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天地生まれの英霊譚  作者: 庵下 流
『騒乱の夜』
26/27

「騒乱の夜」6 ─ 人外鑑別衝技隊 4 




          ☆




─── 立ち止まれ。状況が変化した。


 狭い通路にムッとする血の匂いが満ちている。

「ここからは真っ暗です。波長誘導術だけでは足許が……」

 衛士タク・マハムは、目の前に持ち上げた己れの指先すら確認できない暗がりの中で、途方に暮れる。


─── 出入り口に念術使いの新手が現れた。この先には、先程の手負いが待ち構えておる。


「挟み撃ちですか。どこか逃げ込む部屋か、分岐の通路があれば」


─── この聖堂は、大昔の城砦の跡地に建てられている。地階は元のままだな。ならば抜け道はあるが、生憎この位置では使えない。


「では、どうすれば良いのでしょう?」

 持ち手を掴む腕の力が抜けた。

 極鞄は一瞬身じろぎしてから、勝手に石床に落ち着く。

 

─── この場で構えよ。待ち受ける敵の相手をする必要は無くなった。さて、衛士タク・マハム。お前はこの国の民ではないな。


「突然、なんですか。生まれはオラガンダの奥地ですが、家系はクァーツイア人貴族です」


─── 大陸地峡の砂城都市国家か。精霊群系譜で、タク氏姓の貴族というと、「辣腕の勇者」の由来だな。


「私の一族は傍流です。数代前に正統貴属の兆しも絶えました。なぜか鑑別で、私だけに精霊の絆が齎されたのです」


─── 没落貴族の蘇りとな。一族の悲願であろう。さぞや親族は喜んだに違いない。なのに、なぜこんな遠国の地におるのだ。


「其方は物知りですね。……私の存在を喜ぶ者ばかりではなかった。変化は波乱を招きます」


─── 深くは問うまい。だが、僅かでも勇者の血を引くなら、英傑の見立てに適うやも知れぬ。


 暗闇に淡い光が生まれて散じた。

 思わず目を細めたマハムは、右手に重みを感じてよろけそうになる。指を握りしめると、いつの間にか硬い手袋に包まれている事を感じ取る。


─── 「烈手甲キロテカ」だ。古い霊選護甲の一種だが、これは勇者の武具でもあった。


 靭鉄針金繊維編みの手袋を、薄い硬質竜鱗の板を重ねて覆い補強した、肘まで届く銀艶色の籠手がそこにあった。

「こ、こんなもの何処から。いえ、私には扱えません!」


─── 霊力の転換充填は補佐しよう。……待ちくたびれたか、敵が動き出したぞ。背後は防御界で封鎖する。前から来る手負いを倒せ。どうやら、外法術で人ではなくなっているな。一撃で仕留めるのだ。


「ひえっ! そんな、これでどうしろと?」


─── ただ、「勇武」に従え。決して怯むな。


 マハムは歯噛みして、真っ暗な行く手に向き直った。

 微かな地鳴りが迫ってくる。




          ☆




 コマネッタは、ほんの少し対処が遅れたことを悲しく思った。なぜなら、これは情理から外れた出来事であり、だからこそ体に触れられるまで全く気にも止めていなかったのだ。

 背後から首を締め上げてくる腕は、人間の力を遥かに凌駕していた。拳闘や体術の手練ではあろうが、その骨と肉の作り出す腕力を明らかに超えている。

 

