第1章「覚醒の夜」・1
美少女フィギュアやロボットのプラモデルが整然と並び、本棚には漫画やライトノベルが詰め込まれ、壁にはアニメのポスターが貼られている部屋。パソコンとテレビのモニターの青白い光が灯るその小さな世界にひとりの少年がいる。夜見蒼。長く伸ばした黒髪で目元を隠すメガネの少年はは黙々とゲームに興じていた。ダークなファンタジーの世界観が特徴的で、死にゲーと揶揄されるほど難易度が高いことで知られるゲームだ。彼はそれなりにやり込んでいるのだがどうしても最近アップデートで追加された強敵が倒せず、何度もコンティニューを重ねていた。
「あっ……あー……また死んだ……」
蒼はしわくちゃのベッドにコントローラーを放り投げ、座椅子に深くもたれ掛かり、大きなため息を吐いた。もう何時間も挑戦しているがそのボスキャラクターを倒すことは叶わず、楽しむためのゲームなのにストレスが溜まってくるほどだ。このままではいけないと蒼は一度アプリケーションを終了し、ホーム画面を立ち上げる。するとオンラインストアのアプリーケーションに通知があり、確認してみると何やら新作ゲームの配信が始まっているようだった。様々なパーツを組み合わせてロボットを作り、相手と対戦するという内容のアクションゲームだ。熱狂的なファンが多く、蒼も何作かプレイしたことがある。
(ああ今日が発売日だっけ……忘れてたな)
蒼はクレジットの残高を確認するが1000円ちょっとしか残っておらず、そのゲームを購入するのには幾らか足りない。時間を確認すると既に0時を廻っていて普通の学生なら明日の学校に備えて眠るべき時間帯だ。しかし彼はわずかな逡巡の後、我慢できずにコンビニへ向かうことにした。
(お巡りさんに補導されないように注意しないと……)
近所のコンビニは徒歩で5分くらいのところだが誰かに見つからないとは限らない。蒼は急ぎ足で夜道を進んでいく。ふと頭上を見上げると真っ黒な夜空に真っ赤な月が浮かんでいるのが見えた。血のような昏い赤であるしなんだかいつもより大きく見えて蒼は少し不安な気持ちになる。なんだかとてつもなく嫌な予感がした。
「……?」
その時だった。ふと視界の端に何か黒い影が見えた。顔を咄嗟に「影」に向けるが何も居ない。気の所為だろうか、と蒼は首を傾げるがいつの間にか目当てのコンビニに到着していた。
(気のせいか……)
店内に入り、目当ての品を手にしつつ改めて外を確認するがあの黒い影はどこにも見当たらない。
「ありがとうございますまたのご利用お待ちしております」
蒼はプリペイドカードとスナック菓子とミネラルウォーターのペットボトルの入ったビニール袋を片手に帰路につく。
早くゲームがしたい、こんなところに長く居たくない。
そんな一心で蒼は見えない何かから逃れるように足早に歩く。そして陸橋の階段に足をかけた。
「え……?」
ふと上の方に何か白いものが見え、じっと目を凝らすとそこに誰かが居た。陸橋の上に彼女は居る。先程幻視した黒い影ではない、実体を持った少女だ。年齢は蒼と同じくらいだろう。長い黒髪、赤いリボンが目を引くブラウス、紺色のハイウェストのスカート、足を覆うストッキングが目を引くが何よりもその白い肌と端正な横顔に何よりも蒼の目は釘付けになった。しかしこんな時間に何故彼女はひとりでこんなところに佇んでいるのだろうか。
その少女はただ静かにあの不気味な赤い月をじっと見つめている。あれのどこに心惹かれるのか彼にはわからない。いや、心惹かれているのではなく寧ろ睨んでいるのだろうか。
見た目は大人しそうで特に非行を働いているようには見えないが若い女の子が人気のない暗い夜道をひとりで居るのは危険極まりない。少女はおもむろに体の向きを変え、蒼の方へ向かって歩き出し、横目で蒼の顔を一瞥する。目が合い、透き通るようなその瞳に引き込まれそうになる。しかし蒼は特に声をかける勇気もなく、そのまま無視して
「え……!?」
不意に、その黒髪の少女は蒼のすぐ真横でバランスを崩したのか階段を踏み外した。このままでは確実に少女は真っ逆さまに落下して頭を強くぶつけて最悪死ぬか重い障害を負うことになる。蒼の頭は真っ白になるが、それでも彼女を助けなければと右腕を伸ばして彼女の体を掴もうとした。しかし重力に従って落下する少女の体を非力な少年が腕一本で支えられることも出来ず、左手も手すりから離してしまったことで蒼も一緒に階段から逆さまに落ちる。
(僕、ここで死ぬのか……?)
