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天地生まれの英霊譚  作者: 庵下 流
『夏至の日』
1/24

「夏至の日」1 ─ 稀れ神の宝 1 



  ─稀れ神の宝─




 陽光が照りつける、幅広い石の道。

 真っ直ぐに続くその白い道は、彼方の黒い森に続いている。

 周りは広大な湿地が広がり、遮るものはない。立ち上る熱気は渦を巻き天へと噴き上がる。

 道は権力によって設えられた「街道」であり、よく手入れされてなだらかな石畳を保っている。


 その真ん中をふらふらと動く影がある。

 乾涸びた「蓑虫」の革で作った長衣を纏い、まるで動く「藁だまり」のようだ。

 容赦のない日差しから身を守るためであろうか、すっぽり被った虫皮の頭巾に隠され顔は見えない。時折漏れる吐息は微かで、ただじっと暑さに耐えてゆっくりと道を動いていく。


 行き先は陽に熱せられ、目に届く彼方は奇妙に揺れて時折輝く。

 と、蓑虫の歩みが止まった。


「……急ぐようだが、答えよ」

 虫革の頭巾から声が漏れた。途端に背後に風が舞い上がる。

「この道は、『王都の威光』か?」


 いつの間にか、蓑虫の傍に人影が現れていた。

 赤錆色の髪に褐色の肌を持つ若者だ。玉虫の甲羅を束ねて強化した革鎧を身につけ、手には細身の「鉄火剣」を持ち、憮然とした表情で蓑虫を見る。

 剣先には火種が満ち、今にも蓑を焼き払わんと身構えていた。


 蓑虫から再び声がする。

「王都シリクナスへ続く道か」

「確かに王都へ続いてはいるが、この街道は『威光六号線』だ。森を抜け街を二つ経て、その先でようやく『二号線』と交わる」

「そうか」

 蓑虫が動き出す。錆色の若者はひとつ瞬きをしてから呟いた。

「……なぜ、こんなところに」

 

 蓑虫はよろよろと進んでいく。

「その先に行くなら気をつけろ。血相変えた連中に出くわすぜ」

 言葉の語尾が掠れて陽炎に溶け込んでいく。

 男の気配が消えた。

 虫皮の頭巾の奥で小声が漏れる。

「追われているのか」

 蓑虫は頭巾を左右に振って、少し経ってから道の左端に寄って、再び歩き出す。


 暑さは続く。蓑虫は懐から小さな艶のある透った玉を取り出した。

 それを頭巾に隠れた額に当てる。するとまるで水面の揺らぎのような光が点って、ゆっくりと消えていく。

 頭巾が少し震えた。


 今度は行手から力強い蹄の音が届いた。それも複数だ。

 蓑虫は慌てたようにふらふらと動いて、道端の敷石から外れて転がった。そこは沼地のようになっていて、見事に泥濘に片足を突っ込んで止まる。


 あっという間に六つの騎馬が迫ってくる。

 真っ白な「英馬」を先頭に、青光る「豪馬」が五頭。英馬を駆るのは細身の狩鎧を着けた小柄な騎士。続く巨大な豪馬には、艶消しの鉄鎧で五体を覆った逞しい戦士が乗っている。

 空を裂いて突進してくる巨体の群れは、瞬く間に過ぎ去っていった。

 関わり合いたくない蓑虫は、ただじっとして動かなかった。いや、動けなかった。先を急ぐ騎士達が、街道の外に吹き溜まった藁山になぞ目もくれなかったのは当然であろう。


 熱い空気の乱れが治まった頃合いで、蓑虫は沼地から這い出て街道端に腰を下ろした。

 泥で汚れた頭巾がずれて顔が覗いた。

 額にかかる柔らかな黒髪の束が、熱気をうけてふわりと揺れる。

 

