「騒乱の夜」8 ─ 貴属の不和 2
☆
闇が支配する夏至の夜に、森の一画が明るく浮き立っている。
広い樹海の只中に、古精霊を祀る霊屋を中心として、森の霊域はあった。聖火が燃え盛る篝火が連なり、岩壁に刺した松明と共に、巨木の根元を明々と照らし出す。暗がりに蠢く怪異を遠ざけ、古の精霊群に祈りを捧げる静寂が、立ち込める御香に満たされて、周囲の喧騒を沈み込ませていた。
試練の時にも、安息の地。ただその周りには、怨嗟と絶望が飢えたように群がり寄せる。怪異は密度を増し、腐臭と瘴気が互いを喰らい合う。
霊屋は、その縁起を解し、魂の浄化を施す術を備えていた。
土地の英霊と神々を讃える。
その祝詞は音色を隠し、思念の呼び声として韻唱を編む。
御霊巫女は、集まる願いを奏上し、霊界の啓示を受け取る事を許された者。その資格は精霊のみが配剤する。世の生き物には窺い知れぬ。仕訳の……御業。
まるで星空のように、天井となる一枚岩に数多の信号が煌めいていた。中央に据えられた祭壇には、真綿を詰めて膨れた敷物の上に、色とりどりの木札が積み上がっている。森の人々の願いと感謝が込められた、精霊に捧げる「禱札」だ。
被っていた清めの布が擦れて、姉妹巫女ソルクシアが顔を上げる。
天井を支える太い柱に据え付けた松明が、静かに燃えて灯りを揺らす。祭壇を頂く石櫃に、淡い影が重なって落ちてゆく。
幾度も行い、もう意識せずとも精緻に進められる儀式の最中、しかし、今回はいつもと違う。心が静まらない。ふと、何かに気を取られる。
ソルクシアは、祈りの祝詞に意識を集中する。自分でも聞き取れないほど、微かに声を出してそれを補う。
目を開けて、祭壇を見つめる。
その先には、炎と霊力を映す小さな、明るい空色の珠があった。
アメツユタツノミタマ……。愛神様の可愛い宝玉。
カルケディスの少女の一行がこの霊屋に到着した時、霊域を護る森の人々は、呆気に取られてただ見守るしかできなかった。
まるで災厄の境地から這々の体で逃れてきた流民のように、血と泥に塗れ疲弊し切った体に鞭打って、四人の若者が坂を登る。手を貸そうと駆け寄った者もいたが、その決死の眼差しに気押されて、声も掛けられない。
霊屋の石門へ登る階段の下に辿り着き、ようやく立ち止まった彼らに、出迎えたソルクシアはただ一言、神のご加護への感謝を口にした。
先頭に立ち一行を率いていたのは、まだ年若い小柄な女狩人だった。暗がりの松明に照らし出された薄汚れた顔は疲れを隠せなかったが、すべきことを果たした安堵が見てとれた。その背後には、頭巾を被った少女と、その両側を支えるように二人の若者が立ち尽くしていた。
待ち兼ねていた鑑別堂のプァルマと従者数人がすぐに駆け寄って、貴属の兆しを宿す少女に毛布をかける。
霊屋の裏に敷設されていた小屋が、辿り着いたモルカの若者達の休息の場所となった。霊神祀りの手伝いに集っていた女達が、沸かした湯を汲み、乾いた衣服を揃えて世話をやく。
身拭いの柔布で顔の汚れを落とした狩人の娘が、身の汚れを覆う「慎布」を纏って、あらためて霊屋の石門に立つソルクシアの前に跪いた。娘はモルカ集落のベルサと名乗った。
差し出された両手の平には、小さな布袋が乗っていた。
一目で、ソルクシアはその中に「精霊の祈り」を感じ取り、畏敬の念に震えた。こんなに強い精霊の恋慕の波動は受けたことがない。それは愛神様、ミ・ズ・キ神を求める一途な感情を、巫女であるソルクシアに激しく感応させる、強い霊力を発している。……まるで精霊の慈愛の発露そのもの。
ソルクシアはハッとした。しっかりと意識して祝詞を声に出す。
何かを訴えかけるように、祭壇の光の玉が巫女に向いていた。
鑑別堂のプァルマは、顔色をなくしていた。
