07
ユースティアはエヘルシトに存在する王都軍駐屯兵団宿舎にいた。魔族軍の進攻に備えて駐屯兵団を指揮している。
「この戦いの目的は敵戦力の分析です。決してあなたたちを死なせることではありません」
駐屯兵団が持つ五つの分隊の隊長が集まる一室でユースティアは語る。
「国民の避難が完了し次第、分隊も順次避難を開始します。殿は私が努めます」
古巣であるエヘルシトへと戻ってきたユースティアを迎えたのは、勇者の仲間への羨望の眼差しと元死刑囚への蔑みの眼差しだった。
当時、死罪となり刑の執行を待つ身だったユースティアに取引が持ち込まれた。死罪を取り消す代わりに人体実験に協力するように持ち掛けられ、ユースティアはそれに応じた。
死罪の取り消し。周囲の者にすれば納得いかないのは当然だった。
実験の内容は到底人に伝えられる訳がないものだった。そして、ユースティアはエヘルシトから姿を消すように去り、王都で勇者の仲間として華々しく表舞台へと返り咲いた。
上官を殺し、敵戦逃亡した愚かで臆病な女。それがエヘルシトの駐屯兵団が持つユースティアの姿だ。それでも、彼女を理解している者もいる。上官の無謀な命令から救われた部下たち二十名。魔族との戦争の時、ユースティアの直属の部下であった彼らだけが彼女を信じている。
作戦の概要を説明し終えると、隊長たちは部屋から引き揚げていく。その顔はどこか納得のいっていないものだった。それでも彼らとて王都軍の一員だ。国民を守る為ならばユースティアの指示に従うだろう。
ユースティアは部屋に残り、地図上で戦闘を想像する。魔族軍の現れる地点。そこに自身を配置し、可能な限り時間を稼ぐ。なるべく駐屯兵団の手は借りない。駐屯兵団を使えばそれだけ犠牲が出る可能性が高くなる。一人でも多くの人間を避難させる。ユースティアはそれだけを考える。
不意に扉をノックする音が木霊した。ユースティアが応じると、音の主は扉を開けて部屋に入ってきた。
「副隊長、私たちに指示を」
現れた顔を見て、ユースティアは無表情に告げる。
「私はもう副隊長ではありません」
「はははっ、相変わらず真面目ですね」
男は表情を崩しユースティアに笑みを向ける。吊られてユースティアの表情も綻んでいた。
「お久しぶりですね、ソーコル。お変わりないですか?」
ユースティアの言葉にソーコルと呼ばれた男は頷いた。
「部隊の全員が別の部隊へと移りましたが、誰一人欠けることなく副隊長の指示を待っています」
ソーコルが窓際に近付き、眼下の中庭を指差す。そこには懐かしい顔ぶれがいた。男女総勢二十名。ユースティアが汚名を被ってまで守り抜いた部下たち。手には武器を持ち、鎧を着込んだ兵士たちがユースティアを羨望の眼差しで見上げている。
「……国民の避難誘導はどうしたんですか?」
ユースティアが駐屯兵団に出した指示は国民の避難誘導だけだ。誰にも戦えとは言っていない。
「避難誘導に駐屯兵団全てを使うのは少々大げさ過ぎますしね。ここにいる全員が部隊を一時的に離脱してきました。別に誰かが呼びかけた訳じゃないんですがねぇ」
ソーコルは困った様に肩をすくませたが、全く悪びれていなかった。むしろ、全員の心が一つだったと誇っている様に見える。
「……死ぬかもしれませんよ」
国民と駐屯兵団の避難が済むまで魔族軍を押し止めなくてはならない。それはまさに決死の作戦だ。
「我々は副隊長に救われた身。少々死ぬのを先延ばしにしてきたと思えば、安いものです」
ソーコルは飄々と言うが、ユースティアを置いて撤退する気は無かった。中庭の者たちも同じ意志だ。
「…………分かりました。我々で魔族軍を足止めします」
「皆さん、準備は良いですか?」
ユースティアが周囲の兵士に聞く。その問いにソーコルたちは一様に神妙な面持ちで頷いた。皆が各々に武器を手に取り、身を潜めている。
