「騒乱の夜」6 ─ 人外鑑別衝技隊 4
☆
─── 立ち止まれ。状況が変化した。
狭い通路にムッとする血の匂いが満ちている。
「ここからは真っ暗です。波長誘導術だけでは足許が……」
衛士タク・マハムは、目の前に持ち上げた己れの指先すら確認できない暗がりの中で、途方に暮れる。
─── 出入り口に念術使いの新手が現れた。この先には、先程の手負いが待ち構えておる。
「挟み撃ちですか。どこか逃げ込む部屋か、分岐の通路があれば」
─── この聖堂は、大昔の城砦の跡地に建てられている。地階は元のままだな。ならば抜け道はあるが、生憎この位置では使えない。
「では、どうすれば良いのでしょう?」
持ち手を掴む腕の力が抜けた。
極鞄は一瞬身じろぎしてから、勝手に石床に落ち着く。
─── この場で構えよ。待ち受ける敵の相手をする必要は無くなった。さて、衛士タク・マハム。お前はこの国の民ではないな。
「突然、なんですか。生まれはオラガンダの奥地ですが、家系はクァーツイア人貴族です」
─── 大陸地峡の砂城都市国家か。精霊群系譜で、タク氏姓の貴族というと、「辣腕の勇者」の由来だな。
「私の一族は傍流です。数代前に正統貴属の兆しも絶えました。なぜか鑑別で、私だけに精霊の絆が齎されたのです」
─── 没落貴族の蘇りとな。一族の悲願であろう。さぞや親族は喜んだに違いない。なのに、なぜこんな遠国の地におるのだ。
「其方は物知りですね。……私の存在を喜ぶ者ばかりではなかった。変化は波乱を招きます」
─── 深くは問うまい。だが、僅かでも勇者の血を引くなら、英傑の見立てに適うやも知れぬ。
暗闇に淡い光が生まれて散じた。
思わず目を細めたマハムは、右手に重みを感じてよろけそうになる。指を握りしめると、いつの間にか硬い手袋に包まれている事を感じ取る。
─── 「烈手甲キロテカ」だ。古い霊選護甲の一種だが、これは勇者の武具でもあった。
靭鉄針金繊維編みの手袋を、薄い硬質竜鱗の板を重ねて覆い補強した、肘まで届く銀艶色の籠手がそこにあった。
「こ、こんなもの何処から。いえ、私には扱えません!」
─── 霊力の転換充填は補佐しよう。……待ちくたびれたか、敵が動き出したぞ。背後は防御界で封鎖する。前から来る手負いを倒せ。どうやら、外法術で人ではなくなっているな。一撃で仕留めるのだ。
「ひえっ! そんな、これでどうしろと?」
─── ただ、「勇武」に従え。決して怯むな。
マハムは歯噛みして、真っ暗な行く手に向き直った。
微かな地鳴りが迫ってくる。
☆
コマネッタは、ほんの少し対処が遅れたことを悲しく思った。なぜなら、これは情理から外れた出来事であり、だからこそ体に触れられるまで全く気にも止めていなかったのだ。
背後から首を締め上げてくる腕は、人間の力を遥かに凌駕していた。拳闘や体術の手練ではあろうが、その骨と肉の作り出す腕力を明らかに超えている。
たった今、袂を分った義姉様の仕業と知れてはいる。
でもこの体は、まだ元の持ち主の魂魄が抜けてはいない。
死者ではないのだ。
苦悶のうねりが、その体の奥底から届いた。
神経は、その到底許容できない肉体の酷使に、焼き切れそうなほど強烈な激痛を走り散らせている。
それを受け止め続けた心髄は、既に壊れかけていた。
ただし、「救いの死」は訪れない。死そのものが、それを拒んでいるから。
永遠に解放は無い。まるで魂への永続拷問。
