「夏至の日」5 ─ 先触れ 1
─先触れ─
陽の動きに連れて、深さを増す青い空の下。見渡す限り樹木の頂が続いている。
中でもひときわ高い巨樹の天辺近くに人影があった。
まるで重さを打ち消すように、細い枝に軽やかに足を置いて遠くを見渡す少年の姿。ア・ロ・ワ神バライカがやけに神妙な顔で彼方を見ている。
「届きそうにないな」
バライカは小ぶりの弓を手にしていた。板を二重に合わせ、内側に「甲虫翅鞘」を張り付けた、凝った作りの合成弓だ。
<<< 立派な弓だが、随分と小さいな。どんな矢を使うのだ?
バライカは、己を支える巨樹の幹に右手を優しく押し当てる。
<<< 精霊の御力を放つのか。
「そう。この弓は奉納品だ。精巧にできてはいるが、実用には向かない儀式用だね」
バライカが指で弦を弾くと、低く澄んだ音がした。
「オレの『極箭』には都合がいいんだ。取り回しが楽だし、装飾の貴石は本物の『磊宝メルタル』だ。……まあ、それはともかく。視野を先まで拡張する『点眼箭』でも、流石にあそこまでは飛ばせない。アナタの思念で遠くの物事を認識できないかな」
<<< 異郷の森の主よ。我らの意識は、光と風と水と大地に心を通わせて感じるのだ。距離が遠ければそれも薄れる。ク・バ・ツ様ならば主の願いも聞き入れてくださるのではないか。
「ああ、まあね。でも今は、何故か呼びかけに応えてくれなくて……」
バライカは弦から手を離し、額に指を添えてため息をついた。
<<< 何か粗相をしたのか。
バライカが項垂れる。
「そんなつもりは…ないんだけどなぁ」
逆に無理難題を押しつけられて、ちょっと頭にきているとも言えない。
「とにかく、あそこで何か良くないことが起こっている。強い混乱の気配が届いたんだ」
<<< ならば、あれに尋ねたらどうであろう。
バライカが顔を上げる。視線の先、天空と木々の境を何かが猛烈な速度でこちらに向かってくる。慌てて右手を高く掲げる。中指に巻き付いた翼の意匠の指輪が煌めいた。
景色を掠めて飛び去るかに思えたそれは、ぐるりと大きく旋回してバライカの上空に達すると、黒い影をあらわにしてゆっくりと落ちるように近づいてくる。
羽ばたきが聞こえ、バライカの左肩に小鳥がとまった。
「旅鳥の『妖精』だね。急いでどこへ行くんだ」
<<< 大変。主に知らせる。森の中で騒ぎが起きてる。
「うわっ、くすぐったいよ!」
畳んだ虫襖の翼に薄色の紫が映える羽先が、震えて首筋を撫でるのだ。我慢できず肩を揺すると、小鳥は一瞬飛び立ってから、バライカの頭に移動する。
<<< ねずみ。大鼠の一族がいっぱい。まだ明るいのにとても怖い勢い。土地の生き物が逃げまどってる。
「ねずみって。あのあたりは『盟約』で猛禽と蛇の縄張りだろうに」
<<< 少し前から猛禽も蛇も見当たらない。それに、いっぱいのねずみは、あなたの……眷属の巣を襲ってる。
「オレの眷属?」
バライカが首を傾げる。小鳥は二、三度跳ねてから頭をつつく。
「いてて。……ああ、人間の事か。この森の民なら精霊の御加護があるから上手く身を隠すだろう。夏至の夜に備えて警戒もしているだろうし」
<<< ちがう。ちがう。森の民じゃない。大平原から来た眷属……ニンゲン? それと仲間の生き物。
バライカはハッとして目を伏せる。
「領民の製材所と湖港の町か……。守護隊が常駐しているはずだけど、手助けが必要なほどかな」
<<< いっぱいのねずみに、『鼠王』がいる。
「それは妙だな。森の盟約を一番わかっているはずなのに。……よし、オレが行く。キミの主人には、ア・ロ・ワ神が向かったと伝えてくれ」
<<< わかった。あ・ろ・わの神様。必ず伝える。
