NTR! NTR! NTR!
人生とは不条理に満ちている。桐嶋新はそう思うのだ。神様の描いたシナリオに沿って正しく素直に生きているつもりでも、いつの間にか逸れている。
例えば、今、左手に持っている二本の透明なラムネ瓶と、右手に持っている黄色いCCレモンがそうだ。本来ならば三本のラムネ瓶のはずだった。それなのに、さっき冷蔵庫に取りに行ったら姉の麻衣がソファに寝転がって、だらしないキャミソール姿のままラムネ瓶を口に付けていたのだ。
「ん? あんたのだったの? まぁ、イイじゃん減るもんじゃないし」
飲んだら減るのだが。
姉の蛮行を糾弾してもラムネは戻ってこない。新は嘆息しCCレモンに手を伸ばした。
蒸し暑い真夏の階段を上がり、自室扉のレバーに右肘を掛けると押し込むように開いた。クーラーでよく冷えた空気が肌を撫で、眩しいばかりの白い光が漏れて新の視界を満たす。
「お待たせ。ジュース持ってきたよ」
ボブヘアの少女が床にお尻をついてベッドの側面にもたれ掛かっている。読んでいた文庫本から顔を上げて、少女は嬉しそうに微笑んだ。
「あ、ありがと~、新」
人懐っこい笑顔の頬に髪が掛かる。白いブラウスからは柔らかそうな二の腕が覗く。
「おぅ。陽葵はどっちにする?」
「あれ? 二種類あるの? 『今日は夏の風物詩だー! 瓶ラムネだー!』とか言ってなかったっけ?」
「そのつもりだったんだけどさ。姉貴に一本飲まれちゃって。致し方なく」
新は透明の瓶と黄色いペットボトルを掲げて見せた。幼馴染の陽葵は新の姉である麻衣の性格もよく知っている。
「じゃあ、私、どっちでもイイよ? 新が好きな方を取って。私、どっちも好きだし」
首を傾けてボブの髪を揺らし微笑む陽葵の前に新はラムネ瓶を突き出した。
「じゃあ、ラムネ飲みなよ。陽葵、飲んでみたいって言ってただろ?」
「いいの?」
「いいよ。減るもんじゃないし」
減るのだが。
朝倉陽葵は桐嶋新の幼馴染だ。同じ町内で育ち、今は同じ私立高校に通っている。親同士も懇意だ。一緒に育ってきた陽葵のことを新は女の子として長い間見てこなかったが、高校生になってからのこの半年ほどの間どんどん女性らしくなっていく陽葵のことを、新は意識せざるを得なくなってきていた。
「二之宮も、ラムネ~」
四角い机を挟んで陽葵の対面、一人掛けのビーズクッションに沈み込む眼鏡男子の前にも新はラムネ瓶を突き出した。手元でタブレットを開き、夢中で何かを閲覧している少年からの返事は無い。画面から視線を動かさない二之宮の口許はニンマリ笑みを浮かべている。
「おい、二之宮。聞こえてるか? ラムネ置いとくぞ?」
「……ぁぁ」
視線も上げずに、ニヤニヤしたまま二之宮は声を漏らした。
「二之宮、何、見てんの?」
また、オタクなコンテンツでも見ているのだろう。別に人のタブレットを覗く趣味は無いが、あまりに自分が無視されると、それが何なのか気になってくるのが人情というものだ。
二之宮颯汰は重度のオタクである。
しかも、家庭が裕福で金回りも良い。だから、紙の本でライトノベルやマンガも結構持っているし、電子書籍でも色々持っている。新も時々、貸してもらう。
きっとまた、ライトノベルかマンガでも読んでいるのだろうと、新は二之宮の後ろに回り込み、タブレットの画面を覗き込んだ。
―――――
「ほら! どうした? そんなに甘い声を出したら、旦那にバレてしまうぞ?」
「あぁ! いや、やめて!」
「奥さんの身体はこんなに正直なのにな!」
「はうっ! だめっ!」
「良いではないか、良いではないか」
「あぁ、あぁ、あぁあああ~!」
―――――
エロマンガだった!