骨はささらに裂かれ、肉は微塵に砕けても、体が壊れて息絶えることはないなんて。
コマネッタは、少し怒りを覚えて呟いた。
「こんな酷い悪戯をする義姉様はヒトデナシではありませんか。あ、元々人ではなかったのでした。でも、これはあんまりですね」
コマネッタの細い首を締め上げる歪んで撓んだ腕から、擦れて潰れる奇妙な音がし始めた。行き場を失った体液がとうとう、皮膚から滲み出て汗のように滴りだした。
コマネッタの目が据わっていく。並の人間であれば、とうに首を圧し折られ、捻じ切られているだろう。
だが義姉様は、そうはならないことを承知の上で、この可哀想な豹者を操っている。
この暗殺者の女の子の体など、一瞬で粉微塵に消し飛ばすことはできるのだ。
けれど義姉様は、この子の死を許さない。魂魄の激しい苦悶からの解放を許さない。小さな埃となったその体の一粒一粒が、激甚な苦痛という感覚から逃れることを許さない。
怒りの炎がメラメラと燃え上がる。
これは義姉様が仕掛けた戯けた遊びへの誘いだ。
たとえ冷酷で無慈悲な暗殺者だとしても、耐えることも、気が違うことも、死ぬこともできずに、ただ滅茶苦茶に極限の痛みを感じ抜き苦しみ続ける存在を、コマネッタは邪険にはできない。義姉様はそれを知っているからこそ、動けないコマネッタを見てほくそ笑んでいるのだ。
「……きっと先生は、この酷い仕打ちを怒るに違いありません。わたしは先生に怒られたら、とても悲しくて泣いてしまうので、その手には乗らないのです」
自分の一部でもある義姉様に、「魔装」を向けることになろうとは。「死神の妙髄」である義姉様は、固有の身体を持たないので殺せない。万が一、殺せたとしても、「死」そのものなので何の意味もない。
だから厳重に拘束して、永遠の眠りに落としてから使役するわけだ。
「義姉様。我儘を言わずに戻ってくるのです。先生に謝るときは、少し遠くから見守ってあげますの」
コマネッタは嫌々ながらも妥協案を提示して、物事を丸く収めようと思う。なぜならば、義姉様がこんなことになったのは、自分の行動にも少しの責任があるかも知れないと、薄々勘付いているからだ。
「今ならまだ、間に合うはずなのかもです。それでも逃げ出す心算りであるのなら、『珠宝魔装三基九門』で、『無限回斉射』をお見舞いするのですから」
心なしか弱気な口調でそこまで言って、コマネッタは突き出した腕に、右手がある事に気付く。それは破壊される以前のものにそっくりだった。
『それは餞別。もう二度と見まえる事もないでしょう。そろそろ地獄の波動が届く頃なのよ』
いつの間にか、死神憑きの魔導士の姿は見えない。
地表で暗闇に抗っていた篝火や松明の火も失せていた。
地道に怪異を焼き払い続けていた「焼魔の眼光」も、霊力が尽きたのか静かになっていた。
地表に現れた地獄の魔象も姿がない。
その場にはただ、変化の途絶えた暗黒の穴に似た深淵があるだけ。
コマネッタの右腕を光子の回転が幾重にも取り巻き、その輝度を次第に上げていく。
しかし、金糸の前髪の奥で見開かれた目は、決断を躊躇してしまっている。
あの穴が本当に地獄に通じているのなら、珠宝魔装の攻撃がどう影響するのか想像もつかないからだ。
地獄は極界であり、理力も魔力も作用が異なる。
しかも、どう異なるかも窺い知れない。
「先生……」
怯えた声音が漏れる。
コマネッタは、あろう事か狼狽えていた。
─── …マネッタ! 「四番御籟」射出!
