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天地生まれの英霊譚  作者: 庵下 流
『夏至の日』
9/24

「夏至の日」9 ─ 鼠の主 1



    ─鼠の主─




 ── 森の盟約を破って得のある生き物はいない。だから皆が従っているし、それが続いている。


 青空に微かな白い直線を描いて、まっすぐ突き進む小さな影がある。ア・ロ・ワ神バライカは、風に乗り腕組みしながら俯いて考える。

 ── 鼠王の真意はなんだ。縄張りを破られて、狩り手の猛禽と蛇はなぜ動かない。


 眼下に広がる一面の森林は、いつもと変わらぬ静かな景色に思える。

「……まあいいさ。直接尋ねるか」

 バライカはそう呟くと、木々より高く顔をだす岩山の荒地を見つけて右足を蹴り出した。

 体が左下に傾き行き先を変えると、ここまで運んでくれた大気の奔流から中空へ勢いよく飛びだす。

 途端に空気の激しい抵抗が起き、髪や衣服をはためかせながら、頭から錐揉み落下し地表を目指す。


 剥き出しの硬い岩肌が目前に迫ってくる。

 轟音と衝撃が地面に激突する。

 辺りが土煙りで真っ白になり、吐き出された強風に大木の幹すら揺らいで葉を撒き散らす。


「着地成功。……いや、この砂埃はダメだろ。周りが見えないし」

 なかなか収まらない土煙りの中から、微かな風なりがして、銀糸の髪の少年が姿を見せた。

 左手に持った弓を構え、前に広がる木々の頂に向けて弦を引き絞る。つがえる矢はないが、バライカにはその射線が見えている。

 優美な曲線を持つ短弓だが良くしなる。弦が右頬まで引かれるや否や解き放つ。

 瞬間、目線の先に光輝が走る。


「……」

 

 続いて左手を振り、弓を掲げるように天に向けると、張った弦を指三本で弾く。

 無数の微細な光球が打ち上がり、遙か上空で八方へ弾けた。


「こっちじゃ見慣れない黒い毛針鼠か」


 足元を見る。革の履き物の下から、硬い岩肌にヒビが走り、細かく歪みながら広がっていくのがわかる。

「……急がないと」


 先に放った「点眼箭」により、上空から捉えていた湖までの射線を起点に、周囲の光景が見てとれた。

 無数の黒い大鼠の群れが、地表を怒りで蹂躙している。

 どう見ても自然の成り行きに則った獣の暴走ではない。

 何者かの強い念が呪となって、恐怖と憤激が至るところに伝播している。

 