「ほお……」

 頭上で声がした。蓑虫は咄嗟に頭巾を被り直して、身を縮める。

 英馬から、兜の面頬を上げた狩鎧の騎士が見下ろしている。

 斑肌の英馬が三頭、音も立てずそこにいた。


「カデナ湿地の守り主かね。……噂にも聞いたことはないが」

 豊かな黒鬚を蓄えた騎士が英馬から降りて、蓑虫の近くまでゆっくりと近づく。

「どこぞの『神』か、御名を伺いたいが……」

 蓑虫は固まって微動だにしない。

「わしはアカサス領守護隊のバリューと申す」

 蓑虫が、ちょっと動いた。それから、神妙な声音で言う。

「……我れは、東方、烈山、光輝のミ・ズ・キ神」

「東の神か。なぜこの地へお越しに?」

 どう見ても萎縮している蓑虫が、さらに小さく固まった。

「おお、これは失礼した。お許し願いたい。どうぞ我が地に御身の知り給う『精霊』の加護を導き給え」

 見下ろす騎士の威容に怯えたのか、蓑虫は横を向いて逃げ出すように街道を歩き出す。


 暫くその姿を睨むように見据えていた鬚騎士は、ひとつため息してから馬上に戻る。

「ううむ。これは予兆か」

「副長、あのままでよろしいので?」

 近づいてきた騎士のひとりが、小さくなっていく蓑虫の方を見遣ってきく。

「守護隊に報は打った。森を抜けようとするのであれば、『神狩り』を差し向ける」

 左手の指にいくつも嵌めた銀色の指輪のひとつをさすりながら応える。

「姿は幼な子だが、『鑑別輪』の反応が強い。我らの手に余るやも知れん」

 鬚騎士は微かに眉を顰め、英馬の手綱を握りしめる。

「まずは賊の確保だ。あの跳ねっ返りがしくじるとは思えんが、どうも嫌な予感が拭えぬ。後を追うぞ」

「はっ」

 三騎の英馬が石畳を駆け出す。風と熱気とが混じり合い、沼の枯れ草を揺らした。




          ☆




 蓑虫の長衣から湯気が立ち昇る。とにかく暑い。

 陽はいよいよ盛りを迎え、石畳は容赦無く熱気を放って倦むところがない。彼方の森の影は随分近づいてはいたが、蓑虫に似た姿は歩く速度を著しく落としていた。

 頭巾の中で冷たい光が瞬いて、すぐに消える。


 「夏至の日照り」は、ほぼ真上から降り注ぎ、地表の動きを風のみに許すかのようだ。

 広い街道に、今は神を名乗る蓑虫しかいない。

 輝く白い道に茶色く動く小さな染みのように、それでも少しずつ先へと進んでいった。


 辺りが湿地から湿原に変わる。さらにその先ではしっかりした地面が現れ、なだらかに登る丘に覆いかぶさるように数多の巨木がそそり立っていた。

 道はその奥へと伸びているが、湿原と森との境には、大きな積み石で築かれた櫓が道の両側に建つ「関所」が構えられていた。


 蓑虫の動きが止まる。肩が何度か上下して、頭巾がかすかに持ち上がる。

 関所から現れた鉄枠の革鎧を着けた姿がいくつか、行手を遮っている。

 中でも長身で二股の長鉾を持った男が、ゆっくりと歩み出てくる。

 蓑虫の子供とまだ十分な距離を置いて立ち止まると、声を張り上げた。


「トクリカ森林街道守りのテンペスと申す。…夏至の日中、この関所は特別な許可がない限り、通すわけにはいかぬ」

「我れは……我れは、東方、烈山、光輝のミ・ズ・キ神」

 虫皮の頭巾から、かろうじて聞き取れるほどの声がした。

「東方の神よ。畏れ多いが、ここは通せぬ」

 守り人テンペスは、一瞬驚いたかのように目を見開き、おもむろに長い鉾の柄を振って、街道から外れた森の際を指した。

「森沿いを北に行けばレビゼダン山の麓に、南に行けばオーギュビー湖畔に至る」

「……」

「東方の神よ。この地は『英神クゥー・オーツ・エラ』の眷属の森だ。守護する領地の長が許さねば、たとえ神々とて抜けることは叶わぬ」

 守り人の柄を握る手に力がこもる。背後に控える男達に張り詰めた気が満ちた。


「……」

 蓑虫の長衣の中から細い腕が伸びた。その手には、歪な形の奇妙なものが握られている。

 受ける光が粘ついて纏わりつくような奇怪な輝きを放つ、ごく小さな短剣だ。輝く刀身に染み込んだ光の粒が、切っ先から滴り落ちんばかりに渦巻き、背後の熱気がその剣に引き込まれて轟と鳴り、風を起こす。


 守り人もその手勢も、息を呑んで一歩退いた。

「鎮まり給えっ。ここは『ク・バ・ツ神』の住まう森ぞっ」

 思わず守り人は二股の鉾先を突き出された剣に向ける。と同時に、鉾の鋭く尖った鋒を覆うように黒い霞が現れた。あっという間もなく鋭利な鉾先が、砂の塊が崩れるかのように形を失った。


 ─── 極剣っ!