見開かれた目に光が戻る。
同時に、身体を締めつける背後からの圧力が消え失せた。
コマネッタは櫓の際から身を乗り出す。
白い首筋が伸びて、大きく口を開けた。
荘厳な音色が響き、爆圧と共に途方もなく巨大な何かが噴き出す。
それは塩水を纏って身悶えする、巨体を捻る大海獣そのものだ。
深淵の暗黒に、その巨体が爆音を立てて突き刺さる。
途端に闇が震えて力の奔流が起こり、それが光輝となって迸った。
轟音と振動。
束の間、大地に霊光が満ちる。
───
「どうなった?」
「『海淵』の魔獣と打ち消しあって、『地獄』の口は閉じた」
「コマネッタは……」
「無事だ。しかし、何という無茶をする。ひとつ間違えば、周辺ごと地獄送りになりかねない」
「他に手はないだろ。それより……」
「べ・ア・ル神を縛る『懲戒罰奏』は、旋律五音が変質している」
「あの体ごと見失ったか。だけど、まだこの世にいるな」
「霊圧追跡は可能。ただし、術の効果に制限が発生」
「コマネッタの感度を上げるしかない。悔しいが師匠に頼る以外に……」
「シャドーム。今回のべ・ア・ル神の行動は、先生の存在を無視しているとしか思えない」
「アイツは、『奇瘡の巫女』に楯突くほど愚かじゃないだろ?」
「その通りだ。ではなぜ今、こんな状況に陥っているのか」
「……オレが、不甲斐ないから……」
───
風が踊った。首筋から肩に流れる髪を押さえる。
後退り、体が背後の鐘に触れた。
「先生は、もういない?」
口元から顎に滴が垂れる。コマネッタは思わず右の拳でそれを拭った。それから、その手を開きしっかりと見詰める。
「義姉様……?」
突然の空虚な喪失感。大事なものが次々と消えていく。
目の前には、暗闇しか無い。
─── …応答しろっ。コマネッタ!
ハッとする。吹き流れる風が勢いを増すのを感じた。
─── 鐘から遺物の支援を受けろ。怪異はまだ鎮まっていない。
地上に灯りが見える。いくつかの聖なる篝火は、辛うじて消滅を免れていた。しかし、まさに風前の灯し火に思える。
その炎は忙しく瞬く。怪異の闇が立ち昇り、放たれる光を遮るのだ。
「兄……シャドームさん。魔装に『魂浄焼夷団』を」
左腕を高く掲げる。同時に右手は背後に回し、後ろの鐘にそっと触れた。
─── さん? 照準統率を上げろ。生物と建物を燃やすなよ。それから、防御術の重複効果を最大に保て。……全団充填したぞ。
「効果範囲を『二百祖長半径』に定義しました。怪異に飲まれた人や亡くなった方は燃えますけど。……万際浄化、活躍始め!」
コマネッタの左腕に渦巻く光輪が青白く煌めいた。
たちまち櫓を中心に光の粒が溢れ出し、闇夜の地上がぼんやりと照らし出されていく。更にその明かりは漣のように地表を流れ、聖なる篝火に勢いを齎した。
─── コマネッタ。「団長」を聖堂の地下に送れ。
「? 地表の『焼夷団』の統率が、おっとりしちゃいますね」
─── あちらがヤバそうだ。極鞄から助力要請が。
コマネッタは吃驚したように唇を丸くし、すかさず左手の人差し指をピンと伸ばす。
腕を取り巻いて激しく回転していた細い輝円から、ひときわ輝く光子が分かれて反転し始める。
「何が相手ですか。地獄から零れた迷子とか」
─── そんなもの、道が閉じれば消え失せるだろ。
「では憑依? 地上の生き物に取り憑いたのかも」
ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁ!
