偏在するパノプティコン
拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。
※このエッセイは、2023年秋・ひだまりのねこ様主催『集まれエッセイ企画』にこっそり参加しております。
ひだまりのねこ様、素敵な企画をありがとうございます。
映画『沈黙の艦隊』を見て思ったことを、つらつらと書いてみようと思います。
まずは、『沈黙の艦隊』について。知らない方もいると思うので、あらすじを簡単にご説明。
日米が、世界でも類をみない高性能な原子力潜水艦「シーバット」を、極秘裏に造り上げる。搭乗員は日本の海上自衛隊員。極秘任務ということで、潜水艦での事故を偽装。搭乗員は全員死者として存在を隠され、米海軍所属の身となった。
艦長として任命された、海自一の操艦と慎重さを誇る海江田四郎もまた。
しかし、海江田たちは突如、試験航海中に米軍の指揮下を離れ、深海へと潜行し、世界を翻弄する……。
筆者は映画の原作、漫画の方はかなりつまみ食いというか、中途半端な読み方をしています。
なので、解釈にずれがあるかもしれませんが、ソ連崩壊前に連載が始まったことを考えると、映画と原作では大きな違いがあるように思います。
原作漫画は、ソ連崩壊前の世界が描かれているため、現在の世界状況とは合わない内容も多い。
それに対し、映画は、現在の世界のあちこちで発生している紛争や侵攻の背後にあるものを意識している作り。
アメリカの核の傘の中にいて、武力財力を要求される日本と、それに対比する形で存在する「シーバット」が世界の大国を翻弄する、という基本設定は、あまり変わっていないように思います。
ただ、映画で描かれたのはほんとにイントロ部分に近いので、たぶん、続編が出るんじゃないかなあ、と推測していたり。
もう一つ、思ったことがあります。
核弾頭を持っていると、核戦力の行使を匂わせる原子力潜水艦「シーバット」て、パノプティコンだこれと(タイトル回収)。
今では、ボカロ曲のタイトルにもなってるみたいですね、パノプティコンて。
ですが、そのもともとの意味は、建物の一種です。
簡単に説明すると、居住棟と監視塔という二要素から構成された、囚人などを最小限の労力で監視するための建物のことです。
中庭のある円形の建物は、監視される囚人などが各部屋に入れられている、いわば独房棟。
その中庭には塔が建っていて、監視はそこから行われる。
囚人たちからは監視者を見ることはできないが、監視者から囚人たちはよく見えるという構造。
……じつはこれ、もともとイギリス功利主義の哲学者、ジェレミー・ベンサムが考案したものなんだとか。
語義に間違いがないか改めて調べ直さなきゃ、知りませんでしたよ。筆者は。
社会の幸福を最大限に高めるため、犯罪者など監視の必要な人々をつねに最小限の労力で監視していられる建物を作ればよいと考えたとか言われても。
功利主義は効率主義でもあったんですかね……。
ともあれ。
この構造ゆえに、パノプティコンは単なる建物という物理的概念を越えました。
囚人たちは監視者を見ることはできない。が、監視されていることは知っているわけです。
それが何をもたらすかというと、監視塔に人がいようがいまいが、監視者が監視していようがいまいが、囚人たちは二十四時間絶え間なく監視され続けていると想定せざるをえず、監視を前提とした行動や態度を取らざるをえない、ということだったりします。
フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、1975年、ヨーロッパにおける刑罰の歴史を論じた『監獄の誕生』の中で、パノプティコンの囚人たちは、常に監視されていることを強く意識するため、規律化され、監視されていることを織り込み済みの従順な人間になっていくと指摘したそうです。
ここで一つ注意すべきは、囚人たちが規律化され、従順な人間になるには、建物としてのパノプティコン、物理的な収容監視施設という要素だけでは足りないものがあるということです。
概念としてのパノプティコン、一方的に二十四時間監視され続けている、あるいは収容されている人間が、監視されていると想定し続けなければいけない、という状況だけでも足りない。
従うことが求められている規律、そして規律に従うべきとする強制力が存在しなければ、ただの集団のぞき部屋、というか、のぞかれ部屋でしかないんですよ。