 ただし、襲われ引き裂かれ、喰らい千切られているのは……。


 ─── 自在鏃…「縛糸千獄」


 弓を引き絞る。指に嵌めた極箭が震え、その輪郭が幾重にもぶれて唸りを上げる。

 弦が弾かれる。重音が響き、連なり、波となり、バライカを中心に波動が光の円環と化して無限に広がっていく。


 唐突に極箭の震えが止まった。

「鼠王に会うまで、効いててくれよ」

 バライカは森めがけて、思い切り跳んだ。




     ☆




 背の高い巨樹の覆いで遮られ、地表に届く陽光は乏しい。その中でも下生えは育ち、雑多な草木が低層に物影を作っていた。

 小柄な体躯ですばしこい人影が、見え隠れしながら走っていた。何人いるのかはわからない。先へ進み周囲を見回したのち、また数人が素早く移動する。


「前方確保」

「隊商が使うひらけた道が北に伸びている」

「陽の当たる道を進んだ方が安全じゃないか」

 明るい黄土の肌色をした、よく似た姿が集まり小声で話す。

 ひとりが顔を上げ、日差しにその姿を晒す。黄赤の刈り込んだ短髪の少年が両手を掲げて合図を送る。

 高い巨木の枝陰で微かに何かが光った。集まっていた顔のひとつが消えて、代わりに新顔が増えた。

「鼠はこちらにはいない。大きな群れは威光街道に沿って北側に動いている」

 新顔が元気よく報告する。ひとりだけ深く頭巾をつけていた。

「わかった。けど自重してくれ。……姫様」

「樹渡りは得意だよ。クロシュ」

 頭巾を下ろすと見目麗しい中紅色の艶髪を持つ少女が現れる。ちょっとはに噛んだように微笑む。

 笑顔を向けられたクロシュ少年は、笑窪も可愛いなと思うのだ。


「おまえ…いや、カルケディス族セディアンナ姫を護衛して、サルツス氏団の霊域へお連れするのが俺たちの役目だ」

「ありがとう。ボクも協力するよ」

「では大人しく我らに護られてください。それに『ボク』は貴族に相応しくありませんよ」

 二人より年長らしき紫苑色の短髪の少年が苦言を呈す。

「急に貴族のお姫様になったので、いろいろ混乱してるの。代々貴族の衛士を輩出してるクーリオスの一家には、本当にお世話になってます」

「……何代も前に扈門の栄誉からは遠ざかっていますが、知識と経験は一通り残っていますので」


 頭上から光の合図があった。顔を突き合わせていた三人が緊張する。

「鼠か……」

 黄赤のクロシュがすぐに、手指を使った符号で樹上の仲間と交信する。

「急に大鼠が現れた。俺は先に行った三人を追う。クーリオスは、後から来る三人と共に…姫様を連れて道沿いに動いてくれ」

 紫苑のクーリオスが頷く。

「木を使って動いたほうが」

 少女が上を見上げて呟いた。

「奴ら大柄の土鼠のくせに木にもうまく登る」

「さあ、姫様」

 頭巾を被り直したセディアンナが、一瞬不安そうな眼差しをクロシュに見せた。

「まかせろ。俺だって扈門出の勇者の血筋だぞ」

 クロシュはニヤリと笑って颯爽と駆け出した。



 森の中を勢いよく走り抜けながら、愛用の投礫具を取り出す。森林の狩猟民であるカルケディス族の主要な得物である。使う礫や弾を替えることで、攻撃手段の他、炸玉による撹乱や鏑を放っての通信、合糸鏃を打って張り、鳴子の仕掛けに用いたりもする。

 クロシュは一家に代々伝わる、左手の指に嵌め手首に被さる「輪衣持」型の扱いに長けていた。

 一族のうち彼よりも上手く扱える人物はひとりしかいない。そのひとりの背後にたどり着く。


「セディアンナは?」

 振り返りもせずに小声で問われる。

「後方の三人を待ってクーリオスと馬車道際に移動。樹上からはアキカラが見張ってる」

「そうか。鼠は前の崖下まで近づいている。やけに用心深い」

「群れから逸れたのか」

「いや、明らかに目的があるように思える」

「こちらから手出ししなけりゃ、森の民には我関せずって感じだったのに」

「逃げてきた商人から聞いただろう。貴族とその一門には牙を剥くとさ」

「……まさか、気づいているのか?」

「ただの鼠じゃない。風痺の薬粉玉はいくつ持ってる?」

「五つ。だけど菱礫で倒せるだろ」

 小さな雫の耳飾りが揺れて、紺青の瞳がクロシュに向けられる。

「得体が知れない。確実に動きを封じる方法がいい」


 腰の革帯に取り付けた袋から丸い薬粉玉を取り出すクロシュは、一度目を伏せてから言う。

「ベルサ姉さんと俺がいればなんとかなる」

「相手の数と挙動によるね」

「俺はこれでも……」

「信頼してるさ。あたしの背後を任せられる弟だもの」

 同じ黄赤の艶髪を後ろでまとめた姉のベルサは、前方に向き直り草木の奥をじっと伺う。

「木の上にテムとオクジョが潜んでいる。彼らが先に撃つ。それが合図だ。現れたらまとめて狙え。割れたらクロシュは左を」

「わかった」

「高価な玉だが、撃ち惜しむなよ」

「わかってるって……」


 その時、風が鳴り絶叫が響いた。

 頭上に茂る木々の葉陰に、黒い何かが打ち込まれたのだ。

 同時に、離れた樹上から悲鳴が上がる。葉が舞い散り苦悶の声が呪いのようにこだまする。

 投石機の岩玉の如くすごい勢いで崖下から飛び上がってくるのが、丸まった鼠だと気づいた時には遅かった。

 

