第7話『誰がために魔法はある』
事件発生から、丸二日が経った。
昼休み。僕は紺野からエクレア二つ分の追加情報を手に入れた。そして同時に、赤嶺小百合さんを殺した犯人が誰であったのかを悟ってしまった。
憂鬱は事件の起きた日からずっと続いているけれど、今日は一段と気持ちが沈んでいるのを感じる。放課後を迎えるのが怖くて、特に六時間目の授業はまるで集中できなかった。
四階、西渡り廊下。
冬至から一ヶ月以上が経ち、少しずつ日が長くなってきてはいるものの、午後三時半の太陽は南西の低い空から僕たちを姿を照らしている。
「へぇ、知らなかった。ここってこんないい景色が見られるんだな」
今はもうすっかり復調している智詩は、学校の西側に広がる住宅街を眺めながらつぶやいた。本当にここは見晴らしがよくて、水梨さんに用がなくてもよくここへひとりで来ては、遠くの山を眺めたりしていた。
「で、話ってのは?」
渡り廊下の壁面に体重を預け、智詩は改まった口調で言った。
やっぱり気は進まなかったけれど、話をしないわけにはいかない。モヤモヤを抱えたままじゃ、本当の意味での平穏で秩序的な日々は訪れないのだから。
一つ、息をつく。
僕はゆっくりと、二日前に起こった事件のあらましについて話し始めた。
「タイムラグがあるんだ」
智詩は黙ったまま片眉を上げた。
「一昨日、きみが僕を保健室へ一緒に行こうと誘ったのは午前八時四十分。朝のSTが終わってすぐのことだ。保健室があるのは南館の一階。僕らの教室がある中館の二階からは三分あれば優にたどり着ける。きみがその足でまっすぐ保健室へ向かったのなら、少なくとも八時四十五分には保健室にいなくちゃならない。でも、保健室の先生の話じゃきみが保健室へ駆け込んできたのは一時間目の授業が始まって五分ほどが経った八時五十分すぎ……つまり、赤嶺さんが僕らの目の前で転落死した、まさにその頃のことだった」
へぇ、と智詩は不敵な笑みを浮かべて言った。
「わざわざ訊きに行ったのかよ、保健室まで」
「うん」
「そりゃご苦労さんだったな。そんなことしなくたって、『おまえが犯人か』って直接訊いてくれりゃ素直に答えてやったのに」
「……否定しないんだね」
「まぁな。する必要もねぇし」
背を預けていた壁から離れ、智詩はまっすぐ僕の正面に立った。そして彼は、僕に右手の人差し指を向ける。
ふわり。
指の先がぽわぁっと淡く光ったかと思えば、次の瞬間、僕は宙に浮いていた。
「えっ」
僕の足が地面から一メートルほど離れている。空を飛んでいる!
「ちょ……うわぁ!」
「暴れんなって、危ねぇから」
どうにかバランスを取ろうと空中でふらふらと体を揺らす僕に、智詩は苦笑した。
指を下向きに動かして、僕を廊下に着地させる智詩。けれど浮遊感の抜けきらない僕は尻餅をついてしまい、彼は僕が立ち上がるのに手を貸してくれた。
まっすぐ向き合って立った僕に、彼は真剣な目をして言った。
「オレが赤嶺を殺した」
淡々と罪を告白した智詩。その立ち姿はいつもと何ら変わらないのに、今の僕には、彼がまったくの別人であるように見えた。
ふっ、と智詩は真剣だった表情を崩す。
「いやー、おまえならきっと気づくだろうなと思ってたよ。秀才で、かつ、魔法使いの存在について知ってる。おまえほど今回の事件に適任な探偵役はいねぇよ」
「……知ってたの? 僕が魔法使いと接触した経験があるって」
「あぁ。星蘭から聞いた」
「そっか……水梨さんが言っていた『この学校にいる魔法使いを少なくともひとりは知っている』って話、あれ、きみのことだったんだね」
「おう。って言っても、オレと星蘭が互いに魔法使いだって知ったのはつい最近の話だけどな」