 たった今、袂を分った義姉様の仕業と知れてはいる。

 でもこの体は、まだ元の持ち主の魂魄が抜けてはいない。

 死者ではないのだ。

 苦悶のうねりが、その体の奥底から届いた。

 神経は、その到底許容できない肉体の酷使に、焼き切れそうなほど強烈な激痛を走り散らせている。

 それを受け止め続けた心髄は、既に壊れかけていた。

 ただし、「救いの死」は訪れない。死そのものが、それを拒んでいるから。

 永遠に解放は無い。まるで魂への永続拷問。


 骨はささらに裂かれ、肉は微塵に砕けても、体が壊れて息絶えることはないなんて。

 コマネッタは、少し怒りを覚えて呟いた。

「こんな酷い悪戯をする義姉様はヒトデナシではありませんか。あ、元々人ではなかったのでした。でも、これはあんまりですね」


 コマネッタの細い首を締め上げる歪んで撓んだ腕から、擦れて潰れる奇妙な音がし始めた。行き場を失った体液がとうとう、皮膚から滲み出て汗のように滴りだした。

 コマネッタの目が据わっていく。並の人間であれば、とうに首を圧し折られ、捻じ切られているだろう。

 だが義姉様は、そうはならないことを承知の上で、この可哀想な豹者を操っている。


 この暗殺者の女の子の体など、一瞬で粉微塵に消し飛ばすことはできるのだ。

 けれど義姉様は、この子の死を許さない。魂魄の激しい苦悶からの解放を許さない。小さな埃となったその体の一粒一粒が、激甚な苦痛という感覚から逃れることを許さない。


 怒りの炎がメラメラと燃え上がる。

 これは義姉様が仕掛けた戯けた遊びへの誘いだ。

 たとえ冷酷で無慈悲な暗殺者だとしても、耐えることも、気が違うことも、死ぬこともできずに、ただ滅茶苦茶に極限の痛みを感じ抜き苦しみ続ける存在を、コマネッタは邪険にはできない。義姉様はそれを知っているからこそ、動けないコマネッタを見てほくそ笑んでいるのだ。

「……きっと先生は、この酷い仕打ちを怒るに違いありません。わたしは先生に怒られたら、とても悲しくて泣いてしまうので、その手には乗らないのです」


 自分の一部でもある義姉様に、「魔装」を向けることになろうとは。「死神の妙髄」である義姉様は、固有の身体を持たないので殺せない。万が一、殺せたとしても、「死」そのものなので何の意味もない。

 だから厳重に拘束して、永遠の眠りに落としてから使役するわけだ。

「義姉様。我儘を言わずに戻ってくるのです。先生に謝るときは、少し遠くから見守ってあげますの」


 コマネッタは嫌々ながらも妥協案を提示して、物事を丸く収めようと思う。なぜならば、義姉様がこんなことになったのは、自分の行動にも少しの責任があるかも知れないと、薄々勘付いているからだ。

「今ならまだ、間に合うはずなのかもです。それでも逃げ出す心算りであるのなら、『珠宝魔装三基九門』で、『無限回斉射』をお見舞いするのですから」

 心なしか弱気な口調でそこまで言って、コマネッタは突き出した腕に、右手がある事に気付く。それは破壊される以前のものにそっくりだった。


『それは餞別。もう二度と見まえる事もないでしょう。そろそろ地獄の波動が届く頃なのよ』 


 いつの間にか、死神憑きの魔導士の姿は見えない。

 地表で暗闇に抗っていた篝火や松明の火も失せていた。

 地道に怪異を焼き払い続けていた「焼魔の眼光」も、霊力が尽きたのか静かになっていた。

 地表に現れた地獄の魔象も姿がない。

 その場にはただ、変化の途絶えた暗黒の穴に似た深淵があるだけ。


 コマネッタの右腕を光子の回転が幾重にも取り巻き、その輝度を次第に上げていく。

 しかし、金糸の前髪の奥で見開かれた目は、決断を躊躇してしまっている。

 あの穴が本当に地獄に通じているのなら、珠宝魔装の攻撃がどう影響するのか想像もつかないからだ。

 地獄は極界であり、理力も魔力も作用が異なる。

 しかも、どう異なるかも窺い知れない。

「先生……」

 怯えた声音が漏れる。

 コマネッタは、あろう事か狼狽えていた。


─── …マネッタ! 「四番御籟」射出!