 破裂音と共に霹靂が落ちて、虫皮の頭巾が弾け飛んだ。

 石床が震えて、土煙が舞い上がる。

 森の奥から電光を散らし、光の筋が伸びてきて蓑虫を縛りあげた。

 同時に空から黒い礫が降り注ぎ、蓑虫に突き刺さる。


「「「対抗呪…対抗呪「雷神の帷と刃…「風蟲の糸巻き廻れっ…三重七重っ」」」


 赤い光輝の帯が石畳に幾重も突き立てられ、蓑虫を取り巻いて結界を張った。

 鐘を打ち壊すかの如く轟音が鳴り響き、視界を遮る蒸気が舞い踊る。


 突然の怪異に膝をついて頭を抱えた守り人達がようやく顔を上げると、散りゆく蒸気と煙の合間に、天に伸びる赤い電光の帯束に捉えられた、薄汚れた蓑虫の姿が辛うじて目に映った。


 ─── 捕らえたが、これは……。

 ─── 対抗呪文が…端から散りよる…保たぬぞっ!

 ─── 底なしの渇きに…呪が、魔力が…吸われて……。


「「「対抗呪…転対抗呪「廻れっ廻れっ…七重九重っ「選対抗呪…倒対抗呪」」」


 激しくのたうつ血色の結界のところどころに、徐々に黒く歪んでいく隙が見えはじめた。

 そこから何かが這い出そうとし、電光に磨り潰されて消えていく。


 ─── 兄者、まだかぁっ!

 ─── カシラァ…早うっ!

 ─── むぐぐぐぐっ!


「野良神が……」


 白昼出現した眩い怪異に呆然とする守護隊の背後から、大きな人影が飛び出してくる。

「今、狩ってやるぞっ」

 褐色の胴着を纏った拳闘士然とした男が、似合わぬ大ぶりの得物を両手で持って結界に駆け寄る。

 その武器は、男の身の丈ほどもある巨樹の枝木のような長い棍棒であった。ただ、錆の浮いた赤鉄のごとく重々しく、とても振り回せる者がいるとは思えない。

 しかし、男は結界の側まで近づくと裂帛の気合いとともに棍棒を振り上げた。


 天を突いた棍棒の先が丸まり、ひび割れた。間髪入れず男は両手を振り下ろす。

 勢いをなくして赤黒く光る結界に、棍棒が叩き込まれた。


 苦悶の絶叫が響き渡った。

 赤い結界は微塵も残さず消え失せ、熱気を纏って先端が鈍く光りだした棍棒が、狙っていたものを叩き潰していた。

 蓑虫の薄汚れた長衣は、鉄の棍棒に巻かれるように張りついて焼け焦げている。

 事を成した男は、満足げな表情でそれを見詰めていた。


 突如、棍棒の根元が音をたてて石畳にめり込んだ。

 それを握っていたはずの男の手が腕ごと砕けて粉々になる。

 立ち尽くしていた男の体は纏った胴着ごと色を失って、湿って溶け出した岩塩の細工物のようにゆっくりと崩れ落ちていく。



          ☆



 森の影が濃さを増す。

 街道に敷かれた石畳は、さらに眩く霞んで見える。

 その上に、頭巾も長衣も剥がされた子供が立っている。

 うずまく熱風に晒されて、癖のある黒髪が額を撫でるたび、ムッとしたように結んだくちびるを尖らせている。まだ柔らかさの残る細い右手には、魔獣の角に似た短剣が握られていた。


 散り散りになった守護隊に動きはない。控えていた『神狩り』は手練れであった。それを打ち破る存在に、もはや成す術はない。与えられた仕事を全うしようにも、文字通り何もできなかった。

