「騒乱の夜」3 ─ 人外鑑別衝技隊 1
─「人外鑑別衝技隊」─
光の届かぬ封鎖空間に、小さな塊が浮いている。
磨かれた玉髄の細長い珠に似た形が、当てられた解析胞子の微かな散光に輪郭を見せた。
あてがわれた「漏測計機」の触侵は、今のところ全てが失敗している。捕捉できたのは、その外形だけだ。
参照する比較類型が尽きた。つまりは正体不明ということ。
「空智の虫籠」で、得体が知れない存在と評価されるのは理解しがたい。
「装触具に不具合か。それとも何か見逃しいている?」
頭の中に言葉が響いた。その自分の声にどきりとする。
既に対象の捕獲から半日が経過している。あちらの時空で数年分の時間をかけているのに。
世界開闢以来の「虚空蔵念写録」に、「不明」があって良いはずがない。だとしたら、疑うべきは己れの検知能力かも知れない。
見えない突起に触れた指先が震える。
この世界に、役立たずの居場所はない。精霊の御心は全てを見通す。無能な存在をお許しになるはずが無い。
「わかりませんと言ったら、先輩に見捨てられるかも。どうしよう……」
声変わりを忘れたような甘い響きの声音で囁いてみる。
同時に、朱色に若紫の梳き毛が跳ねる髪を掻き毟った。
「先輩に蔑んだ目で見下ろされたくはない」
いや、心の奥底では期待してはいないか。
あの極光の艶やかに舞う瞳で、役立たずの烙印を押されたら。
目をきゅっと瞑って、想像してみた。嗚呼……。
─── お楽しみのところを申し訳ありませんが、観測結果の八十七層転写記録に目を通していただきたいのです。
一瞬で甘い興奮が醒めた。
「ちゃんと仕事をしてる。言い掛かりはやめろ」
むっとして言い返す。息が溢れて小さな玉が浮かんだ。
…とぷん。 満ちた液体が揺れる。
─── よくわからない返答ですが、威光消費の計測数値が乱れています。中断し、原因を見極めるべきかと。
「成果は出す。が、いつとは言えない。だから、先輩への報告はちょっと待て」
…とろとろ。ゆらり。
瞬くと、事象がぼやけて細かな泡に変わってしまう。
─── 返答が理解できません。八十七層転写記録の歪みについての確認要請です。霊力周波の破断が、時空伝信に影響してはいませんか。
「先輩はお忙しいのだ。こんな訳わからん物を採集しておられるくらい。さっさと成果を出して、お褒めいただくのだ」
あの冷たくてゾクゾクする眼差しが、満足そうにこちらを見つめている。嗚呼……、感極まりそう。
─── 「感受性液槽」に、妙な興奮を混ぜないでください。次回使用時に差し障りがあるかも知れません。
「そうか! 僕の能力ではなく、設備の問題なのだ。鑑別院の責任だ。そうに違いない。……でも、成果がご報告できないという事実は変わらない。それでは僕の力不足になってしまう。どうしよう」
突然、磨かれた水晶繊維体が嵌められた廃液弁が開かれた。
据え付けられている大きな「涅槃棺」から、音を立てて粘度の高い液体が噴き出す。
─── 緊急伝を受信。空智の虫籠との接触を停止。「触侵者」の実存確定を最優先手順とします。
棺が割れて、濡れた褐色の体が転がり出てきた。
「……実存より肉体の生存を大事にしてほしい」
多量の粘液を吐き出し、同じ液体に塗れた手で口元を拭う。
「床で頭を打って失神でもしたら……」
ハッとして目を見開き、それからきゅっと瞑って、想像してみた。
素っ裸でヌルヌルの液体を滴らせ、床にだらしなく這いつくばっている、あられもない姿。
─── ウルファ技官。直ちに鑑別院へお戻りください。召集令の超特級が届いております。
「こんな姿、先輩に見られたら、僕は……」
両手で顔を覆ってプルプルと震える。朱色若紫の髪から粘液が糸を引いて艶めいた。
─── 急いでください。技官服の調整は済んでおります。
返事はない。幼く甘い吐息が、か細く掠れる。
─── ……それでは、カレン純白位からのご指導を実行します。全体光学虚像を撮影し、シャドーム技官へ伝送準備。
「実行を中断せよ。カレン先輩のご意志に僕が背くなど、未来永劫あり得ない。すぐに鑑別院へ向かう!」
