「騒乱の夜」4 ─ 人外鑑別衝技隊 2
☆
馬車の中で、吊っていた照明筒が揺れた。
見上げた守護隊衛士の若者は、齧りついた干し肉をそのままに、異様な雰囲気を察して身を固くする。
停車場の隅に置かれた輸送馬車には、衛士タク・マハム一人だけが乗り込んでいた。怯えだした馬達を連れて、馭者は厩舎に移っている。
地面が小刻みに揺れた。
覗き窓から光が差し、人声がいくつも耳に届いたが、何を言っているのかはわからない。
夏至の夜である。怪異や魔物が現れるのは知っている。だが治外域で輸送馬車の中でたったひとり、この夜を過ごすのは初めてだった。
左手に嵌めた幾つもの指輪をいたずらに撫でて、気を落ち着かせようとする。
魔力計と伝信器の役割を果たす指輪が激しく反応してはいるが、意識が乱れてうまく内容を把握できずにいた。
肉を飲み込んで、水の入った木製の杯を呷る。
唐突に大きな揺れが襲ってきた。
思わず手を伸ばすが、どこにも捕まることができずに板床に倒れてしまう。
─── 馬鹿者め。水分はこの肌に悪い。
慌てて顔を上げる。
目の前に、あの大鞄があった。手放した杯から零れた水がかかって、溜色に染みができている。
衛士の若者は、突然の出来事に思わず呻いた。
─── 早く拭き取ってくれ。色褪せのもとだ。
「な……」
─── 儂は、カレン鑑別技官の調整を受けた、妖力機工の魔道鞄である。
「鞄の魔道具……?」
─── さっさとせい。カレン鑑別技官を悲しませるつもりか。
「え? は、いや、すぐに拭き取ります!」
衛士はあたふたと動いて、床に畳まれていた布を取る。
─── なるべく綺麗な布を使うように。
「はい!」
気が動転して、力を込めてゴシゴシと擦る。
─── これっ! 肌がさけるわ。
「あ。失礼しました」
─── 近頃の衛士は、箱鞄の扱いもわからぬのか。……もうよい。車を聖堂の門前に移動せよ。
「え。はい。いや、輓馬が」
衛士は、拭き布を握りしめて狼狽える。
遠くで何かが破裂する音が響く。
窓の外を不規則な朧光の明滅が飛ぶ。
─── 魔力の乱れが止まぬな。技官の二人はどこか。
「医務院の建物に」
─── ううむ。時間が惜しい。では、おまえが儂を聖堂の前まで運ぶのだ。
鞄には、使い込まれた大きくて立派な持ち手があった。
衛士はそれを掴もうとしたが、躊躇って動きが止まる。
─── 急げ。時間がないぞ。
「しかし、シャドーム技官からは動かすなと」
─── 状況判断が遅い。刻一刻と物事は移り変わる。シャドームはここにはいない。馬車も動かせない。儂は聖堂の前に在らねばならぬ。ならば、お前の起こすべき行動はなんだ。
若き衛士タク・マハムは、なぜか実家の祖父の顰めっ面を思い浮かべていた。
「でも、何やら外は危険に感じます」
─── 危険だと? その通りだ。だからこそ急がねばならんのだ。馬車の荷室に隠れてなんとする。お前は守護隊の一員であり、しかも衛士ではないのか。
祖父の小言はとても長かったのを思い出した。とにかく事を成せば、それは止む。
衛士は、両手で取っ手を掴んで大鞄を持ち上げようとする。が、びくともしない。
重いなんてものではない。まるで床に据え付けられたかに、持ち上がる気配すらない。
「これは、無理です」
─── お嬢…コマネッタは片手で扱うぞ。
確かにあの金髪で華奢な少女は、まるで花摘みの籠みたいに軽々と持ち上げていた。それを思い出し、衛士は観念したように唸った。
「ううん。王宮の鑑別技官殿はすごいですね」
─── そうではない。覚悟と信念が……。ええいっ、手のかかる小僧が!
鞄の側面に、雲母砂を散らしたような紋が現れ、形を変えながら動き出す。
衛士マハムは、鞄の重さの変化に驚愕する。
「おおっ、持ち上がった。これならば運べます」
─── 理力静止量の制御は疲れるのだ。急げ!
