「騒乱の夜」9 ─ 貴属の不和 3
☆
「クロシュ!」
体が痙攣している。何が起きた?
意識が重いが、微かな明かりは感じられた。
「クロシュ。しっかりしろ」
声だとわかるが、意味がわからない。
「救護! 早くっ」
「火が落ちたぞ。松明を外せっ」
寒気が襲ってくる。そして吐き気。
「誰か。こっちへも毛布を……」
「湯を持ってきてくれっ。それから気付けを!」
「クロシュ!」
焦点があった。顔面蒼白なクーリオスが覗き込む。
腹が熱くなる。
「全部出してしまえっ」
クロシュは何度もえずき、吐き出した汚物に塗れていた。
木杯が唇に当てられる。
「飲め。毒気を洗うんだ」
さめた白湯に潤う。夢中で飲み干した。
「灯りを絶やすな。どこかにいるぞっ」
「気遁の解呪だ。術者はまだか?」
突然、周りの騒音が届いた。同時に眩暈を感じ目を瞑る。
「ベルサ、こちらです。意識が戻りました」
「よかった。解毒が間に合ったな。ありがとう」
「霊域なのに。誰がこんな」
「まだ安心はできない。……クーリオス。あとを頼むよ」
苦しい。だが、思考の脈絡がついてきた。
それは唐突に起きた。投げ込まれた玉が破裂して煙が立ち込める。痺れに、毒だと気づいた時には遅かった。
「セディアンナは。……姉さん?」
クロシュは、掠れた震え声を上げる。
「これを口に含んでじっとしていろ」
薬包から口の中に苦味が走った。顔が熱って、呼吸が楽になる。
「ぐうっ。……なにが」
「まさかの襲撃だ。周囲を毒霧で満たされた。何が起きたかわからない。だが、この小屋の人たちにはもう処置を終えた」
クロシュは口を拭って半身を起こす。 暗がりの中で、手助けしてくれていた人々の気配だけは感じる。「薬医」でもあるクーリオスが、懸命に働いたのはわかった。
「解毒できたのか。どうやって」
「ここには、俺たちでは入手できない、貴重で高価な即効薬が揃っている」
「そうか。セディア…」
「霊域の霊屋だから、なんとかなった」
「クーリオス?」
「こんな範囲の瘴気術、なぜここで」
熱気が寒気に変わる。クロシュは、思わず掴み掛かる。
「セディアンナはどこだ!」
あの時、突然倒れたセディアンナは意識を失っていた。
身体の疲労と張っていた気の緩みが原因に違いないが、仰天した鑑別堂の使者達の慌てぶりが大仰で滑稽に思えた。この小屋よりもしっかりとした、隣にある貴人用の建物に担ぎ込まれたのは記憶にある。
心配だったが、霊域の中心である霊屋には救護の術が揃ってる。後は術師と御霊医に任せる他はない。
この深い森の中でも一番安心できる場所なんだ。
なのに、これは……。
「落ち着け。姫様にはベルサがついている。今は体を休めるのが先決だ」
「もう落ち着いた。外の様子が知りたい」
「駄目だ。動くな。肉体の深くに入り込んだ毒素は、まだ抜けていない。命に関わるぞ」
「クーリオス。姫様は?」
寒気が止まらない。嫌な思いつきが拭えない。
─── よく考えるのだ。一瞬は惜しくはない。この分岐は大事だぞ。
力が抜けていく。心が萎えていく。ただ、感覚は研ぎ澄まされる。
─── よし、目は覚めたか。体はどうだ。動けるなら、その程度を悟れ。
胃液の臭いが鼻につく。だがもう吐き気は治った。四肢の疲れは抜きっていない。走るのもやっとだろう。
─── 最悪なのは、姫君が攫われた場合だ。お前は何ができる。
セディアンナを助けたい。でも、この体じゃ追えない。
ベルサ姉さんはどうしたんだ。多分、するべきことをしてる。
─── 確かめる時間はない。何ができるか。
何をすればよいのだろう。違う。何ができるかだ。
クロシュは、押さえつけたクーリオスの震えに、初めて気づいた。
「クーリオス。わかったよ」
クロシュは、自分の声が落ち着いていることに驚いた。
「だけど、やれる事をしたいんだ。本当はどうなんだ?」
「……姫様が、攫われた。突然のことで、何が起きたのか、わからない」
「霊域で襲撃か。敵はなんだ」
「わからないんだっ。ちくしょう……」
クーリオスの声が、掠れて揺れる。