少女が突然気を失い、意識が戻らないという。疲労が原因であれば、十分な休憩が必要だ。ソルクシアは、あらためて霊屋での夜明かしをすすめた。
プァルマは、心配そうに何度も瞬きしながら、その申し出を受け入れた。貴族の使命を預かる立場としては不本意であろうが、仕方がない。神々の威光が強いこの霊域に、未熟な貴族を置いておく不安はわかるが、無理矢理動かして命に関わろうものならば、それこそ本末転倒だ。
なんという厄日であろう。若い娘がふたりも気絶して寝込んでいるなんて。しかも胡乱な怪異の仕業ではないのだ。
妹巫女のセレネアも、あれから意識が戻らずに霊屋の裏部屋で寝込んだままだった。シーテリケが看病しているが、予断を許さない有り様だ。その奥に退いた戦術妖精は、気配も見せずに音沙汰がない。
祝詞が第三段の「捧げと応え」に差し掛かる。いまはただ巫女として、精霊へ真心を捧げる御業に集中しなければならない。
精霊の御心に寄り添い、その慈悲の確かなる根拠を意識する。宣言に宣誓で、その正しさを讃えるのだ。
永遠なる世界の平和に万来の讃歌を。
天井の岩肌に、閃光が走った。目を伏せていたソルクシアは、異変を感じて視線を上げる。
視界の中で、何かが動く。
宝玉が転がり、祭壇から落ちてゆく。
ソルクシアはその先目掛けて、飛び込んだ。
固い石床に擦られて、礼服が破れる。滑って打ちつけた右頬から熱い痛みが広がる。
それでも、伸ばした掌に冷たい感触があった。
安堵とともに、宝玉を握りしめる。
─── ミツケタ。
途端に騒がしい揺れと共に、何かの思念が心の底に生まれる。
─── 巫女ヨ。伝意ハ「可魅久 … 滅戯 … 是救」。
音と意と情が絡み合い、一つの概念が心境を満たす。
─── 巫女ヨ。コノ「本願」ヲ如何トス。
ソルクシアは目を見開いた。御霊巫女として、精霊の意識をここまではっきりと感じ取れたことは今までなかった。
同時に、その御宣託の意味を噛み締め、思わず震える。
これは問いなのだろうか。それとも使命?
「本願」がどこに掛かるのか。「可魅久」とは何?
─── 巫女ヨ。如何トス。
「ああ……」
ソルクシアは、吐息を漏らした。
「御霊巫女が、ひとりか」
低い男の声が背後から届いた。
「立派な建屋で、儀式の最中だな。……森の民草には悪いが、邪魔をする。入るぞ」
蹲っていたソルクシアは、一瞬体を震わせて、それからおもむろに体を持ち上げ振り向く。
霊屋の石門と祭壇の間を仕切る衝立の前に、戦鎧に長い将衣を纏った騎士が立っていた。
「夏至の夜更けだというのに、随分と霊力が満ちているな。いただき甲斐があろうというものだ」
騎士の男は、佩いた太い大剣の柄に手をかける。
「いけないっ!」
眦を決して、ソルクシアが叫ぶ。
岩の天井から、高圧の熱射が迸った。
あっという間に、剣を抜きかけた騎士が火だるまになる。
いや、熱線は騎士が纏う見えない覆いを舐めて火勢を強めただけだった。
「神の仕掛けか。だがその程度では、何も護れんな」
鞘の吊り革が跳ねた。
抜かれた大剣の鋒が、へたり込む巫女に向けられる。
騎士を包み吹き上がっていた火炎が、黒鉄の剣身に吸い込まれていく。祭壇を取り巻く防御界の境界が揺れた。
「兆しの女が納めた、神の宝玉を渡してもらおう」
揺らめく灯火に照らされて、面長でつるりとした騎士の面貌が浮かび上がった。
貴族。見慣れない騎士装束。意匠は爵位級。剣は魔力能を持つ逸品。
「何事ですか。ここは霊域です。ぶ、無礼でしょう!」
ソルクシアは、掠れた震え声で侵入者を咎めた。
「玉はどこだ。早くしろっ」
騎士の男は表情を変えず、もう一度言う。
「すぐに出せ。どこだっ」
その口調は次第に乱暴になってゆく。苛ついた声の発音が籠る。本当に貴族?