濡れた美貌を備えた褐色の引き締まった体が立ち上がり、暗がりの出入り口に向かって歩き出す。
─── 体をよく拭いてください。足元に注意して。
「シャドームに僕の恥ずかしい姿を晒すだと? 先輩は何を考えて……。まさか、お仕置き?」
─── カレン純白位との通伝が不可能な場合は、シャドーム技官へご連絡するようにとのご意向です。立ち止まらず、湯水浴室へ急いでください。
「イレクティア君。ここの洗浄と片付けを終えたら、この部屋を封鎖して何も近づけるな」
壁に掛けられていた柔らかな幅広の不織布を手にする。
朱色の髪を拭きあげ、天井を見上げる。
「たとえ王族であろうと中に入れるな」
─── その命令には、権限の提示が必要です。
「あの極宝の留置はカレン先輩の厳命だ。そうだろう?」
─── 厳命の意味が曖昧ですが、ご指導の意向に沿う手段ではあると、「近侍妖精」として判断できます。
「よろしい。ああ、シャドームへの報告は不要だ。僕が直接連絡する。彼の現在地座標をくれ」
─── アカサス領、威光街道区画、九の二十六。伝信範囲には居られますが、これ以上は追跡不能です。
「うん、夏至の日か。近辺の鑑別所は?」
─── 二級分所「ナ・ラーミヤ鑑別聖堂」があります。直通伝信可能。
滴り落ちた液晶が床に弾けた。
「あんな辺境にも、ジルドビア教都は手を伸ばしていると。いや、『聖域』があるのだ。当然か」
足指を拭って、不織布を手放す。
「イレクティア君。戻り次第、あらためて潜る。準備を宜しく」
─── 転換路が分岐で閉鎖されています。施設の予備霊源では、再開は不可能です。
「朝まで時間を浪費しろと言うのか。いや、言い訳に。不可抗力で、むしろ時間稼ぎが……。ならば、再開は夜が明けてからにしよう。それまでに、接触した解析胞子の蒸着情報を回収して、僕の技官服接続端子より圧縮遷移挿入したまえ。……あ。僕の端子はとても敏感なので、優しくね」
─── ウルファ技官。急いでください。
冷たい金属の扉に手を当てた瞬間、目を見開く。
「……正体不明の極宝? それこそが正体! 界域を繋ぐ力そのものだとしたら。遺恨の巻き戻し。極値を探る道標。……逆転し、世界が」
─── ウルファ技官。急いで……。
「急いてはだめだ。先輩はあれを何のために? いやいや、途方もない『力』が必要不可欠。『迂遠界』の神々ですら持ち得ない……」
彼方で、固く組み合わされた理力施錠が解かれる音がした。
「なんだ。まさか侵入者?」
─── 早く支度を。王都保安隊が到着しました。
「保安隊だって? 何しにきたのだ。ここは鑑別院の特別監理区域だぞ」
─── 王宮鑑別院の首級監守人も同行しておられます。
「保安部と鑑別院揃ってお出ましか。事の最中に邪魔立てとは、失礼しちゃうのだ」
点滅し始めた赤色灯に目を遣ると、頬を伝い落ちる雫を指で払い、ニヤリと笑う。
「支度にまだ時間がかかるので、遺跡の庭園ででも待ってもらえ」
─── 隔壁が開かれました。もうすぐこちらへお見えです。
「ふうん。では、僕の銀箔位技官権限で面会拒否」
─── 残念ながら、カレン様配下の鑑別技官全員に対し、捕縛拘束せよとの指令が発せられています。
「……誰からの命令?」
─── 現王陛下の勅令です。
「ん。先輩が始めちゃったのか。どこが反応した。『優愛議会』の左巻きか。両方か。王宮が動くなら、……まさか。もっと上?」
─── ウルファ技官。せめて衣服を着けてください。
「棺から放り出されて途方に暮れる、いたいけな男子が裸で震えている。それを無理やり縛り上げて連行する保安隊の倫理観。監守人はどう動くか。……よし、それなら」
ウルファは床に倒れ込んで、溜まった粘液に塗れると膝を立てて座り直し、落ちていた大きな不織布を胸に抱きしめる。
外部へ続く扉の、気密が破れる音がする。
眩い光輝が暗闇を割って、朱色の髪を揺らして不安げに顔を上げる、哀れな姿の琥珀肌の「少女」を照らし出した。
☆
闇の暗さが異様に深い。火を焚き、明るさを保とうとするが、手を伸ばせば触れられそうな密度の暗黒が忍びこんでくる。