扉を開け放つ。途端に熱気が吹きつける。
マハムは一瞬怯んだが、すぐに走り出した。
☆
「篝火の勢いを保て! もっと結界を照らし出すのだ!」
大聖堂の正面に構える塀門の扉が、破城槌でも当たったかに大きく震える。
衝撃が激しい音をたて、堅木の一枚板でできた門扉を撓ませる。
儀礼装束をつけた白髭の老人が手を振って、駆け回る従者を指揮している。
「守門様。塀の裏門にも、怪異が……」
若い従者が松明を振り下ろし、近づいて報告する。
「他に回せる人手はない。この門を破られるわけにはいかぬ」
「敷地を囲む柵の周りにも、黒い邪悪が押し寄せて」
老人は口元を歪ませた。
「やむを得ん。残った信徒の中から助っ人を募れ」
「もう年寄りと子供しかおりません……」
敷地を囲む木柵に流れる結界の力が、粘つく暗闇の圧迫に晒されて火花を散らした。
聖火を移した松明を持って闇を祓っていた人々が、一瞬たじろいて一歩引き下がる。
夏至の夜とはいえ、これだけの怪異の猛攻は受けた事がない。
守門の老人は背後を振り返った。
「司教様に、ご加護の発露を願わねば……」
大聖堂の背後に聳える鐘楼櫓が、焚かれる聖火に浮き上がって見えた。
塀門を支える大柱の片方が、鈍い音を立てて動いた。
松明を掲げていた守り人が、無理を承知で手を当てて柱を押し戻そうとする。
門扉が歪んで、鉄枠から締め具が弾け飛んだ。
閂が捩れて裂け始める。
怪異の気配が、結界を抜けて忍び込んでくる。
「天誅鬼門……」
太い黒柄が地面に突き立つ。杖頭に据えられた瑠璃の紺玉が魔力を導く。
「邪悪の漣、召し捕らん!」
逆光に輝く頭皮を持った頑丈な体が、太い錫杖を傾けた。
漂い始めた暗黒の怪異が、発露した紺碧の発光に遮られ動きを止める。
「ここは私が受け持つ!」
灰色の胴着を着た無骨な大男が叫んだ。
「おお、アジャリ殿。なんと頼もしい」
守門の老人が、冷や汗を浮かべながら声を上げる。
「司教様に危急を伝えよ」
老人の傍らにいた従者が、頷いて駆け出した。
輝く頭皮の大男が錫杖を打ち震わせながら、門から柵に連なる結界線に呪力を流し続ける。
「裏門に魔術師と、念拳闘士を回した。ただし、この魔勢では防御するだけになる」
老人は苦しげに咳き込んでから、弱々しく息を吐いて声を出す。
「それで十分だ。櫓の御力が放たれれば、怪異も鎮まる。司教様のお言葉で、『技流帑』に助力を頼んで正解だった」
ひしゃげた大門を睨んでから、ため息をついた。
「貴重な浄財を、大金に換えねばならんがな……」
ナッッッッ!
奇妙な異音が響いた。
頭上に閃光が瞬き、守門の老人は膝をついた。
「助かった……」
安堵の呟きが思わず漏れる。
頭皮の輝きを増した大男が目を細めて鐘楼櫓を見る。
「これが、勇者メロイダの遺志か」
僅かに唇を開く。
「だが、しかし。……守門殿、あれを見ろ」
老人が振り向く。
聖堂の教都紋の輝きを黒い影が遮っていた。
ナッ!
螺旋を描く光束の流れが迸る。
黒雲のように湧き出した暗黒が照り尽きた。
だが、次から次へと建物の外壁を、黒い影が揺らぎながら這い上っていく。
「『暗愚炎』か。守門殿、篝火を絶やすなっ」
艶光る頭を振って大男が叫んだ。
「怪異に混じって、よからぬ魔物が潜んでいる!」
老人は白髭を震わせて、鐘楼櫓を見上げた。
「くっ。『聖櫃』は暗愚の渇望を呼ぶ」
大男がその視線の先を見据えて目を細める。
「彼処までは手が回らんぞ」
ナッッ!