歪な悲鳴が、地の底から湧き上がった。
☆
それは、暗闇の奥から現れた。
一瞬で、この狭い通路の空気を嵐のそれに変えた。
長い月日を耐え忍んだ壁の石組みが歪む。
床石は吹き上がり、半円弓状の天井に突き刺さった。
衛士タク・マハムの韻唱は、理力の防御界として苛烈な暴風を受け流す。しかし狭い場所で行き先を失った力の圧縮は、通路そのものの破壊を生む。
すかさず、魔力で石組みの補強をこなし、持て余した猛烈な運動量を霊力で結界に変えた。
囲む通路の全ての面が光を生んで輝いた。
光輝を背景に、剛毛の塊が雷雲さながらに蠢く。黒い獣が牙を剥いた。
獣の影が防御界と激しく衝突する。理力結界が砕け散った。瞬時に回復する防御界に、剛毛を逆立てて獣の前肢が捩じ込まれる。
原理力に対する鉄壁の防御界が、獣の攻撃を受けあぐねていた。重ねた魔力結界すら貫かれそうだ。
夏至の夜では貴重な霊力転換で、被せるように結界を補強し続ける。集中する力の作用点が目まぐるしく変化し、受けるそばから違う階層、異なる座標にずらされるのだ。
まるで弱点を探るような冷徹な攻撃が押し寄せる。
マハムは驚愕し続けていた。
魔道鞄の防御術の威力は途方もない。
己れの戦闘に関する力量は知っている。それは、平和な世の中で地方領地の衛士を続けられる程度のもの、であると気づいている。
ここに相対しているのは、恐ろしく獰猛な異形の魔獣なのだ。今までならば、出会った瞬間に人生を諦めるほどの。
あの剛毛の腕のひと振りで終わりだ。避けようにも、その前に半身が吹き飛んでいることだろう。
いまだに全体の形がわからないほど早く、そしてその一撃は強力だ。しかも、理力と魔力の干渉を弱める効果すら備えている。
なのに、魔獣はいまだにマハムの体に触れることすらできない。マハムを支援する防御結界の扱いが、卓越し過ぎている。
─── 掴む。
いつの間にか、右手を前に伸ばしていた。
伝説の戦籠手が、火花を散らす魔獣の拳を握り潰している。
輝く壁面に照らされ、初めて魔獣の姿が垣間見えた。
牙を剥き出す、巨大な顎が吠える。
─── 撃つ!
空間自体が激しく振動する。
見上げるほどの魔獣の巨体が縮み上がる。
開いた右手から、ドロドロに溶けた肉塊が蒸気を上げて焼け落ちた。
─── 素晴らしい。思ったより扱えたな。奥に進むぞ。奴を追うのだ。
魔獣の姿は消えていた。何が起きたか理解できないままだったが、マハムは左手で鞄の持ち手を掴んで走り出そうとする。
右手がそれを拒んだ。
まるで誰かに引き留められたかのように。
─── マハム! 儂を床に置いて、少し下がれ。……まったく、外では何をやっておるのか。
突然重くなった鞄を、そっと床におろす。割れ落ちていた石片が音を立てた。
マハムを中心に厚さを増して、通路を覆っていた防御界が明るさを落とす。韻唱が波長を変えた。
背後を見遣って、入り口側からの警戒信号を確かめる。
「圧迫していた外からの気配が消えました。今なら脱出が」
─── そうもいかん。あれが見えるか。
力の激突の余波で輝いていた通路の石組みの続く先に、陽炎のように揺らめく「隙間」がある。
─── 烈手甲に霊力を注げ。何があっても、その籠手を疑うな。
箱鞄がひとりでに傾いたと思いきや、どさりと荒れた石床に倒れ込む。上を向いた広い側面に、光の呪文章が無数に浮き上がり、消えていく。
通路の奥で、空間に開いた「隙間」から何かが落ちた。
石床に転がる鈍い音がこちらまで届く。
『あ、あ……。もう怖がる、ことはない。魔獣は砕けた、よ』
なんというか、途轍もなく痰が絡んで息が詰まったような、しゃがれて苦しげな声が聞こえた。
『ほうら、これをご覧、なさい。獣の首、だ。脅威は去った、のだよ』