雑木林の中に潜むユースティアたちの間近まで魔族軍は迫っていた。
ユースティアは都市へと伸びる街道、それを囲む様に生息する雑木林を最初の奇襲地点とした。都市へは街道を通る他なく、その近くにある雑木林は最適の場所だった。
まずは前線の魔族を倒し、軍全体の進行を遅らせる。国民の避難が完了するまで時間を稼げば問題ない。
魔族軍が雑木林に囲まれた街道へと足を踏み入れた。魔族も人間と同様に雑木林に立ち入ることを良しとしていない。様々な姿の魔族がいても歩きづらさは同じなのだろう。
「行きます。私に続いてください!」
魔族軍を十分に引き付けた瞬間、ユースティアが雑木林から姿を現す。その直後、周囲の雑木林から幾人もの兵士たちが雄叫びを上げて魔族軍へと殺到する。
先のイストリアへの侵攻で大勝を得た魔族軍は少なからず油断していた。絶望を味わった人間がまさか奇襲を仕掛けてくるとは思ってもいなかっただろう。
魔族軍の混乱は最高潮に達し、兵士たちは次々と魔族を討ち取っていく。しかし、次から次へと押し寄せる魔族に終わりが見えない。
――これで侵攻は充分に遅れますね。
ユースティアは周囲を見渡し、奇襲の成功を確信した。しかし、その瞬間、全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。普通の人間には決してわからない。精霊の加護を受けたユースティアだから気付けた事。
危機を感じ、兵士たちを引かせようとしたが間に合わなかった。
兵士たちの身体を青白い光が貫いていく。光に貫かれた兵士の身体が燃え上がり、断末魔とともに黒焦げに燃え上がった。
「全員、撤退してください!」
ユースティアの言葉に兵士たちは混乱しながらも撤退していく。ユースティアは後退しながら魔族の群れの奥に青白い光を見た。光は空気中に収束し、一本の弓矢となる。
――なんでこんな前線に魔術師が……
誤算だった。魔族の中でも近接戦に弱い魔術師が前線にいるとは思ってもいなかった。しかし、まだ負けたわけではない。作戦は続行可能だった。
「シュペヒトたち弓兵に合図を。私が抑えている間に体勢を整えて第二地点へ向かってください。ソーコル、やられたコルウス、ウルラ、ハマーマの穴を埋める様に再配置をお願いします!」
国民の避難が完了するまでの辛抱だ。そう思い、ユースティアは盾を構えて、魔族の大群と向き合う。
正面から魔族が押し寄せる。街道の中央でユースティアは盾を構え、退避する仲間を庇う。
魔族と正面衝突するのは得策ではない。しかし、それは普通の人間のこと。今こそ精霊の加護を受けた自分の力を使う時。ユースティアは意識を左手、そして白銀の盾へと集中する。すると、左手を包むように盾が輝きを纏っていった。
――イメージするのは、巨大な盾――
ユースティアのイメージに呼応するように精霊の力が形を成し、半透明の盾が空中に出現する。魔族が放つ弓矢を弾き、魔術師の光を吸い取っていく。
敵の攻撃が通らないと分かると、ユースティアは盾を構えたまま前進を開始した。
眼前に迫る魔族軍。しかし、ユースティアは怯むことなく、大群の中に飛び込んだ。盾を押し込み、目の前の魔族を吹き飛ばす。盾をすり抜けてきた魔族を直剣で斬り伏せていく。魔族軍の進攻は完全に止まった。
街道を進むことが出来ないと悟った魔族軍は左右に分散し、ユースティアを囲むように雑木林へと足を踏み入れた。木立の間から魔族たちが見え隠れする様にユースティアは一切慌てることなく、尚も目の前の魔族を打ち倒していく。
四方を囲まれた頃、ユースティアは遠くからの笛の音を聞いた。退避させ、体勢を整えさせたソーコルからの合図だ。