「そんな玉などありません。霊屋の内で抜剣など、古の貴族とは思えない。貴方は何者ですか!」
男はその大剣を振り上げた。
「辺境の森の小娘は、爵位の貴族に対する言葉遣いを知らんな」
男のつるりとした顔が、一瞬奇妙に歪んだ。
「玉をよこせ。森の愚民などには過ぎた宝だ」
精霊に見限られた堕落の臭い。神聖な縁起に対する激しい執着。目的はカルケディスの少女か。……プァルマ。シーテリケ。ならば、時間稼ぎを。
「霊屋の祀りを妨げるなど言語道断。古の貴族として、恥を知りなさい」
天井の石肌に施された霊妙は、この外道の暴力には太刀打ちできない。しかし、この場で巫女の体に悪意で傷がつけば、その痛みは空間を超えて「森の神々」へと届く。
「そ…それ以上近づいたら、大変なことになりますよ!」
恐怖に耐えられない怯えた声音で言う。
騎士装束の男は剣を振り上げたまま、立ち止まった。
「そうか。なら、そうならんうちに、さっさと玉を差し出せ」
「わ、私を傷つけるつもりならば覚悟なさいっ」
「傷つける? いや、この太い剣で刺し貫き、昇天させるだけだ」
「あ、わ、わたしを殺したら、玉は見つからないっ」
「残念だが仕方なかろう。下賤の小娘を嬲るつもりはない。一発で逝かせてやろう」
男が一歩踏みだす。
「脱ぎますよ」
低く落ち着いたソルクシアの一言に、再び男が立ち止まる。
「……なんだと?」
「近づいたら、脱ぎます」
男のツルツルな能面顔が、再び歪んだ。
「何を言っている」
「本当に脱ぎますからね。すぐに剣を引いて下がりなさい」
ソルクシアは、礼装の合わせを留める真鍮の釦に指をかけ、怖気て唇を震わせながらも男を睨んだ。
「ははは。それが下々の脅しか。なんと破廉恥な! だがしかし、そんな手は利かぬぞ。やってみるがいい」
男は顔の艶やかな肌を一瞬ひくつかせ、冷めた目で巫女を見下ろす。掲げた剣の鋒が揺れた。
「この霊屋で、み、巫女の衣服を脱がせるつもりなのですか」
ソルクシアは、卑猥なものを見るような視線を向ける。
「脱ぐとか申しておるのは、お前ではないか」
「貴方が近付くから、脱がなければならないのです。卑怯者!」
男はなぜか狼狽えた。この女は気でも違っているのか。あろうことか惨めに震えて涙すら浮かべている。まるでこちらが嫌らしい好色貴族で、今にも陵辱されそうな哀れで無力な生娘のように振る舞っているのだ。
「そんなに脱ぎたいのならば、我が屋敷で飼ってやろう。誂え向きに、呆けて粗相をする館主の老体がおる。その下の世話でもさせてやる。裸で存分に奉仕するがいい!」
「嫌です。こんな下郎の貴族の許で、どれほどの悪行に染まりきったか知れない、下衆の極まり老人の垂れ流しの始末などやってあげるものですか。恥知らず!」
「愚弄も大概にせぇっ! もはや許すまじ。叩っ斬ってやるわ!」
男は意を決して、振り上げていた大剣を巫女に振り下ろそうと踏み込む。
「光学虚像の『記憶機工』が働いている!」
睨みながら、ソルクシアが声を叩きつける。
「儀式の記録も大切な巫女の仕事です。鑑別堂の設備をお借りして、今この瞬間の『録画』を行なっています」
男は凍りついたように動きを止めた。
「今すぐ立ち去るならば、不敬には目をつぶりましょう。それとも、この愚行の証拠をアカサスの領主殿に届け出しましょうか?」
厳しい巫女の眼差しを受けて、騎士の顔が一瞬青ざめる。
「小賢しい奴だ。……だが、まあいいだろう。大局も分からずに哀れにも思える」
男は冷静さを取り戻したかに、無表情な能面に戻っていた。
「機工の記録を領主に届けるか。……構わぬぞ。好きにせよ。ただ、その態度は気に食わぬ。無様に死んで詫びよ」
男は剣を振り下ろした。
ソルクシアは、思わずぎゅっと目を瞑った。
覚悟はできていた。それでも、襲いくる激しい苦痛を予感して心は恐怖に震えてしまう。
ボンッ!
