『改善 ― 答えの音は、消えなかった』
ある「改善」が決まった。
理由は理解できた。
だから従った。
──それでも、どうしても数えてしまったものがある。
これは、私が現場で感じた違和感から生まれた物語です。
「業務改善です。」
そう説明された。
台車たちの車輪は、四つとも違う音で軋む。
前輪が甲高く、後輪が低く。
誰も油を差さない。
窓の外で、蝉が鳴き始めていた。
朝の七時は、もう鳴いている。
だから私は歩いた。
台車たちを倉庫へ運ぶ。
戻る。
患者の準備をする。
また倉庫へ行く。
また戻る。
蛍光灯の下で、影は二つに割れる。
右の影が先に曲がり、左の影が追いつく。
角を曲がるたび、それだけが変わる。
一日で何往復しただろう。
誰も数えない。
「改善だから。」
その一言で終わる。
翌日も歩く。
翌週も歩く。
翌月も歩く。
蝉の声は、いつからか止まなくなった。
夜になっても、どこかで鳴いている気がした。
靴底がすり減る場所は、いつも同じだった。
右足の外側。
そこだけが薄くなっていく。
私は、一度だけ数えてみた。
台車たちを押して歩く距離。
倉庫まで。
戻って。
また倉庫まで。
また戻る。
一日、およそ百二十メートルもあった。
日曜日を除くと、一年で三百と……十三日。
120m × 313日 = 37,560 m
メモ帳に書いた。
人の歩く速度は、時速五キロ。
──その頁を閉じた。
誰も聞かなかった。
私も言わなかった。
歩くことが嫌なのではない。
意味のない一歩が嫌なのだ。
台車の取っ手には、私の手の形が残っている気がした。
実際には何も残っていない。
ただ、握る場所はいつも同じだった。
私は言った。
「この業務、本当に必要でしょうか。」
返事は一つだった。
「決まりだから。」
「方針だから。」
「みんな納得しています。」
その瞬間、
蛍光灯が一度、わずかに瞬いた。
誰も顔を上げなかった。
蝉の声が、少しだけ大きくなった気がした。
私も、そのまま頷いた。
会議が終わって、
私はメモ帳のその頁を破った。
紙だけが、
軽い音を立てた。
答えは、
消えなかった。
汗が背中を伝う感触だけが、やけに鮮明だった。
それ以外は、何も感じなかった。
私は今日も台車を押す。
昨日決められた場所へ。
今日も。
車輪が軋む。
前輪が甲高く、
後輪が低い。
私は、その音だけで角を曲がれるようになっていた。
ある朝。
音が、一つ増えていた。
蝉の声にまぎれて、
最初は誰も気づかなかった。
車輪は、
前輪が甲高く、
後輪が低い。
その音だけは、
昨日と同じだった。
(了)
この物語に登場する『改善』が正しかったのか、間違っていたのか。
私は答えを持っていません。
けれど、一つだけ確かなことがあります。
人は数字を消せても、
紙を破っても、
音だけは、ときどき心の中に残り続けます。
もし、この物語を読み終えたあと、
あなたにも何か一つ、
思い当たる「音」が残っていたなら、
この物語を書いた意味はあったのだと思います。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。