 薬粉玉が弾けた。前方に灰色の煙が立ちこめ、崖下からの視線を遮る。

 ベルサはすぐに崖際に向かって動いている。

 クロシュは音に集中する。二人の仲間はまだ木の上にいる。

 握って伸ばした左手で、伸縮樹脂の紐が暴れた。二匹に風痺玉を当てたと確信する。

 離れた場所にいたオクジョが地面に落ちる音が聞こえた。

 ベルサが崖下にも煙幕を張る。

 その煙を打ち抜いて鼠が飛び立つ。

 クロシュは、捉えられる限りの目標に向かって投礫具から風痺玉を放った。だが、数が足りない。

 さらに鼠が高く天に打ち出される。


「来い」

 腕を掴まれた。戻ってきたベルサがいた。

「セディアンナに合流する」

「仲間は」

 応えはない。姉のあとに続いて走り出す。

「あれはなんだ。投石機?」

「化け物が、丸めた鼠を投げ上げている」

「……え」

「風痺玉が効かない」

「いや、確かに当てた」

「動きは鈍ったが、止まらない」

「じゃあ、何を使えばいいんだ」

「セディアンナをあれから護るんだ」

 ベルサが走る速度を増す。

「……姉さん」

「あれはもう鼠じゃない。魔物だ」

 ではどうやって倒すのか。そう声に出す前に意味がないとわかった。ただ無言で、怒涛の勢いの姉について行くだけだ。

 行手が明るくなる。森を貫いて伸びる馬車道まで、あと少しだ。


 前を行くベルサが急停止し、体を伏せた。その右側近くを礫玉が唸って抜けていく。

 クロシュが舌打ちする。

「誰だ。慌てやがって」

「クロシュ。急げっ!」

 姉の姿が霞んで消える。間髪入れず、クロシュは左へ跳ぶ。

 陽の光が照りつける場所まで体が届いた。

 道端に茂る草の根もとを分けて気配を伺う。


 目の前にいた。前肢がなくなった血まみれの大鼠。

 咥えているのは千切った人の指。目が合った。

 クロシュの頭に血がのぼる。

 腰に差した剣鉈を抜く。一閃、腹を裂かれた鼠が転がった。

 クロシュは息を呑む。

 大鼠は、はみ出した臓物を引き摺りながら、後脚だけでこちらに向かってくる。

 真っ赤な憎悪が突風のようにクロシュに叩きつけられる。

 一瞬意識が飛んだ。だが訓練された体は動く。

 刎ねた鼠の首がとぶ。投礫具を引き絞りながら、平らに続く道の先へ視線を向ける。


 異様な光景だった。轍の残る硬く乾いた道のあちこちに、血と肉と体だったものが飛び散っている。


 左右から鼠が跳びついてきた。鉈を叩きつけて振り落とす。落ちた先に礫を見舞うが、血を吹きながら尚も近づいてくるのだ。

 クロシュはゾッとしながら、ただ鉈を振り回し続けた。

 身体中の筋肉が悲鳴をあげる。しかし、鼠の猛襲は終わらない。

 近くにまた黒い塊が落ちてきた。

 瞬間右手の感覚がなくなる。柄尻の輪から指が外れる。鉈が地面に落ちた。


 鋭い礫の音がする。飛びかかってきた鼠が吹き飛ぶ。

 クロシュは鉈を拾うと、力を振り絞って道を駆け出した。

 その先に仲間がいる。


 鼠の死骸が積まれる道の真ん中に立ち尽くしているのは、見慣れた小柄な姉の後ろ姿。背後にセディアンナ。挟むように、投礫具を構えたクーリオスがこちらを向く。

 クロシュは、剣鉈をしっかり握り直して三人に走り寄る。


「姉さ…」

 