激しい爆音に鼓膜が震える。
「……顔がすごいことになってるぜ。おねえちゃん」
聞きたくもない声色なのに、何故か安堵を覚える。
「叩き起こされる度に、訳がわからない状況になってるな」
妹巫女セレネアの声。だが、戦術妖精がまだ乗り移ったままだ。
「あの貴族は?」
「外に吹っ飛ばした。あれは貴族か? それにしちゃあ『精霊群貴属係数』がやたら低いが。敵対勢力と見做していいのか?」
ソルクシアが目を見開く。
騎士の姿は無くなっていた。出入り口を隠す衝立は大きく破れ、その先の暗闇が見える。
すぐ側に、セレネアが立っていた。袖なしの柔布の内着姿で、まだ幼い細身の体を晒している。何故か麗神様の姿に似ていると感じた。
「セレネアはそんな、端ない格好はしません」
「式服は動きづらい。装備発動の邪魔になる。それに、こっちの方が可愛い」
ソルクシアが唇を噛む。
「……その子を戦いに巻き込まないで。その体に傷一つでもつけたなら、御霊巫女として渾身の『対妖凍鉄祈祷』を叩き込みますから!」
金に赤毛の前髪を揺らして、目の前に広げた手指の可動域を確かめていた少女が、ソルクシアへ顔を向ける。その瞳の螺旋がぐるりと巻き上がった。
「そんなことする訳がない。だけどこの子は、おねえちゃんを傷つけたやつを許さないってよ」
ソルクシアは胸が熱くなる。
「……この傷は、自分でつけたものです。だから、もう大丈夫よ。セレネア」
螺旋の渦が、その勢いを増していく。
「それだけじゃない。破滅は寸前で留まっている。『滅境障涯』判定にしちゃ、規模が深過ぎる。こんな神業が存在するなんて、どうかしてるだろ。世界の因果波及に『待った』を掛けるって、何なんだよ……」
少女は、探るように視線を外の暗闇に向ける。
「どっちにしろ、俺の行動判断規定を越えてるから、あれは放置だ」
ハッとしたソルクシアが叫ぶ。
「カルケディスの女の子は? プァルマ様に警戒を!」
「女の子? なんの話だ。……マズイな。外で厄介事が起きている」
「何があったの!」
「あの貴族の手下だろ。子供がひとり攫われた」
ソルクシアが立ち上がる。
「貴族の行動じゃない。アカサスの領院とは違う。この日に合わせて、何かが蠢いている」
微かな声音で呟く。
「でも、わたしに何ができる?」
「妹巫女が、攫った賊を追っている。何なら加勢するぜ」
「おまえは動かないで。これは仕組まれた陰謀がある。下手に動くと取り返しがつかない」
ソルクシアの頬から、滲んだ血がゆっくりと垂れていく。
「神々が感じられないのは、このせい?」
「信じられない事が、立て続けに起きている。だけど、破滅までの猶予がいつ尽きるかわからない。最善の注意を払うから、この子をいかせてくれ……」
セレネアの戦術妖精が、真面目な口調で言う。
ソルクシアは、口を開いて一瞬止まる。
「……半刻で戻りなさい。これは譲れない」
「それだけあれば充分だ。……おねえちゃん」
螺旋の瞳が輝いた。
「早く傷の手当てをしてね。美人が台無しだよっ」
ソルクシアはちょっと呆けて、それから急いで睨み付ける。
だが既に妹巫女の姿はない。
最後の一言は、セレネア? いや、あの死に損ないの戦術妖精!
怒る対象が消えたので、天井を睨む。
「破滅までの猶予」とはなんだろう。この国の滅びを口にしていた古代魔導の戦術兵機が、何かの希望を見つけたのか。
神々は、その予感を押し留める秘策を持っていたのだろうか。しかし、御霊巫女の立場では、何も窺い知れない。
今はただ、祈り続けるだけができること。
─── ……巫女ヨ。如何トス。
神の宝玉はあらためて、待ちくたびれたかに問い糺す。
ソルクシアはそれを思い出し、狼狽えて慌てた。
覚悟もできずに、しかし緩んだ心が受け入れてしまう。
─── 応報是也!
無防備な心の機微に、濃密な情報が流れ込んだ。
それは激甚なものとして容赦無く、心身に食い込んでいく。
途方もない霊力の濁流が麗神様の身を食い尽くす。
強引で苛烈な魔力が、両足を飛ばされた愛神様の体を擦り潰す。
愛しい神々の受けた地獄の責苦が、そのままソルクシアの体感として沸き起こった。
巫女の体が、石床に倒れ込む。
見開いた目に光はなく、溢れた涙が流れ落ちた。
それきり、ソルクシアは、呼吸を止めた。
貴属の不和 3 へ つづく。