櫓の鐘楼から光の螺旋輪が波のように降り注ぐ。
立ち昇る闇の炎が消え失せた。
「暗愚の動きなど知れたもの。手練の魔術師が扱う『鉄戒の鐘』に納めた聖遺物に手出しは叶わぬ。結界の維持に注力してくれい」
地に手をついて疲労に耐えながらも、守門の老人は力強く言う。
突然、辛うじて外圧を抑え込んでいた大門の扉が吹き飛んだ。異様な殺意を撒き散らして、暗闇が押し寄せる。
錫杖が、唸った。
「誰か来てくれっ。守門が倒れたぞ!」
大男が叫ぶが、溢れた暗黒に巻かれてか、どこからも応答はなかった。
地に伏した老人の周りに血の染みが広がっていく。
輝頭の大男は、錫杖を肩に担ぐと聖堂めがけて走りだした。
─── 聖櫃は、やはりあの中だ。魔術師が操っている。
─── 裏の塀門も開放しました。ご注意を。
─── 聖堂正面、右奥の階段から地階へ降りて。
─── 後は手筈通りに。
大聖堂の閉じられた扉を照らす松明が、風に煽られて激しく揺れる。
その灯り目掛けて駆け寄る大男の影が、唐突に立ち止まる。
─── 貴属韻唱…「二元衝」
「おいっ。外塀の正門が破られたぞっ。裏門へ逃げろ!」
聖堂の扉へと続く階段の上に人影を認めて、大男が叫んだ。
─── 貴族? なぜ、ここに。
─── 妙な防御界が現れました。
─── 関わるな。階下へ急げっ。
「早く逃げるんだっ。何している!」
いよいよ照り輝く頭を震わせ、再度大男が叫ぶ。
「あなた、術師ですか。いや、職能協会の魔導士か何かかな」
明かりを背後に見えない顔から、若い男の戸惑ったような声がした。
「それで、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
錫杖の石突が石畳を抉る。
紺玉が色めき立つ。
男の影に青白い高熱線が飛ぶ。が、弾かれる。
大男はその瞬間に、若者の目前にまで迫った。
勢いそのまま、爆速の鉄拳を繰り出す。
骨肉がひしゃげる鈍い音が響く。
「!」
拳から肩まで左腕を破壊された大男が、右手に握った錫杖を振り下ろす。
ドン!
空気が震えて、大男が吹き飛んだ。
「え?」
衛士タク・マハムは、思わず身構えていた。
混乱していたが、突然襲われたことはわかった。
防御の基本で、理力と魔力に対しての対抗術を使ったのは覚えている。だが、実戦など久しぶりだし相手はやたらと強そうなので、それ以外は何もできなかった。
─── あの錫杖、暗殺器ではないか。そうか、狙いは……。
石床に置いた箱鞄の表面を光子が走る。
─── 小僧。いや、衛士タク・マハム。よくやった。
「な、なんなんですか。あれは」
─── 聖遺物を狙う曲者だ。その脇の階段から下に逃げ込んだぞ。
目の前には、真新しい血痕が無数に散っている。
冷や汗が止まらない。今更に震えがきた。
「追えって? 御免です。あんなの相手にしたら、死んじゃいますよ!」
─── 衛士タク・マハム。覚悟を決めよ。あれは「豹者」だ。ならば単独ではない。少なくとも、あと三人はいると思え。
「あんなのが、あと三人……」
衛士として、戦闘訓練にも励んではいる。盗賊団や野獣の群れの鎮圧に参加した事もある。
だが「豹者」といえば、太古から闇の世界を跳梁跋扈する、暗躍の手練れ集団ではないか。
「援軍を呼びましょう。あ、いや、ここは治外域です。下手に手出しはできません」
武器は細身の護身剣しかない。しかも馬車に置き忘れている。
─── 何を恐れる。一匹撃退したではないか。
「魔道鞄のあなたが、韻唱の効果増強と理力反発の対抗罠を付与してくれたお陰です。あんな複合技、私の実力じゃありません」
─── それに気付けたなら大したもの。さあ、儂を持って奴を追え。急げ。
何故、年寄りはみんな強引なのか。追っても結果は見えている。とはいえ、他に何ができる?
暗闇の怪異は塀門を越え迫り来る。聖なる篝火が、その動きを辛うじて留めてはいる。
だが、このままでは、この聖堂が敷地ごと飲み込まれてしまうのも時間の問題。
ナナナッッ!