単に見られているだけなら、まあ、気持ち悪いでしょうが、気持ち悪いだけとも言える。
規律に従わなければ、何らかの不利益をこうむる。そう、囚人が理解するだけの、規律を強制する力がなければ、ミシェル・フーコーが指摘するような監視による行動や意識の変容は起きないわけです。
与えられた決まりを守るべき理由など、もともと個人の中にあるものではありません。「他者から強制されたルールに外れたことをすると、怒られるなどの不利益をこうむる」から、守る。
このようにして身につけた道徳観を、他律的道徳観といいます。
最初期の子どもの道徳観念って、こういうものですよね。
親は、「そんなことをしてはいけません」と言うのがデフォルトで、子どもはそれを言った人間が大人や親といった、自分以上の権威を持つ存在が言うこと、決めることだから正しいと判断する。正しいことに逆らうのは、間違っていること。従うのが正しいから従うわけです。
もう一つ、他者から与えられたルールに従うのには、罰の回避という意味もあります。
野菜嫌いな子に「ピーマンも食べなきゃいけませんよ」と大人が言い、子どもがしぶしぶピーマンを口に運ぶのは、「大人が言うから」に加え、「そうしなければ怒られると判断した」から。「自分の健康のためには、いやだけど偏食をなくさなくてはいけない」なんてことは思っちゃいないわけです。
他律があれば、自律もあります。
9才ぐらいから獲得するといわれる自律的道徳観は、「自分でルールが正しいかどうかを考える」ものですが、その正誤の判断基準には「他人の視点」も含まれるようになります。
列に横入りしてはいけないというルールを守るのは、「待っている人たちが費やした時間の価値を無視している」「ルールを守るという正しい行為を踏み躙り、相手を不愉快にする行為」であるという認識がまずされます。
次に、「ルールを守らなければ、ルールによって守られている自分の権利も同様に守られなくなる=不利益をこうむることになる」という判断により、「ルールに外れたことをするのはよくない」から「やってはいけない」と理解する、という具合に。
ですがこれは絶対のものではなく、「行列はトイレのもので、緊急事態なので謝罪しつつ順番を飛ばす」という状況だったなら、「時にはルールを破ることもしかたがない」という判断に変わったりもします。
絶対的な善悪は存在しないことも理解できるようになり、道徳的判断力が大人のものに近づいていくわけですね。
道徳観を考えると、順法精神とか、規範意識というものが、他者との関係性を円滑な状態に維持するために必要ということがわかります。
それでは、他者なんか知ったこっちゃない、自分が有利になり、富裕であり、幸福であり、安楽であればいいと言い切ってしまう非社会的傾向のある存在にルールを守らせるには?
ルールを守らなければ、より重い罰を受ける、不利益をこうむる。抜け道などない。
そう理解させることと、強い強制力が必要になるわけです。
ルールを守らせる強制力。言い換えると、ルールを他者に押しつけるため行使される威力。
この威力を武力と言い換えると、『沈黙の艦隊』の……というか、「シーバット」の意味が見えてくるような気がします。
『沈黙の艦隊』作品内部において、「シーバット」は、日本が保有した最初の原子力潜水艦でありながら、海を経由し、どんな国でも核弾頭ミサイルの射程内に収めうる移動砲台として描かれていました。
原子力潜水艦であるがゆえに、燃料補給が不要であり、そのため航行ルートが読みにくい。またディーゼルエンジンに比べ音が小さいので、隠密性能も高い。
どこにいるのかわからない「シーバット」に対し、各国は捕捉不能な状況では、どこにいるかわからないからこそ、どこにでもいる可能性を考えねばならない、というのが作品に大きな緊張をもたらす要因の一つだったのですが……。
これは、いてもいなくても機能するパノプティコンの監視者のあり方とひどく共通するものがあります。
いつ監視しているか、どころか、どこから監視しているかさえわからない。
しかし無視などできない。できるはずもない。「いてもいなくても」「いるものとして」扱わなければならない。
なぜなら、規制遵守を強制できるだけの「威力」――核武装している可能性をちらつかせている以上、いつ核弾頭ミサイルが飛んでくるかわからないのだから。
