08 : 夜を走るアーリーアクセス - 02 -
「つばめ。明日は?」
「明日は無理って、お昼伝えてなかった?」
「予定変わったかもしんないでしょ」
「そんな数時間で変わんないよ……」
ふーん。と東崎家の玄関前で、自転車のハンドルを持ったまま稜が言う。
つばめは既に地面に降りている。いつもなら、つばめを下ろすとすぐに立ち去る稜が、いつまでも玄関先にいることを不思議に思い、つばめは尋ねた。
「どうした?」
「……なんで、家暗いの」
「ああ。まだ誰も帰ってきてないんじゃない?」
時間は丁度、七時ぐらいだ。初日に遅くなってから、母に約束させられた時間は破らないように帰っていた。
「はあ? なんで」
「仕事とか、用事とか?」
父は飲み会で、成人間際の兄は遊びにでも行っているのだろう。母は夜の習い事か。
夜に出かけるのは、バトミントンと習字とスイミングだ。母の予定をつぶさに把握しているわけではないつばめの感覚では、ラケットを持って出かければバトミントン。習字道具だったら習字。ビニールバッグだったらスイミング。その程度しか把握していない。
「そうじゃなくて。なんで言わねえの? 普通にうちで飯食って帰りゃ良かったじゃん」
「そんな、何度もお世話になるわけにもいかないし」
大丈夫だよ。と言えば、稜は顎を持ち上げてつばめを見下ろした。
「……つばめ。うちで世話になったよな?」
「?」
「お腹空いた」
「……ん?」
「すっごく、お腹空いた」
「……何か食べて行かれますか?」
「ん」
つばめの答えは正解だったらしい。稜がハンドルをぐっと押して、自転車を動かした。つばめは慌てて玄関の門を開き、堂々と侵入する自転車を通した。
***
ダイニングテーブルの上を見ると、母の手作り料理があった。しかし、一人前しかない。この分では、父も兄も外で食べて帰ってくるのだろう。
「焼きうどんでいーい?」
焼きうどんくらいなら作れそうだと稜を振り返ると、ダイニングテーブルにでも座っているだろうと思っていた稜が、すぐ近くにいた。つばめは、驚いて固まる。
「醤油味? ソース味? 醤油味にして」
「――はーい。醤油にしまーす」
なんともない顔で会話を続ける稜に、つばめもなんてことのない振りをして答えた。
(……そうだった。パーソナルスペースバグってるんだった……)
野菜室を覗いていたつばめの隣で、同じく野菜室を覗き込んでいたようだ。つばめは切ったキャベツやニンジンが入っている野菜のパックを取り出して立ち上がると、冷蔵庫の蓋を閉める。
「出汁醤油がいい」
「はいはい」
つばめの後を、稜がてくてくと着いてくる。茹でたうどん玉と、一人分に分けられた冷凍の豚肉を取り出して、フライパンを火にかける。
「つばめ料理すんの?」
「大学行ったら一人暮らしよっかなって。今の内から練習してるの」
母は、邪魔と言って一緒に台所に立ちたがらないくせに、つばめに料理が上達してほしいという矛盾した願望を持っていた。
つばめも、逐一文句を言われながら作るのは嫌だったため、母と隣だって立つことは諦め、アプリを駆使して土日のお昼ご飯を自分で作ることにしていた。そのため、冷蔵庫の食材もつばめがある程度自由に使うことを許されている。
「……大学?」
焼きうどんは何度か作った事があるため、レシピアプリを開かなくとも作れるようになっていた。豚肉を冷凍したままぶち込みながら、つばめは軽く頷く。
「そう」
「……何処行くの?」
冷凍した豚肉を、油が焼く音がする。
その時になってようやく、つばめは稜のテンションに気付いた。
稜を振り返ると、稜は口をひん曲げていた。顎を上げ、フライパンを握るつばめを見下ろしている。
その目は冷たく、だが淋しさを灯していた。
つばめは見なかった振りをして、希望する大学名を口にしながら、すいっとフライパンに視線を戻した。野菜を投入し、ゆで麺をほぐして入れる。
「ここから行けるじゃん」
「毎日二時間も、車運転出来ないってー」
普通に話し始めた稜に安心して、つばめは意識して明るい口調で答えた。
「電車は?」
「通ってる先輩に聞いたら、私鉄に乗り換えたりしてると、駅での待ち時間えぐいらしいんだよね」
「……」
沈黙が落ちる。
フライパンの上で食材が焼ける音と、匂いだけがあたりに広がり、つばめはたらりと冷や汗を掻いた。
「……知らなかったんだけど」
「……ね~?」
つばめは尚も明るくのってみたが、稜はついに顔を俯け、フローリングの溝を見つめ始めた。
つばめはフライパンの火を消して、稜の前へ行く。
「怒んないでよ」
「……」
「ほら、焼きうどん出来るよ」
「……」
「坂ノ上君、味付けはどんなが好き? 薄いの? 濃いの?」
「……」
「……ごめんって。私も――知らなかったんだって。君がそんな――懐いてくれてるの」
つばめは苦笑して、稜の顔を覗き込む。
つばめの志望校は別段、特別な進路では無い。友人は当然のように皆、知っている。
ただ、つばめの言う友人とは基本的に、同学年の女子だ。入学時、もしくはクラスの編成時から一緒に過ごしてきた友達。――つい数日前に友達になったばかりの、ゲームを一緒にしているだけの稜とは、性質が違う。
ゲーム仲間がつばめの志望校を知らずとも、おかしなことは一つもない。
だというのに、稜は落ち込んで見せた。
一年生の稜にとってはまだ、進学先など実感が湧かない頃だろう。まだ二年の夏休みの、つばめとてそうだ。だが親との約束で、大学への進学と引き換えに、ゲームのプレイ時間を確保しているつばめにとっては、現実的な問題だった。
「懐いてねえし。友達なら言うだろ。大学のことだって聞くまで言わなかった」
「そうだよね。ごめん」
素直に謝ると、稜はギンと睨み付けてきた。まるで簡単に謝罪を口にしたつばめが、憎たらしいとでも言いたげな表情だった。
つばめは、申し訳なさと、くすぐったさを感じる。
部活動をやってこなかったつばめは、こんな風に後輩に慕われたことは、一度も無かった。
「坂ノ上君」
「稜」
「稜君。ほら、焼きうどん作るよ」
おいで、と緊張しつつも稜の手首を引っ張ると、意外なことに稜はつばめを振り払わなかった。むすっとした顔のまま、とぼとぼと着いてくる。
稜が言う通り出汁醤油で味付けをすると、自分が味見で食べることは絶対に無い豚肉を、つばめは選んだ。キャベツも一緒に添えてやり、稜の口元へ持っていく。
「熱い」
「味は?」
「美味しい」
「じゃあこれでいいね」
フライパンから皿に移し、ダイニングテーブルへ運ぶ。母が作ったご飯と、つばめが作った焼きうどんが並ぶチグハグな席につくと、稜とつばめは一緒に手を合わせて、同時に言った。
「いただきます」