「夏至の日」4 ─ 鑑別技官 2
☆
大森林を背負い平伏するかに見える、黒々とした肌の崖があった。小山の手前半分を削り取ったかのような絶壁だ。その麓に崖の中に通じる入り口が埋め込まれていた。
断崖に彫り出された城壁門と言ったほうがいいだろうか。黒い岩肌に、質感の違う岩盤を磨いて巨大な門が造り上げられているのだ。
門前には、軍馬に引かれた馬車や、武装した守護隊員、布幕の野営陣が設られていた。
現在、門扉は固く閉ざされているが、つい今しがた十数人の姿を飲み込んだばかりだ。
その一行は奥へと続く洞を進み、その先に待つ太古の遺構へと辿り着いた。
ほぼ球に近い巨大な空間が目前に広がっていた。その中空に、何層にも分かれた複雑な構造物がぶら下がっている。地下に設た途方もない鐘楼だ。空球の壁面を覆い尽くす数多の鉱晶が淡く煌めき、熱と仄かな明かりをもたらしている。
太古から続く精霊の叡智が積みあげられ、凝縮し昇華された神聖が満ちている。
文字通りの「聖域」である。
「これは素晴らしい……」
その威容を初めて目にしたのか、腰の曲がった白髪の老人が思わずつぶやく。
「デニ卿は、ここへ赴くのは初めてでしたかな」
隣に佇む筋肉の塊のような武人が小声で尋ねる。
「中央の鑑別研鑽房で長年、禄を食むばかりの小人です。このような機会でもなくば、『古精霊の大晶洞』など、間近に拝むことができようなどとは…」
「僥倖ですかな。私も小さな子供時分に…」
「お静かに。『お導き』がいらっしゃったようです」
二人の会話を遮るように、背後から誰かが囁く。
小柄で丸い晒し布に体をすっぽり包まれた人物が二人。その背後には、長身でがたいの良い精悍な男が立っていた。
「領主様。御身自らお越しいただき恐縮の至りでございます。……ですが、状況が大変怪しくなりました」
表情も窺い知れぬ布の奥から、柔らかな響きを持つ高い声音が聞こえる。
「誠に遺憾ではございますが、今しばらくお待ちいただきたく存じます」
もう一人から、これも優しい声が、布越えに幾許かの震えを帯びて発せられた。
大小の剣を帯びた二人の戦士の後ろから、王族のみに許される透紫紺の装束を纏った人物が前に出る。
「聖域の巫女の申し出だ。ここで待機はしよう。しかし何故なのか事情は知りたい。日が暮れるまでもう時間がないぞ」
「恐れながら申し上げます。彼奴の正体が……今ひとつはっきりいたしません」
それを聞いて、領主が背後を振り返る。
「鑑別院長……」
苛立たしげな声で呼ぶ。
「こ…これに控えております。領主様」
「巫女に助力し、確実な情報を得よ。…デニ卿。別件ですまぬが知恵を借りたい」
「なんなりと。殿下」
「よし。衛士と侍従はここで待機せよ。そう時間は掛からぬ。……『双生の巫女』よ。待ちはするが、この目で『あれ』を封じている状況を確かめたい。それは良いな」
「……畏まりました。こちらです」
外部からの一行から五人が別れて、布に巻かれた巫女と従者の後に続く。
「奇妙な出で立ちですな。巫女は姿形を保ち長寿と聞きますが、長い年月に身体の感覚を少しずつ失うのだとか」
筋肉の武人が逞しい手を口に当てて小さく囁いた。
「特に視覚と聴覚が著しく衰えます。とは言っても数百年の間に徐々に進行する症状ゆえ、我らの老化に比べれば微々たる変化でしょうな」
白髪の老人が難儀そうに足を運びながら応える。
「背後の衛士が、おふたりの肩の辺りに触れておるでしょう。巫女様はあの若者の感覚器を借り、心で見て、聞いておるのです」
「なるほど。ではこの小声のお喋りも慎まんといかん訳だ」
「その前に殿下に睨まれますわい」
老人が先を行く領主を見遣って微かなため息をつく。
「院長……」
「はいっ」
汗を拭く布を握って、顔面蒼白な小太りの男が姿勢を正す。
「王宮からの技官殿はこちらの鑑別院に居られるのか」
「は、はいっ。いえ、恐らくはお立ち寄りくださると存じますが……」
「トクリカ南部関所を襲った風来神をたった一人で封じたと聞いたが、どのような人物か」
「はい、確か王宮鑑別院の『絶家門』血統のお一人で…」
「……『精霊群系譜』には既にない血筋だな」
「ルベド家の女性と聞き及んでおります」
「侯国の? 『絶家門』ではないのか」
「色々と複雑なお家事情がおありのようで」
「ふむ。その辺りの話は必要ない。どのような女性か」
「はい、その……」
「殿下。カレン-パシオ-ルベド様は、我らプレシオーナ人の巫女様であらせられます」
背後から白髪の老人が助け舟を出す。
「巫女? プレシオーナの巫女が技官をしておられると?」
領主は思わず立ち止まって老人を振り返る。
「忌子なのです。『奇瘡』をお持ちの」