核武装をした国家間での国際安全保障交渉は、互いに撃ってならないと理解し、引き金が激烈に重いことを認識しあっている銃を、互いの喉元につきつけているようなものではないかと、筆者は勝手に推測しています。
やっちまったら被害甚大、オーバーキルまちがいな死の仲良死まったな死ってことを考えるならば、狭い密室の中、互いに生身で迫撃砲を突きつけ合っているようなもの、という方がより正確かもしれませんが。
これに対し、「シーバット」は精妙無類の狙撃手が、一㎞以上離れたところから狙いを付けているぞ、と宣告されているようなものじゃないかと思うわけですよ。
互いの命どころか人類滅亡の危機を賭け、死なばもろともという、ある意味対等な核武装国同士の交渉に対し、「シーバット」からの要求を呑むかどうかは、一方的に選択をつきつけられているようなもの。
呑まねば核弾頭ミサイルを含め、どんな報復がやってくるかわからず、しかし呑めば国の面子は丸つぶれ。
……かなり怖いと思う。
ですが、筆者はこうも思うのです。
それ、現代社会では当たり前のことじゃね?と。
特に個人の行動倫理レベルにおいて。
パノプティコンの監視機能は、囚人に監視者の存在を内在化します。囚人たちは、実在の監視者というより、自分の心の中に作り上げた監視者の影によって監視されるわけです。
そもそもが、道徳観が外界からの強制によって形作られてきた以上、内在化した規律=監視者は誰の中にもある、ということになる。
そう、パノプティコンはどこにでもある。なにせ監視されている「かもしれない」ということを理解するだけで、対象者は自ら囚人になり、そして監視者として囚人を監視していくのだから。
――それが、「世間体」の正体であると筆者は考えています。
ルールに従っているか、どのくらい従っているのかを評価され、そぐわなければ処罰を受ける可能性があると、囚人自身が自分をひたすら矯正し続ける。
しかもこれはどんどん厳しくなる上に、終わりが見えない。
当然ですね。評価基準は自分の中にしかなく、評価対象が自分しかないのだから。うっかり規制を拡大解釈したり、罰則を緩めたらどんな不利益が起こるかもわからない。
ならば、今よりもっと厳しくしておいた方が抵触する危険性は少ない。そう考えて自縄自縛状態を強化していく。
狙撃者が狙っていると予告された状態で、自分の命に値段をつけろと言われたなら……。
100万出す、と言っても沈黙しか返ってこないのであれば、200万、500万と金額を上乗せしてでも、肯定的な反応――「いいだろう」という、生きていてもいいという許可が取れるまで足掻くようなものかもしれません。
この強制力はとても強いものです。「今よりもっと厳しく」を積み重ねた結果、適応障害を起こす人もいるくらいには。
逆に、この監視が他者へ向く場合もあります。
ぎりぎりと評価基準で締め付け、少しでも外れたところを見いだしたなら、処罰を行う。
相手の不利益になるような低評価、というか罵倒を叩きつけることで、社会的生命に危害を加えるというかたちで。
――それが、「炎上」の構造の一部ではないかと筆者は考えています。
ちょっとした失態、いや失態がどうとかではなく、単に気に食わないからというだけで、精神的にメッタ打ちにしたりされたりしあったり。
法規制は鈍足で現実を追いかけてきますが、やはり追いつかないところもある。
偏在するパノプティコン。
個人間においては効果がありすぎるほどに機能している規律の内在化により、我々はより従順な囚人として自己を定義するか、見えない監視を振り払うべく、周囲を――世界を攻撃するかしか、選べないでいるのでしょうか。
映画でも、原作でも、『沈黙の艦隊』では、ある定義がなされています。
それは、「戦闘」とは、「わが意思達成を敵に強要することを目的とした実力行使」である、というものです。
他者の利害など関係ない。自身に不利な社会的関係性などいらない。実力行使によっておのが意思達成を他者に強要することで、監視を振り払うだけではない。
既存のルールを塗り替え、自分に有利なルールを強制しあおうとする監視者志望者たちが、それまでの倫理観や信念を形作ってきた自分の心の中にあるパノプティコンを破壊し、あるいは廃墟に変質させてしまうのであれば。
世界はベンサムどころか、ホッブズの解釈したレベルに後退し、「万民の万民に対する闘争」の状態へと陥ってしまうのでしょうか。