 両脇に聳える巨木の群れが葉を散らした。

 鼠が降ってくる。次から次へと。

 路傍の岩に直撃し弾けたり、道に突き刺さり折れた脚を引き摺ったりしながらも、数えきれない大鼠がこちらに向かってくる。

 嫌な予感がしてクロシュは来た道を振り返った。

 鼠が降り注ぐ。退路はない。


「どうした。かかってこなくなったな」

 ベルサの息が荒い。黄赤の髪が、自らの出血と返り血で赤黒く染まっている。

「三感封、あと四つ」

 セディアンナが、お腹に巻いた幅帯の玉蔵から大粒の薬粉玉を取り出しクーリオスの右手に握らせる。

「奴ら、今更警戒しているのか」

 クーリオスは左目の上を裂かれていた。


「あの岩山の方に何かが落ちたね」

 ベルサが低い声で言う。

「化け物ネズミの元締めでも来るかな」

 背後の二人は声もない。

「好都合だ。まとめて相手ができるなら、勇者の形見『涙の一擲』を叩き込むだけ」

 思わずセディアンナはベルサの腰に縋り付く。

「ダメだよっ! そんなことしたら……」

「『早逝の誉』を授けられるんだ。本望だよ」

 セディアンナは、目をぎゅっと瞑って涙を堪える。

「……貴族の、ボクが……」

「姫様を無事に送り届けるために、みんなここまで来たんだ。それを無為にはできない。なぁに、頼れる男がふたりもいるんだ。必ず氏団の霊域に行ける」

 クーリオスの放つ三感封が当たって感覚器官を潰された鼠を剣鉈で振り払いながら、クロシュがすぐそこまで近づいていた。

「道の先の鼠が動いたら行くよ」

「ベルサ……」

 血と汗で汚れた指で雫の耳飾りを摘む。ベルサの覚悟は決まっていた。


 その時。空が白く消え失せる。

 次に辺りが眩く輝いて、何も見えなくなった。


「なんだっ!」

 ベルサが叫ぶ。

 肌に熱い風が通り抜ける。

 一瞬だった。今はもう元の通り雲ひとつない蒼空と、黒い陰を作る森と、乾いて赤茶けた道に戻っている。

 ただ、周囲を取り巻いていた大きな黒鼠だけが、倒れた置物のように動かなくなっていた。


「何か来る」

 足裏から伝わる地響きが段々と激しくなる。

「姉さん……」

 息を切らせたクロシュが姉の傍らに辿り着く。

「クロシュ。二人を連れてこの道を行け」

「一体何が」

「急げ!」

 有無を言わせぬ激しさがこもる声に、クロシュは悟って動き出す。姉はひとりで立ち向かうつもりだ。近くにいたら邪魔になる。

 クロシュは自分を情けなく思う。だが、今一番にやることは、セディアンナをサルツス氏団の霊域に連れて行くことだと己れに言い聞かせる。


 ドンッ!


 森の奥から閃光が飛び、道の真ん中に重い何かが降ってきた。

 突風と地響きが大地を揺らし、クロシュ達三人は地面に伏せるほかなかった。

 ベルサだけが片膝立ち、指先が白くなるほど耳飾りを強く押さえて、土煙りの向こうを睨む。

 

 何か声が聞こえた。透き通る響きを持つ知らない言葉がはっきりと耳に届いた。


「ア・ロ・ワ神……」

 顔だけ上げたセディアンナが呆然とする。

「神? 言葉がわかるのか」

 セディアンナを覆うように肩を抱いたクロシュが口走った。

「『バ・べ・ル能』の拡張」

 クーリオスは目を瞑ったまま、震える声音で呟いた。


「ベルサ! そのお方は、英神様が遣わされた落日大陸の異邦神様だよ」

 セディアンナが言うが、ベルサは動かず、警戒を解かない。

「……この周辺の大鼠を無力化した。……強力な本能操作術が解けない限り、また暴れ出す。……今のうちに安全なところへ立ち去れ。と」

 ようやく、ベルサの指が耳飾りから離れた。

「ありがたいお言葉だけれど」

 道にうずくまる仲間を見る。

 生き延びる機会を得た。だが、その途端に気力が萎えたのがわかる。恐らくもう立ち上がることさえ難しいだろう。それだけ皆、疲労困憊している。


「……北の森に入って暫く潜め。……カルケディスの民ならば養生の術は心得ているだろう」

 セディアンナは、まるで神の依代のように厳かな声をだす。

「……鼠王にまみえて、この騒ぎを鎮める」


 強い風が吹き、降り立った神の姿を露わにする。

 ほっそりとした体躯の白皙の少年がいた。

 銀糸混じりの艶のある青灰色の巻き毛がなびく。小ぶりで精巧な弓を持ち、遠野の狩人に似た飴革で縁取りした袖なしの短衣を着け、しなやかに伸びる四肢は若々しく艶やかに光り輝いている。


