第3話『魔法使いの水梨さん』
僕らの間を戦慄が駆け抜け、次の瞬間にはグラウンド中がパニックと化していた。
先生はうろたえながらも、たった今空から落ちてきたのが赤嶺小百合であることを確認する。吐き気をもよおしたのか、口もとを手で押さえながらC組とD組それぞれの室長を指名すると、C組の室長には職員室へ報告に向かわせ、D組の室長には保健室へ養護教諭を呼びに行かせた。
その間にも、何人かの生徒が目の前に広がる異様さに堪えきれず嘔吐した。当然だろう。すぐそこに転がっているのは同級生の遺体なのだ。死んだ人間の姿を、それもこれほどまでにむごたらしい形で見てしまえば、冷静でいられないのも無理はない。
かくいう僕も、吐きこそしないまでもうっかり息の仕方を忘れてしまいそうにはなっていた。クラスメイトのひとりに「大丈夫か」と肩を叩かれるまで、周囲の喧噪を耳がまるで察知していなかった。
大丈夫と小さく答え、僕は改めて彼女の遺体に目を向ける。そして、そのまま一直線に空を仰いだ。
確かに彼女は、この空から降ってきた。僕が彼女の姿を上空で確認した時、校舎の屋上よりももう少し高い位置に彼女は浮かんでいたように思う。二十メートル……いや、三十メートルほどの高さだろうか。まさか同級生が降ってくるなんて思いもしなかったということもあって、はじめのうちはそれが人であると確かな認識を持つことはできなかった。
何よりも不思議なのは、彼女はなぜ、はるか上空から落ちてくるようなことになったのかということだ。
勘違いでなければ、僕が空を見上げた時、そこに飛行機やヘリコプターの姿はなかった。つまり、彼女は単身空に舞い上がり、そのまま地上に向かって真っ逆さまに墜落してきたということになる。
――馬鹿な。
竜巻にでも巻き込まれたか? ……あり得ない。竜巻なんて発生していないし、仮に起こっていたとしたら僕らだって無事では済まない。そもそも彼女は体育館でバドミントンの授業を受けていたはずだ。建物の中にいれば竜巻の被害に遭うことはまずない。
だとしたら、なぜ彼女は空を飛んでいた?
……いや、飛んでいたというより彼女は単純に地上へ向かって落ちてきただけだ。どこかから飛んできて、というわけではなく、突如としてグラウンド上空に姿を現し、そのまま一直線に落下した。ただそれだけの出来事だった。
――まさか。
そこまで考えて、僕はハッとした。
突然空から降ってきた同級生・赤嶺小百合。彼女は単身宙を舞い、グラウンドのど真ん中へ墜落し、首の骨を折って息絶えた。
のちのち確認する必要があるかと思うが、僕の見落としでない限り、周辺に飛行機やヘリコプター、あるいはそれに準ずる飛行物体は視認できなかった。ならば、彼女は一体どうやって大空へと舞い上がり、そのまま一直線に落ちてくるようなことになったのか。
僕にはたった一つだけ、その方法に心当たりがあった。
あまり信じたくはないけれど、もしも僕の想像が当たっていたとしたら。
――犯人は、彼女しかいない。
学校の敷地内が警察車両で埋め尽くされ、正門や職員通用口にはいつの間にかマスコミが押し寄せてきていた。
帰ろうにも帰れない状態になってしまった僕ら明神学園の生徒は、先生から指示があるまで教室で待機させられることになった。各教室の黒板には大きく〝自習〟の二文字が記されたものの、この非常時に黙々と勉強していられるほど僕ら高校生はおとなしい生き物ではない。
体操着から上下濃紺の制服に着替え直し、僕ら二年C組の生徒は皆教室へと戻ってきた。現場を目撃した男子生徒から女子生徒へ、そして他クラス・他学年へ……アカミネグループのご令嬢・赤嶺小百合の転落死というまたとないビッグニュースは、瞬く間に全校中を駆け抜けていった。
僕が教室に戻った時、そこに智詩の姿はなかった。体調不良とはいえ、あの凄惨な現場に居合わせなかった彼は今日一番の幸せ者だと僕は純粋に思った。
ふらふらと教室の外を出歩く他の生徒たちに紛れて、僕はまっすぐ二年F組の教室へと向かった。
廊下側から数えて三列目、一番後ろの席に座って優雅に読書を楽しんでいるその人の姿を視界にとらえる。こんな時に読書なんて。やっぱり彼女は今回の騒動に一枚噛んでいるのだろうか。
「水梨さん」
扉に手をかけたまま、僕は彼女に呼びかける。彼女は僕の声に顔を上げ、ゆっくりとその視線を本から僕へと移した。腰のあたりまでまっすぐ長く伸ばされたつややかな黒髪がさらりと揺れる。
「あら」
短く答え、彼女はふわりと微笑みを湛えた。
「何か御用かしら」
僕が目線だけで廊下に出るよう訴えかけると、彼女は手にしていた本に栞を挟み、ゆったりとした動作で立ち上がった。
