残り……03:02分
光は、再び二人を待ち構え、宙に浮いたまま止まっていた。
一人の青年と一匹の犬は、ひたすら光へ向かって歩みを進めている。
カゲンは、左右に首をふりながら、
「……ミーミルは、かわいそうな人だった」
「ジュノをあんな姿にさせたくなければ、早く足を進めることだな」
イヴは素っ気なく、そう言い返した。
「その通りだな、イヴ」
二人の間にしばし沈黙がただよっていたが、再びカゲンが口を開いた。
「……選ばれし神。ミーミルは確かに俺をそう呼んだ」カゲンは両腕を広げ、かぶりをふりながら、「あれは、一体どういう意味だったんだ」
「さあな。だが、これだけは言っておくぞ。変人の言う事をいつまでも考えていたところで何にもなりやしない。ただ珍しい客人に大袈裟に振る舞っていたんだろうよ」
二人が会話をする間に、白い光の玉は、一軒の家の前で浮かんだまま停止していた。何の変哲もない木製の家である。
木々に囲まれた湖の奥に、家があるというだけでも驚きだった。だが、それよりも驚いたのは、この家を見つけた直後のことである。
家の屋根に止まっていた二羽のワタリガラスが、カゲンとイヴを睨んだかと思うと、二人の周りを飛び交ってきた。
カゲンは、さすが戦いの神だけに、邪魔くさそうに手で追い払う仕草をするだけであった。しかしイヴは怯えてしっぽを下げ、白い体毛を立たせていた。その姿は、神獣というよりただの犬に近い。
カゲンはカラスを追い払いながら、古い木の扉が開く音を聞いた。
振り向くと、扉の隙間から誰かがこちらを覗いていた。
その者が扉を勢いよく全開まで開けると、二羽のワタリガラスは翼をはためかせながら、屋根の上に戻っていった。
その者は――片目が無い、長い髭を持った老人の男で、つばの広い帽子を被り、片手には槍を持っていた。――カゲンを見るなりこう言いだした。
「何か、私にごようかな」
カゲンは口を開いたが、すぐに閉じてしまった。どう答えれば良いか、分からなかった――迷子になったから、突然現れた白い光の玉が導くままに歩んできたとでも言えばいいのか? いや、そんなことを言えば頭がおかしいと思われてしまうかも知れない。
「いいや、何も言わんでもいい。お前が来ることなど、とうに知っておったわ」
老人はそう言うと、視線をカゲンから、自分の左側で宙に浮いたまま停止している光へ移した。
「この若者に、導かれてきたのじゃろう。まあ、ほれ、御上がりなさい」
老人はカゲンの方に背を向け、屋内の中をさらに進んでいった。
カゲンとイヴが部屋の中へ足を踏み入れた時、二匹の狼が腰を低くしながら、鋭い眼光で睨みつけてきた。《威嚇しているのかもしれない》とカゲンは思った。
だが恐怖を感じる間もなく、二匹の狼はとぼとぼと歩く老人の足元へ歩んでいった。
カゲンは、思わず安堵のため息をつく。
二匹の狼は、老人の様子を見て、カゲンとイヴが敵でないことを察したのだ。
部屋の中央にテーブルが置かれ、その右側には大きなソファーが置いてある。左側には、古い木で出来たゆり椅子があった。そこに老人がゆっくり座った。その瞬間、ゆり椅子からみしりと音が鳴る。
二匹の狼は、老人が座ったことを確認すると、彼の足元で犬のように寝そべった。
老人は、肘かけに肘を乗せ、頬杖をつきながら、
「そこのソファーに座りなさい」
カゲンは言われるがまま、ソファーの中央にどっかりと座った。イヴは、そのカゲンの足元にゆっくり座り、テーブルの先で横たわる狼たちへ視線を向けた。狼たちはリラックスしてあくびまでしている体である。
「そのままでは、何も出来んじゃろう」
老人の言語を聞いたカゲンは、訝しげに老人を見つめた。
それを察した老人は、咳き込んで、