光輝の旋条輪が、無数に放たれ闇を払う。
その一閃が跳ね返った。
漂う黒雲を巻いて、不気味な異形が姿を見せる。
甲殻のごとく頑丈な外皮で鎧った粗暴な気配が、大地を踏み躙る。
捩れたツノを生やした頭部と思しき部分から、青白い冷酷な光が漏れ出し、立ち昇る暗黒を霞ませ冷たく激る。
─── 賊を追わぬなら、あれを相手にするのもよかろう。
「化け物……」
─── 地獄の魔象だ。悪魔か獄卒か知らんが、手強かろう。さあ、すぐに選べ。あれに立ち向かうというなら、多少は助力するにやぶさかで無…。
衛士タク・マハムは大鞄を引っ掴んで、地階へ逃げ込んだ。
☆
備え付けの木板に埋め込まれた調整板に灯る、緑の点灯が赤へと変わる。
寝台に下がる輸液管を束ねた混合器がぴくりと震えて動作音が止む。
建物から振動が伝わり、液体の上面が細かく波立つ。
喧騒が耳に届き、寝台を取り巻く看護人達が動きを止めた。
「……始まりました?」
「大丈夫。怪我人が出たら、救急班が対応するから」
「次長に任せましょう。精霊の試練は始まったばかりです。私達は、この方の回復を見守りましょう」
寝台に横たわる小さな体を前に、医務院長である長身で物静かな佇まいの女が暫く思案にくれた。それから指先に嵌めた「検診輪」を外し、左手に持った「慈録帳」に現れる輝線数値の強弱を一瞥する。
技官服のまま静かに横たわる少女の意識は戻っていない。
失った手首からの出血は、心配していたほど酷くはなかった。技官服の生体護持霊能により迅速な止血がなされ、感染防止を兼ねた「万能呪揉糸」の包球が働き、的確な応急処置を施している。
敗血呪の兆候は見られない。滋養液の補給と、肉体の休養が必要なだけで、あとはもうすることはない。
ジルドビア教都の医務院管理職として貴族との付き合いは大事であり、大怪我や慢性病の治療に手を貸すことは多々あった。それが浄財を増やし、確かな教えを世に広める一助に繋がる。
とは言え、大国の王宮鑑別院に所属する貴族に、治癒の御業を施す機会など中々ない。いつもであれば、その成果を思って大いなる喜びに打ち震えてもおかしくはないのだ。
目の前に横たわる少女が、本当に「貴族」であるならば。
体格の良い看護人の女性が、調整板のつまみから指を離し、傍に立つ深刻な表情の院長に目を向ける。
「院長。『聖母のお恵み』が尽きます。替えはもう……」
「分かっています。『良母の閃き』に、『女神の気紛れ』を三分の一混合。『烈女の気付け』を『純潔の疼き』と同量まで増やしてください」
「……突然にです。脈拍の乱れが止まりません。先程まで正常値を保っていたのに」
医務院長は、薬液の筒を装置から差し替えていた小柄な看護人に、握った右手を突き出した。
「『乾きの指針』を渡します。特等病室用の薬剤冷庫から、『凡夫の涙』を補充してきてください」
看護人の少女は、指先ほどの小さな治療機工の塊を受け取って頷くと、廊下へと続く扉に目を向けた。
床が震え、細かく揺らぐ。
天蓋から伸びた慈力線が振られて音を立てた。
厚い扉が唐突に開かれる。
長い赤髪が靡いて、鈍色の技官服が飛び込んでくる。
「何事ですか!」
赤髪を翻す鑑別技官を認めて、院長が咎めた。
「寝台から離れろっ」
鑑別技官が叫ぶ。
「ひっ」
「院長!」
寝台と技官の間に毅然と立ち塞がった院長は、背後から感じる禍々しい威圧に背筋を冷やして、思わず息を飲む。
恐ろしくて振り返ることすらできなかった。何かが首に巻き付いている。
「やめろっ。コマネッタ」
開かれた扉で立ち尽くしたシャドームが、右腕を前に突き出す。広がった後ろ髪が、真赭の輝閃を放ちながら触手のように動いて、その腕に巻き付いた。
『落ち着いてちょうだいな。シャドーム』
甘ったるい高い声が、残響を残しながら室内に広がる。音色はコマネッタのそれなのに、媚びと侮蔑をない混ぜにした、老獪な別人の声音に聞こえる。
『状況が飲み込めないから、守りに動いただけよ』
「……説明している時間はない。『呪滅の儀装』をここへ導く。そのために勇者メロイダの聖遺物をオレに繋ぐ」
『ふうん。何だか大変そうね。わたしはどうすればよいの?』
「……。大人しく永眠していてくれ」
『そうもいかないわ。せっかく意識を取り戻したのよ。こんな機会は滅多にないもの。有意義に使わないと!』
シャドームが舌打ちする。左腕を上げると、それにも赤髪が巻き付いて、真赭光の明滅が始まった。
『あれれ? そういうこと。……残念だけれど、仕方ないか』