 強い魅了と威圧を感じ、カルケディスの若者達は思わずひれ伏さずにいられなかった。

 ただセディアンナだけが、その姿に心を奪われ、視線を外すことすら出来ない。


「……陽が落ちれば霊力の威光が途絶え、……魔勢の夜行が始まる。……その中を貴族の愛らしい……」

 急に言葉が途切れた。セディアンナの頬が上気し瞳が潤む。


「クロシュ。クーリオスとともにセディアンナを連れて森へ入れ」

 何か察したベルサが急かす。だが、二人とも直ぐには体に力が入らない。

「急いで。あの少年神に姫様を拐かされたいか」

 小声で活を入れる。これが効いたのか、セディアンナを両脇から支えた二人は、必死の形相で立ち上がった。


 ベルサは、道に大きな窪みをつくり、その真ん中で光り輝く少年神に向き直る。

「ア・ロ・ワ神…様。我らはサルツス氏団カルケディスのモルカ集落の者。『立夏の鑑命』で貴族が顕れ、氏団の霊域へと向かう道中の難儀、御業の神妙にて先に進むことが叶い望外の幸い。御身に纏いたる精霊の御加護を讃え奉らん」

 ベルサは、使い慣れぬ言葉に冷や汗を浮かべながら、それでも精一杯の感謝の気持ちを伝えようと大声を絞り出す。


 全身を包む光輝を和らげ、少年神は首を傾げる。

「それなりにカルケディ語は理解していると思ったけれど、バ・べ・ル能が混乱するほど難しい言い回しはわからぬ」

 聞き慣れた言葉で話され、ベルサの方こそ混乱する。


「……ああ、モルカといえば、『敏腕の勇者』の血筋が残る一族だな。貴方と、あの若者に遺伝を強く感じる」

「はい、あの」

「時間がない。日暮れまでに氏団の本拠へ行き着くは難しいか」

「皆、体調が万全ならば辿り着ける距離ではありますが、疲弊したまま、周囲に気を配り隠れ潜みながらでは……」

「うむ。ならばこれを授けよう」


 ベルサの呼吸が一瞬止まる。目の前に淡く光輝を湛える手の平があった。驚きよりも畏怖を感じた。いつの間にこれほどまでに近付かれたのか見当もつかない。

「これはお守りだ。肌身離さず持つように」

 口を紐で結えた小さな布袋を差し出されている。

「東方遠境の神の、大切にしている小さな玉が入っている。故あってここにあるが、込められた精霊の懇望の念が強いのだ」

 低く響くが、どこか甘い幼さが残る温かみのある声音に、体の芯から優しく癒される思いがする。


「東方の神は霊域の古精霊の霊屋にいる。そこに向かう限り、精霊のご加護は貴方等から万障を遠ざけるであろう」

 このままずっと何もかも忘れて、神の御声で囁かれながら微睡んでいられたら、どれだけ幸福なのだろう。


 しかしベルサ自身がそれを許さない。

「神よ。このご加護を戴くために、どれほどの贄を捧げれば良いのでしょう」

「そうだな。霊域の霊屋にいるミ・ズ・キ神にその玉を納めよ」

「……」

「ア・ロ・ワ神の使いとして、至宝を持ち主の元へ無事に送り届けるという使命を果たせ。それを贄の代わりの役務としよう」

 ベルサは深く頭を垂れた。

「冥加に余る思し召し、必ずやその使命を成し遂げましょう。我がモルカ一族の名誉にかけてお誓い申し上げます」

「ならば行け。一時森に潜み、機を見て一気に駆け抜けよ」


 雷が眩く弾け、少年神は大地を蹴ると、森の奥深くへ瞬く間に飛び去った。

 ベルサは玉の袋を握り締め、胸元に当てる。

 確かに強い霊力を感じる。体に流れ込むそれは、恋慕の感情を掻き立て、背後のただ一方を真っ直ぐに指し示すのだ。

 気力が横溢する。疲れが吹き飛んだ。


「なんとしても、日暮れまでに辿り着かなくては」

 ベルサは倒れた仲間の冥福を祈り、気持ちを切り替えて首を数度横に振ると、森に入った三人を追った。


鼠の主 2 へ つづく。

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