 麻布になめした獣革を縫いつけた貫頭衣をかぶり、飴色の腰紐でそれを雑多に押さえた小さな子供は、目の前に横たわる大仰な棍棒に近づいた。その先に潰され惨めに縮んだ蓑虫の長衣に手を伸ばす。


 守り人テンペスは、ようやく腰を浮かしてこの場から退こうと踵を返した。

 途端に足は止まり、石畳に流れる煙の中に立つ姿に目を見開き動揺する。


「この関所の守り人ですね」

 守り人テンペスは、狼狽えた。思わず逃げ出そうとする姿をあろうことか王宮の「貴族」に見られていたのだ。テンペスは観念して、がっくりと項垂れる。


「森で果てた三人と、あそこで崩れた一人は『神狩り』ですか」

「我が守護隊の雇った、この関所の切り札でございます……」

「守護隊の要は今どちらに?」

「城で曲者が騒ぎを起こし、領主守護のため警護についております……」

 テンペスは片膝立ち、頭を垂れて、ただ問いに応える。

 視界の隅には、よく磨かれた白い革靴と、脚にぴったりとあった美しい光沢を持つ白練色の制服があった。

 

「『送信輪』はお持ちですね」

「ここに……」

 テンペスは震える左手を持ち上げ、指にはめた銅褐色の指輪を見せた。

「では、守護隊本部に通信を行なってください。関所に出現した『稀れ神』は、王宮鑑別院が拘束し捕獲するので手出し無用と」

「王宮鑑別院……」

 王宮血統府の内院。あまりにも雲の上の存在で、テンペスは意識を失いかけた。

 これはもしや、あの「野良神」に化かされているのではと疑心が湧く。

「ご心配なく。後ほど鑑別院より領主宛にその旨発令します。認印が必要ですか」

「いえ、恐れ入ります。直ちに隊本部に連絡いたします」

 逆らえなどしないのだ。主命を果たすには、この「貴族」の力に縋るほかない。

「ではすぐに、街道から離れてください。貴方以外も『命あるもの』は全てです」

 守り人はすぐに気付いた。足元の真っ白な石板に、見たこともない虹色の筋が脈打っている。


 重い棍棒の下から引きずり出した蓑虫の長衣は、ところどころ煤けて不恰好になって縮れていた。子供は神妙な顔であちこちを検分し、ほつれや破れがないことがわかると、ふうと息をして少し泣きそうになる。それから棍棒を睨みつけた。

「我が精霊の恩寵を……許せん」

 手にした異形の短剣を石畳にめり込んだ棍棒に向ける。

 めり込む? いや、石の中に沈み込んでいるのだ。


「南方樹海の、岩を裂く巨樹種を材にした武器のひとつです。霊力が宿っていますね。元は『神』の持ち物でしょう」

 落ち着いた白生地の衣服を纏った銀髪の女が、いつの間にか街道の真ん中に立っている。

 立ち上る熱気の中にあっても、汗ひとつ浮かべぬ白い顔は涼し気だ。

「その長衣は蟲の巣殻ですか。いや、『枝蝉』の鎧皮…それとも『蓑虫』……」


 子供は素早く長衣を羽織る。突き出した右手が剣先を女に向ける。

「……とても興味深い」

 もはや水面に浮かぶ丸太のように道に嵌り込んだ棍棒の五本分の距離を置いて、長身の女性とその胸元くらいの背丈の子供が対峙する。


 タン !


 女の足元から高い音が響いた。

 同時に石畳がブンと震える。

 女は紅い唇で微かな笑みを浮かべると、両手を突き出し印を結ぶ。


 ─── 貴属韻唱…「翠憐」

 街道石畳の表層を燐光が走る。縦横に跳ぶ稲妻だ。

 子供の黒髪が逆立ち、青と紫に発光する。


 ─── 命練…「霧散」


 女の笑みが消える。右手を下げて印形を変える。

 街道に規則正しく張られた石板が軋む。走り回る光輝が子供の周りへ一気に集合する。が、越えられない。弾かれる。

 女の左手小指に嵌めた「伏呪輪」が音を立てて焼き切れる。右手中指の「陰道輪」で補いながら、左の踵で石畳をきつく打つ。


 タタン !