小鳥はすぐに羽撃いて飛び去った。
「走っていくには遠いな。反動がきついが、上をいくか」
バライカは巨樹の幹を撫でて礼を告げると、勢いよく体を空に投げ出す。
─── 白衣陣…「羽勢「気溜「嵐旋」」」
バライカの体が宙に浮き、逸らした力を推進力に、突如起こった気流に乗って、的に向かって放たれた矢のように飛び出した。
☆
トクリカ森林の南東に接するオーギュビー湖は、北の山脈から森を通って流れ集まる水を湛えた、アカサス領の水瓶である。
ここから三方へ伸びる大河を中心とした河川は、水源であると同時に物流の起点となり、この水路を通って運び出される木材や鉱石やその加工品が、この辺境の領地の貴重な交易を支えていた。
オーギュビー湖にはかねてからふたつの湖港があり、それぞれがそれなりの規模の商街として栄えていた。古から続く「森の盟約」に沿って幾つもの決まり事が慣習に染まり、それさえ守っていれば物事は順調に進むことを、誰もが疑うことはなかった。
北の湖港にも守護隊は配置されていたが、大きな諍いもなく平和な街で、喧嘩の仲裁や野盗の退治をし、ただ任期を全うするだけの仕事といえた。
湖へ続く街道をひた走る英馬に跨り、守護隊副長のバリューは、その湖港部隊からの緊急伝を受けていた。
大ねずみの大群と「魔獣」の襲撃。詳しくはわからない。それきり通伝は途絶えている。
─── メイマ。戻れ。
三馬身ほど先をいく青毛の英馬と狩鎧に銀色の仮面をつけた騎士が、速度を落としてバリューに並ぶ。
「おそらく街での害獣駆除になる」
バリューが声を張り上げると、騎士は左腕を上げてみせた。
威嚇と捕獲に使う「魔術具」を備えた小手だ。
「よし。現地の状況がわからぬ以上、わし等のみでの作戦と思え。この先の脇道から森に入る。街道から外れたら巡航速度を保って一気に湖港を目指す」
仮面がうなづいて騎馬が勢いを増す。
─── 鞍上。あれを……。
バリューを乗せ力強く道を突き進む英馬から、注意の思念が届く。それは、バリューの意識をかなたに続く街道の端に向かせた。熱に萎れかけた草むらの中に何かが見える。
「あれがそうか。一体、何匹いるのだ」
─── 既に道沿いに数百は到達していそうな数。丸くて毛艶が赤みを帯びる…見たことのない大型種。ひどく興奮している…赤黒く燃える激しい敵意。しかし統率は取れている。何者かの意思に従って…動いている。
「外来種か。『威光街道』に侵入できていないところを見ると、街道の警戒線に敵対認定されたな」
街道の路肩に埋め込まれた「楔石」があちこちで不穏な火花を散らしている。押し寄せる黒い影がその度に飛び跳ねるのがわかった。
─── できれば先を急ぎたい。ニースが仲間の苦悶を感じている。
バリューは左手で握る、鞍から伸びる「操馬把」に目をやる。思念接続の要所が熱を帯びているのだ。
「エルビム、速度を保て。どちらにせよ、この街道から外れなければ目的地に到達できぬ」
バリューは目を細めて森の樹々の先に視線を向ける。
「同じ日に再び、大術を繰り出す羽目になるとは……」
─── 鞍上。我ら戦志駿馬の一族、まだ二割は速度を上げて無理はない。
「うむ。道行きは任せた」
─── しかし……。其方の御技は、己の寿命を削ると聞く。
「そのようだな。だが機会を逸する訳には行かぬわ」
バリューは横を向き、並走する仮面騎士に叫んぶ。
「メイマ! 捕縛は考えなくていい、まずはあれらを大人しくさせろ」
「御意」
応えるやいなや、仮面の騎士は騎馬を右手の道沿いに寄せる。右腕を覆う籠手に巻かれた黒鉄の螺子細工が形を変えて、静かに唸り出す。
街道の片に突風が巻き起こる。草の陰に隠れる赤い光が瞬いて奥へと消える。