丁寧に均された地面に建つ、磨かれた石材を組んで混凝土で塗り固めた、大きな灰色の建物に火の手が上がる。
唯の炎ではない。光を吸い尽くす闇の火焔だ。
篝火から火種を掬って魔力を帯びた松明を振りかざし、麻布地の儀礼装束を着込んだ男達が、暗闇の火勢を押し留めようと奮闘する。
建物を舐めるように這い上がる暗い炎が、突如湧き出た輝く旋条輪に行手を遮られ、膨れて弾けた。
一刻ほど遡る。
二人の鑑別技官を乗せた輸送馬車は、威光街道から側道に入ってしばらく進み、高い塀に囲まれた灰色の館の門前に着いた。
南部都市国家の伝統的な特徴である、細長い鐘楼櫓が中央高くに伸びる、二階建ての瀟洒な建物だ。
三千五百年前に世界平和をもたらす先駆けとなった、砂漠大陸統一の立役者「健脚の勇者メロイダ」の教えを信仰する、ジルドビア教都の紋章が掲げられている。
夏至の夜に備える人々が忙しく駆け回る中から、門番の守り人が飛び出して来た。馬車から降りた守護隊衛士が相対し、門前の広間から人の行き交いがやむ。
乗りつけた輸送馬車に怪訝な表情を向ける人々の視線の先に、薄鈍色の技官服を着た燃えるような赤毛の少年が現れた。
館の門扉が動き、中から薄灰色に金の刺繍で飾られた儀礼装束の人物が進み出てくる。
「おおっ! なんと畏れ多くも麗しいお姿よ!」
突然そう叫んで身を投げ出し、地面にひれ伏す。
赤毛の鑑別技官シャドームは呆気に取られ、衛士と門番に御者は目を丸くし、周りを囲む人々も唖然とする。
薄灰に金糸の礼装の男は、ジルドビア教都の聖堂司教であり、この鑑別堂を含む建物全体の館長でもあった。
健脚の勇者メロイダは、輝きを増す朝焼けに似た、黄金に縁取られた見事な赤髪の若者として身姿が伝わっている。
シャドームを一目見るなり、教主メロイダ様が御降臨なされたと勘違いし、あまりの歓喜に震えたのだという。
決まりが悪かったのか、夜の準備の慌ただしさに紛れて聖堂司教が屋敷に退散する。何故に王宮鑑別院の技官が現れたのか仔細も問われず、場違いな輸送馬車の一行は滞在を許された。
「二度も世話になったのに、名乗りがまだだったな。オレはシャドーム。王都院附属研究房の鑑別技官だ」
馬車を振り返り、守護隊員の若者に向き直ると、シャドームがあらためて声を掛けた。
「こちらこそ申し遅れました。私は、守護隊付き馬車連隊衛士、タク・マハムと申します。別棟の方に医務院があるそうです。急ぎましょう」
衛士マハムは、シャドームが荷室に戻ると、馬車を最奥の宿舎へと回す。
縦長の大きな窓を持つ建物が並ぶ一角に出た。
周りを囲む篝火に照らされた石畳の上に、看護職の女性達が数名待ち構えていた。
マハムが馬車の扉を開けると、金糸の巻毛の少女を抱き上げたシャドームが飛び出てくる。
「担架があります。安静にしないと……」
駆け寄ってきた長身の女性が、少女の手首を見てぎょっとする。
「大丈夫だ。応急処置は済んでる。寝かせる広い寝台はないか」
「では、こちらへ」
「技官殿。私はこのまま、馬車の中で待機します。お荷物はどういたしましょう」
看護人に囲まれたシャドームが、衛士を振り返る。
「大鞄はそのままにしておいてくれ。監視はいらない。……誰も動かせないしな」
明かりの灯る、豪華な調度品に飾られた広い寝室に通される。
シャドームは、奥の壁際に据えられた飴艶の寝台に少女をそっと下ろした。
絹の紗幕を垂らした天蓋の奥から、医療機構の接続端子が伸びている。
臙脂色の技官服が、袖口の繊維を瞬くように光らせた。
シャドームは、乱れた金髪が被さる襟元の釦を手早く外し、胸元を大きく開く。
きちんと目を閉じて意識を失っている少女の呼吸が乱れた。
「『栄養新生液嚢』と『造血制御種子』は用意する。体液補充の輸液管はどこだ? 太めの留置針をくれ。直接ねじ込む」
ヒッと、微かに息を飲む音が聞こえた。
シャドームは、いつの間にか大きな厚い扉の外にいた。
「あとはお任せを。処置が済みましたらお呼びいたします」
神妙な顔の長身の看護人が、そう言って扉をゆっくりと閉める。
