第2話『お嬢様、空から降る』
赤嶺小百合。
僕らの住むこの辺りでは知らない人などまずいないであろう、大手総合商社・アカミネ。彼女は代々アカミネグループを取り仕切ってきた赤嶺一族のご令嬢だ。現在のアカミネ本社社長・赤嶺隆の娘、それも長男、長女に続く三人目の次女である。
兎にも角にも、彼女ほどわがままな人間に僕はこれまで出逢ったことがない。
アカミネという天下無敵のドレスをまとっていることもあって、彼女の態度はいつでも、誰に対しても横柄だった。彼女の鶴のひと声で固まりかけていたクラスの意思がくるりとひっくり返ってしまう……そんなことは日常茶飯事。何せ彼女の生家・赤嶺家が営むアカミネグループというのは、この辺りの企業のほとんどすべてにその息がかかっていると言っても過言ではないほど、多大なる権力を掌握している日本有数の大企業なのだ。そしてここ、私立明神学園高校にはアカミネグループの傘下企業で重役を務める親を持つ子どもがわんさか集められている。
理由は単純。グループトップのご令嬢・小百合さまが通っていらっしゃるからだ。大人も子どもも関係ない、腹黒い政治と駆け引きの世界である。
運がいいのか悪いのか、僕の両親はアカミネグループとはまるで縁のない職業に就いていて、僕がこの明神学園高校に進学したことに政治的な意味合いは一切ない。たまたま受かったから進学を決めた、それだけだ。
もちろん、アカミネグループに関わる連中ばかりが生徒として名を連ねているわけじゃない。智詩も僕と同じクチで、アカミネとは縁もゆかりもない家の育ちだった。だから友達になれたというわけではないが、グループ傘下企業のお坊ちゃまたちとはあまり親しくなれそうにないよな、と入学した頃ふたりでよく話していた。
そういうわけで、実のところ僕は赤嶺小百合さんについて詳しくは知らない。同じクラスになったのも今年がはじめてで、確かに彼女の言動にイラッとさせられることはあったけれど、あまり深く関わろうとしなかった僕にとっての実害はほとんどないに等しかった。
ついさっき巻き起こったユリの花騒動については、朝のST――ショートタイム、いわゆる〝朝の会〟だ――の際に赤嶺さん本人が担任教諭に申告した。先生は難しい顔をしながらも、イタズラとも嫌がらせとも、ましてや殺害予告とも判別できない状況であるためか、無闇に事を荒立てる気はないようだった。「人の嫌がることは絶対にしないように」とだけ忠告し、十分間のSTはあっという間に終了した。
「おい」
廊下に設置されている個人用ロッカーの前にしゃがみ込んでいた僕の肩を、智詩は容赦ない強さで叩いてきた。
「なに」
「なぁ、一緒にサボろうぜ? 一時間目」
「はぁ?」
僕は怪訝な顔で智詩を見上げる。口もとはマスクで隠されていてわからないが、その目はしっかりと、そして悪ガキそのものの色で笑っていた。
「いやー、無理だわ。赤嶺のせいで声嗄れちまったし、咳止まんねぇし、サッカーとかやってらんねぇ」
僕から顔を背け、智詩は重苦しく咳き込んだ。確かに、朝と比べてあきらかに声が嗄れている。本人の言うとおり、さっき赤嶺さんと怒鳴りあったせいだろう。
今日の一時間目は体育だった。僕ら男子はグラウンドでサッカー、女子は体育館でバドミントン。授業は二クラス合同で行われ、僕らC組は隣のD組とペアだ。
ロッカーを開けっぱなしにしたまま、僕はそっと立ち上がって智詩を覗き込む。
「大丈夫?」
「あぁ、ちょっと保健室で寝てくる」
「わかった。先生に伝えておくよ」
「おいおい、一緒に来てくんねぇのかよ」
真剣な目をしてそう言った智詩に、僕はおもいきり眉間にしわを寄せてしまった。