空中でそんな考えがよぎるが不思議と恐怖はない。寧ろどこか安堵すら感じてしまうほどで蒼は無意識に笑みを浮かべた。そしてすぐ隣の同じく落下中の少女はそんな蒼をどこか不思議そうに見つめ、やがて――
「あ……?」
不意に黒い羽根が舞っているのが見えた。カラスのものとも違う、艶やかな、透き通るような、深海を思わせる闇色の羽根だ。それらがいくつも舞っている。幻想的な光景だった。
「うわ……!」
目の前の光景に心を奪われていた蒼は背中を打ち付けた痛みでふと我に返り、ゆっくりと上半身を起こす。アスファルトの地面に身体が叩きつけられてしまったが高いところから落ちたはずなのにさほど衝撃はなく、鈍い痛みこそあるがどこも怪我はしていない様だった。いや、落ちている最中に突然誰かに身体を守られ、衝撃を吸収された気がする。そこまで思い出し、蒼はふとあの女の子はどうなったのだろうか、とあたりを見渡し、
「誰も居ない……?」
どこにも少女の姿は見当たらず、蒼は怪訝そうな表情を浮かべる。もちろん周囲を舞っていた黒い羽根も一枚すら落ちていない。まるで幽霊にでも遭遇したような気分だった。しかし蒼の手には未だ少女の肌の温かさと柔らかさの感触が残っている。
「あ、早く帰らないと……」
その時遠くの方でパトカーのサイレンの音が聞こえ、我に帰った蒼は慌てて立ち上がり、買い物袋を掴んで足早に来た道を戻る。夜の闇と月の赤色は先程よりずっと濃くなっているように感じられた。
◆◆◆
『彩羽学園』。偏差値は平均よりやや上くらいの中高一貫校だ。部活動も盛んでそこそこ知名度も高く、制服のデザインも良いと評判だ。小綺麗な校舎には続々と生徒たちが友人たちとあれこれ他愛のない会話をしながら向かっていくがその雑踏の中で地味な蒼は路傍の石のように隅っこをとぼとぼとひとりで歩いている。
(徹夜してしまって眠い……やっぱりゲームなんてやらず大人しく早く寝るべきだった……)
眠気覚ましにイヤホンで音楽を聴いているがテンポのいい音程が逆に眠気を促進している気がする。蒼は欠伸と目元を揉むのを何度も繰り返しながら校門を潜り、靴を履き替えて教室に向かう。ドアを開けるとクラスメイトたちが何やらそれぞれのグループに固まって雑談をしているがそこに蒼の居場所はなく、彼は大人しく教室の隅っこにぽつんと置かれた席に座った。蒼の友達はスマホである。
「あーそういえば聞いたー? 隣のクラスの吉田がいきなり息が詰まって倒れて病院だってさー」
「うちの部活の先輩もだよ。なんか最近このあたりで多いらしいぜ。突然息が出来なくなって倒れるって事件。なんか新種のウイルスじゃねぇのってニュースでやってた。首に真っ赤な痣ができるんだよな」
「ほんと怖いよねー」
クラスメイトが話していることは蒼もよく知っていた。一応全国ニュースでも報じられており、ちょくちょく学校に救急車やテロをはじめとした事件の可能性があるとしてパトカーが来ているのをよく目にしていた。
「ホームルーム始めるぞーお前ら席に着けー」
チャイムとともに担任の中年太りしたメガネの男性教諭がやって来てクラスメイトたちはまばらに散ってそれぞれの席に着き、名簿順に次々に名前が呼ばれていく。
「深雪白」
返事は無い。ふとその名前を聞いた蒼は自身の隣の席に目をやる。長いこと姿を見せていないクラスメイトで顔すら知らないクラスメイトも多い。一応保健室登校ということで学校には通っているようだが彼女が教室に来ないのは日常になっており、今更それを気にするものは誰一人として存在しないが何故か蒼はやたらその少女のことが気になった。
「夜見蒼」
「あ、はい」
名前が呼ばれて我に返った蒼は慌てて返事をするが若干声が上擦ってしまい、教室のあちこちで小さな笑い声が聞こえた。居心地の悪さを感じながら蒼は小さく縮こまり、ため息をつく。
(早く帰りたい)
窓の外に広がるグラウンドを眺めつつふとそんなことを考える。この学校という空間は蒼にとって監獄のようなものだった。
「一限から体育とかマジダリぃ〜」
「水泳ならまだ女子の水着とか見れるからいいけどよ、外周走らされるだけとか拷問かっつーの」
(……最悪だ)
◆◆◆
更衣室でジャージに着替えた蒼は煙っぽいグラウンドの上で大人しくクラスメイトとともに授業を受けていた。今日はサッカーで、部活をやっている生徒たち活躍できるということでかなり盛り上がっている。普段の無気力さはどこへやらだ。もちろん蒼が体育の授業を熱心に受けるということはなく、隅っこの方で取り敢えずボールを追いかけるなどして真面目に受けているというアピールだけはしているがさっさと解放されたいのが本音だ。
「うぐっ……!?」
