ある春の日に空を見上げながら約束をした。
◇12月23日(木)
母が病気になった。
普通だったはずの日常が、ガラリと変わってしまった。
いつも隣にいた母が、急に遠くなってしまった。
もうすぐ高校受験だというのに、おかげで勉強にも身が入らない。
この悶々とした感情を、どこにぶつければいいかすらも分からない。
「お前、最近元気ないよな。部活にも行ってないらしいじゃんか」
そんな俺の様子に気付くクラスメイトもいた。
何度も話しかけてきたけど、返事をする気にはなれなかった。
辛抱強く声をかけてきた彼も、やがて「何かあったら言えよ」なんて告げて去っていく。
やけにうるさく感じられる休み時間の教室に、溶かすようにつぶやいた。
「なんで俺だけ……っ」
◇12月21日(水)
学校が終わり、父と二人きりで食卓を囲む。
「幸次、学校はどうだ」
「……別に」
「そうか」
冷えたコンビニ弁当を口に運びながら、そっけなく答える。
父もそれ以上に会話を広げる気はないようで、形式だけの親子の会話なんてこれっきりだ。
別に、それでいい。
食事を先に終えた父が、ゴミを捨てに向かう途中不意に電話が鳴った。
その着信音は、父が持つ仕事用の真っ黒な携帯電話じゃなくて、滅多に鳴らない真っ白な固定電話から響いていた。
どくんと心臓が跳ねる。
最悪の想定が頭にチラつき、必死に振り払おうとしてもなかなか消えてくれない。
父が電話に出た。病院からだった。
俺たちは車に乗り込んだ。
病室のドアを勢いよく開くと、そこには医者の隣で本を読む母の姿があった。
肩をビクリと震わせながら、驚いた表情で振り返る母は、その視線の先に俺たちを確認すると薄く頬を緩めた。
「――っ大丈夫、なのか?」
初めて見る父のその表情からは、俺と同じように母の身を案じていた事実が窺える。
その時、俺は初めて気づいた。
いつも気丈にふるまう父は、俺に不安を与えないように無理をしていたのだと。
そんな父に対して、そっけない態度を取っていたこと。
会話らしい会話もなく、コンビニ弁当に不満を持ったこともあった。
今日までの自分が、なぜだかひどく小さく感じられた。
でも、今日までの自分は変えられない。取り返せない。
だからせめて明日から、ほんの少しでも報いたいと考えるのは、自然なことだった。
「佐藤さん。こちらに」
医者に連れられ病室を後にする父を見送り、残された俺と母、ふたりきり。
静かに微笑む母は、どこかやつれているようにも見えた。
それがどうにも苦しくて、たまらずに言葉が漏れる。
「母さん、俺――」
「――幸次。もう、ここに来なくていいわ」
溢れ出る思いを阻んだのは、重なる母の言葉だ。
「――。なんで、そんなこと言うの?」
「もう、いいのよ」
突き放すような口ぶりに、俺は呆気に取られる。
意味が分からない。なぜ、そんなことを言われなければならないのか。
結局、俺がいくら思っても、考えても、悩んでも、それが届くことはないということなのか。
だったら、俺はなんのためにここにいるのだろう。
ゆっくりとベッドに背を向け、俺は歩き出した。
廊下で医者と話す父の横を通り抜け、自動ドアをくぐる。
月明かりは、冷たく俺を照らしていた。
◇1月18日(水)
母の容体が急変した。
鳴り響く心電図はこんなにもうるさいのに、その真ん中にいる母はピクリとも動かない。
何かしなくちゃいけないのに、何もできない。
ただ、見ていることしかできない。
会話すら、できない。
何も言わずに病室を出たあの日、本当は言わなくちゃいけなかったことを、伝えることすらできない。
「頑張れ……! 頑張れ――!」
絶えず手を握り続ける父の姿。
まるで夢の中みたいにふわふわと見える景色の中で、それだけがやけに目に焼きつく。
無意識に、俺の足は前へ踏み出していた。
「――――」
白くて細い、骨ばっかりの手を、俺は握りしめた。
温かくて柔らかかったこの手が、いつの間にこんなになってしまっていたのか。
頼りなくて、心細くて、でもまだ温かい手だった。
「頑、張れ」
喉が震える。
「頑、張れ……頑張れ……!」
気付けば、父と同じ言葉が絞り出すように零れていく。
何度も、何度も。
「頑張れ……! 頑張れ……!」
返事はない。
だけど、言葉は止まらない。
「頑、張れ……! 頑張れ――!」
返事は――。
「――ご臨終です」
ふっと意識が現実に引き戻されると、病室を包むけたたましい機械音にやっと気付く。
いつしか伝う涙が、頬から零れて染みを作った。
そして、口からはただ言葉が零れた。
「ごめんなさい」
◇3月3日(金)
何かが足りない日常にも、少しずつ慣れ始めた頃。
「最近、なんか前より明るくなったか?」
「うん、ちょっと気持ちの整理がついたんだ」
「よかったな! 部活にも復帰したみたいだしな!」
あんな俺にもめげずに話しかけてくれた彼は、嬉しそうに白い歯を見せる。
俺は「心配かけてごめん、これから頑張るよ」とだけ伝え、席を離れた。
帰り道、空に向かって手を伸ばす。
「俺、頑張るから」
瞬間、吹雪く桜の花びらは、春の匂いがした。