 裾に隠れた足首にはまる三重の「増福環」が能力制御を持ち直す。

 女の瞳が灰色に濁り、すぐに輝きを取り戻す。


 ─── 命練…「苦海」

 子供の思念が追い討ちを掛けてきた。女の滑らかな頬に汗が滲んだ。体の五感全てに黒い渦が覆い被さってくる。長い銀髪のところどころに結んだ飾り連珠が思考の乱れを防いではくれるが、今ひとつ加護が足りない。これほどの「霊象魅了」にこんなところで出会う機会があろうとは思わなかった。

 女の瞳に闇と炎の混じりあった幻光が浮かび上がる。


「……待て」

 震える声を発して、子供が一歩退いた。

 途端に女の感覚が解放される。すかさず右腕を引いて脇腹に当て、手首に巻いた「庇護勁環」を行使する。瞬間、女の姿が油膜に包まれたように朧げに光った。


 子供は、街道の端に向かってよろよろ駆けて行く。石畳のへりに着くとしゃがみ込んで、何か襤褸布の塊を掴んで広げていた。

 訝しげな表情で子供から視線を外さず、女は懐から大ぶりの指輪を取り出し、左手にはめる。

 広げた布をパタパタと振っている子供から目を離さず、大きく息をしてからゆっくりと首を傾げた。


「どうやらとても厄介な『稀れ神』に出くわしたようですね」

 鑑別を生来の仕事とする彼女にとっては、難しい案件に関わることは喜びでもあったのだが、今回は楽しんでばかりもいられない事情があった。

「鑑別技官として真っ当な捕縛が困難なのであれば……」

 左手に装着した指輪には丸い宝珠が乗っている。爛れた夕陽色に染まった気味の悪い石をそっと撫でると、まるで生き物の眼のように瞳孔に似た丸い染みがこちらを向く。

「……神魔調教士としてお相手せざるを得ないですわ」

 足元に敷かれた石板をしっかりと踏み締める。

「ご威光に瑕がつかなければ良いのですけれど」


 ─── 縛術韻唱…「貪実「滅象「転価」」…奈落」


 女の左手が、三本のうねる青黒い鞭縄に変化した。

 襤褸頭巾を被り直した子供が振り向く。

 その頭と、胸と、右手に、恐ろしい速さで女から伸びた縄が絡みつく。

 しかし、首に巻きつき締め上げようとする黒縄の影が、虚しく弾けて空に溶けた。

 刹那、虫皮の頭巾の奥で、驚愕する子供の眼が見開かれる。


 白く輝く街道の石畳の上に、漆黒の闇が口を開けていた。

 手と胸の束縛が解けたと同時に、蓑虫の子供はそこへ落ち込む。

 何をする間も無く、子供の姿は闇に飲まれた。

 

 左手の形を取り戻した銀髪の鑑別技官は、険しい顔つきをしながら、周囲を窺った。

 道に開いた黒い穴は、そこに存在することが堪えられずに掻き消えている。

 特殊な「稀れ神」の捕獲には成功したはずだった。

 棘鞭で捕捉し、「空智の虫籠」に落とした。この罠から逃れる術はない。


 ─── 探知警報。対象「鑑別技官カレン-パシオ-ルベド」に告ぐ。局所維持規定上限を超える『威光』消費を検知。即刻帰院し始末報告のこと……。


 街道の石畳の表面が艶を失って浅黒く沈んだ変色を起こしていたが、一瞥した限りでは疵はついていない。『王都の威光』がごっそり消耗しているが、概ねひと月も過ぎれば元に戻る程度に違いない。

 様々な上層部からの嫌味が続くのも、その間我慢すれば事足りる。


 森の入り口で、安堵と敬意が入り混じった歓声が起こった。守り人と数人が駆け寄ってくる。

 その気配を感じながら、銀の髪の美しい鑑別技官は微笑みを取り戻し、背後の森を振り向いた。


稀れ神の宝2 へ つづく。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 重厚で良質なファンタジー作品だと思います。 特に冒頭部分がよいです。文章を読んでいるのですが、場面が「画」で浮かびました。すごい。 言葉の選びも表現もうまいです。(上から目線ですみません)…
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