あっという間の誘拐劇。ここに貴族の姫が現れるのを知っていた誰か。それにしても手際が良すぎる。姿を見せずに、これだけのことをやってのける存在って。
姉のベルサは、その誰かを追っているのだろう。でも、どうやって。
「霊屋窟の巫女様が、追跡してくれている。目印を残しながら。ベルサ達はそれを辿って、救出に向かった」
「巫女様が? 鑑別堂の人はどうしてる」
「……猛毒が襲って、まだ、命が危うい」
「そうか。だったら俺は」
「クロシュ!」
今度はクーリオスが、胸ぐらを掴んできた。
「大丈夫。無茶はしないよ。だけど、巫女様が動いてくださっているなら、霊屋で祭祀を取り仕切っておられる御霊巫女様は、何か知っているかも」
─── できることがあるならば、すかさず、急げ。
「クロシュ。俺は」
「クーリオス。その右足の傷は、この騒動でつけられたな。おまえの解毒術で救われたんだ。今度は俺ができる事をする」
思考が澄んでいく。周りにはまだ混乱の喧騒が続いている。
「休んで待っていてくれ。すぐに戻るから」
クロシュは、小屋から飛び出した。
暗がりの中、幾つもの松明が動き回っていた。
─── 霊屋の周辺一帯に、同時に強度の瘴気術行使。その後の混乱に紛れて目標の捕獲、逃走。熟練者の仕業だが、何がおかしいかわかるか。
捕まえたセディアンナを連れて、これだけの人の目を欺いてどうやって逃げ出した? 霊屋を中心に、同心円上に幾重もの怪異防衛の布陣が敷かれている。気を失っている人間を隠しながら、この霊域を抜けるのは至難の業だろう。
─── 逃げたと見せかけて、近くに潜んでいる可能性。仮隠の遁術、もしくは魔術幻影。だが、それを御霊巫女が見逃すだろうか。
手練れの計画だとしたら、逃走法と経路は当然のこと用意してる。だけど俺には見当もつかない。
─── ならば急げ。今できることを。
風を切って走る。腰から両足、それに胸に痛みが残っている。それでも、岩を蹴り土に塗れながら、闇に浮かぶ石造りの霊屋へ近づいた。
荒く切り出された階段を登ろうとして、何かに躓きそうになる。
人が倒れていた。クロシュは思わず背を低くする。
石段に俯せのそれは、すでに事切れている。
血の臭いが迫ってきた。
素早く見回す。階段の奥にもう一人。見上げた先にも動かない人影が伸びる。
ゾッとした。同時に石段を駆け上がる。
石門の陰に身を隠す。門のその先を覗いた。
明かりが、祭壇を揺らめかせている。
その手前にも、誰かが倒れていた。
礼装の御霊巫女。クロシュは脇目も振らず、石門を潜った。
「巫女様……」
乱れた服装は破れ、床には流れでた血が溜まっている。
傷だらけの顔は、血と涙で汚れていた。見開いた目には、耐え難い恐怖が、焼きついたように残って見えた。
クロシュは一瞬息が止まる。それから跪いて、震える指先を巫女の首筋に当てた。
呼吸はないが、まだ温かい。
─── さあ。どうすればよい。
「そ、蘇生術を……」
巫女の頭と肩を掴んで、ゆっくりと仰向けにする。
その顔が、明かりに照らし出された。
力無く開いた口元が泡立ち、血が糸を引く。
クロシュは奥歯を噛み締めた。哀れみと共に絶望が押し寄せる。
「こんなことって。……どうして、俺はいつも、足りないんだ」
涙が込み上げる。
父も、母も守れなかった。だから技能を磨いて、できることを身に付けてきた。それでも、姉には及ばなかった。
今度こそと、何度誓ったことか。
皆が応援してくれているのに、どうしても足りない。
助けたいのに、力になりたいのに、何かが阻む。
いつもだ。いつも、いつも、最後に届かず悔しがるだけ。
─── 若者よ。心せよ。後戻りはできない。
抱きしめた巫女の腕が、石床に力無く落ちた。
握った手から、光るものが転がり出る。
─── 成す気に迷いなくば、その魂を拾え。
クロシュは、その光を放つ小さな玉を見つめる。
─── さすれば、我が血脈の誉を授けよう。
「……敏腕の勇者、サスバルグ様……」
─── できる事を、成せ。
クロシュはすぐに、輝く宝玉に手を伸ばした。
