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ベイズの千里眼 ~コミュ障の天才は、その課題を全部見抜く(恋以外)~  作者: 冬野 結
第6章「マコトの牙――自社を守り抜く夜」
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第3話「守り切った夜」

「できたわ」澪は、消耗しきった声で言った。


「一次スクリーニングは、異常検知とベイズのまま。そこは据え置き。その奥に、二次スクリーニングを一段足した。AIエージェントに、一次が容疑をつけた分だけ読ませて、詐欺・シロ・保留を判定させる」


御子柴が、後ろに立っていた。「で、それ、わかるように言うと?」


「向こうは、顔と言葉を塗り替えて、私の網をすり抜けた」澪は、画面の赤い点を指した。


「だから私は、安い網の奥に、重い検査場を一つ置いた。文章と画像をまとめて読んで、詐欺かどうかを理由つきで判定する審査官。審査員は必要とあらば、過去の投稿まで自分でさかのぼる。著名人の顔なら、許可があるかまで調べる。白黒つかない場合は、私に判断をゆだねるようにした」


御子柴が、机の端に置いていた苺大福を、澪の指のすぐ届くところまで寄せた。それから、自分の上着を脱いで、澪の肩にかける。何も言わなかった。言うべき言葉はいくつもあったが、そのどれも、口にすればこの男の建前が崩れる。だから、ただ温かいものを近くに置いて、寒くないようにしておく。それだけだ。


「苺大福を用意しておいた。糖分が切れると、判断精度が落ちる」ようやく御子柴が言ったのは、それだけだった。


「……助かるわ」澪は、その建前を額面どおりに受け取って、苺大福を引き寄せた。けれど、指先は、まだ少し震えていた。「でも、勘違いしないで。これで抜けたのは、“今の枝”だけよ」


「枝?」


澪は、それには答えなかった。画面の赤い点を、ふと冷めた目で見ただけだった。苺大福を一口だけかじって、椅子に深く沈む。瞼が重い。その話を続けるには、頭が削れすぎていた。


夜が、明けようとしていた。澪の組んだ奥の検査場は、確かに今の敵に適応していた。それで、十分なはずだった。


***


それから三日、組み直した網は黙々と仕事をした。


敵は手を変え続けた。言い回しを少しずらし、別の顔に差し替え、新しい垢を湧かせた。けれど、戦績の監視が変化の瞬間を拾い、網はそのつど組み変わって、湧いてきた顔を束で抜き直した。検出率が落ちては、また戻る。落ちては、戻る。澪の作った網は、敵の変化を呼吸のように吸い込んで、適応し続けていた。


「止まってないな」御子柴が、ダッシュボードの折れ線を見て言った。下がりかけては持ち直す、小刻みなのこぎりの線。「これが、君の言ってた“適応し続けることが盾”ってやつか」


「ええ」澪は、コーヒーのカップを両手で包んで答えた。「向こうが手を変えた瞬間に、こっちも組み変わる。“今どんな網か”を確定させない。それが、いちばん固い」


御子柴は、その折れ線をしばらく眺めてから、ふっと口元をゆるめた。


「外で、噂が立ち始めてる」


「噂?」


「“詐欺ゼロ”を掲げてるSNSは、ほかにもある」御子柴は、椅子の背に身を預けた。「だが、掲げてるだけのところがほとんどだ。看板は出すが、実際に止まってるかは別の話。――うちは、本当に止め続けてる。それが、わかる人にはわかり始めてる。『あそこは、口だけじゃない』ってな」


澪は、カップの縁ごしに彼を見た。御子柴の言う“噂”や“評判”が、いずれ仕事に化けることは、もう何度か見てきた。彼はそういうものを嗅ぎ当てて、形にしてしまう。


「経営の話ね」澪は短く言った。「私には、よくわからないけれど」


「いいんだ。それは僕の仕事だ」御子柴は笑った。「君は、止め続けてくれればいい」


***


澪は、ダッシュボードに目を戻した。のこぎりの折れ線は、相変わらず下がっては戻りを繰り返している。網は、確かに勝っていた。今夜も、湧いてきた顔を残らず抜いている。


なのに、澪の指先には、嫌な感触が残ったままだった。


「……守り切ってるのに、勝った気がしない」澪は、ひとりごとのように言った。


御子柴が、顔を上げた。「どういう意味だ」


「今夜捕まえた顔」澪は、画面の赤い点の群れを指した。「明日には、もう無い。このドメインも、このIPも、この垢も、向こうは捨てて作り直す。私が束で抜いても、向こうは束で湧かせ直す。――私はただ、“今の枝”を刈ってるだけなのよ」


御子柴は、その赤い点を見た。今夜の戦果。明日には、ただの死骸になる戦果。


「刈っても、刈っても、生えてくる」澪は続けた。「一本切れば、隣から二本。網は適応してる。でも、適応してるだけ。守り切っても、終わらない。もう少し効率的に対応したい」


御子柴は、彼女の横顔を見た。三日、のこぎりの線を睨み続けた顔。それでも、その目だけは、いつものように冷たく澄んで、画面の向こうの何かを見据えていた。


「じゃあ、どうする」


澪は、すぐには答えなかった。赤い点の群れを、ただ見ていた。守り切った戦果のその奥に、まだ自分の見ていない何かがある気がした。掴みかけて、すり抜ける。指先に、輪郭だけが残る。


「……わからない」澪は、めずらしく、はっきりそう言った。「でも、いまは防げてる。急ぐ話じゃない。――気が向いたら、また考えることにするわ」


御子柴は、それ以上は問わなかった。澪が何かを“後ろに置く”とき、たいてい、もっと大きなものを見ている。彼はそれを、もう知っていた。


「わかった」御子柴は、空いた皿を下げた。「なら、今夜はもう切り上げろ。網は止まらない。君が寝てる間も、勝手に組み変わり続けるんだろう」


「ええ。それだけは、よくできてる」澪は、かすかに笑った。


***


明け方近く、澪はソファで眠りに落ちた。


御子柴が、毛布をかけた。彩が、その様子を影から見て、口元だけで「……ぷっ」と笑った。


ダッシュボードの折れ線は、夜のあいだも下がっては戻りを繰り返していた。網は、今夜も守り切っていた。マコトのフィードに、詐欺は一つも残らなかった。


それでも、眠る澪の指先には、まだ嫌な予感が残っていた。


枝は、いくら刈っても生えてくる。一本ずつ刈っているかぎり、追いつかない。――だったら、一本ずつ刈るのをやめて、いっぺんに刈り取る方法はないのか。その奥に、まだ自分の見ていない何かが、きっとある。刈り続ける先ではなく、その“何か”を、丸ごと。


澪は、それが何なのか、まだ知らなかった。


“詐欺ゼロ”を、この小さな会社が守り切った夜。積み上げた評判の一方で、消しても消しても湧く気配だけが残る――達成と不穏の同居にじんときたら、【にこにこ】か【びっくり】を! 次の波はブックマークで。

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