「夏至の日」8 ─ 勇者の誉
─勇者の誉─
巨樹の森を背に、まだ若い木々が疎に立ち並ぶひらけた土地がある。木々の隙間を縫うように伸びる轍の残る道の先には、切り出した花崗岩を巧みに重ねた街の囲壁があった。
道はその石壁に大口を開ける門へと続いている。
突然、陽光に負けない光輝の奔流が道を掠め、同時に訪れた闇の渦巻きから、力強く騎馬が飛び出してくる。
蹄が地に着くと同時に、眩い光と漆黒が消え失せた。
───ここは……。
「湖北の商街だ。囲壁の門に向かえ」
勢いを変えず、英馬エルビムは頑丈な扉が閉まった門に向かう。
「そのまま進め。あれは機工扉だ。今、開ける」
黒鬚を震わせ、騎士バリューが叫ぶ。
「戦機、開門!」
言霊が響いて、巨大な石臼が回るような音が激しく轟く。
門を塞ぐ分厚い鉄枠の扉が内へ動き出した。
エルビムは速度を増し、ぎりぎり抜けられる幅に開いた門扉に躊躇いなく突っ込む。
人馬ともに戦いに備えて身構えた。
門の先には広い石畳の道がまっすぐに伸び、両側には磨いた輝石や煉瓦造りの建物が並ぶ。道の先には円い広間が拡がり、立派な鐘楼を戴く白亜の殿堂が鎮座している。道はそこで左右に分かれていた。
「エルビム。どちらだ」
───わからぬ。混乱の気配が消えた。
「静かすぎるな」
普段であれば、行き交う馬車や荷車、商人の呼び声、訪れた買い物客で賑わいが途切れない喧騒の商街だ。
そこを凶暴な大鼠の群れが襲っているなら、大混乱の最中に巻き込まれておかしくないはずなのだが、街は整然とし、人影のひとつも見えない。
───! 建屋の奥から命の温もりが感じられる…ここにも、あそこにも。
「皆、建物に潜んで難を逃れたか」
それにしても物音ひとつしない事に、妙な違和感があった。
───鞍上!
エルビムの思念が歪む。バリューもすぐに気がついた。
白亜の建物の階段の隅に赤黒い染みが見えた。
近づかなくとも、それがなんなのか窺い知れる。
喰らい尽くされた、人のなれ果て。
「守護隊か……」
ひしゃげた冑と鉄枠の胴鎧の端切れがかろうじて判断できる。
すぐにエルビムが駆け寄ろうとする。
陽の光が一点翳った。
「罠!」
灼熱の炎が、上から降ってきた。
バリューが左手を背後に回す。
ガッキッ!
刀身全てが真っ赤に燃える細身の剣が、バリューの抜いた短剣に食らいついた。
飛び散る火花がバリューの短剣を鈍らにする。
エルビムの体が右手に沈み衝撃を弱める。逞しい後脚が踏ん張り、体を回して飛び込んできた刺客に面と向かう。
バリューが右手を伸ばし、渾身の力で拳を握った。
見えない一重の波紋が、離れた刺客の左足を吹き飛ばす…いや、もうそこにはいない。
エルビムが体を沈める。業火がバリューの脳天を掠める。
石畳に落ちる影が現れては消え、その度に火炎撃が飛んでくる。
今度は地を這い熱刃が襲う。
英馬の蹄鉄甲が弾き返した。
バリューが右手を突き上げる。その拳を中心に空気が擦れた。
裂かれた布地が宙を舞う。編み込まれた魔力繊維が断ち切られ、刺客の姿が現れる。
赤錆色の髪と褐色の肌。玉甲の革鎧を着けた男が不敵に笑う。
「貴様は……」
バリューの眼力が極まった。
男の姿が揺れ、その背後から燃える火球が噴き出した。
エルビムが回避に動く。
バリューは唇を噛んでから、覚悟する。
─── 勇武韻唱…「三色……
男の笑い声がこだました。
─── …同順!」
バリューから威力の異なる三源の拳撃が捻れて飛ぶ。
火球を避けるエルビムの側に沿うように現れた影が、空間ごとぶれて掻き消えた。