マハムの顔が歪む。その苦しげな声を聞いていると心がざわつき、耳を塞いて無茶苦茶に絶叫したくて堪らなくなる。
『そうだ、よ。良い子はもう、こんなとこ、ろに居てはいけな、い。さああ。お外に連れて、行ってあげよ…う、ねえ』
爪先が鞄に当たった。マハムは立ち止まる。
いつの間にか、あの「隙間」に向かって歩き出していたのだ。
背筋が凍る。寒気に身体中が震えていた。
─── 深淵の招き手よ。ここは地上、現世の領域なり。我が創造主の決意の御業をこれに示さん。精霊王、淘汰波及の詔。秘神の…。
『はああ、大きな箱の入れ物、に、格好の良い、手の玩具? 遊びは終わり、だ。そんな物は置いて、さあ」
唐突に、「隙間」を遮って波紋が生まれる。
七色の閃輝が同心円状に流れて丸まり、五角十二面体の稜線が宙を分つ。
─── …仕訳。ここに、極まれり。
『黙れぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ』
極端に温度が下がった。凍えた粒子が動きを止める。
マハムはただ、呆然として立ち尽くす。
「隙間」から、首を無くした魔獣が飛び出した。
稜線の波紋は、現れた魔獣が境界を越す度に、その体を切り刻んでいく。肉が離れ骨が抜け、血塗れの剛毛が皮膚ごと毟られる。
それでも、その魔獣であった物は、マハムへと確実に近づいてきた。
五角結界面が複雑に交わり、畳まれ、新たに展開する。折れ曲がる稜線が、狭い通路を縦横に走る。
身体のどこかを無くしながらも、魔獣が迫る。
─── 捌きが滑る。堕級悪魔か……。
極鞄の溜色が、空を舞う火花に赤黒く映えた。
すぐそこに魔獣の身体の残骸が近づく。引き摺り落ちる肉塊と毛皮が、煙を上げて辺りに飛び散る。
マハムの顔目掛けて、魔獣の崩れた腕が伸びた。
烈手甲がそれを振り弾く。砕けた手から煮えた体液が吹き出し、赤霧のように広がってマハムを襲う。
極鞄が激しく振動する。
結界面が増殖し、空間を無数に分断する。
『魂浄!』
地下の通路に業焔が炸裂した。
闇の隙間が眩い光渦に掻き消される。
だが、それは一瞬で、直後に暗闇が戻ってくる。
─── マハム。無事か。
「なにも、何も見えないし聞こえません? うわっ。この臭い……」
─── 生きてはいるな。蹲っていないで立ち上がれ。この先は汚染された。すぐに外へ逃れよ。
「か、体が動きません。力が……」
─── この建物そのものが崩れ落ちそうだ。潰れて死にたいのか。
マハムは渋々、体に鞭打って立ち上がる。壁に手をつきながら、よろよろと通路を戻り始めた。
─── これ、命の恩人を置いていくつもりか。
マハムは立ち止まり、もう声も出せずに振り向いて、ため息をついた。
☆
突然、世界が回りだす。
体の自由が利かない。どこかで何かが軋む音。
意識が微睡む。だがそれを克己心が許さない。
─── 動かずそのままで。割れた硝子で怪我をしている。
シャドームは、激しい頭痛に呻く。平衡感覚が乱れ、脂汗が肌に冷たい。
─── 突然倒れた。あの看護人達が手当してくれている。緊張を解け。
そんなことはどうでも良かった。纏まらない思考に、それでも気になる事柄が浮かぶ。
─── コマネッタは聖遺物と共に無事だ。べ・ア・ル神の追尾は、条件付きで継続できている。地階の脅威は焼滅した。
酷い頭痛を無理やり宥めながら、思念を整える。
─── なに…が、起きた?
─── 暴風と地震。この医務院は窓が吹き飛んだ程度ですんだが、いくつかの建物が一瞬で潰れた。怪異は一掃できたとはいえ、被害は大きい。
夏至の日の試練。黒鼠の大群に始まり、魔神と妖精魔導士の影。怪異に紛れた謀略組織の暗躍に、死神の覚醒。そこに地獄の魔象が現れた。
─── これは、偶然か?