院長の体が束縛から解かれて、床に膝をつく。
呆気に取られていた看護人が、慌てて駆け寄った。
寝台の上には、体を起こして黄金髪を巻いた少女が、前を開いた臙脂色の技官服を羽織って、何かを探るように上を向く。
『あろうことか、戎尼神将がご降臨とは。あいも変わらず無茶苦茶なお方ね。センセイは』
ひとつため息を漏らす。
両の腕に空間の歪みを巻いたまま、シャドームは耳を疑った。
「師匠?」
『何があったにせよ、終わりと始まりの狭間に居残ったら、碌な目に会わないから……』
黄金髪の少女の声が、小さく掠れる。
『かと言って、このまま退散するのも癪ね』
「いいから、引き篭もっていろ。……べ・ア・ル神」
シャドームは、両腕に宿った時空渦に吸われる霊力の維持に限界を感じて、苦しげに口走る。
丸い白銀色の鞠玉が床で跳ねて転がった。
少女が、細い腕を振る。
なくしたはずの右手があった。ゆっくりと指を握りしめる。
『わたしは神よ。手助けしてあげる』
「コマネッタに、何するつもりだ」
『だから、助けてあげるって。妙な呪戒を解いたわ。あなたの愛しい女の子は、もう少ししたら意識を取り戻す』
「……」
『だから、今は私を信じて。「縛鎖の緋滅」を鎮めなさい。命を懸ける必要はないわ』
猶予が尽きた。空間の激しい歪みが消え失せる。
シャドームは、両腕から剥がれる赤髪を見詰めた。
『まったく。頭の固さは、センセイそっくりなんだから。もう少し感情に素直になったほうが、可愛げがあって女の子にもてるわよ』
「やかましい」
シャドームは、再び両腕の表面に力場を生み出し、長い赤髪をその流れに乗せようと試みる。
額から、血と汗が混じって流れ落ちた。
『貴族って、融通の利かない頑迷さが命取りだと思うの。自由奔放な神々のほうが魅力的よね。……それはともかく、無茶はしないで』
「誰が原因だと思ってる!」
『あれれ? 頭に血が昇って見えていないのかしら。あなたが接触しようとしている聖遺物に、害意を孕んだ余所者が迫っているというのに』
シャドームの首筋に衝撃が走った。微かな動揺が隠せない。
『……わたしが助けようと言っているの。あなたこそ、そのザマで邪魔しないで』
少女の声に威圧が増す。黄金の巻き毛に紫炎の艶が煌めいた。
『折角の現世。あれを贄にいただくわ』
周囲に暗い熱気が満ちた。
「コマネッタ!」
吊り人形の糸が切れたように、少女の体が寝台に沈む。
慌ててシャドームが走り寄った。
看護人に支えられ、真っ青な顔色のまま、院長がシャドームに震える視線を向ける。
「このお方は、まさか……」
シャドームは答えず、静かに横たわる少女の首筋に触れる。
まだ体は冷たい。それでも脈拍と呼吸は落ち着いていた。
「あとを頼む」
シャドームが首を振る。広がった赤髪が、付け根から動いて綺麗に巻かれ始める。
─── 勇武韻唱紋が発動中。極界の魔象反応有り。
「戦闘開始か。どこに向かえばいい?」
廊下に飛び出したシャドームが、一旦足を止め呟いた。
─── 聖堂中央。勇者の遺志に抗う叛逆の思念が多数、集結しつつある。
「……べ・ア・ル神は、どれを相手にするつもりだ」
─── 因果に則れば、怪異に紛れた地獄の魔象。だが、正確な予測は困難。他に異能者が複数存在して、先に聖遺物に到達する可能性が高い。
「どさくさ紛れに聖櫃を狙う盗人か」
─── おそらく忍びの系譜。「十文字豹」の反応が濃い。
「豹者? なら、オレはそっちを」
─── すでに極鞄ルイヴィスが追跡中。
「なんだって。誰が動かしている!」
─── シャドーム。先生不在の今、我らの指揮権はあなたにある。この場に留まり、全体指揮に専念することを勧告する。
「指揮なんか無理だろ。師匠以外の命令を、アイツらが聞くと思うか?」
─── シャドーム。このままでは、この場に破壊と恐怖の極致が訪れることになる。それに、憑き神が遠退いたコマネッタは無防備だ。離れてはいけない。
輝く赤髪が編み上がり、ふわりと垂れ下がって背を撫でた。
乱れた前髪の下で、疲弊した白い顔が俯く。
「休めと言ったくせに……。死神と極鞄への指図に専念? なら、神魔調教具のオマエには手綱になってもらうぞ」
─── 断る道理はない。承知した。……兄弟子。
シャドームは、止まない頭痛に困り顔のカレンの姿を重ねながら、両手を握りしめる。
「夜が明けたら、長い褒賞休暇を要求するからな。師匠」
決意を固めるが、脳裏に映るカレンの顔は、曖昧な微笑みを浮かべたままだった。
人外鑑別衝技隊 3 へ つづく。