本来ならば、ユースティアも退避しソーコルたちと合流するべきだが、退路がない現状ではそれは不可能だった。
ユースティアはソーコルの指示を先読みし、行動する。直剣を両手で逆手に持ち、地面に突き刺す。そして、片膝を立てて唱える。
「大地の精霊よ、力を貸したまえ! 我が望むは全てを拒絶する大地の殻!」
瞬間、ユースティアの足元から大地が脈動した。光と共に地面が盛り上がり、魔族たちを吹き飛ばしていく。周囲の木々をなぎ倒し、土の壁が競り上がっていく。ユースティアを囲むように土壁は殻を形成する。暗闇に包まれ外界から遮断され、世界を拒絶した空間がユースティアを支配する。
ユースティアは土に囲まれる寸前、彼方から飛来する弓矢を目にした。ソーコルの指示のもと、シュペヒトが率いる弓兵が一斉に放った弓矢が魔族たちを襲った。魔族の悲鳴すらユースティアには届かない。
一分後、ユースティアを包む殻は砂に還る様に崩れていった。ユースティアが精霊の力の供給を止めたが故の崩壊だ。
周囲には魔族たちの無数の死体が転がっている。どれもが弓矢に穿たれ、血を流している。
ユースティア自身が囮となり魔族を一か所に集中させて弓で一網打尽にする。魔術師の出現で予定を狂わされたが、作戦は成功した。
「コルウス……ウルス……ハマーマ……」
三人の部下を失った。魔術師の光の矢に貫かれた三人は跡形もなく消え去った。彼らは自分を信じてついてきた。しかし、自分は彼らを生きて帰らせることが出来なかった。ユースティアに自責の念が浮かび上がる。
戦場ではいつもこうだった。自分が指揮を間違えた為に部下たちを失ってきた。何度も後悔した。本当に自分が指揮官で良いのか。しかし、その度にまだ生きている部下たちを守らなければならないという使命感も湧き上がってくる。
――後悔すると分かっていながら……本当に馬鹿だな、私は――
直剣を鞘に納め、気持ちを切り替える。彼らを弔うのは全てが終わってからだ。ユースティアは退避したソーコルたちへと合流する為、踵を返した。
しかし、その時だった。街道の奥、依然として存在する魔族軍の奥から何かを感じた。圧倒的存在感。それでいて、どこか懐かしいような感覚。
「…………」
ユースティアは姿の見えない相手を睨み、戦闘に備えた。相手は必ず戦いを挑んでくる。それが分かる程の気配だ。
魔族軍が左右に分かたれる。奥から現れる者に道を開けていく。茶色の髪が伸び、幾多の戦場を経験したかの様な眼差し、頬が僅かにやつれているが男の足取りはしっかりしている。銀色の軽装の鎧が男の戦闘スタイルを物語っている。そして、全く飾り気の無い直剣。一見すればどこにでもある直剣だが、軍隊で数多くの直剣を目にしているユースティアには男の持つ直剣がどれほどの物か理解できた。
極限まで研ぎ澄まされた刃。柄は使い込まれているのにも関わらず刃には刃こぼれ一つ無かった。
「あなたは…………」
男の姿を見た瞬間、ユースティアはある人物を思い返した。ユースティアが軍隊にいた頃、二年前の魔族との戦争が集結した後、牢屋の中から見た姿。兵士に囲まれ栄光を称えられていた。後々聞いた話では、あの人物こそが戦争を終わらせた勇者だったのだ。
「いや、しかし……」
勇者は既に消息を絶っている。突如として行方知れずになり、勇者の顔を見たことない者がほとんどだ。しかし、逆を言えば、勇者が今どこで何をしているのか分からないという事だ。つまり、目の前の男が二年前の勇者ではないとは言い切れない。
男はユースティアの戸惑いなど気に掛けず、直剣を構えた。
「くっ……」
ユースティアは思考を遮断し、直剣と盾を構えた。今は男の正体など考えている暇はない。
男が正面から斬り込んでくる。ユースティアはそれを左手の盾で受け流し、右手の直剣で横薙ぎを放った。しかし、男は既に姿を消している。
――速い!