例えその先に何が待ち受けようとも、今はそれが唯一の、「できること」なのだから。
☆
静かな闇夜に、微かに風が巻く。
木々の枝葉が、応えて音を立てる。
衣擦れと共に、唐突に巨漢が姿を現す。
「ここだ、ここだ。待ちくたびれたわ」
光の届かぬ暗闇に、重い声音が響いた。
「御大、声がでかいですぜ。この霊域の守護陣は、かなり整ってやがる」
下生えの木陰から、丸い頭がぬっと突き出された。
「気紛れの偽獣を三本走らせたのに、見向きもせずに真っ直ぐ付いてくる奴がある」
丸い頭は霞色の帯で巻かれ、その隙間から怪しげな眼光を放つ。
「怪異に怯まず、追ってくるか」
「距離を保って忍んでいますな。どうもやりにくい。同類の匂いがプンプンしますぜ」
「ほう。古精霊の霊屋に『豹者』が飼われていると?」
「まあ、本気で打ち負かせんことはないが、ここでやりあっても詮無いことでしょう」
「そうだな。さっさと逃げるか」
「逃げるのは良いとして、お味方との合流が難しくなる事、ご承知おきくださいね」
「味方? ああ、あれは囮だ。捨て置いて良いぞ」
「……。しかし、お身内の騎士様は」
「弟はなんとかするだろう。愚鈍だが、ああ見えて胆力はあるし、愚直に使命を果たす騎士の鏡だ」
丸頭は、巻いた帯を黒光りする太い指で撫でた。
「はあ。ではそういたしましょう。……あれについては任せてください。なんとか阻みますので」
「うむ。逃げ延びたなら館に来い。ただし忍んでな」
「へい。明日にでも」
淑やかな鈴の音がする。
巨漢が羽織った外套衣が、その音に呼応するかに朧げに光る。闇の中に、もうひとつの小柄な姿が浮き上がって見えた。
「これが、兆しの女か」
巨漢の声に、中紅色の艶髪が揺れて、少女が顔を上げる。
「まだ子供だな。世継ぎを孕むには若すぎる」
少女は俯きながら、抑揚のない声を出した。
「熟すまでに仕込む時間があるのは、かえって好都合ではなくて?」
「まあ良い。ランドヘッド、あとは頼むぞ」
大人しくなっていた丸頭が頷く。
「待ちなさい。わたくしも残ります。あれでは手に負えないでしょうから」
少女が遮るように口を挟んだ。
「ひとつ増えたわ。気類は巫女だけれど、『戦律韻唱』が見え隠れしている」
丸頭が、両手で巻き帯を撫でる。
「増えた? 気配は微塵も感じませんが」
「軍属扈門の巫女か。珍妙である。それにしては闘気を感じぬが……。よし。私も残るとしよう」
「いやいや。なんとかしますんで、お逃げくださいまし。これでは精緻に組んだ『隠密行』が台無しに……」
丸頭が、その頭を帯ごと掻きむしる。
巨漢が、左腰に吊り下げた帯剣を掴む。
「臨機応変。欲しいものは手にしたが、どこまでもついてこられては面倒だ。ここで禍根を断っておこう」
小柄な影が動いて、巨漢の横に寄り添った。
「ジャロサイツ卿。わたくしを人質になさい。この姿なら、あれらの勢いを削げます」
「おいおい。そんな卑怯な真似など無用だぞ。我が一族は、勇者と共に魔神に向かった『戦魁遊撃隊』に属した誇り高き貴族だ」
巨漢が微かに声を荒げた。少女が巨漢の外套に手を添える。
「存じております。しかしここで、その武勇を振るわれては困るのです。霊域で鎮守の神を刺激したくはない」
「あの巫女等だけを始末すれば良いのであろう。かかってくれば、一太刀で胴を断ち切ってやろう」
「なりません。あの巫女達も『取り込む』わ」
「ふん。そうか。先祖代々の『祈祷士』の懇願とあらば致し方なし。ただし、危うくなったらこの剣を抜くぞ」
「宜しくてよ。……では、下郎。帰路の準備をなさい」
媚を含んでいた少女の声が厳しいものへと変わる。
首を振った丸頭が、一瞬巨漢を見上げてから畏まった。
☆
森の木々の間を縫う一筋の旋風が、静かに消え失せる。
蒸れた地面に、微かに香が匂った。
音もなく動かぬ気配が、大樹の根元に蹲る。
シーテリケは息を潜める。目標は停止したが、ひとつ増えた。
貴族だ。それも覇気のある。
寒気が襲ってきた。夏至のこの夜に、霊域を襲撃して子供を攫う、貴族?