「……もしかして、一ヶ月前に藍川ひよりさんが自殺したことがきっかけ?」
ぴくり、と智詩の眉が動いた。やはり、すべては藍川さんの自殺からはじまっていたようだ。
小さく息をついた智詩は、壁に両腕を乗せて再び西側の景色を眺め始めた。
「何も死ぬことなんてなかったのになぁ」
紡がれた一言には、大きな後悔が色濃くにじんでいた。すぅっと目を細める彼の横顔を、朱に染まり始めた西日が優しく照らす。
「藍川ひよりさん……彼女、きみとは親戚同士だったんだってね」
水梨さんが教えてくれたこの学校にいる魔法使いのリストの中に〝茶谷智詩〟という名前を見つけた時、僕は真っ先に彼のアリバイがないことに気がついた。
事件当日、彼は風邪をひいているため体育の授業には出られないと言い、保健室へ向かった。つまり彼には、きちんと授業に出席した僕らと違ってひとりになるチャンスがあった。ひとりにさえなってしまえば、あとは水梨さんが教えてくれた方法で自らと赤嶺さんに魔法をかけ、赤嶺さんをグラウンドに墜落させるだけ。その足で改めて保健室へと向かい、一時間ベッドで休めばミッションクリア。彼に犯行は可能である。
そのことに思い至った僕は、前払いしていたエクレア二つ分の情報料を使って紺野に智詩の身辺調査を依頼した。
さすがは腕利きのジャーナリスト。紺野は僕の求めていた情報をまさにピンポイントで提供してくれた。智詩と自殺した藍川ひよりさんとの間には血縁関係があったのだ。
「そうそう。オレの母親とひよりの母ちゃんがいとこ同士でな。学区が違ったんで高校に入るまで学校はバラバラだったけど、親戚の中で唯一の同い年があいつだったからな。昔からよく一緒になって遊んでたよ」
「やっぱり、赤嶺さんを殺したのは藍川さんの復讐?」
「復讐? ……いや、復讐っていうより、オレの自己満足のためかな」
「自己満足?」
あぁ、と智詩は静かに答え、くるりと体の向きを変えて再び壁面に背を預けた。
「ひよりが学校を辞めた理由を聞かされた時、すぐにでも赤嶺のところへ飛んでいってぶん殴ってやろうと思った。でも、ひよりがそれを許さなくてな……『確かに赤嶺さんが怖くて学校には行けなくなっちゃったけど、わたしも悪かったから』って、そう言ったんだよ、あいつは」
なるほど。藍川さん自身が赤嶺さんへの復讐心を表に出さなかったというわけか。
「もちろん、ひよりに非なんてまったくなかった。百パーセント赤嶺が悪い。それでもひよりは、オレが赤嶺に手を出すことを拒み続けた。余計なことはしないでって、何度も言われたよ。仕方なく、オレはひよりの意思を尊重することにした。けど、結局あいつは心の傷を癒やしきれなくてな。転校先でも不登校になっちまって、終いには自分の部屋から一歩も出られなくなってさ。生きる意味を失ったあいつは、生きることそれ自体を諦めちまった」
思わず、僕は智詩から目を逸らしてしまった。とてもじゃないが、部外者の僕が簡単に耳を傾けていい話ではない。あるいは聞いてやったほうが智詩のためになるだろうか。
「ひよりの心を壊したのは間違いなく赤嶺だ。ひよりが死んで、あいつだけが生きていていいはずがねぇ……そう思った。けどそれはあくまでオレの意思で、オレはオレのためだけに赤嶺を殺した。……ひよりのヤツ、今頃怒ってるだろうな。あいつは復讐なんて望んじゃいなかったんだからよ」
肩をすくめ、智詩は告白を終えた。その顔からはある種の清々しささえ感じる。
部外者の僕に、彼を責める権利などない。話を聞けば聞くほど、彼のしたことが正しかったんじゃないかって、そんな風に思えてくる。人殺しなんて、決して許されていいことではないというのに。
「……どうして、魔法を使おうと思ったの」