火の玉も勢いを無くし消滅する。
陽光を浴びて粉ふく石畳に夥しい血痕が浮かんでいる。
バリューを背にずっと動き回っていたエルビムが、ゆっくりと止まり息を吐いた。
「仕留められぬか」
バリューは、眉根を顰め目を瞑る。
───路地に逃げ込んだ。追うなら間に合うが。
「いや、宝珠簒奪の首謀者がこの騒ぎの原因なら、おそらくこれは陽動だ。守護隊の安否を確認してから、すぐに戻らねば」
「そうは、いかねえぞ」
どこからか、殺気のこもった声がする。
エルビムが発条を溜めるように首を引く。バリューが手綱でそれを制した。
「今度は俺が相手だ」
空気が震えた。
─── 紅龍…迅撃
バリューの死角から烈風を散らして赤黒い塊が飛び込んできた。鬚を揺らし、間髪入れずにそれを避ける。
「まさかと思ったが、本当に獲物が自らしゃしゃり出てくるとは、なあ!」
─── 白龍…痛打
「技のキレが甘い」
背後から突風のように打ち込まれる気迫の拳撃。バリューは右手で弾く。
「半端な韻唱が漏れている。挙動が丸見えだ」
─── 緑龍…
破裂するような爆音が轟き石畳が割れ飛んで、そこから濛々と土埃りが舞い上がった。
熱を帯びて陽炎を纏うバリューの右腕が静かに下がる。
「そこで大人しくしておれ。聞きたいことがある」
「……痛え、なあ。俺は強えから、効かねえぞ」
「なぜここにお前がいる」
バリューは厳しい目付きのまま首を回して、立ちこめる砂煙りのむこうに倒れている大きな影を睨んだ。
「なぜって。そりゃ、積年の恨みを晴らすために決まってる」
「あれはお前の仕業か」
階段を指差すバリューの声に、怒気が見え隠れする。
「知らねえ。ネズミかなんかが、やったんだろ」
石畳にめり込んだ大男が半身を起こす。猛烈な勢いで叩きつけられたにも関わらず、何事もなかったかのように立ち上がってくる。
「あの『鉄火剣』の持ち主は何者か」
「さあ、なあ」
「……詳しく話せ。その後でなら、いくらでも相手になるぞ」
「あ、嘘じゃねぇだろ、なあ」
「勇者に二言はない」
「勇者? けっ、元・勇者じゃねぇか」
バリューが一瞬、目を見開く。
───鞍上!
突然、英馬エルビムの思念が届く。
二手に分かれる道の森へと続く方から、地響きが伝わってくる。何やら鬱蒼とした黒い毛むくじゃらが、轟音を立てながらこちらへ突進してくるのだ。
「今度は、なんだ」
バリューは集中をそちらにずらす。そして、すぐに気づいた。すかさず右手を掲げ腕力を光束の糸に変えると、向かってくる黒い塊を覆うように放つ。
光の糸が触れるや否や、剛毛の毛束が剥ぎれ飛ぶ。赤黒い眼光がいくつも瞬いた。
「……豪馬」
それは、英馬より頑強な体を持つ一頭の『豪馬』だった。
体中に取り付いた大鼠をそのままに、ここまで疾駆してきたのだろう。
だがもう力尽きる寸前だった。噛みつかれ、引き裂かれ、皮と肉と血をこそげ落とされながらも、ここまで辿り着いたのだ。
─── 紅白…双龍げぇっ……
大男が、また吹き飛ばされた。と同時に、バリューはエルビムの背から素早く降りる。
「行ってやれ。あの馬鹿者はわしがなんとかする」
バリューが肩を押すと、短く鼻を鳴らしエルビムが駆け出した。
「さあ、望み通り相手をしてやる。聞きたい事が山ほど増えたのでな」
「あ? ああ…鼻血だ。見ろ」
むっくり起き上がった大男は、ボサボサの蓬髪をかき上げた。
太い首に乗ったゴツゴツした頭には、薄汚れて無精髭を生やした悲しげな顔が張り付いている。大きな鼻の穴から垂れた血を、草臥れた手甲をつけた手で擦る。