突如、凍えた烈風が渦を巻き、鼠の潜む貧弱な草むらに傾れ込んだ。そこへ周囲の焼かれた熱風が覆いかぶさる。湿気が粒をなし、蒸気が渦を巻いて無数の黒い塊を吹き飛ばす。
「囲って退かせます。日没まではなんとか」
「よし。それまでには元凶を断つ。ここは任せたぞ!」
バリューは右手を大きく後方に振る。微かな血飛沫が舞い、石畳に跡をつける。
─── 勇武韻唱…「一気……
途端に街道が眩しく煌めくと、突き進むバリューと英馬を囲むように光と闇のねじれた渦が現れ、道から外れた森の奥へと、真っすぐ果てなく伸びる。
─── …通貫」
瞬間大気が震え、周囲の温度が極端に下がる。後には渦巻く熱気を残し、もう騎馬の影もない。
仮面のメイマは操馬把を引く。英馬は速度を落とし、街道の真ん中で立ち止まる。
「もう心配はいらないよ、ニース。バリュー様がその気になった」
───『剛腕の勇者』……。
「お役を辞しておられるが、勇者は寿命尽きるまで勇者だ。例え相手が魔神だとしても、命を賭して退治してくださる。我らはそれまで、ここで獣を押さえ込んでいればいい」
英馬ニースは、無言でゆっくりと首を巡らせる。
─── 鞍上。奴らは術界の外に移動し始めている。御威光の届かぬ、街道から距離を置いた森沿いに広がるつもりではないか。
メイマの仮面が、右手の籠手から放たれた魔術結界に向けられた。
「御威光の術力増幅は当分途切れない。術の威圧で怯えた個体が逃げ惑っているのでは?」
─── 兄者エルビムの見立てもあるが、統率者の存在を感じる。それも複数だ。幾つもの鼠の小さな群れが、統制の取れた大軍の小部隊のように動いて見える。
「鼠の兵隊か」
仮面の声が、なにやら楽しげに聞こえる。
「ならば、左腕の螺旋も放っておこうか。威光消費の兼ね合いで効果を抑えているのだ。そうだな……。バリュー様の期待に応えるには、あれらの完全制圧が当然だ。度数を極大にして森林の際まで追い込もう」
メイマは手綱を微かに引く。
「ニース、道を戻れ。ひとつ前の十字路まで結界を拡げる。……まさか夏至の日にこんな幸運に恵まれるとは。この装備の全機能を試すに、この機会を逃す手はない」
英馬ニースは、勇者と共に消えた兄弟の行方を一瞥し、一瞬躊躇うかのように蹄を鳴らすと、低く嘶きゆっくりと駆け出した。
☆
「『パライバ電機石』の『術解格子』を手に入れます」
「……他国潜入か。バレたら外交問題だぞ」
窓の覆いの隙間から光が差し、白練色の揺れる袖先を淡く照らす。
「で、それを操作する『機工師』はどうするんだ」
「貴族でなくとも良いのです。『機工』そのものをその役に充てます」
光は三つ編みの赤髪を通り、薄鈍色の技官服に跡を残す。
「どうやって? 師匠、王都どころか他国の鑑別組織にすら、そんな技術は見当たらない。『自考機工』なんて、機工立国のアクロアですら実現していないぞ」
馬車は以前より静かにおとなしく走っている。振動は我慢できるほどに収まっていたが、ゆっくりと寛いで話をするに相応しい場所には程遠かった。
車中には三人の鑑別技官の姿しか見えない。同行していた守護隊衛士は、冷房の効く車内より日光に焼かれる御者の横へ移動する方を選んでいた。
箱に座る鑑別技官カレンの襟元に、白銀の髪から同じ輝きの細い鎖に巻かれた赤と青の玉飾りが回って跳ねる。
「大きな声では言えませんが…」
「あるのか。まさか、この領地に?」
カレンの前には、床に直接胡座をかいて居心地の悪さに辟易している赤髪のシャドームがいた。
「今向かっている場所に」
「この先は、パロ・ハデビの宿場町…いや、ジルドビア教都の鑑別所か」
「もっと手前です。もうすぐ着きますよ」
