第一話
深夜二時に男が一人、歩道橋をゆっくりと上っていた。男の視線は水平より下を向いていたが、視界に入る景色を気にかける様子はなく、虚ろに近かった。
歩道橋の中ほどまで近づいたころ、ふと視界の端が青く光ったように感じた。真夜中という時間もあり、男は少し不気味に感じて歩道橋の手すりまで体を寄せ下をのぞき込む。けれど、そこには何もなかった。
気のせいだったと思いながら反対側を振りむこうとした瞬間、男の体は手すりの向こう側に吸い込まれていった。
ゆっくりと落ちていく中で男は自分の生を振り返ろうとしたが、引きこもり始めた数年間を思い出した瞬間にただ強く目を閉じ、死の瞬間が来るのを待った。
男は目を閉じ続け、衝撃の瞬間に備えていた。が、その時はいつまでも来なかった。
戸惑い恐がりながら目を開けると、そこは真っ白な天井も壁もない場所だった。床だけが存在しているが、その床も果てが見えないほど続いている。
目の前には水色の髪の女が立っていた。容姿は美しいがどこか近寄りがたい。白いワンピースのような服装はヨーロッパの中世ごろのものか?女はにこやかに微笑み、話しかけてきた。
「不幸な事故に会い残念でしたね。ですが、あなたには二度の目の生を受けるチャンスを授けましょう。」
突然、自分の死と転生の提案を受け男は固まりかけた。だが、なんとなくこんなバカげた話になる予感もしていた。最近よく耳にする転生ものの入りに酷似している。でなければ深夜の歩道橋からこんな場所にいるはずがないという思いもあった。
「わかった、やってみるよ」
言葉が勝手に口から出ていた。男は自分が物語の主人公になれることに喜びを感じていた。今までの自分の人生に比べたらどんな物語でも魅力的に思えた。
「そうですか、速やかにお受けいただいて幸いです。ではあなたの生に幸あらんことを」と女神が微笑む。
そして女神が男に手をかざす。次の瞬間には、男の姿は消えていた。
女神が手をかざしたと思った瞬間、男は青空のど真ん中に放り出されていた。
目に入る青い景色が空だということを理解しかけた時、体がまっすぐ下に向けて落ち始めた。背中が下向きになり、うまく体勢を整えることができず、下を見れない。
この世界に来る前は死を受け入れられたのに、こんな風には死にたくない―― と思い始めた時だった。
青い龍と、真っ白な鷹が、上空から現れ男の隣に寄り添ってきた。
青い龍は東洋風で、頭の部分だけで男と同じくらいの大きさ、蛇のような胴体に短い手足が生えている。
純白の鷹も龍と同じくらいのサイズで信じられないほどの大きさだった。鱗や翼から反射する光の絶え間なさが、この光景が現実であると訴えていた。
その二頭が男の周りを旋回するようになると、落下の速度は緩やかになっていった。
男には少し余裕ができて自分の足元には巨大な湖があるのが見えた。とてつもなく縦に長い形で先端は見えないほど巨大だった。
水面の波紋が見えるほど近づいてくると、湖面に一艘の小船が見えた。
男が手を振ったりしてみようかと悩んでいると、龍と鷹が自分の横から上空へ離脱していった。
その直後、急に落下の減速が終わり、男は再び湖へと一直線に落ち始めた。
今度は男の落下のスピードが止まることなく落ち、湖に白い水柱を作った。男の意識があるのは水面に叩きつけられるまでだった。
「お~い、大丈夫か、起きろ」
遠くから人の呼び声が聞こえた。頬にもかすかに違和感を感じる。
眼を開けると、そこには三人の男の顔が目に映っていた。一番近くの男は初老ほどで、前歯が一つないが人当たりのよさそうな人相で心配そうな表情を浮かべてくれていた。
どうやら俺はどこかの家の木の床に寝転んでいるようでいるようだった。
ほかの二人は十代半ばほどで、同じような半袖のシャツを着ている。短髪の少年はやんちゃそうな瞳で興味津々に覗き込んで、栗毛の少年は恐る恐るといった感じで、少し遠巻きに見ていた。
