「夏至の日」2 ─ 稀れ神の宝 2
☆
薄暗い天のどこからか、豊かな熱量を持った陽光が一筋揺れて頬に触れた。
目を開けるのが怖かったが、シンと静まった周囲の雰囲気は厳かで落ち着いている。先ほどまで苦痛に感じていた熱射は消え去り、程よい冷気が体を取り巻いている。
蓑虫の長衣に巻かれた黒髪で白面の子供は、なんとなくぼんやりしたまま張りでた大樹の根元に横たわっていた。穏やかな雰囲気に夢うつつの体で、脱げ落ちた虫皮の頭巾を手繰り寄せた。
と、動きが止まる。
微かな殺気を悟って、それからハッとする。
剣が……。右手に無い。すぐに周囲を探ったが何も感じない。思わず叫びそうになって思いとどまる。
殺気のもとが少しずつ近づいてくる。
「こりぁ吃驚だ。まだ子供じゃないか」
一気に己の身体状況を探る。左足に損傷。出血過多。すぐには動けない。
等慈救唱系─幻蛍種・黄鉄種の発動不能。試しに透視術を行使するが何も変わらない。
「動くなよ。無理矢理引きずり出したから、片足が千切れかかってる」
声はすれども姿はどこにも見つからない。
「あっ…」
唐突に痛みが襲ってきた。脚の感覚が戻って猛烈な激痛が意識に届いたのだ。
思わず目を瞑ってじっと耐える。
「待ってろ」
湿った黒土から覗く大樹の根の向こうから、磨いた鋼色の艶を持つ髪の少年が飛び出してきた。
瑞々しく引き締まった白い頬が少し引き攣り、薄い唇を噛む。
「……これは、酷いな」
「近寄るな。我れは」
「うん。東の彼方、海の向こうの神様だろう。強い精霊の加護を感じる」
「……我れは」
「三法唱系統、鉄雷種は扱えるな。傷を癒やし、解毒を施し、血液の増加、流量を制御するんだ。重宝種で補佐する」
「……」
肉を骨から毟り取られたような強烈な痛みが徐々に和らいでいく。
「オレはア・ロ・ワの神、バライカだ。この森の憑神ク・バ・ツ様に世話になっている」
「ア・ロ・ワ……西の大地?」
「そう。この地では落日大陸と呼ばれるところ。森の主人、雷の風、ア・ロ・ワ神だ」
痛みは嘘のように消え、むず痒い感覚だけが続く。
「うん、それでいい。肉と血の通りはうまく整っていってる。脂肪を戻したら皮膚の再生だ。えっと、東方の神だっけ……。名は?」
ア・ロ・ワ神バライカが近づいて頭巾を覗き込む。
「我れは……ミ・ズ・キ」
「精霊の御名はわかった。オマエの名を教えてくれよ」
「……」
「えー、じゃあ…蓑虫…蓑虫小僧って呼ぶぞ。あ、泣き虫小僧でもいいな」
「……カミク」
「ん?」
「我れの名は、カミク」
「泣き虫カミク?」
「泣いてないっ」
「そうか……」
バライカはゆっくりと身をひいて、大樹の苔むした根元に腰を下ろした。
その目元は和らいで、張っていた気を落ち着かせるように視線を落とす。
「ごめんよ。怪我させるつもりは無かったんだ。ただ、あの貴族の術力を見誤った」
バライカがあらためて震える黒髪の奥を見詰める。
「街道の地力をあそこまで引き出すとは思わなかった。下手すれば威光が消えちまうほどの霊術だ」
カミクを覆う蓑虫の衣が一瞬震えた。
「貴族……。取り戻さなきゃ」
「オマエの『極宝』か。だけど、あれのお陰で助かったんだぜ。力を飲み込む黒い穴があれに合わせて吸い込んだから、ク・バ・ツ様の霊力の流れが間に合って、オマエの体を引っ張り上げられた」
バライカはぞっとする光景を思い出して一瞬口を噤む。
「見た目は王宮仕官の制服だったけど、最後に使ったのは『外法力』だよな。何者だよ、あの女。……美人だけど」
「王宮の人?」
カミクが突然顔を上げた。跳ね上がった前髪の中から、花浅葱で彩る白群色の瞳が力強く向く。
バライカは心なしか怯んだように目を逸らす。
「捕縛術だったし、王宮の鑑別技官かもしれない。いや、それより……」
黒紅に赤墨の艶を持つ瞳が、カミクの眼力をあらためて受け止めた。
「なんで手負いの野良神みたいに、あんな所をうろうろしてたんだ。無防備にも程があるだろ」
「……」
「手負いの野良神なのか。嘘だろ? 三種以上の混合術を使いこなす奴が?」
「……我れは強いし、そんなに負けない」
「あ、うん。そうかもしれないけど、捕まりかけたじゃんか」
「王宮鑑別院の人なら、捕まっても良かったかも知れぬ」
「おいおい。鑑別槽に封印されて、体中観測されながら変なことずっとやられ続けるんだぞ」
「変なこと?」
「触られたり、撫でられたり、擦られたり、隅まで拡大してジロジロ見られたり、痛いほど磨かれてなんか塗られたり」
「なにそれ。気持ち悪い」
「最後には貴族の慰み者さ。宮殿の奥の間に裸のまま恥ずかしい格好で飾られて……」
