて! 私はこんな結末を、望んだりはしない!』
強い口調へと変わった。それが、彼女の「魔術」の詠唱だと、今の私には気づけるはずはなかった。
『私は、ルシエルのように厳しくなれない。私はきっと、甘い存在……でも、私は決して、あきらめない。私は、絶対に絶望なんてしない!』
精神支配。
そういった、類の魔術があることは知っている。ただ、私はそれに長けてはいなかった。そして、私は忘れていたのだ。彼女、アリシアは……それに、長けていたということを。
『この力は、私が使うべきではない。この力は、ルシエル。あなたが使うべきもの。そして、この力が欲している主もまた、私ではない。ルシエルよ!』
不思議だった。
私は、彼女よりも頑固者であったはず。
潜在的魔力も、魔術の術者レベルも、すべてにおいて私はアリシアを上回っていた。それなのに、今。私は彼女の言葉を聞き流すことができない。自制ができない。彼女の支配に、完全にやられてしまっている。それは、私が「魔力」を捨てたからだろうか。今の力関係では、彼女が優位に立っているという証拠だろうか。
強気に詠唱を続ける、彼女の姿に。私は、息子である「ラナン」の演説を思い出していた。フロートに捕まり、処刑台に貼り付けられたときの彼の訴えは、「諦めない」という、絶対的「信念」がそこにはあった。彼の言葉に、集まっていた野次馬たち市民は、こころを完全に奪われていた。
今思うと、あれはラナンの中にあった「神」の力が、表面に出て、「言葉」として支配していたのではないかと、考え及んだ。ラナンは、間違いなく「神」であり、そして、間違いなく「アリシア」の子だと、思えた。
『ルシエルに、拒否権はない。此処、クリスタルの中では私が絶対的支配者よ』
絶対的支配者。
私は、こころの中でそれを反芻する。
「……アリシア」
ここまで、黙ったままだった私が口を開いたのは、たまたまである。アリシアに口答えしたくなったからではない。単に、黙っている間、息を止めていたのか。肺の中の空気がなくなり、息苦しさを感じ、自然の流れで口を開いたとき、酸素を取り入れ、二酸化炭素を吐き出す瞬間に、言葉をついでに足した……そんな具合だった。
『ルシエル。ライエスの力も、ルシエルの力も……あなたに渡すわ。きっと、必要になるときが来る』
そんな日は、来ないで欲しいと私は思う。
『神々の怒りを鎮める役目は、ひとりに押し付けてはいけない。ルシエルも、だからこそ万能ではないのよ』
「それなら」
今度は、意志を持って口答えしようとする。しかし、アリシアはそれを望まなかった。間単に、私を制する。彼女はここまで、強い魔術士だっただろうかと、疑念を抱く。それとも、私が弱くなっているのか。
『この力を使いこなせるのも、使いこなすのも、あなたよ。ルシエル』
私が顔を上げ、脱力仕切った身体を何とか起していると、アリシアは私に無理をするなと言わんばかりに、膝を曲げてその場にしゃがみ込み、私に向かって手のひらを広げた。
それが何を意味しているのかを察するのに、時間はかからなかった。
『でも』
「……?」
顔が近づいた彼女の瞳から、私は顔をそらせない。次の彼女の言葉を待つことしか、できない。
『今のルシエルには、必要のない情報。必要のない力であることは確か』
この子守唄のような詠唱は、いつまで続くのだろう。私の自由は、完全に彼女の中だ。それでも、悪い気はしない。それはきっと、彼女の声の持つ特性というものだろう。
『ルシエルの中で、静かに眠って』
その、安らかな言葉と共に、大きな爆発とも取れるような、光の増幅が起こった。目がくらむ。視界は「白」一色である。「緑」が本来の魔術の色。それなのに、今広がっている景色はまさしく「白」であり、雪景色でも見ているかのような錯覚に陥った。この世のものとは、思えない「光」は、冷え切った私の身体を包むように、熱を帯びていた。あまりにも強い光量に耐えられず、目を閉じる。すると、意識までもが遠のいていくのを感じた。
『……いつか』
遠く、遠くで、声がする。
『いつか、本当に必要になるときが来てしまったら、そのときには……』
何を言っているのか、理解する思考能力がない。
今もまだ、私はアリシアの支配を受けているのだろうか。
『そのときには……また』
また。
また、何だというのだろうかと、消えゆく意識の中、私はその続きを……その、答えを待った。しかし、その先を聞くことは、叶わなかった。
「……様!」
あの、温かく優しい声は、どこへいったのだろう。
「……エル様!」
私が確かめたいことは、私の存在ではない。
「ルシエル様!」
それなのに、私に残ったものは……泣きそうな顔をしながら、私の身体にすがる、青年の姿。
「……」
その、青年の姿を忘れた訳でもないし、青年の名前が分からない訳でもない。
「……」
ただ、違和感がある。
「……」
口を閉ざしたまま、青年を見る。言葉を発しようとしない私を見て、青年は戸惑っている。その青年の横には、色とりどりの頭の青年や少女の姿がある。どの顔も、見覚えがあるし、私は今、窮地に立たされている訳ではないことは、理解している。
それでも、言葉を発する気にはなれなかった。私は、何かを忘れている。
(何だ……?)
この、違和感を突き止めようとする。記憶を辿ろうと、試みるが、頭痛が邪魔をして、何かが引っかかって、思考回路をうまく使えない。そのことに、焦りを感じる。
(私は、何を忘れている?)
「ルシ」
ふらふらと、立ちくらみでも起こしているのだろうか。銀髪の青年に支えられながら、私のもとへ歩み寄ってくる小さな頭が視界に入った。緑の双眸で、さらさらとした、色素の薄いブロンドの髪。
「ルシ。大丈夫か?」
「……」
彼の名を、思い出すことには時間がかかった。見覚えはあったはずなのに、名前がうまく出てこない。
「……ラナン?」
聞き覚えはある。
私は、この少年を知っている。
それなのに、私は違和感を覚えて仕方がなかった。
「ルシエル様。どうしたんです?」
「少し」
私は、意識を取り戻してからはじめて、空色の瞳を持った青年に向けて、声を発した。
「少しだけ、時間をくれないか?」
その言葉を聞いて、青年は不安そうな顔をした。しかし、その理由を考える思考力も、今の私には残っていなかった。気にかけてあげることが出来ない。そのことを、申し訳なくは思うが、どうにもならない。
「少しだけ……」
私は懇願するように、言葉を繰り返した。




