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扇風機の風がわたしの頬を撫でる。
数学準備室という名の教師のたまり場にいるのは、わたしとセンパイの二人きりだった。
わたしは来客用のソファーに座り、センパイがコップにアイスコーヒーを注ぐのを眺めていた。
「砂糖とミルクは置いて無いんだ。悪い」
彼がソファーセットのテーブルにコップを二つ並べ、わたしの向かい側に座った。
「大丈夫ですよ。ブラック、飲めるようになりましたから」
「そうなん?」
からかうような口調。わたしは『これが証拠だ』とばかり一口飲んでみせる。ちょっと苦い。
「先生になられたんですね、なんだか、納得できるというか、意外というか……」
部活中、もっとも先生に反抗していたのはセンパイだった。これが「意外」の意味。
また、わたしを含む後輩に親身になってくれたのもセンパイだった。これは「納得」の意味。
「ま、先生っていっても、まだ一年契約の講師。まだまだこれからって所。お前の方は今なにしてる?」
「ん、二流企業の広報部ですよ。普通にOLしてます」
「そっか、月日の経つのは早いもんだ」
センパイもコーヒーを一口すすった。
「そういえば、他の先生はどうしたんですか?」
「ああ、本当は、今日、学校休みなんだ。俺は居残り」
「居残りって?」
「進路に悩んでいる生徒がいて、。そいつのためにパソコンで資料あさってたんだよ。別に担任って訳じゃないからやらなくてもいいんだけど」
「センパイ、変わりませんね」
「いや、もう立派なオッサンだろ?」
彼から自嘲の笑みが漏れる。
「そんなんじゃなくて。ほら、部活が終わった後、よくつきあってくれたじゃないですか。シューティングとか」
「そういや、そんなこともやってたな。毎日、毎日、二人で居残りしてたっけか」
「そうだ! バスケ部の部室、行ってみませんか?」
部室といっても用具置き場にテーブルと椅子があるだけのほとんど倉庫みたいなものだ。別に私物が置いてあるわけではないから鍵なんか掛かってないはずだし、体育用具室としても使われていたはず、特に問題はないはずだ。
「そうだな。実はおれも卒業してから見に行ってないんだよ。バスケ部の顧問でも、体育教師でもないから、なんか行きづらくて」
「じゃ、ちょうどいいですね。行きましょう」
わたしは手元のコーヒーを飲み干し、席を立った。
――ギギィ――
たてつけが悪いドアが音を立てて開いた。
思わず声が漏れる。
汗の臭い、埃の臭い。
カビの臭いも少しは混じっているかもしれない。
よくこんなところで喋ったり、御飯を食べたり出来たものだ。
一年生のとき、磨かされたバスケットボール。あの頃と変わらない。今も、新入部員が一生懸命磨いているんだろう。
壁に立てかけてあるエアマットはよく昼寝につかったのを覚えている。昼休みや、部活の後に数人で寝っ転がった埃臭かったけど寝心地は良かった。
ここは、わたしの『青春』ってヤツが集まっている場所。
そして、ここへ来ることが今日の目的だった。
センパイが今、私の隣にいるというのも、なんだかおかしな神様の思惑を感じる。
彼を見た。物置棚からキャプテンのナンバーである4番のビブスを引っ張り出し、感慨深く見つめていた。
視線を外し、部室の真ん中に陣取るテーブルに目を向ける。
傷の付き方、色のはげ方。
消えないようにカッターで彫られたラクガキ。
覚えている。
あの頃と同じテーブルだ。
わたしはその場に屈み、下を覗き込む。
「あった……」
セロハンテープで、裏板に張りとめられているのは、一通の手紙。
手を伸ばし、テープを剥がす。時を経て、黄ばんでパリパリになっていて、粘着力も弱っていたから、簡単に取れた。健気にも今までよく張り付いていてくれた。ちょっとだけ、セロハンテープに感謝。
文具店で小一時間迷って買った封筒。元は上品で大人っぽい茶褐色だったはずが、すっかり色褪せ、乾燥でガサガサになって見る影もなかった。
裏に書いてあるのは差出人のわたしの名前。
表に書いてあるのは宛先のセンパイの名前。
それは、過ぎ去った日々の残り香。
「それ、なに?」
センパイがこちらを見ていた。自分の名前が書いてあるのが不思議そうだ。
わたしは答えた。
「ただの、ラブレターですよ」