「ああ。この匂いがたまらん、なあ」
「暫く見ぬうちに、うらびれたな」
バリューは左手で冑を外し床に置く。手首を捻って手甲を開き、これもまた丁寧に外す。
「あ、修行したんだ。三年前の俺とは違うぞ」
「そうか。では行くぞ」
大男の腹が胴鎧ごとひしゃげる。
音もせずに、バリューの左拳が捻り込まれていた。
大男の体がくの字に折れる。突き出た顎に右の拳が下から炸裂する。
「大人しくしろ。連行する」
バリューは、もんどり打ってから地面に転がって小刻みに震える大男に近づく。
「まさか、勇者の血筋を取り押さえる事になるとはな」
小声の愚痴が思わず溢れる。
「も……もう、いいだろ。約束は果たしたかんなあ……」
「?」
黒鬚がびくりと震えて、立ち止まる。
「あとは好きにやらせてもらうっ!」
─── 勇武……韻唱…
大男が立ち上がる。その顔に生気はなく、眼窩が窪んでその奥から鋭い青光りがギラギラと溢れ出る。
「足止めだけじゃねえぞ。『豪腕の勇者』の真髄を喰らえっ」
バリューの顔色が青褪めた。
─── …「紅龍初飜…
バリューが後退りする。「豪腕の勇者」だと?
─── …白龍追飜…
驚愕。間に合うか。左手で印形を結ぶ。
─── …緑龍結飜…
間違いなく、来るのは「勇者」の大技。
途方もない魔力、霊力、理力の渦が、大男の後光のように際限なく広がっていく。
頼むっ。跳ねろっ!
─── …大・三…
─── …「三色同刻!」
白い商街の大広間全てが、眩い光輝に包まれた。
☆
「おカシラ、これを」
「うん。助かった」
空気の澱んだ狭い暗がりの中、柔らかな「癒幣」が青く光って燃え尽きる。
「……こんなところで左腕を失くすことになるとはな」
「落日大陸の人外などに助力するのは如何かと」
「『扈門解放』の御旗を掲げる勢力に与するのも、悪くはないだろう」
幾色もの癒幣が光っては消える。
「甘味の奥には毒とも言います」
「ああ、思い知った。肩と二の腕がわずか残ったのは幸いだった。まだ『豹者』で生きられるぜ」
「……なぜ防御の魔甲を使わなかったのですか」
「使ったさ。敵の攻撃が巧みなんだ。物理・魔法・霊能三源の混成拳撃を、頭・胸・腰に同時に別角度から受けた。紗隠れも破られ、防御は無効。瞬遁で避けようにも隙がない。苦し紛れに贄身の術を使わざるを得なかった。我が事ながら、腕一本だけで済んだのが信じられん」
「……」
「勇者の授かる『早逝の誉』を恐れ、大役から逃げ出した腰抜けの卑怯者と聞かされていたが、どう計っても手練れ、歴戦の古強者だ」
「だとしたら、あの連中、全く信用できない奴らではないですか」
「そうだな。だがまあ、貸しは作れた。北方の同志に面目も立つ」
「御身大事に。妾はおカシラが心配です」
「……貴族支配の安穏と緩んだぬるま湯の世界に、動乱の兆しが見えたんだ。豹者として命賭けずにいられるかい」
「では、このまま続けるのですか」
「歴史あるこの地の貴族の手並みを見定めたい」
「……若く美しい女豹の毛並みをでしょう?」
周囲の揺れが大きくなった。
「最早これまでと観念しかけた。助かったと実感できたなら、この有様さ」
「……」
「熱り勃って手に負えない」
「……おカシラ?」
「鎮める鞘を…どこか知らないか」
「……ここに」
「そこか。……うまく収まるよう導きたまえ」
「……あ」
「まだ浅い。もっと奥まで、しっかりと…」
「……おカシラっ。ん、あぁ」
唐突に以下略。
鼠の主 へ つづく。