その時蒼の首に何か強く締め付けられるような痛みと苦しさが生じ、彼は思わずうずくまった。尋常ではない感覚だ。まるで誰かに首を絞められているのではないかと錯覚するほどだ。チームメイトたちも怪訝そうに蒼を見ており、遠くの方から体育教師が駆け寄ってくるのが見えた。
「おい大丈夫か夜見、具合が悪いなら水を飲んで涼しいところで休んでろ」
「あっ、はい……すみません」
肩を貸そうとする体育教師に大丈夫だと答えて蒼は大人しく言われてた通りに水を飲んでグラウンドの隅の涼しい日影でひとりぼんやりとクラスメイトの試合を眺める。いつの間にやら首から発せられる痛みは消え去っていたが得に授業に戻りたいわけでもないので黙ったままでいる。額を伝う汗を拭い、恨めしそうに照りつける太陽を見上げる蒼だが、その時目の前に誰かが立っているのに気付く。初めは生徒か教師だと思ったがどうやら違うらしい。
「……だ、誰?」
強い日差しで逆光になっているのでよくわからないが身長は2メートル以上あり、妙にひょろ長い人間離れした体格をしている。特に頭のシルエットは特徴的だが何かシルクハットのようなものを被っているようだ。纏っているコートの色は黒か暗い青といったところでなんだか昨晩の濃い闇を想起させる。そんな謎の青コートだが、その男(?)は黙ったままおもむろに両腕を持ち上げ手に握った何かを蒼に突きつけた。そいつが握っているのは拳銃だ。バレルの長い、リボルバー機構のやたらごつい拳銃。それを両手に一挺ずつ携えている。あまりに現実離れした光景に蒼は悲鳴も出ず、ただ真っ白な頭で呆然と立ち尽くし――
「おい夜見! なにぼーっとしてんだ!」
「ボール! ボール!」
「えっ?」
ふと見上げると彼のすぐ目前に誰かが蹴り飛ばしてきたらしいボールが飛んできていた。もちろんキャッチや回避などできるわけもなく、蒼はそのまま顔面にボールをもらい、後ろに倒れ込んだ。
メガネが衝撃で弾け飛んで行くが、柔らかい樹脂のフレームなので心配はいらないだろう。レンズさえ無事ならいいんだけど……と蒼はぼんやりとそんなことを考えつつ空を仰いだ。
◆◆◆
体育担当のむさ苦しい熱血教師から「頭に何かあったらマズイし一応保健室行って診てもらえ」という言葉に従い、土でやや汚れたメガネ(一応無事だった)をかけ直した蒼は赤くなった顔を抑えながら保健室のドアをノックした。しかし返事は無く、蒼は取り敢えずドアを開けて中に入る。
「あっ……」
「――」
しかしそこには先客が居た。いや、住人の方が正しいかもしれない。ベッドに腰かけている白い肌に長い黒髪、黒いストッキングのその少女はゆっくりと振り向き、蒼の顔をじっと見つめる。間違いない、昨晩陸橋で出会った少女だ。
「えっと……深雪白さんだよね?」
「そう」
少女の返事は素っ気ない。
「ずっとここに居るの?」
「あまり人と会わなくて済むから」
白はやはり興味無さそうに蒼を一瞥し、再び窓の外で風に揺れる木の葉を見つめる。蒼はなんだか萎縮してしまい、気まずさが保健室を満たす。養護教諭も居ないし大人しく帰るかと蒼は踵を返そうとし、
「……どうして昨晩あそこに居たの?」
ふと白がそんな問いを投げかけてきた。
「どうして、って……ただの買い物だよ。それに深雪さんだってなんであの陸橋に? 危ないじゃないか」
「私は大丈夫、日課だし」
白の言葉の意味がよくわからず蒼は怪訝そうな表情を浮かべる。「日課」とはちょっとヘンだ。まるでああやって階段から落ちるのがまるでいつものことのような――
「ああやって階段から落ちたのもわざと……?」
「そう。でも『チカラ』があるから問題ない」
『チカラ』という言葉に蒼は困惑する。目の前の少女は浮世離れしているどころかまるで別の世界の住人のようだった。彼女の言っていることが何ひとつとして理解できない。
「とにかくあなたは気をつけた方がいい。いつか『ソレ』に殺されかねないから」
「ええと、言ってる意味がよくわからないんだけど……」
蒼は困ったように頬を掻くが白は特に何も言わず、蒼から背を向けてまた窓の外を覗き始めた。そんな不思議な白に蒼はどうしたものかと同じように窓の外に目を向ける。既に授業は終わっており、クラスメイトたちは続々と校舎に向かっていた。もうじきに次の授業も始まる。その時、白の背中から何かが散ったように見え、蒼ははっと息を呑む。それはあの黒い羽根だった。夜を思わせる透き通るような黒い羽根が彼女の背中からひらひらと散り、舞っている。
「嘘だ……」
蒼は目を擦り、改めて白の背中を凝視するがいつの間にか黒い羽根は消え去っていた。そこにあるのは普通の女の子らしい華奢な背中だ。
「やっぱりキミにも見えるんだ『コレ』が」
そうして白はゆっくりと首だけ振り返り、感情の読み取れない顔で蒼を見つめる。それに対して蒼は何も言えず、ただ逃げるように保健室を後にした。まるで狐に包まれたかのような気分だった。