そっと冬空を仰ぎ見る智詩に、ずっと気になっていたことを僕はおもいきって尋ねてみた。
「魔法を使うと、寿命が削られちゃうんでしょ?」
水梨さんから聞いた話を思い出しながら質問を重ねると、智詩は少し驚いたような顔をした。
「そんなことまで知ってんのかよ」
「うん、水梨さんが教えてくれた」
「そうか。あいつは滅多に魔法を使わねぇからな、オレと違って」
その一言に、僕は心臓をぐちゃりと握りつぶされたような感覚に襲われた。
――オレと違って。
つまり智詩は水梨さんと違い、日常的に魔法を使用しているということ。
それはすなわち、彼は日々、自らの持つ寿命をすり減らしているということ。
「智詩……きみは…………」
それ以上、僕は何も言えなかった。何と声をかければいいのかわからないし、何を訊くのも怖くてたまらない。
僕の心情を悟ったのか、智詩は穏やかな笑みを湛えて僕の目を見た。
「オレ、死ぬから。たぶん近いうちに」
からりとした声で智詩は言った。あぁもう……本当に、どんな顔をしていいのかわからない。
徐々に崩れていく僕の心とは裏腹に、智詩は嬉々とした表情で語り始めた。
「おまえ、星蘭の魔法のおかげで命拾いしたんだってな? すごいだろ? 魔法って。オレ、自分が魔法使いだって知った時、純粋にすげーって思ったんだ。なんてラッキーな星のもとに生まれたんだろうって。オレも星蘭と一緒で親父が魔法使いでさ。魔法は使った分だけ寿命が削られるんだってガキの頃に聞かされたけど、オレにはそんなこと関係なかった。せっかく力を持って生まれたのに、使わずにいるなんてもったいねぇ。早死にしようが何だろうが、オレは魔法の力を使って生きていく……自分のための便利さも手に入れたいし、あわよくば誰かのためにも利用できればいいなって、そう思った。だからオレはこれまでガンガン魔法を使ってきたんだ。おかげで最近はめっきり体力が落ちてきて、今月なんか二回も風邪ひいちまってさ。さすがに参るよな」
ははっ、と智詩は明るく笑う。口調はどこまでも穏やかで、迫りくる死期に気づいて悟りを開いてしまった感じだ。
「生き方なんてさ、人それぞれでいいと思うんだよな」
遠くの空を仰ぎながら、智詩はなおも語り続ける。
「オレにはオレの生き方があるし、おまえにはおまえの生き方がある。おまえが毎日毎日同じ事を淡々と繰り返してるの、それはそれでアリだとオレは思うぜ? 面倒だもんな、イレギュラーに振り回されるなんてよ」
うまく相槌を打つことすら、今の僕には叶わなかった。
智詩は僕の生き方を知っている。優しい心を持った彼は、いつも僕の生き方に合わせて行動してくれる数少ない友人のひとり。
そんな彼のもとへ、じわりじわりと死の足音が近づいている。何というかもう、思考がほとんど追いついていない。受け入れなければならないという気持ちと、信じたくない気持ちが、激しくせめぎ合っている。
「けど、いくら生き方は自由だからといって、やっぱり人様に迷惑をかけるのはよくねぇよ。ひよりを死に追いやった赤嶺の生き方は、自由の範疇を超えてんだ。文句は言わせねぇ……あいつは殺されて当然だった」
生きる価値なんてねぇよ、と智詩は吐き捨てた。紡がれた一言一言に、たっぷりの怒りが込められている。
「あいつを殺そうって決めた時、真っ先に魔法を使うことを考えたよ。横柄な女帝の死は衆目に晒されてしかるべきだと思ったし、屋上よりも高いところから落としてやったらきっとものすごい恐怖を感じるだろうな、ってさ。C組のみんなには悪いことをしたなって思ってる。たとえ死んだのが赤嶺だったとしても、やっぱり人が死ぬ瞬間を間近で見るってのは精神的にキツいからな」
すまん、と智詩は僕に対して頭を下げた。まったく、本当に僕はどう反応すればいい?