「いや、お前さんのことではない。お前さんには手も足もあるが、そちらの者はそうでないだろう」
と、カゲンの右側でいつの間にか浮かんでいた白い光を指さした。
カゲンは、老人の指さす方へ目をやるや、白い光に気がついて、片側の眉をあげた。
ついで老人へ視線を戻し、
「この光が、生きているとでもいうのか」
「いいや、生きておらんから身体が見えんのじゃ。だが、ある手をつかえば話はべつだ」
そう言うと、老人はおもむろに立ち上がり、カゲンのいるソファーを横切っていった。
同時に、二匹の狼も起き上がり、老人とともに歩んでいく。
カゲンは、老人が向かった背後をふりむいた。
何年も放っておいた物置のなかのように、ごちゃごちゃと多彩な道具が散らかってる。カゲンには、どれもが銀色の金属製で出来ているように思えた。
老人は、洗濯機ほどのサイズと形をした銀色の箱の前で足を止めるや、両開きの銀箱の戸を、皺だらけの手でこじ開けた。
「この箱の中へ入るとよい」
老人は振り返ると、白い光の玉にそう言ってうながした。
言われるがまま、たゆたう白光の玉は動き出し、素直にあっさりと銀箱の中へと収まった。
たった一つの眼で、それを確認した老人は、銀箱の戸をしずしずと閉めた。
鈍いカゲンには、老人のその行為の意味がまったく理解できないようであった。
《なぜ、銀の箱のなかに光の玉をいれたんだろう?》と、彼は胸の中で言い、眉をひそめて銀箱を見つめ続けていた。
と……銀箱がものすごい勢いで左右に揺れだした。まるで、地震でも起きたのではないかと思うほどに。
銀箱が揺れた拍子に、ぱっと箱の扉が開かれて、中から人の姿をゆうする者が転がりでた。白光の玉はなんと、少年の姿へと変貌し現れたのである。
が、少年はさも痛々しそうに唸り声を上げながら立ち上がろうするので、愕然したのも束の間、カゲンは即座に異体のしれぬ少年を助け起こしてあげるのだった。
「驚いたな」と少年に肩を貸しながら、カゲンが言った。「おまえ、人間の香りがするぞ」
「醤油を獣に垂らしたような独特な香りだから、間違いない。人間だ」
答えたのは、そばに駆け寄ってきたイヴだった。
「一体どういう事だ」
カゲンは、かなり窶れた細い少年がソファーに座ることに手を貸してやりながら言う。
「人間の魂が神界にあるなんて話はおとぎ話や歴史や伝説にも聞いたことがない……。きみ、説明できる? 名前は?」
ソファーに座った少年と同時に、そこから対面に有するゆり椅子へ、眇の老人も腰掛けたところだった。
「……翔っていうんだ」
驚いた顔で見つめてくる赤毛の青年に、若干怯えたような様子で、少年は答えた。
「その名前には、聞き覚えがある。ひょっとして、ジュノの知り合いじゃないよな」
興味津々に尋ねてくるカゲンに、少年――翔は縦に頷いてみせた。
「ジュノは友達だ。だけど、僕が無力のせいで、助けられなかった……。ジュノが、誰かに襲われているのを、ただ見ているしか出来なかった。その後のことは、一気に力が抜けていったのだけは覚えてる……。それから、僕が真っ白な世界で目覚めたとき、声を聞いたんだ」
老人オーディンは、しずかに言いはなった。
「翔や。お前さんが目覚めた場所とはおそらく、〈黄泉の国〉じゃろう。そこで、天の神の声を聞いたのだな?」
「やっぱり、あそこはあの世だったんだね……。何となく、そんな気がはしていた」
翔の、まだ若い顔に、陰りが見えた。
「その声は、僕に、こう告げたんだ。
〝そなたが生前、悔いている事があったことは知っている。そなたには、まだやらねばならぬことが残っている〟と。
〝闇の女神ジュノのために、神界へ行きなさい。彼女はまだ、生死の狭間におり、捕らわれたままだ〟と」