そして僕らはいつものように、中館と北館をつなぐ四階の西渡り廊下へと繰り出した。彼女とふたりきりで話をしたい時、僕らはたいていこの場所を選ぶ。屋根がなく、雨天時は通行禁止となるここは、普段から人通りが限りなくゼロに近い。
「赤嶺さんのことは聞いているよね? もちろん」
渡り廊下へ出るや否や、僕は早速本題を切り出した。
「えぇ、聞いたわ。グラウンドに落ちて亡くなったんですって?」
「うん。僕、ちょうど赤嶺さんが空から降ってくるところを見ていたんだ。突然彼女が空の上に現れて、そのままグラウンドに落っこちてきた」
「そう、それはずいぶん奇妙な話ね」
「飛行機やヘリコプターは飛んでいなかったから、それらの中から突き落とされたわけじゃない。どこか遠くから飛ばされてきたという感じでもなくて、ただ唐突に僕らの頭上に姿を現して、僕らの目の前に落ちてきたっていう感じでさ」
「消失マジックならぬ〝登場マジック〟といったところかしら?」
「マジックなんかじゃない――魔法だよ」
僕の紡いだ言葉に、水梨さんは切れ長な瞳をスッと細めた。
「魔法」
「うん、そう。はるか上空に突然人が姿を現したんだ。こんなこと、魔法以外にあり得ない」
「彼女の体に何らかの仕掛けが施してあったということは?」
「僕の見た限り、そういったことはなかったように思えたけどね。彼女は僕らと同じ体操着姿だったし、ヘンな器具が体に装着されていた様子もナシ。そもそも、〝何らかの仕掛け〟って何? そう簡単に人が空を飛べるのなら、もっと世界的な話題になっているはずでしょ」
それもそうね、と水梨さんは笑った。何がおかしい。僕は事実を述べたまでだ。
「とにかく、彼女は間違いなく魔法の力で空に飛ばされ、転落死させられたんだ。つまり犯人は魔法使い――ちょうど、きみのような」
しんと冷たい真冬の風が、見つめ合う僕らの間を吹き抜ける。水梨さんの長い黒髪が静かに揺れた。
およそ一年前に彼女――水梨星蘭さんと出逢うまで、僕はまるで知らなかったのだが、この世界にはどうも、〝魔法使い〟という種族が実在するらしい。そして彼女は何を隠そう、そのうちのひとりなのである。
僕にとって、彼女は命の恩人だ。
彼女が魔法使いでなかったら、僕は一年前のあの時、まず間違いなくトラックの下敷きにされて死んでいた。
僕は通学に電車を利用しているのだけれど、帰りの電車に乗るためには片側三車線の国道を南へ渡らなければならない。
歩行者信号が青に変わり、僕は迷いなく交差点へ進入した。この時、信号の色だけでなくしっかりと左右の安全を確認していたら事情は違っていたのだろうが、あいにくと僕は青信号を完全に信じ切っていた。まさか交差する道路に赤信号を突っ切って猛進してくるトラックがいるなんて思いもしなかったのだ。
気づいた時には遅かった。眼前にトラックが迫り、クラクションの音が高らかに響き渡っていた。当然僕には為す術もなく、死を覚悟する時間すらなかった。
あの瞬間のことは、一年が経った今でもはっきりと思い出すことができる。あれほど奇跡的な出来事はちょっとやそっとじゃ思いつかない。
僕に向かって猛スピードで突っ込んできたトラックは、呆然と佇んでいた僕を吹っ飛ばすことなく、あろうことか僕の体をすり抜けていったのだ!
何が起こったのか、その場に立ち尽くしていた僕にはまるで理解できなかった。しかしすぐに「こっち」という声とともに誰かに手を引かれ、僕は人通りのない狭い路地へと導かれていた。
僕の手を引き、助けてくれたその人こそ、同じ高校の同級生である彼女・水梨星蘭さんだ。
彼女は名乗りながら自らが魔法使いであることを告げ、僕に〝透過〟の魔法をかけてトラックとの接触を防いだと言った。ボケ老人の戯言のような話だと思ったけれど、事実僕は轢かれることなく、トラックは〝透過〟した僕の体をすり抜けたのだ。現実として僕は今もこうして生きているのだから、彼女の話を信じないわけにはいかない。
実際、彼女はその場でもう一度僕に〝透過〟の魔法をかけた。僕に向かって翳された彼女の右手が一瞬淡く光っただけで僕の見た目には何の変化もなかったのに、何を触っても僕の体はすべてのものをするりとすり抜けてしまうようになっていた。道端に落ちている小石を拾うことすらできない! 民家の壁も通り抜け放題だった。
そういうわけで、僕は水梨さんが本当に魔法使いであると信じざるを得なかった。
そして今日。僕のクラスメイトである赤嶺小百合さんが、まるで魔法にかけられたかのように空中に現れ、グラウンドのど真ん中に墜落して死亡した。こんな突拍子もない離れ業、魔法使いである水梨さんの仕業以外には考えられない。
「水梨さん」
僕はもう一度、彼女の名を口にした。
「きみが、赤嶺さんを殺したの?」