「なんでそんなに詳しい?」
「いや、古今の神々がそう言ってた気がする」
「我れも、捕まらなくて良かった気がしてきた」
ア・ロ・ワ神バライカがやおら立ち上がる。
「もう動けるだろう。立ってみろよ」
手を広げた右腕を伸ばす。
ミ・ズ・キ神カミクは、その白くて強靭そうな腕を見詰め、それから二の腕、肩、胸から腹、腰周りと視線を這わす。
「……なんだよ」
バライカが伸ばしていた手を引っ込める。
微かに羞恥を感じて、バライカはぶっきらぼうに言う。
「何かおかしいかよ。オレの格好」
「ア・ロ・ワ神バライカ。其方は、強いか?」
「お、おう。森の守護神は伊達じゃないぜ。ク・バ・ツ様の食客としちゃあ、一番じゃないかな」
「ク・バ・ツ神の配下ではないのか」
「恩義があるのでこの森の守護を手伝っている。オレの主神は『英神』様だ」
大地の創成主「英神クゥー・オーツ・エラ」。この大陸そのものの神格の一柱である。
「ならばク・バ・ツ神に暇を告げ、我れに力を貸すがいい。我が精霊の至宝を取り戻す」
「なんだって?」
「其方らのせいで、至宝が貴族に奪われた。我れに力を貸すは必定」
「あのなあ。なんでオレが、オマエの極宝奪回作戦の手助けしなけりゃならないんだよ。命が助かっただけ有難いと思うだろ、普通」
「其方は己れの宝を奪われて、仕方ないと諦める愚か者か」
バライカは腕組みしながら困惑した表情で、蓑虫衣にくるまった子供を見つめる。
「ミ・ズ・キ神カミク。オレは、この森の側でなされる無体な行為を正すという、ク・バ・ツ様の善行の手伝いをさせてもらっている。『英神』様のご推薦をいただいた上でな」
「御大層な事だ」
バライカは我慢ができた。目の前の幼神は『覚霊』しているとはいえ、まだ子供だ。
「オレはこの仕事を全うする事を上位の神々に期待されているんだ。それを台無しにしろと言うのか」
「我れも其方に期待している。我れの期待を無下にするのか」
バライカはまだ我慢ができた。が、ここは頑迷な蓑虫小僧に言ってやらねばならない。
「カミク。オマエは街道で命をいくつ奪った?」
我儘を押し通そうとする蓑虫小僧の勢いが削がれた。
「あの貴族に捕まる前にオマエを攫ったのは『お仕置き』するためだ。いくら神といえども、この地の平穏を乱すものには『お仕置き』が必要だ」
カミクは何か言い返そうとして、それから一度唇を噛みしめる。
「……我が行く手を遮るから」
「だからといって、無闇に命を奪って良いのか」
「だって、殺されてしまう」
「ミ・ズ・キ神カミク。精霊の加護と偉効は途方もない。ひとつ誤れば『禍つ神』となり兼ねない。オマエは強いんだろ。一度退けば……」
「退いたら、きっと後悔する……。もう、したくない……」
カミクの声はどんどん小さくなって、震えて吐息となる。
バライカは深い艶のある銀糸のように滑らかな前髪をかき上げ、ため息をついた。
「ク・バ・ツ様。オレはお手上げだ。人を諭すのはオレの柄じゃない」
<<< 辛抱強く物事にあたれば、前途は開かれるものです。諦めが早すぎではありませんか。
何者かの意識が周囲に満ちて、心に直接響く言葉の形をとった。
木々がざわめき、光の粒が舞い散っては消えていく。
「退路がなければ、オレも似たことをやらかしそうで……」
<<< それ以上は、口にせずにおきなさい。英神様に残念なご報告をしたくはありません。
しゅんとして肩を窄めるバライカは、目の前でポカンとしているカミクを睨む。
「もう知らん。おとなしくク・バ・ツ様に『お仕置き』されろ」
「……森の、精霊さま?」
「トクリカの森の『憑神』様だ。今はオマエの後ろにお越しになってる」
カミクはゆっくりと上を見る。背後に聳え立つ巨樹の枝木が淡い光の波を振り撒いているのがわかった。
「観念しろよ、蓑虫小僧。ク・バ・ツ様の『お仕置き』は、そりゃもう…」
<<< お黙りなさい、バライカ。
すぐに押し黙ったバライカが激しく後悔していると、カミクは大きな目を何度も瞬きながら囁く。
「……我れの精霊に波動が似てる。ク・バ・ツ…様は…」
<<< ミ・ズ・キ神カミク。あなたはまだ幼く脆い。
「……教えて、ク・バ・ツ様。我れの精霊は……精霊は……なぜ」
<<< あなたの精霊は、とても激しく青白く熱い、燃え盛る『凍える焔』。
「精霊…は…せい…なん…ん…で」
カミクの頬をいく筋もの涙が伝う。弱々しく漏れ出る言葉は嗚咽に近く、もう意味をなさない。
同時にその体に濃い紫の霞が纏わりつき、辺りを漂う光子を弾きとばす。
<<< バライカッ!