「あんた、半刻も気絶しとったらしいが大丈夫か?どっか悪いとこないか?」
初老の男性が俺の肩をたたきながら聞いてくる。
「全身が痛いですけどたぶん大丈夫、ありがとうございます」
体の痛みと、見知らぬ人に囲まれる緊張で無意識にぺこぺこしてしまう。
「ほうか、わしはルーズじゃ。この地区の長をしておる。後ろの二人は人懐っこそうなのがロンで、おどおどしとるのがエステヴォじゃ」
ロンは腕をぶんぶん振ってくれて、エステヴォは小さく会釈してくれた。
「そんでおまえさん、名前は。どっから来た?」
俺は名前を答えようと口を開きかけたが、なぜだか思い出せなかった。半開きの口のまま固まっていると、なぜかルーズはうきうきしながら
「やっぱり名前はわからんか、そうかそうか。」と笑いかけてくる。
なぜやはりなんだ?その意味を尋ねるより早く、ルーズは
「そんなら、あんたの名前は、ついて来とったという青いドラゴンの名の「リュウ」と、白い鷹の名の「ホウ」からとって、あんたの名前はリュウホウにしよう」
どうやらこの世界で俺は、――「リュウホウ」という名で生きることになった。
あまりに突拍子もない状況だが、勝手に決められた名前について考える。
リュウホウ?どこかで聞いたことがある。三国志の主人公はリュウビだっけか?
だが目の前にいる介抱してくれた三人の顔は、ヨーロッパ系の顔立ちにしか見えず、三国志にかかわりがあるようには見えない。
それに、名前の由来以上になぜ自分の名前が思い出せないかの方が気になった。20数年分の自分の人生もあらかた思い出せる。
確実に記憶は失っていない。ただ――なぜか自分の名前だけは出てこなかった。
まず俺は自分が見たものを整理するために、二人の少年に俺の身に起きたことがあっているか尋ねることにした。
「二人とも、俺が落ちてくるときに、青い龍と白い鷹が隣にいたのは見えたよね?」
すると短髪で大きな黒目の少年のロンが身を乗り出して答えてくる。
「もちろん見たぜ!ドラゴンなんてはじめてみたし、あんなばかでかい鳥も初めてだよ!」
そこにルーズが慌てて口を挟む。
「おい、その二体は恐れ多くも神の使いじゃ。丁寧な口をきかんと祟られても知らんぞ。」
「えー、でもここら辺の神様の使いじゃねえだろ?なら大丈夫だよ」
「馬鹿もん!もうこの土地でもアクェルーヌ様を祀って十年以上たっとるんじゃ。役人に聞かれでもしたら牢にぶち込まれるんぞ。気を付けい!」
「炎帝様の祠も残されてるのに、どっちも敬うって方がおかしいよ」
なぜか一つ目の質問で喧嘩が始まってしまいそうになり、俺は慌てて別の話題を振る。
「ルーズさん、俺が名前を思い出せないって最初からわかっていたみたいだけど…どうしてなんです?」
その言葉を聞いて、顔をしかめていたルーズは破顔しながら答えてくれる。
「おお、それじゃ。古の伝説世界から来た英雄がおっての。その者も己の名を忘れてしまっておったが、この世界を統一する英雄になったのじゃ。それで、おぬしも名を忘れておるかもしれんと思うて聞いてみたんじゃ。」
ルーズの説明を聞いて俺は少し納得する。
それに英雄と共通点があるといわれるのは悪い気がしなくて、すこし気分が良くなった。
使用人のような女性が慌ただしく家に入ってきた。
「旦那様。お役人のシューカと、神無き教団の宣教師が広場でお待ちです。」
それを聞いてルーズは少し嫌そうな顔をしながら
「神無き教団のものもおるんか。まったく、わざと呼ばんかったと言うんに」
「で、でも、後からその話を聞いたら教団はもっと面倒じゃないですか…?」
今まで無口だったエスタヴォが口をはさんできた。
「まあ、そうかもしれんが…。おい、二人とも。リュウホウが歩くのを支えてやってくれ。」