「なんで僕が」
僕はどこも具合など悪くないし、授業をサボる理由がない。
第一、健康であってもそうでなくても、僕の中に〝サボる〟なんていう選択肢は存在しない。好きな科目であろうがそうでなかろうが、決められた時間に決められた授業を受ける。それが僕の中の秩序であって、それ以外の出来事はよほどの理由がない限り起こってほしくないし、起こそうとも思わない。よって僕が智詩の誘いに乗るという選択をする余地は微塵もない。ないないづくしだ。
「あぁ、そうだな」
智詩はからりと笑った。
「誘う相手を間違えた」
じゃあな、と右手を上げ、智詩は保健室のある南館一階へ向かって歩き出した。背中を丸めて咳き込む姿に、せめて保健室まで付き添ってやればよかったかと思ったけれど、そんなことをすれば間違いなく僕は授業の開始に間に合わない。薄情だという自覚はあるし、こんな僕とも仲よくしてくれる智詩に対して申し訳ない気持ちもあるけれど、それでも僕はいつもどおり、体操着の入った袋を提げて体育館横の男子更衣室へと向かうのだった。
午前八時五十分。
一時間目の開始は八時四十五分だが、五分遅れは誤差の範囲内という認識が誰の中にもしっかりと植えつけられていた。
体育の担当教諭が本日の種目であるサッカーについての熱弁を振るう間――ちなみに彼はサッカー部の顧問である――、僕ら生徒は真冬の空の下、震えながら膝を抱えてグラウンドに座り込んでいなければならない。陽が出ているとはいえ、おしりは冷たい。早く準備体操を始めさせてくれと誰もが思っていたその時。
「おい、あれ……」
不意に誰かが空を見上げて小さく言った。
今僕らはグラウンドの中央を向いて座っていて、先生がそちらを背にし、校舎側に体を向けて立っている状態だ。声を上げた生徒が誰なのかは判然としなかったが、その人物の周りが皆一様に空を見上げ始め、僕もつられて宙を仰ぐ。
そして、目に飛び込んできた光景に、思わず息をのみ込んだ。
ドサッ!
ものすごいスピードで、何かが空から降ってきた。グラウンドのど真ん中に落ちたそれは、大きな音とともにもあもあと粉塵を舞い立たせている。
「え、何」
「なんか落ちてきた」
「やば、隕石?」
「てかあれ、人っぽくね……?」
次々と生徒たちが立ち上がり、先生も何事かとグラウンドの中央を目指して走り出す。
彼らの背中を見送りながら、僕はしばらくその場を動けずにいた。今朝方の出来事が頭を過ったのだ。
――悪名高き社長令嬢・赤嶺小百合への殺害予告。
智詩のセリフがそっくりそのまま、耳の中で蘇る。まさか、そんな。
生徒のほとんどが走り出す中、僕もようやく腰を上げて集団のあとを追い始める。ずっと座っていたせいか、あるいは単純な恐怖心か、足がうまく動かない。
生徒たちと先生は、グラウンドの中央付近にたどり着くと一斉にその足を止めた。三十人強の男たちで形成された人だかりの隙間を縫うようにして、僕は落ちてきたそれとついに対面した。
人だった。
それも、よくよく見覚えのある女子生徒。
僕たちの着ているものと同じ、ラベンダー色の体操着。トレードマークとも言える長い金髪は無造作に広がっている。体のあちこちが折れ曲がるはずのない方向へとねじれていて、首に至っては完全に折れていることが一目瞭然だった。
幸い、顔はこちら側を向いていなかった。見ないほうが懸命だろう。ただでさえ衝撃的な姿をしているというのに、顔まで見てしまったら一生のトラウマになりかねない。
それに、顔を見なくても彼女が誰であるかは明白だった。
赤嶺小百合――突如として空から落ちてきたのは、紛れもなく彼女だ。