第1話「頼られる門番」
来客の予定は、午後一番に三人ぶんあった。
御子柴がそう言ったとき、澪は自分のモニタから顔を上げなかった。シグマの応接スペースはガラス越しに見える。午後一時、スーツを着た男二人と女一人が現れた。先頭の男が、名刺を一枚置いた。
「県警の、サイバー犯罪対策課の者です」
用件がデータの匂いを含んでいるなら、聞き逃したくない。澪は呼ばれる前に立って、応接の端の椅子に座った。
「単刀直入に申し上げます」名刺の男が言った。「SNSを使った投資詐欺が急増しています。被害額は、この半年で前年の倍。我々も口座凍結やアカウント削除をやっていますが、追いつかない。消しても、湧くんです」
「湧く」――昨夜、自分が自社ログで見つけたあの違和感と、同じ言葉だった。
男は一度言葉を切り、御子柴のほうへ視線を移した。
「率直に申し上げると、我々は民間に頭を下げて回るような真似は、あまりしません。ですが、御社の名前は、被害相談の現場で何度か耳にしました。あそこは詐欺を“出す前”に止めている、と。うちがいつも後追いで潰しているものを、内側で湧かせないようにしている運営者がいる。ならば、そのやり方を持っている人なら、この森の“形”を読めるんじゃないか。……それで、藁にもすがる思いで、来ました」
御子柴は表情をほとんど変えなかった。だが澪は知っていた。この男は、よそから自社を褒められたときにだけ、ほんの少し口の端を動かす。いまも、動いた。守り切った夜の分だけ、評判は外を歩いていた。
女性の刑事が、話を引き取った。淡々とした声だった。
「起きてしまった一件の後始末ばかりで、その現象が全体としてどういう形をしているのか、どこがどうつながっているのかが、まるで掴めない。個々のアカウントを一つずつ潰しても、翌週には知らない番号の口座と、見たこともないドメインで、同じ手口がまた立ち上がっている。私たちには、木を一本ずつ伐る斧しかない。森の地図が、ない」
男が、膝の脇の鞄を持ち上げて見せた。
「集めた死骸の山なら、ここにあります。通報された詐欺広告、潰したドメイン、凍結した口座、押さえたIP。犯人側の足跡です。このデータを解析し、奥にいる連中を辿る地図を描いていただけないか」
御子柴は少しの間を置いて、答えた。
「お引き受けします。ただし、うちはデータを見るだけです。地図は描きますが、扉を蹴破って踏み込むのは警察がやってください。現場には行きません」
「ありがたいです」女性刑事は深く頷いた。
「一つ、確認ですが」澪は続けた。「被害者の個人情報は?」
「いきなりはお渡しできません。あなたたちがデータの形を見せてくれて、私たちが『何を訊けばいいか』を決められてから、捜査関係事項照会書を切る。順番が逆だと、書類が出せないんです。まずはその最初のところで、力をお借りしたい」
澪は小さく頷いた。
「順序は正しい。先に、犯人側の足跡だけで形を掴む。どこが要かが見えて、初めて“何を照らして受け取るか”が決まる。中身の分からない箱に、先に鍵を渡す道理はない。……個人の年齢などの情報は、形が見えてからで十分よ」
女性刑事の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。書類の手続きを、こちらの都合ではなく理屈で肯定されたのが、意外だったのかもしれない。
***
三人が帰ったあと、彩がデザインの手を止めて覗き込んできた。
「で? もうデータ来てるの?」
「犯人側のぶんは、さっきの鞄の中身を。個人の情報は入っていない、抜け殻の山」
澪は自席へ戻り、ログを開いた。警察が後始末のたびに拾い集めてきた、半年分のデータだ。一行ずつ、上から下へ撫でていく。通報された広告の文面、飛ばされた先のドメイン、その裏のIP、金を吸い込んだ口座番号。日付順に並んだそれは、事件の記録というより、脱皮のあとに残された抜け殻の堆積に見えた。
彩が背後から画面を覗き込んで、眉を寄せた。「……ぜんぶ違うアカウントじゃん。これ、どうやって同じ相手だってわかるわけ?」
「文面が近い。句読点の打ち方、改行の位置、絵文字の癖まで、判で押したみたいに揃ってる。人間は指紋を隠すのは上手いけど、書き癖はなかなか捨てられない」澪はスクロールを止め、二つの通報を並べた。
「このドメイン、登録は先週。所有者は隠匿。三日で消えてる。隣のこれも同じ。生まれて、使われて、捨てられるまでが、七十二時間。最初から使い捨てる前提で作られてる」
「同じ手口が、別の顔で何度も出てくる。広告の言い回しも、連れ込む先の作りもほとんど一緒。なのに、アカウントもドメインもIPも、全部別物。昨日のIPはもう使ってない。顔は捨てる。連中は捨てない」
スクロールするうち、澪の指の動きがだんだん遅くなった。
警察が一つ潰した日付の隣に、別の一件が立ち上がっている。潰した数より、翌日に立ち上がる数のほうが、いつも多い。抜いた指の跡から、もう次が芽吹いている。
「……一つ刈っても、向こうが立て直す速度のほうが速い」
御子柴がコーヒーを澪の机の端に置いた。「手で、追いつくか?」
「追いつかない。これは足し算と引き算の勝負で、最初から負けが決まってる。片方は使い捨てを前提に、いくらでも安く量産できる。片方は一件ごとに人手で潰す。増える速さと減る速さが、桁で違う」
澪は画面の下端まで一気にスクロールさせた。「潰す作業を百倍に増やしたところで、追いつくどころか、差が開く一方よ。イタチごっこですらない。イタチが百匹いて、こっちの手は二本」
「で、どうすればいい?」
「――勝てない土俵で殴り合うのを、やめる」
御子柴が、机の端に置いていたコーヒーを、澪の指のすぐ届くところまで寄せた。何も言わなかった。
昨夜、自社のログに貼った付箋の感触がよぎる。一匹ずつでは追えない、と感じたあの警告。あの夜のマコトも、いま鞄から出てきた警察の山も、湧いてくる理由はきっと同じところにある。
澪は画面を冷えた目で見渡した。声が、低く固まっていく。
「顔とドメインは、いくらでも塗り替えられる。でも、金の通り道と、繋がり方までは、そう簡単には変えられない。……表層を消しても、つながり方は残る」
彩が御子柴と顔を見合わせた。
澪はもう二人を見ていなかった。ログの一行の、さらに奥を見つめていた。抜け殻の一枚一枚ではなく、それを脱ぎ捨てていく、見えない一匹のほうを。
「だから――枝を追うのは、やめる」
手で追う算数を、やめる。
ならば、次に要るのは――一匹ずつではなく、まとまりごと、根元から掴む網だ。
「急増する投資詐欺の構造が掴めない。集めた死骸を解析してほしい」――県警がこの小さな会社を頼ってくる。門番が頼られる側に回る痛快さに頷いたら、【びっくり】か【いいね】を! 続きはブックマークで。