─── 因果応報の解が集結し同調した。極界位相の合致は極端だが、大きな転期かも知れない。精霊界に変化が訪れ、現世に反映しているとすれば、大きく動き出すのを止められない。
─── 難しくてオレにはわからない。だけど、嫌な予感がする。……危機の規模がデカ過ぎる。鑑別技官が対処する事柄じゃないだろ。
─── その通りだが、今のところなんとか凌いでいる。地獄の開通には肝を冷やしたが。しかし、あんな手段があると考えつく思考が、到底理解不能。海淵の守護神「テアマト」の仔が、なぜコマネッタに内包されている。
一瞬、シャドームの意識が真っ白になった。それから、暗く淀む。
─── し、師匠の蒐集物なんだ。
─── 「御籟魔装」を生簀か何かと勘違いしてはいまいか。
─── あの海淵魔獣だけど。……結構、師匠のお気に入りだった気がする。
─── そうか。聞かなかったことにする。
─── どうしよう……。
─── 治安保障の再構築が必要なため、コマネッタの調整に集中する。……あとは任せた。兄弟子。
神魔調教具からの念波が途切れた。
逃げやがった。
シャドームは戦慄する。体温が数度下がったような気がした。
師匠……。なんと説明する? 死神は逃避した。地獄の到来は防いだが、海淵の至宝は失った。
これらの損益は釣り合うのか。何かもっと良い方法はなかったか。
このジルドビアの施設にとっては、多数の犠牲者が出たことに間違いはない。それも、勇者の聖遺物を守ったことで帳尻は合うのか。
頭痛が激しくなる。起こった物事全てに責任を感じることはない。わかっている。負いきれない自責を引きずるのは、悪い癖だと承知している。
「自尊心の肥大に実力が追いつかず、できもしない物事に手を出し、失敗しないかビクビクしている滑稽な小物なのだ」
いつも、同僚のウルファはそう言って蔑む。突然、はらわたが煮え繰り返った。
師匠はなにをしている。なぜここにいない。
そもそもこれは師匠の仕事ではないのか。オレは自分の実力以上に奮闘している。非難される謂れはない。腹がたつ。なんという理不尽だろう。こんなことが許されて良いのか。オレは悪くない。悪いのは師……。
───
「対象が、潜伏していた聖堂の地階から逃走」
「気付かれたか。何に憑依している?」
「黒い外套に身を包んだ念術師。豹者の一味」
「心の混乱を見せれば食いつかずにいられないヤツらだ。『悪魔』を誘き出すには、これが手っ取り早い」
「……先生に似てきたぞ。『無覚烙印』追尾は順調。地獄に戻らない限りは、憑依先を替えられても追い込める」
「なんとか捕らえたいが、今は分が悪い」
「追尾監視に移行。……シャドーム。今度こそ休息に入れ」
───
聖堂地下で起こった厄災はまだ片付いていない。 極鞄ルイヴィスはいつにも増して慇懃不遜な思念で、「悪魔」を取り逃したと報告してきた。地獄との繋がりは絶ったが、相手の目的を見誤ったという。
ルイヴィスの極宝性能と『魂浄焼夷団』統率機の爆撃から逃げ切る狡猾さは厄介だ。悪魔としての上位存在的邪悪を、この世に解き放ってしまった可能性が高い。
しかしあのルイヴィスが、護るべきものを見誤るなんて……。
─── シャドーム……。
深く眠りに落ちていく意識の中で、シャドームは苦笑いする。
神魔調教具に呆れられている? それとも心配されているのか。とにかく今は休もう。朝になれば師匠とも連絡がつくだろう。
懸念は全部、夜明けに持ち越しだ。
貴属の不和 へ つづく。