 見開かれた目に光が戻る。

 同時に、身体を締めつける背後からの圧力が消え失せた。


 コマネッタは櫓の際から身を乗り出す。

 白い首筋が伸びて、大きく口を開けた。

 荘厳な音色が響き、爆圧と共に途方もなく巨大な何かが噴き出す。

 それは塩水を纏って身悶えする、巨体を捻る大海獣そのものだ。


 深淵の暗黒に、その巨体が爆音を立てて突き刺さる。

 途端に闇が震えて力の奔流が起こり、それが光輝となって迸った。

 轟音と振動。

 束の間、大地に霊光が満ちる。



───

「どうなった?」

「『海淵』の魔獣と打ち消しあって、『地獄』の口は閉じた」

「コマネッタは……」

「無事だ。しかし、何という無茶をする。ひとつ間違えば、周辺ごと地獄送りになりかねない」

「他に手はないだろ。それより……」

「べ・ア・ル神を縛る『懲戒罰奏』は、旋律五音が変質している」

「あの体ごと見失ったか。だけど、まだこの世にいるな」

「霊圧追跡は可能。ただし、術の効果に制限が発生」

「コマネッタの感度を上げるしかない。悔しいが師匠に頼る以外に……」

「シャドーム。今回のべ・ア・ル神の行動は、先生の存在を無視しているとしか思えない」

「アイツは、『奇瘡の巫女』に楯突くほど愚かじゃないだろ?」

「その通りだ。ではなぜ今、こんな状況に陥っているのか」

「……オレが、不甲斐ないから……」

───



 風が踊った。首筋から肩に流れる髪を押さえる。

 後退り、体が背後の鐘に触れた。

「先生は、もういない?」

 口元から顎に滴が垂れる。コマネッタは思わず右の拳でそれを拭った。それから、その手を開きしっかりと見詰める。

「義姉様……?」

 突然の空虚な喪失感。大事なものが次々と消えていく。

 目の前には、暗闇しか無い。

 

─── …応答しろっ。コマネッタ!


 ハッとする。吹き流れる風が勢いを増すのを感じた。


─── 鐘から遺物の支援を受けろ。怪異はまだ鎮まっていない。


 地上に灯りが見える。いくつかの聖なる篝火は、辛うじて消滅を免れていた。しかし、まさに風前の灯し火に思える。

 その炎は忙しく瞬く。怪異の闇が立ち昇り、放たれる光を遮るのだ。

「兄……シャドームさん。魔装に『魂浄焼夷団』を」


 左腕を高く掲げる。同時に右手は背後に回し、後ろの鐘にそっと触れた。


─── さん? 照準統率を上げろ。生物と建物を燃やすなよ。それから、防御術の重複効果を最大に保て。……全団充填したぞ。


「効果範囲を『二百祖長半径』に定義しました。怪異に飲まれた人や亡くなった方は燃えますけど。……万際浄化、活躍始め!」

 コマネッタの左腕に渦巻く光輪が青白く煌めいた。

 たちまち櫓を中心に光の粒が溢れ出し、闇夜の地上がぼんやりと照らし出されていく。更にその明かりは漣のように地表を流れ、聖なる篝火に勢いを齎した。


─── コマネッタ。「団長」を聖堂の地下に送れ。


「? 地表の『焼夷団』の統率が、おっとりしちゃいますね」


─── あちらがヤバそうだ。極鞄から助力要請が。


 コマネッタは吃驚したように唇を丸くし、すかさず左手の人差し指をピンと伸ばす。

 腕を取り巻いて激しく回転していた細い輝円から、ひときわ輝く光子が分かれて反転し始める。


「何が相手ですか。地獄から零れた迷子とか」


─── そんなもの、道が閉じれば消え失せるだろ。


「では憑依? 地上の生き物に取り憑いたのかも」



 ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁ!