ユースティアは無防備の背後へと回り込まれた瞬間にその場を飛び退いた。一瞬前まで彼女の首があった場所を直剣の鋭い一撃が通過していく。
スピードでは相手が有利。そう悟ったユースティアは自身の守りをさらに固めていく。正面に盾を構え、直剣を隠すように構える。盾で牽制し、直剣で確実に相手を捉える。ユースティアが強大な敵と一対一で戦う際のスタイルだ。
「盾、か……」
ユースティアの盾を見て、男が僅かに反応を示した。自然と漏れたであろうその言葉は彼女にも理解できる人間の言葉だった。
「あなたは本当に……」
疑惑が徐々に確信へと変わっていく。しかし、それを決定付ける根拠がないのも確かだった。なによりも、ユースティア自身がそれを信じられなかった。
人間でありながら魔族に寝返る。
軍人として国を守る為に戦い続けてきたユースティアにはそれが考えられなかった。軍人は戦いをしたいから戦っているのではない、国を守る為に戦っているのだ。
目の前の男は何者なのか。なぜ、人間の言葉を話すのか。本当にあの勇者なのか。
ユースティアは頭を振って再び思考を遮断する。そして、目の前の男の動きに意識を向ける。
男が動くと同時にユースティアも動いた。互いに距離を詰める。直剣と盾がぶつかり合う。男の姿は見えないが、盾を押し返す力が男の存在を証明している。
男は左右に身体を振って、剣戟を繰り出す。ユースティアは守りに徹して盾で弾き続けた。
ユースティアの背後にある直剣を警戒してなのか、男は先ほどの様な大胆な動きをしてはこなかった。正面に陣取り単調な攻撃を続けている。
殺意が感じられない。ユースティアは男の動きを見ながらそう思った。
男が不意に距離を取った。ユースティアは深追いをせずに男を見据える。すると、男は直剣を鞘に仕舞い背を向けた。
「待ちなさい!」
男の行動にユースティアは驚きを隠せなかった。戦いの最中に武器を納め、敵に背を向ける。自らが負けたと主張する行動だ。しかし、男は振り返り告げる。
「俺たちの勝ちだ」
男は周囲を見渡し、ユースティアに違和感を覚えさせた。
「魔族、が……」
いなかった。先ほどまで遠巻きにユースティアを窺っていた魔族たちが一体もいなくなっている。そして、その瞬間、ユースティアは自身の後ろ、エヘルシトの方角から聞こえてくる音に気が付いた。
――ハメられた!?
ユースティアは男に背中を向けて走り出す。後退をしていた仲間の下へ脇目も振らずに走る。
男の正体に気が散ったのか、男の攻撃に意識を傾け過ぎたのか。ユースティアは自身の不注意を嘆きながら、仲間を探した。そして、ユースティアが仲間の下へ駆けつけた時には既に遅かった。
街道の一角に人間の死体が転がっている。見覚えのある鎧を纏った死体がいくつも転がっている。
「ソーコルッ! シュペヒトッ!」
ユースティアは倒れている者を一人ずつ確認していくが、誰も答えなかった。そんな中、僅かに息が残る者がいた。
「パッセル!?」
ユースティアの部下の中で最年少の少年兵がユースティアを見上げる。
「副隊長への、援護射撃を、した直後に……魔族に、囲まれました……」
敵は戦闘が始まる前から既に迂回してユースティアたちの背後を取っていた。そう告げる少年の口から血が垂れてくる。
「パッセル、いま助けます!」
腹部の刺し傷を押えても血は止めどなく流れてくる。直感的に助からないとは分かっている。それでも、ユースティアは少年を助けようと応急処置を施した。
「あなたはまだ若いんです。これからの人生があるんです!」
未来のある者たちの命を守る為に戦ってきたユースティア。しかし、いまそれが崩れ去ろうとしている。自分がしてきた事は何だったのか。
「副隊長、勝ってください……ぼくたちの分、までみんなを守って……魔族に、かってくだ、さい……」
最後の瞬間、少年はユースティアの手を強く握って、そう言った。
少年の身体から力が抜けていく。
――私は何を守る為に戦ってきたのだろう……
少年を抱きしめ、ユースティアは自分に問いかける。
――国民を守る為の兵士。国民を守る為には命さえ厭わない。しかし、私はそれすらも守りたかった。全てを守る力が欲しかった。そして、私はそれを手に入れたはずだったのに……彼らは死んだ……
魔族軍がエヘルシトに侵入し、街を蹂躙している。既に住民の避難は完了している。作戦は成功だ。
しかし、ユースティアは敗北した。