カレンの言葉通り、馬車の動きがゆっくりとなり、いったん前方へ小さく沈んで動かなくなった。
「技官殿、カーペダン交叉の手前です」
「ありがとうございます。ここで私たちは降ります」
若い衛士の言葉に、カレンが応えた。
「しかし、この交叉路の付近にはなにもございませんが……」
衛士は顔の汗を拭いながら、不安そうに辺りを見回す。夏至の日で人気もない街道の只中に、何の用があるのだろうかと訝しむ。
「ご心配なく。時刻も丁度、間も無く迎えが訪れます」
カレンは扉を開いた。熱い風が入って長い髪を背後へ流す。
行儀よく足を揃えて、大きな鞄に腰を下ろしていた少女の髪が勢い揺れる。
「お散歩ですか?」
「降りるぞ、コマネッタ。あ、オマエ、寝てたな」
「いいえ。目は開いてましたのです」
「いや、寝る時は目を閉じろよ」
「それでは直ちに行動できませんの」
「……さあ、いくぞ」
「あら。先生はどちらなのでしょう?」
「いいから、直ちに行動しろ」
御者台で振り返り戸惑い顔の衛士に、カレンが小さく手を振る。三人の鑑別技官を降ろした馬車は、十字路を右に折れて、すぐに木々の向こうに見えなくなった。
「……では、参りましょう」
「迎えは?」
「ありませんよ。若い衛士に心配をかけないための方便です」
「おい。この暑さの中、どこまで歩かせるつもりだ」
カレンは、眉根を寄せるシャドームに笑顔を見せると、街道の端に向き直り歩き出す。
「もう、すぐそこです」
「先生、消えるのはいけないのです」
鞄をぎしぎし揺らしながら、コマネッタが走ってきた。
石畳の街道を外れた貧弱な草むらの向こうには、太い幹の巨木が壁のように並ぶ、深い森が待ち構えている。
「私の後ろに並んで、真っ直ぐについてきてください」
カレンは、木々の重なる暗い陰の覆う空間に踏み入る。
とたんにその姿が消え失せた。
「あっ! せんせいっ」
どすんと音がし、コマネッタが慌てて後を追う。
「ここにいますよ。消えてはいないでしょう?」
「よかったですね。あら、『極鞄』はどこに」
二人の技官の姿は見えないが、声はすぐそこから聞こえる。
立ち止まっていたシャドームは、じっと二人が消えた空間から視線を外さない。
唐突に金髪の少女が現れた。すごい勢いでシャドームの側を駆け抜け、地面にめり込んだ巨大な鞄の持ち手を掴むと、背後を振り返った。
「あっ! せんせいっ」
「待て。わざとやってないか、オマエ」
「だって、先生が見えないのは悲しすぎますから」
「……魔術幻影だな。呪礎がひとつだけで、うまく設置してある」
「謝絶幻影です。光写迷彩のほか、五感誘導術と精神幻惑術で補強しています」
姿の見えないカレンの声だけが聞こえる。
「魔術結界を張った方が楽なんじゃないか? …ああ、意識体から存在自体を隠したいのか」
「目的地はすぐ先です。急ぎますよ」
綺麗な指をした手の平が、手首から先だけ宙に浮いて手招きする。
─── 閾値を超える「敵意」発見。「憤怒の殺気」六本を捕捉。
小さな空気の破裂音が、立て続けに聞こえる。
シャドームが振り返る。いつの間にか、技官服の少女は街道の近くまで離れている。
─── 鎮圧完了。続いて前方二度範囲から二十四本捕捉。急速度で四方に展開。
コマネッタは街道と森に挟まれた草地のはるか彼方を見つめている。その先を指差すように真っ直ぐ向けられた左手の周りで、微かな光が瞬くように明滅する。
「師匠。思ったより早く始まりそうだ」
コマネッタから目を離さずに、シャドームが小さく呟いた。
「……あなたに任せます。ですが、無理はいけませんよ」
白い手が暗がりの中に飲み込まれた。
先触れ 2 へ つづく。