 歪な悲鳴が、地の底から湧き上がった。




          ☆




 それは、暗闇の奥から現れた。

 一瞬で、この狭い通路の空気を嵐のそれに変えた。

 長い月日を耐え忍んだ壁の石組みが歪む。

 床石は吹き上がり、半円弓状の天井に突き刺さった。


 衛士タク・マハムの韻唱は、理力の防御界として苛烈な暴風を受け流す。しかし狭い場所で行き先を失った力の圧縮は、通路そのものの破壊を生む。

 すかさず、魔力で石組みの補強をこなし、持て余した猛烈な運動量を霊力で結界に変えた。

 囲む通路の全ての面が光を生んで輝いた。


 光輝を背景に、剛毛の塊が雷雲さながらに蠢く。黒い獣が牙を剥いた。

 獣の影が防御界と激しく衝突する。理力結界が砕け散った。瞬時に回復する防御界に、剛毛を逆立てて獣の前肢が捩じ込まれる。


 原理力に対する鉄壁の防御界が、獣の攻撃を受けあぐねていた。重ねた魔力結界すら貫かれそうだ。

 夏至の夜では貴重な霊力転換で、被せるように結界を補強し続ける。集中する力の作用点が目まぐるしく変化し、受けるそばから違う階層、異なる座標にずらされるのだ。

 まるで弱点を探るような冷徹な攻撃が押し寄せる。


 マハムは驚愕し続けていた。

 魔道鞄の防御術の威力は途方もない。

 己れの戦闘に関する力量は知っている。それは、平和な世の中で地方領地の衛士を続けられる程度のもの、であると気づいている。

 ここに相対しているのは、恐ろしく獰猛な異形の魔獣なのだ。今までならば、出会った瞬間に人生を諦めるほどの。

 あの剛毛の腕のひと振りで終わりだ。避けようにも、その前に半身が吹き飛んでいることだろう。

 

 いまだに全体の形がわからないほど早く、そしてその一撃は強力だ。しかも、理力と魔力の干渉を弱める効果すら備えている。

 なのに、魔獣はいまだにマハムの体に触れることすらできない。マハムを支援する防御結界の扱いが、卓越し過ぎている。


─── 掴む。


 いつの間にか、右手を前に伸ばしていた。

 伝説の戦籠手が、火花を散らす魔獣の拳を握り潰している。

 輝く壁面に照らされ、初めて魔獣の姿が垣間見えた。

 牙を剥き出す、巨大な顎が吠える。


─── 撃つ!


 空間自体が激しく振動する。

 見上げるほどの魔獣の巨体が縮み上がる。

 開いた右手から、ドロドロに溶けた肉塊が蒸気を上げて焼け落ちた。


─── 素晴らしい。思ったより扱えたな。奥に進むぞ。奴を追うのだ。


 魔獣の姿は消えていた。何が起きたか理解できないままだったが、マハムは左手で鞄の持ち手を掴んで走り出そうとする。


 右手がそれを拒んだ。

 まるで誰かに引き留められたかのように。


─── マハム! 儂を床に置いて、少し下がれ。……まったく、外では何をやっておるのか。


 突然重くなった鞄を、そっと床におろす。割れ落ちていた石片が音を立てた。

 マハムを中心に厚さを増して、通路を覆っていた防御界が明るさを落とす。韻唱が波長を変えた。

 背後を見遣って、入り口側からの警戒信号を確かめる。

「圧迫していた外からの気配が消えました。今なら脱出が」


─── そうもいかん。あれが見えるか。

 