巨樹の根元に音もなく暗い虚が現れた。
バライカは躊躇いなくカミクを抱き上げ、その中に飛び込む。
カミクに纏わりつく黒い霞が渦を巻き、二人を囲う硬い木肌に滲みを残す。
─── 白衣甲…「塗断「鉛圧」」
バライカの瞳が白輝を散らし、黒霞を瞬く間に吹き飛ばす。
「カミク。落ち着け!」
暗い虚の中で、蛍光する薄絹状の幕が、二人の体を覆っていく。それは木肌にも張り付いて、黒霞と触れるそばから硬化し剥がれ落ちる。
拡がる黒い霞が突然凝縮して粒になり、雨のように地面に降り注いだ。
二人を包み込む半透明の軟膜が、面を造り角形となって稜線が輝く氷結晶の塊のように変化する。
まだ残る霞がその表面に張り付き、ゆっくりと侵し始める。
「ク・バ・ツ様 !」
<<< そのまま耐えなさい。鎮めます。
舞い巡る黒い霞は勢いを落として、巨樹の根に空く大きな虚の中で徐々に散っていく。
黒ずんだ樹皮がザラザラと音を立てて崩れた。
暫くして物音が収まる。
静かな森の中で巨樹の根元は、獣の争った後のように地面は荒れ、変色し剥がれ落ちた樹皮の欠片が散乱している。
窪んだ虚からカミクを両腕に抱えたバライカが姿を見せた。頭を揺すって被った木屑や泥埃を落とす。
巨樹の表皮は所々大きく傷んでたが、根の陰から湿気に満ちた苔がゆっくりと広がって、その痛々しい傷を覆ってゆく。森の木々や地表から、巨樹を癒すべく齎される霊力が途切れることなく集まっているのだ。
バライカも汚れて傷だらけだったが、周囲に満ちた命の力場の余波を受けてたちまち回復してゆくのが感じられた。
視線を下げると、己れが抱きかかえている小柄な体にもその恩恵が届いているのがわかる。気を失ってはいるが、苦悶の震えは既にない。頭巾の中には、褥で微睡む幼な子のような無防備な愛らしい横顔が見えた。
バライカは一度目を瞑り、それから決心したように巨樹を見上げた。
「ク・バ・ツ様。コイツは…危険だ。この森に置くわけにはいかない」
<<< わかっています。少しお待ちなさい。
「……最下層の晶洞域に封じる…べき」
<<< 『極宝』は、力の極限を引き出すと共に、その制御も担います。それを失えば安定を欠き、場合によっては『荒ぶる神』、『禍つ神』に転じるでしょう。
「ならば今すぐに…オレが運びます」
<<< たった今、英神様から快く許諾をいただきました。
「……じゃあ」
<<< ア・ロ・ワ神バライカ。あなたにとっての新しい使命を授けます。ミ・ズ・キ神カミクの回復を待ち、その後、奪われたカミクの極宝を取り戻しなさい。
「はい……え?」
<<< ただし、この森の鎮守神としては『古の貴族』と諍いを起こすわけにはいきません。くれぐれも慎重に、事を荒立てず任務を遂行するように。
「ええっ…いえ、ですが…英神様は?」
<<< 英神様は、あなたの活躍にとても期待なさっておいでです。
瞬く間に、周囲を漂っていた淡い光の粒が帯状に纏まり、螺旋を描いて天に昇り明るい空へと紛れてゆく。
いつもの静寂と暗がりが戻り、子供を抱えた少年は、ただ呆然としたまま立ち尽くすほかなかった。
次回 ─鑑別技官─ へ続きます。