「けど、あれだけいくつもの魔法を同時に使ったらさすがにやべーかもって思ったよ。あの赤嶺と心中なんて、この世で一番笑えねえ冗談だ。ははっ、生き残れてよかったぜ」
やっぱり智詩の表情は清々しかった。やりきった、もう思い残すことはないと、そう言っているように見える。
「さぁ、名探偵さんよ。オレの話は以上だが、他に何か訊きたいことは?」
「……誰が名探偵だ」
おどけた彼の姿に、ようやく僕は口を開くことができた。せっかくなので、一つ気になっていることを尋ねてみることにする。
「どうしてあの時、僕を保健室に誘ったの?」
僕とともに行動すれば、彼はひとりになるチャンスを失うことになる。ベッドで寝ている間にこっそり〝透明化〟して抜け出すことも可能なのだろうけれど、それならはじめからひとりで行動したほうが圧倒的に楽なはずだ。
「あー……なんでだろうな」
「は?」
ひどく曖昧な答えが返ってきて、僕はすっかり拍子抜けしてしまった。
「別に深い意味はねぇかな。なんとなく不安で、ひとりになりたくなかったのかも。あの時はマジで体調悪かったから、もしおまえが一緒に来てくれてたらあの日に赤嶺を殺すことは諦めてただろうぜ」
そんな、と僕が声を漏らすと、「勘違いするなよ?」と智詩は言った。
「延期したって、いずれは確実にやってたことだ。おまえに止めてほしかったとか、そういうんじゃねぇから」
おまえのせいじゃない、と彼は念を押すように繰り返した。それでも僕は、やっぱり後悔してしまう。
もしもあの時、僕が智詩と一緒に保健室で休む選択をしていたら。
僕が僕自身のこだわりを捨てて、彼との時間を選んでいたら。
あるいは今日、こうしてふたりきりで話をすることになんてならなかったかもしれないのに。
「そうそう、あのユリの花さ」
沈みかけた雰囲気を一掃するかのように、智詩は調子のいい声を上げる。
「ユリの花?」
「ほら、あの日の朝、赤嶺の机の上に置かれてた」
「あぁ……」
「あれ、誰がやったんだろうな?」
「えっ、きみじゃないの?」
「オレじゃねぇよ。あの時も言ったろ?」
「ごめん、てっきり嘘をついていたのかと……」
「本当に違うんだって! おまえには気のない感じで返事したけど、内心ビビったんだぜ? 花の置かれた席の主が赤嶺だって聞かされて。赤嶺を殺すことは誰にも話してねぇはずなのに、まさか犯行当日の朝にあんなイタズラをされるとは思ってなかったからさ。……あぁ、あの時なんとなく不安に思ったのはあの花のせいかもしんねぇな。あれは赤嶺への殺害予告なんかじゃなくて、オレに対して『本当にやるつもりなのか』って訴えかけてきたんじゃねぇかって、心の中で勝手にそう思ってたのかも」
ひとり納得したようにうなずいている智詩をよそに、僕の頭の中では別の思考が回り始めた。
智詩の話が真実なら、あのユリの花を赤嶺さんの机の上に飾った人物は別にいるということになる。それも、智詩の意思とは無関係に。
そして僕は、おそらくその人物を知っている。
「さて」
ズボンのポケットに両手を突っ込み、智詩は再び空を仰ぎ見た。
「どうすっかな、これから。オレのやったことだってバレちまったはいいけど、どうせ警察に自首したところで証拠不十分で即釈放だろうし」
それはそうだろうなと僕も思う。『魔法を使って殺しました』なんて話を警察が信じるはずもなければ、証拠だってどこにもない。警察が智詩を逮捕することはどうやってもできないのだ。
「……帰るか、とりあえず。さみぃし」
そう言って、智詩はゆっくりと歩き出した。目も合わさず、黙って僕の脇を通り過ぎていった彼を、僕は勢いよく振り返る。
「智詩!」
呼び止めると、彼もゆっくりと僕を振り返った。まっすぐに視線が重なる。呼び止めたのは僕なのに、言葉がまるで出てこない。
「そんな顔すんなよ」
肩をすくめて、智詩は困ったように笑った。
「この世に永遠なんてねぇんだ。どれだけ親しみ合ってたって、いつか別れの時は来る」
じゃあな、と右手を上げて、智詩は今度こそ中館の校舎内へと消えていった。
結局僕は、たったの一言だって、彼にかけてやることはできなかった。