 力の激突の余波で輝いていた通路の石組みの続く先に、陽炎のように揺らめく「隙間」がある。


─── 烈手甲に霊力を注げ。何があっても、その籠手を疑うな。


 箱鞄がひとりでに傾いたと思いきや、どさりと荒れた石床に倒れ込む。上を向いた広い側面に、光の呪文章が無数に浮き上がり、消えていく。


 通路の奥で、空間に開いた「隙間」から何かが落ちた。

 石床に転がる鈍い音がこちらまで届く。


『あ、あ……。もう怖がる、ことはない。魔獣は砕けた、よ』

 なんというか、途轍もなく痰が絡んで息が詰まったような、しゃがれて苦しげな声が聞こえた。

『ほうら、これをご覧、なさい。獣の首、だ。脅威は去った、のだよ』


 マハムの顔が歪む。その苦しげな声を聞いていると心がざわつき、耳を塞いて無茶苦茶に絶叫したくて堪らなくなる。

『そうだ、よ。良い子はもう、こんなとこ、ろに居てはいけな、い。さああ。お外に連れて、行ってあげよ…う、ねえ』


 爪先が鞄に当たった。マハムは立ち止まる。

 いつの間にか、あの「隙間」に向かって歩き出していたのだ。

 背筋が凍る。寒気に身体中が震えていた。


─── 深淵の招き手よ。ここは地上、現世の領域なり。我が創造主の決意の御業をこれに示さん。精霊王、淘汰波及の詔。秘神の…。


『はああ、大きな箱の入れ物、に、格好の良い、手の玩具? 遊びは終わり、だ。そんな物は置いて、さあ」


 唐突に、「隙間」を遮って波紋が生まれる。

 七色の閃輝が同心円状に流れて丸まり、五角十二面体の稜線が宙を分つ。


─── …仕訳。ここに、極まれり。



『黙れぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ』

 極端に温度が下がった。凍えた粒子が動きを止める。


 マハムはただ、呆然として立ち尽くす。

「隙間」から、首を無くした魔獣が飛び出した。

 稜線の波紋は、現れた魔獣が境界を越す度に、その体を切り刻んでいく。肉が離れ骨が抜け、血塗れの剛毛が皮膚ごと毟られる。

 それでも、その魔獣であった物は、マハムへと確実に近づいてきた。


 五角結界面が複雑に交わり、畳まれ、新たに展開する。折れ曲がる稜線が、狭い通路を縦横に走る。

 身体のどこかを無くしながらも、魔獣が迫る。


─── 捌きが滑る。堕級悪魔か……。

 

 極鞄の溜色が、空を舞う火花に赤黒く映えた。

 すぐそこに魔獣の身体の残骸が近づく。引き摺り落ちる肉塊と毛皮が、煙を上げて辺りに飛び散る。

 マハムの顔目掛けて、魔獣の崩れた腕が伸びた。

 烈手甲がそれを振り弾く。砕けた手から煮えた体液が吹き出し、赤霧のように広がってマハムを襲う。

 極鞄が激しく振動する。

 結界面が増殖し、空間を無数に分断する。


『魂浄!』


 地下の通路に業焔が炸裂した。

 闇の隙間が眩い光渦に掻き消される。

 だが、それは一瞬で、直後に暗闇が戻ってくる。


─── マハム。無事か。


「なにも、何も見えないし聞こえません? うわっ。この臭い……」


─── 生きてはいるな。蹲っていないで立ち上がれ。この先は汚染された。すぐに外へ逃れよ。


「か、体が動きません。力が……」


─── この建物そのものが崩れ落ちそうだ。潰れて死にたいのか。 


 マハムは渋々、体に鞭打って立ち上がる。壁に手をつきながら、よろよろと通路を戻り始めた。


─── これ、命の恩人を置いていくつもりか。


 マハムは立ち止まり、もう声も出せずに振り向いて、ため息をついた。




          ☆




 突然、世界が回りだす。

 体の自由が利かない。どこかで何かが軋む音。

 意識が微睡む。だがそれを克己心が許さない。


─── 動かずそのままで。割れた硝子で怪我をしている。


 シャドームは、激しい頭痛に呻く。平衡感覚が乱れ、脂汗が肌に冷たい。


─── 突然倒れた。あの看護人達が手当してくれている。緊張を解け。


 そんなことはどうでも良かった。纏まらない思考に、それでも気になる事柄が浮かぶ。


─── コマネッタは聖遺物と共に無事だ。べ・ア・ル神の追尾は、条件付きで継続できている。地階の脅威は焼滅した。


 酷い頭痛を無理やり宥めながら、思念を整える。


─── なに…が、起きた?