足元が危うく思えた。脚術の衰えはないが、古帯を使った即席の巻脚半ではもたない。
─── リケさん、そこで待って。あの貴族、「魔障遮式」を纏ってる。術理回路を支えている繊維霊を分離するから、動かないで。
ああ。ネア様と、古代の…殺戮妖精。
発念周波数を絞った思念波なのに、なぜか姉巫女セレネアの声音を感じる。
─── どうして、ネア様を。戻ってください。ここは私が務めます。
─── この子とは一心同体なの。お姉ちゃんの承諾もある。あの貴族の攻防値は「五の二」。解いて封じるから、その隙に女の子を。
─── もう一人は「左文字豹」の師範級です。「遁溢奇門」に入られたら追い切れなくなります。
─── 豹者か。なら同時に封じるよ。一瞬も掛けない。リケさんが動いたら即、始動するよ。
─── ネア様の指示でなければ……。
途端に、元気で明るく温かい気持ちが、胸の内に湧き起こる。
それにセレネアを感じた。ならば、迷いはない。
決意と共に、闇に潜る。
☆
「ぬっ」
巨漢の貴族が虚空を睨む。
「動いたっ!」
丸頭が暗がりに溶ける。
閃光が走り、照らされた貴族の外套が赤く歪む。
突風が地面を叩き、燃えるように輝きだす貴族の外套が煽られ、ひるがえる。
─── 緋伝…「理ヲ正サン」
無数の光る糸が、外套から引きちぎれた。
一陣の風が舞い込む。
貴族に身を寄せていた少女の影が揺らぐ。
火花が飛ぶ。
擦り切れる輝弾に、圧搾された気流が抜ける。
巨漢の貴族が少女を抱き寄せる。
舞った外套がその姿を隠した。
─── 緋伝…「顕ニ」
少女が睨む。その先に人の形が現れた。
濃緑髪が乱れ、しなやかな体の線が一瞬覗く。
「卍字豹!」
丸頭の叫び。
少女がふたたび睨む。
─── …「搦メ捕ラン」
女豹者の千絣装束に、見えない綱が巻き付いた。
投げ出された太腿に、締め跡だけが浮き出ていく。
「なんで、卍字の女がこんなところにっ」
丸頭の声だけが虚に響いた。
─── [発照.倍加]:[離絶.炸消]
「! 目を閉じてっ」
金属音が共鳴する。
猛烈な光の波が全てを照らし、何もかもが眩く白けた。
「……灼銅の即韻」
外套に覆われた中から、呟きが漏れる。
すぐに暗闇が戻ってきた。
焦げた臭いが漂い、黒い煤が舞う。
捕らえたはずの、豹者の女の姿は無くなっていた。
☆
「ここまで離れれば、すぐには見つからない」
近くで背中を摩ってくれているセレネアの声が聞こえた。
「魔装の『捕捉術包』を一瞬で解かれた。遠距離からじゃ難しい。逃げられる前に近づいて破壊する」
体中の神経が錯乱している。ぶるぶると震えるばかりで回復が追い付かない。危機は去ったが、まだ筋肉が萎縮して思うように動けないのだ。
「ネア…様」
シーテリケは、なんとか声を絞り出す。
あの貴族の外套衣に隠された少女の目。
伝えなくては。あれは、正気の様ではない。
「なにか…違う。…取り憑いて」
頬に何かが触れた。温かく、優しい肌。
「わかってる。解析できた」
「ああ……。どう、したら」
「大丈夫だよ。壊して探し出すから」
「…え?」
「あれは、貴族の女の子じゃない。本物は必ず近くに隠してる」
「……?」
「多分、極宝の力。探知は得意なの。任せて」
耳は聞こえて、意識ははっきりしているのに。
なぜか、セレネアの話がわからない。
「あれは人ですらない」
セレネアの声が低くなる。
「『紛れ神』だよ」
☆
「逃したな。正体はなんだ?」
巨漢の貴族が目を瞑ったまま、低い声で訊く。
「……大昔の、亡霊ですわ。あのような無粋な韻唱、聞くに堪えません」
「覇銅帝時代の残り滓か。ふん、面白い」
巻かれた丸頭が巨漢に近づく。
「守護陣が気付きましたぜ。囲まれる前に退散しましょう」
震える声が力無く、息に混ざる。
「卍字に関わったら碌なことはないんです。豹でも異端中の異端。さっさと退きましょうぜ」
巨漢の貴族は微かに首を傾げた。
「そうはいかん。我が一族の名に汚れが残る」
外套の奥から華奢な腕が伸びた。その手には、とても小さな四角い箱が握られている。
「そのような事にはなりません。ここに居れば必ずまた取り返しに来るでしょう。そこで一網打尽にします」
「我が宝剣で、残らず切り裂いてしまおうぞ」
「なりません。この騒動がジャロサイツ卿の仕業と喧伝するようなもの。相手の素性が知れたので、もう容赦はしない。次で滅ぼします」
剣の柄を握った巨漢が、思わず身じろぎした。
「……そうか。ならば退散しよう」
「この小箱を大事にしまっておいて。決して落とさないように。……下郎。すぐにジャロサイツ卿を霊域の外にお連れして」
「へ、へい。御大、さあ急いで」
闇の中、大樹のどこかで葉が擦れた。
「来る……」
少女の目から、暗い紫の炎が流れだす。
貴属の不和 4 へ つづく。
…終わりませんでした。