鬼の形相の体格の立派な女に腕を掴まれ、まだ学生のような小柄な少女に泣きそうな顔で服を引っ張られた。
戸惑っているうちに寝室から追い出されたのだった。
「うん? いや、どうして?」
訳が分からず、首を傾げる。編んだ赤毛が揺れた。
シャドームは、廊下に据えられた板組の長椅子に、倒れ込むように体を預ける。
薄暗く長い廊下の行き止まり。並ぶ窓の張られた硝子に、壁に掛かった灯火の、穏やかな光が揺れて映る。
─── 怪異検知。基準濃度八倍まで増強。「害意」が顕著。当拠点到着まで「620秒」。
シャドームは、ぴくりと体を震わせる。
意識が飛んでいた。一瞬のはずだが、確信はない。
「勘弁してくれ。朝から休まる暇がないぞ」
─── 魔力発動感知。威光街道上で魔術戦闘あり。
辛そうに閉じていた目を開く。
「魔勢の夜行か。規模が大きいな。対処しているのは守護隊?」
─── 韻唱痕は規格外。おそらくは市井の魔術使いと魔道戦士。地域の自警団の類い。貴族、半貴族、その扈門の反応は微弱。
「……。大鞄の爺さんはどうしてる」
─── 不明。極鞄ルイヴィスは念波干渉を拒絶している。
縦長の大きな窓の外で、暗闇が濃さを深くする。
焚かれる篝火と、動き回る松明の灯が数を増す。
赤髪の影になった青白い顔から、大きなため息が漏れた。
─── シャドーム。疲労が極度に溜まっている。少なくとも「5時間」は心身共に完全休息が必要。
シャドームは顔を上げて、大きな扉を見つめる。
「珍しいな。オレを心配してくれるのか。……オマエが機能しているってことは、コマネッタの回復は順調か」
脳裏に届き、直接聴覚を刺激する思念派が、躊躇うように一瞬途切れる。
─── 身体は復調にある。だが、コマネッタの意識は消滅の可能性が否定できない。
赤毛の奥で目が大きく見開かれる。
「どういうことだ?」
─── 魔装発動時に、解析不能の「時限念呪」を返されたとしか考えられない。
「相手は、ねずみだぞ。コマネッタは魔効の対象にできない」
─── 対象を取らず、条件反射で効果を発揮する局所魔術を使われたおそれがある。
「そんな妖精ねずみがいたら、それこそ……」
シャドームは言葉を飲み込んで、思わず立ち上がった。
─── 魔神の復活。少なくとも、あの妖精魔導士は存在するものと考慮せずにはいられない。
「師匠はまだ戻らないだろうし、夏至の夜に王宮鑑別院の設備は使えない。……なら、『呪滅の儀装』を」
─── シャドーム。あなたが命を賭す義理はない。コマネッタはそれを望まない。
「私情じゃないんだ。コマネッタが消えたら、均衡が崩れる」
薄鈍色の袖口を捲り上げ、左手に巻いた金属繊維の円い細束を手首まで引き下ろす。
右の人差し指の先で擦ると、細かな金属繊維の幾筋かが高周波振動と共に揺らいで、周囲を曖昧にする。
「夏至の日にアイツを起こしたら、祟り神より厄介だ……」
─── 警告する。現在のあなたに、その力は残っていない。量子間座組の確定は不可能。極小理力の『凝視焦点』を解けない。
足元がふらつく。伸ばした左手の形が奇妙に歪んで見える。
冷たい汗が、頬を伝って顎から落ちた。
「理屈で解けなくとも、感覚の信念は通るんだ。体感は結構、大事だぜ……」
指先が、寝室の扉に届く。
─── 警告する。あなたが消滅したら、『観測者』が途絶える。それは精霊存在への叛逆に等しい。
左の掌が、扉と同化する。真っ赤な髪が波打って、三つ編みが勝手に解かれてゆく。
「師匠と違って、オレは慎重なんだ。負ける賭けなんか打つつもりはない。ここはジルドビアの聖堂だろ」
─── 聖遺物? 正気の沙汰ではない。
「夏至の夜だ。鐘楼櫓に据えられている。世の平穏のためなら、勇者メロイダも許してくれるさ……」
細い髪の毛の束が巻かれ、「汎導体素子」の大規模集積転換路を像ち作る。
集中力が、シャドームの脳髄負荷を押し上げる。
額が割れ、血が吹き出した。
赤毛が灼熱し、通路全てが畳まれた転換路の積層幻影に埋まる。
─── 漠経韻唱… 「沸吸因果「六色臨護」」