俺は二人の少年たちになんとか支えられながら村の広場まで歩いた。広場は砂地だけで埃っぽい。そこに四角い帽子を被った全身白衣の男と、眼鏡をかけ髪を大雑把に後ろで一つに束ねた女を中心に、軽い人だかりができていた。
眼鏡の女が、俺たち四人が来たことに気づいた。
「そいつがほんとにドラゴンと白き鷹に連れてこられたってやつか?まあ、服装は初めて見る形だな。」
男勝りな口調でじろりと睨まれた。俺が着ているのは、この世界に来る前からのよれたジャージだった。この世界の人間にはどういう風に映っているのかよくわからない。
白衣の男もあまり好意的ではないようで
「ふん、もはや神々はわれらに関心を向けていない。その神がなぜ転生者など向かわせようか。どうせまたほら吹きであろう。」と吐き捨てるように言った。
白衣の男の顔には胡散臭い口ひげが垂れ下がっていて、喋るたびに揺れている。
だが俺をここに連れてきたルーズは二人の態度を意に介さず、嬉しそうに
「いやいや、この服装でわかりますじゃろう。あまりにもこの世界のものとは違う。このリュウホウがドラゴンに導かれて湖に落ちたのを見たというものもおる。間違いなく古の英雄と同じ存在じゃ」
眼鏡の女が怪訝そうな表情を浮かべる。
「リュウホウ?まさかルーズ区長、名前をつけたのですか?」
「そうじゃ、良い名じゃろ、シューカ。このものを連れてきた神獣からとったのじゃ。英雄になるものの名であれば神々から由来をとってもよかろうて」
シューカと呼ばれた女は頭が痛いというような顔をして
「区長、勝手なことをされては困ります。ただでさえ死皇帝の統治は厳しくなっているのに」
役人のシューカは眼鏡を軽く触りながら言う。
「私もこの男を信じてはおりません。おい、そこの転生者を名乗るやつ。お前どうやってこの世界に来たんだ。内容が正しいならなんとかしてやらんこともないが」
突然話の流れが自分に来て身構える。人前で話すのは苦手だったがそうも言っていられない。前の世界から突然この世界に来て水色の髪の女に転生について説明されたこと、承諾したらすぐに湖に落とされたことを簡潔に説明した。
シューカはすべての話を黙って聞いてくれていたが、チュバレクはすぐに口を挟もうとしてきた。そのたびにシューカが制してくれたので、何とか最後まで語り終えることができた。
「すべてを聞いてどうでした、チュバレク様?」シューカが口を開く。
「なにもかも虚偽である!水を支配する神は水とともにあるはず。それにそもそも五大神は眠りについておるはずなのだ!今さら転生者など送ってくるわけがなかろう!」
じじいの意味不明な言いがかりにかなり腹が立ったが、宗教家でめんどくさそうだし、そもそもまだ体も頭も痛いしで言い返す言葉が決められない。
俺は弱弱しく口を開いた。
「空から青い龍と白い鷹と一緒に降りてきたのはどうなんです?横の二人が見ていてくれたし、ここまで運んでくれたんです。」
「そこは確かにそうだな。エスタヴォは嘘をつくような人間ではない。ロンもいたずら好きな悪ガキだが神を騙るほどの悪童じゃないし。」とシューカが認める。
「いいや、すべて嘘である!千年以上炎帝が信仰されておったこの地に現れるはずがない!死皇帝の支配によって水女神アクェルーヌを信仰するようになったとしてもだ!」
エスタヴォが遠慮がちに聞く。
「チュバレク様。今は水女神様を信じていますし、おかしくはないのでは…?」
いいぞ!このまま流れで転生者として認められそうだ、と思った時、同じように納得はしていなさそうだった表情のシューカが眼鏡を直しながら
「いや、もう面倒だ。神無き教団の宣教師が認めないと言っているんだ。偽物ということにしよう。」と切り捨ててきた。
俺は予想外の流れで思わず叫ぶ。
「ちょっと待て!俺の話は全部本当のことだし、この宣教師の爺さんの言うことに、みんな納得してないだろ!」