「覚霊した巫女か。しかし悪霊ではないか。魔神の類いと変わらぬぞ」
「領主様」
白い布の巫女の一人が呼び掛ける。領主が立ち止まった為に一行全員の歩みが滞っていたのだ。
「……まあ良い。急ごう」
領主は再び歩き出しながら、何事か思案する。
その様子を伺い、筋肉の武人が己の指にはめた「送信輪」を撫でた。
☆
森の中を真っ直ぐに続く街道を大ぶりな四輪馬車が勢いよく走っていく。
滑らかに続く石畳に沈みはじめた小石が、車輪に轢かれ弾け飛んだ。
瞬間、箱型の車体が揺れ、椅子がわりに置いた木箱がガタンと音を立てる。
振動に辟易する守護隊員が同乗の客に不安げに目をやると、白い技官服の女性は事もなげに頷いた。
「緩衝機のない車両は慣れております」
「面目ございません。資材輸送の車しかご用意…」
舌を噛みそうになって、それきり言葉が発せない。
「冷房設備があるだけ上等です。無理を通したのは私ですので、どうぞご心配なく」
縄で荷物を縛り付ける金輪を握って声もない守護隊の年若い衛士は、気まずそうに床を凝視するばかりだ。
突然、鋭いいななきと御者の叫びが同時に聞こえた。
若い衛士がすぐに動いた。
「何事だ」
「行く先に人が…」
「待ち人です。停まってください」
鑑別技官カレンが腰を上げる。衛士が振り向くと、馬車の扉に手をかけ今にも開けそうだ。
「お、お待ちを」
「王宮に派遣を要請した私の部下です」
「は…いや、しかし上官の」
「そちらの本部に照会してください。同行させます」
衛士が慌てて確認の手立てを思い出そうとしているうちに、再び馬車が揺れて車輪の音が止まった。
カレンは馬車からゆっくり降り立ち、続く街道の先を見る。
すぐに熱気が纏わりついてくる。陽は幾分傾いてはいたが、その輝きを増していた。その光を背にして二人の人影がまだ先にあった。
こちらの姿を認めて荷物を持って駆け寄ってくる二人に、上衣の埃を丁寧に叩き落としてから、カレンも歩み寄る。
「先生っ。お元気そうで何よりですか?」
臙脂色の技官服を着た少女が嬉しそうに声を上げる。カレンにそっくりの外見だが、体つきはひと回り小さく、肩まで伸びた金髪は先を緩やかに巻いて元気よく跳ねる。
「師匠。冗談も大概にしろ」
薄鈍色の技官服を着た少年がドスの効いた声音で文句を言う。冷たい艶を持った赤髪が炎のように渦を巻いて三つ編みにされ、背後に流れて強く揺れる。
「替えのお召し物をお持ちしましたのですねっ」
自分の胴体程もある大きな鞄をどすんと音を立てて街道に置いた少女は、両手を広げて嬉しそうに微笑む。
「さあ着替えるのですって」
「コマネッタ、遠路ご苦労様です。シャドームもついてきてくれてありがとう」
「……こんな僻地に突然呼び出しやがって。しかも縮遷洞の特急座標調整までさせて、オレの脳髄を焼き切るつもりか」
「万事順調です。鑑別院の許可もとってありますから、問題ありません」
「先生、お着替えですから。ほら、柔らか仕上げにした技官服ですから」
「許可を取った? ならなんで保安隊に追いかけられたんだ。奴ら本気でオレらを取り押さえようとしたぞ」
「手違いがありましたか。急いでいたので許してください」
「手違いで手足を結晶凝固化されてたまるか。許す理由が微塵もないな」
「シャドーム。怒らないでください。相応の理由があるので急いだのです」
カレンはずいぶんと困った表情をしながら、顔まで真っ赤に怒髪天を衝いている少年を宥めようとするかに見えた。
「あなた方の力が必要なのです。とにかく私に同行してください」
「きゃーっ! せんせいっ」
少女の悲鳴に、白練と鈍色の技官の動きが止まった。
「…霊力の流れが三つも…お亡くなりになってしまわれたのではないですかっ」
右手を口に当て、左手で首元の巻き毛をギュッと握ったまま震える少女に、カレンが優しく諭すように言う。
「落ち着いてコマネッタ。この『極輪』も『極環』も、破壊されてはおりません。機能停止していますが、回復は進んでいます」
「……それならば素敵ですけれど、とても悲しい出来事です」
「伏呪輪の『魔力退応弁』が吹き飛んでる……。師匠、何とやりあったんだ?」
「詳しくは道すがら。さあ、あの馬車に乗ってください。とても急ぐのです」
踵を返すカレンの後に、全身から不穏な気配を漂わせる二人の部下が続く。
「面白そうだな。話によっちゃあ許してもいいか」
「愛らしい輪っかが三つも半殺しだなんて……八つ裂きで仕返さないと麗しくないですから」
馬車で待つ四頭の輓馬と二人の人物は、向かってくる怪力の少女と憤怒の少年、そして冷たい氷の女性にただ戦慄せざるを得なかった。
次回 ─先触れ─ へ続きます。