シャドームの立つ、廊下そのものが見えない回路を構成し、韻唱の音色を受けて、重なる次元に解をもたらす。
拡がる「転値想像」の中で、目指す骸晶を選び出す。
─── シャドーム! 近づく脅威が拠点結界に到達した。
天井を支える梁の丸太が震えた。
廊下の壁に掛かる絵画や書状の額縁が、カタカタと音を立て始める。
並んだ長椅子が軋んだ。
周囲を満たしていた異空が掻き消え、病室の扉に手をついたまま、シャドームが長い髪の間から鋭い眼光を飛ばす。
廊下の先で明かりが蠢いた。足音が幾つも近づいてくる。
「何をしているっ」
手提げ灯火を持った従者が現れ、その背後から聖堂司教が声を荒げて姿を見せた。
「なんだ。あの怪しげな光は」
咎めるような口調でそう言い、そして絶句する。
その赤髪は自ら輝いていた。青白い面貌に額から流れる血が、勇者メロイダの聖痕に重なって見えた。
部族の諍いを大戦争にまで拡大させた「砂嵐神ジー・ビュ・ルゥ」。その野望を打ち破った勇者が受けた、たったひとつの傷痕。一筋の血潮は、動乱を力で鎮めた「罪」に対する贖い。
信仰に一途な壮年の男は目を見開いた。
「ああ。何ということだ……」
「司教様?」
灯火を掲げていた従者の一人が声をかける。
「……私が話す。皆は下がっておれ」
「しかし」
「心配はいらない。これは啓示だ。私が成さなくてはならない」
司教は目を見開いて、ゆっくりと歩き出す。
シャドームは神妙な面持ちで、近づいてくる司教を見つめた。
内心は焦っている。コマネッタの維持と、そのための『呪滅の儀装』の召喚。さらにそのための聖遺物との接触。外部からは強力な怪異が迫っているのだ。
猶予はない。たとえジルドビアの司教といえど、障害となるならば消し去らねばならない。
微かな衣擦れの音を残して、司教はシャドームのすぐ前に立ち尽くした。そして小さな震え声を発する。
「シリカセン王宮の鑑別技官よ。私の話を聞きなさい」
「……ちょっと近づきすぎじゃないか」
「声を出さずに、私の話を聞きなさい」
「……」
「其方の王宮鑑別院より、我が鑑別聖堂に伝信が届いた」
「……」
「貴国現王よりの勅令である。純白位鑑別技官カレン-パシオ-ルベドと、その配下全員を直ちに捕えて拘束せよとのことだ」
シャドームは微かに首を傾げてから、司教を睨む。
「其方は、シャドーム-コブレル。鋼青位鑑別技官に間違いないか」
思わずシャドームは声を出しかける。
「だ……」
「そうか。では嫌疑が晴れるまで、この館から離れることを禁ずる」
「……」
「今日は夏至だ。もう伝信は難しい。連絡は明日の朝となろう。あらためて明朝に、鑑別院に処遇を問い直す。それまでは客人として扱おう。おとなしく寛ぐように」
「現王の命には即座に従わぬと?」
シャドームは小声で囁いた。
司教は表情も変えずに答える。
「我らはジルドビア教理の敬虔な信徒である。協定により、この地での信仰と布教を許されている。貴国の支配者の命令とはいえ、その真意に納得がいくまでは、従うつもりはない」
シャドームは司教に顔を近づけて、低い声を出す。
「猶予は朝までだな」
司教の表情が強張った。
「何があったというのだ」
「そこの部屋に寝ている同僚が、妖精魔導士の呪を受けた。大鼠の魔物が暴れて、各地を襲っている」
「妖精魔導士? 念呪傀儡の妖精魔導士か。魔神が……」
「わからない。だが、この夏至の日に合わせて、この地の平穏を脅かす何かが起こっている」
司教の顔が引き攣った。
「鐘楼櫓にある『焼魔の眼光』を使う時だ。機工師はいるな」
「貴族はいない。だが、魔術師が扱える」
「なら、今すぐ怪異を撃ち払え。この聖堂の結界に、すでに取り付いているぞっ」
司教が仰け反った。そのまま尻餅をつく。
「司教様!」
廊下の奥で固唾を飲んで見守っていた従者達が駆け寄ってくる。
司教は床に尻餅をついたまま、首だけ捻じ曲げて叫ぶ。
「結界を守れっ。鐘楼櫓の術師へ、発光の許可を与える!」
ゴッゴゴゴゴッ!
建物が激しく揺れ出す。
縦長の窓から、不気味な薄明かりが差し込んできた。
人外鑑別衝技隊 2 へ つづく。