だがシューカは話をさっさとまとめたいようで
「悪いな、もうこの件は片づけ、役所に戻って仕事を終わらせたい。役所としての公式記録は、神無き教団の判定により浮浪者の虚言であったことにする。ルーズ区長、罰は尻打ちの刑を一打で済ませるので、後の処理はお任せしてもよろしいでしょうか。」
俺はあまりに横暴な決定だと思い、そもそもこの役人と宣教師を呼び出したルーズの方を見る。名前までつけてくれたんだから、きっと擁護してくれるはずだ。
「ふーむ、確かに体つきはひ弱じゃなぁ…。いや、落ちてきたというのは本当のようだがのぅ…。まぁ、直接わしが見たわけではなかったか…?」
…この爺さんまで弱気になっていた。もう反論は期待できなさそうだ。
俺は何とか思考を切り替える。
まあ、役所に認められなかろうが転生した事実は変わらない。尻を打たれるぐらいならかなり軽そうな罰だし、言い合うよりましだろうか。
だが嘘つき扱いにされるのは腹が立つ。なので転生者であるということをもう一度だけ言っておくことにした。
「絶対におれが正しい!おれはこんな文明が発達していない世界になんて住んでなかった!電気もWi-Fiもあるしコンクリートで建物はできてたんだ!どうせ一つも言ってることわかんないだろ。未開人、野蛮人‼」
…まずい、引きこもり生活のネット浸かりによって培われたチャットファイトの能力が発揮されてしまった。久しぶりに人と話すので、どのぐらいまで悪口のアクセルを入れていいのかがよくわからなくなっている。
案の定、神無き教団のチュバレクはぶち切れて
「何が転生者か!貴様のような無礼者は、たとえ神がまだおったとしても絶対に選ばれぬ!そもそも徳も礼儀も身につけておらん者が、人の上に立てるはずがないのである!」
と殴りかからんばかりの剣幕だった。
シューカはあまり俺の言葉を気にしていないようで、
「よし、警備隊の者たちに要請して来い。すぐ始めて終わらせてくれ。私もう役所に戻る。」
と部下と会話している。そもそも興味を失っているようだった。チュバレクの怒りはルーズが何とかなだめてくれていた。
俺を支えていてくれたロンが気の毒そうに
「お前、災難だな。尻打ちは最悪だぞ」と忠告してきた。
「え、そんなにまずいのか?」
慌てて詳細をロンから聞こうとしたが、一瞬で現れた警備隊に脇を抱えられ広場の中央に連れてこられた。
俺は木の台の上に体を載せられ、固定された。
なぜか広場に、ものすごく長い木の板が運び込まれていた。
幅は人の肩幅を超すか越さないか位だが、長さが異様で、二階建ての建物ほどある。
「では刑の執行を始める。」警備隊員がぶっきらぼうに宣言した声が聞こえた。
どう考えても受け入れられないが、俺の尻はあの木材で叩かれるらしい。
尻打ちって表現からは想像できないほどの絶望感が一気に襲い掛かってきた。あの木材で尻を打つのか⁉
「ちょっと待て、本当に見たんだ!水色の髪の女に会って、この世界に来た!あれがあんたらの言うアクェルーヌ様だろ⁉俺を殴ったらあの女神にあんたら怒られるんじゃないのかよ!」
わめきながら助けを求めてルーズたちをみるが、みな気の毒そうな顔で見つめてくるだけだ。チュバレクのじじいだけは当然だというような、勝ち誇っている内心がにじみ出た表情だ。役人のシューカはそもそも立ち去っていた。
何の覚悟もできていないまま、
「はじめ!」という警備兵の合図とともに木材が自重だけで倒れ始める。
風を切るような音がしたと思った瞬間、木材が腰骨にあたりに振り降ろされ、熱を感じ、目は開いているのに景色は真っ白になった。
痛みや衝撃を感じる前に、
俺の意識は湖に叩きつけられたぶりに途絶えた。
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