─── 暴風と地震。この医務院は窓が吹き飛んだ程度ですんだが、いくつかの建物が一瞬で潰れた。怪異は一掃できたとはいえ、被害は大きい。


 夏至の日の試練。黒鼠の大群に始まり、魔神と妖精魔導士の影。怪異に紛れた謀略組織の暗躍に、死神の覚醒。そこに地獄の魔象が現れた。


─── これは、偶然か?


─── 因果応報の解が集結し同調した。極界位相の合致は極端だが、大きな転期かも知れない。精霊界に変化が訪れ、現世に反映しているとすれば、大きく動き出すのを止められない。


─── 難しくてオレにはわからない。だけど、嫌な予感がする。……危機の規模がデカ過ぎる。鑑別技官が対処する事柄じゃないだろ。


─── その通りだが、今のところなんとか凌いでいる。地獄の開通には肝を冷やしたが。しかし、あんな手段があると考えつく思考が、到底理解不能。海淵の守護神「テアマト」の仔が、なぜコマネッタに内包されている。


 一瞬、シャドームの意識が真っ白になった。それから、暗く淀む。


─── し、師匠の蒐集物なんだ。


─── 「御籟魔装」を生簀か何かと勘違いしてはいまいか。


─── あの海淵魔獣だけど。……結構、師匠のお気に入りだった気がする。


─── そうか。聞かなかったことにする。


─── どうしよう……。


─── 治安保障の再構築が必要なため、コマネッタの調整に集中する。……あとは任せた。兄弟子。


 神魔調教具からの念波が途切れた。


 逃げやがった。

 シャドームは戦慄する。体温が数度下がったような気がした。

 師匠……。なんと説明する? 死神は逃避した。地獄の到来は防いだが、海淵の至宝は失った。

 これらの損益は釣り合うのか。何かもっと良い方法はなかったか。

 このジルドビアの施設にとっては、多数の犠牲者が出たことに間違いはない。それも、勇者の聖遺物を守ったことで帳尻は合うのか。

 頭痛が激しくなる。起こった物事全てに責任を感じることはない。わかっている。負いきれない自責を引きずるのは、悪い癖だと承知している。


「自尊心の肥大に実力が追いつかず、できもしない物事に手を出し、失敗しないかビクビクしている滑稽な小物なのだ」


 いつも、同僚のウルファはそう言って蔑む。突然、はらわたが煮え繰り返った。

 師匠はなにをしている。なぜここにいない。

 そもそもこれは師匠の仕事ではないのか。オレは自分の実力以上に奮闘している。非難される謂れはない。腹がたつ。なんという理不尽だろう。こんなことが許されて良いのか。オレは悪くない。悪いのは師……。



───

「対象が、潜伏していた聖堂の地階から逃走」

「気付かれたか。何に憑依している?」

「黒い外套に身を包んだ念術師。豹者の一味」

「心の混乱を見せれば食いつかずにいられないヤツらだ。『悪魔』を誘き出すには、これが手っ取り早い」

「……先生に似てきたぞ。『無覚烙印』追尾は順調。地獄に戻らない限りは、憑依先を替えられても追い込める」

「なんとか捕らえたいが、今は分が悪い」

「追尾監視に移行。……シャドーム。今度こそ休息に入れ」

───


 聖堂地下で起こった厄災はまだ片付いていない。 極鞄ルイヴィスはいつにも増して慇懃不遜な思念で、「悪魔」を取り逃したと報告してきた。地獄との繋がりは絶ったが、相手の目的を見誤ったという。

 ルイヴィスの極宝性能と『魂浄焼夷団』統率機の爆撃から逃げ切る狡猾さは厄介だ。悪魔としての上位存在的邪悪を、この世に解き放ってしまった可能性が高い。


 しかしあのルイヴィスが、護るべきものを見誤るなんて……。


─── シャドーム……。


 深く眠りに落ちていく意識の中で、シャドームは苦笑いする。

 神魔調教具に呆れられている? それとも心配されているのか。とにかく今は休もう。朝になれば師匠とも連絡がつくだろう。

 懸念は全部、夜明けに持ち越しだ。


貴属の不和 へ つづく。

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