「ちょ! 二之宮! おまえ、なんで、俺の部屋でエロマンガ読んでんだよ!?」
思わず大きな声を出してから「しまった!」と思う。部屋の中には陽葵も居るのだ。突っ込まれた二之宮は冷静な瞳で新の方を見上げて応じる。
「――そこに、エロマンガがあるから」
「いや、『そこに、山があるから』みたいに言ってんじゃねーよっ! どこの世界に、わざわざ友人の家に来て電子書籍で自分のエロマンガ読む高校生が居るんだよ?」
「……ここに」
一つ溜息をついてから、二之宮は続ける。
「それにね、桐嶋くん。これはいわゆるエロマンガじゃあないんだ」
その友人の一言に、新は眉を寄せた。
「いや、どう見たってエロマンガじゃん? 今、完璧に、エロいシーンだったじゃん? 人妻が犯されてたじゃん?」
そこまで言ってから陽葵の存在を思い出し、再度「しまった!」と思う。表情をちらりと伺うと、ボブヘアの少女は「ん?」と首を傾げていた。
「桐嶋くん。これはエロ同人だよ。エロマンガじゃあない」
「エロ同人?」
尋ね返すと、二之宮は「あぁ」と頷いた。
「そう。一般にエロマンガと言う時、商業出版のエロマンガを指すことが多いんだ。それに対して、これは同人作家が描いたエロマンガ。それをエロ同人と言って呼び分けるんだ」
「いや……知らんけど、どっちにしろエロマンガじゃん?」
二之宮はタブレットを膝に下ろし、少し首を傾げた。
「まぁ、桐嶋くんの言うことも一理あるかな。でも正直ね、僕は今の時代、エロ同人は商業的なエロマンガの上を行っていると思うんだ。ページ数やモノクロ刷りの制約から解き放たれた表現は独自の進化を遂げている。特に人気ジャンルのNTRは多くの作品が作られて一つの文化を花開かせているんだよ」
「……NTR?」
新は聞いたことのない言葉に首を傾げる。NTTなら電話の会社で、NTNならベアリングの会社、NSRならバイクの名前だ。NTRって何それ?
「あぁ。NTRって言うのはさ。寝取られの略称さ。結婚している人妻が、別の男に取られちゃうとか、そういう話ね。エロ同人最大の人気ジャンル。WEB小説なら異世界転生、エロ同人ならNTRってね。今の時代のリーディングジャンルさ」
二之宮はクイッと眼鏡のブリッジを押し上げて見せた。
「そういえば、新にエロ同人を貸したことは無かったね。また今度、貸すね。きっと気に入ると思うよ」
ニコリと笑う二之宮の口許には白い歯が爽やかに覗いていた。
「おう……ありがとう。……って、いや、違うっ!」
勢いと性欲に流されて、思わず頷いてしまった新だったが、同じ部屋に陽葵が居ることを思い出して、急いで否定した。聞かれていなかったか気になって振り返ると、不思議そうな表情を浮かべた陽葵と目が合った。
三人でつるむようになったのは高校生になってからだ。
二之宮は四月冒頭の自己紹介で重度のオタクであることを悪びれもなくカミングアウトした後、クラスにおける孤高のボッチとなっていた。クラス委員的な気遣いも手伝って、新がそんな二之宮に話しかけたのだ。
話しかけてみると、二之宮は面白い男だった。ほとんどの話題がオタク的だったが、自分の知らない名作ライトノベルやマンガの情報を知っていて、教えてくれた。その幾つかを借りて実際に読んだりもした。
ちょうどその頃、幼馴染の朝倉陽葵がライトノベルに興味を持ち出していたので、紹介したのだ。それから徐々に三人でつるむようになった。今では新の知らないところで、陽葵と二之宮が二人で会うこともあるようだ。
そんなことを考えながら、陽葵と並ぶように、新はベッド脇へと腰を下ろした。少女の肩口から覗く柔らかそうな肌と自分との距離感を少し意識しながら。
陽葵は読んでいた文庫本に栞を挟み机の上にそっと置くと、ラムネ瓶のキャップを開けて玉押しをその口へ力強く挿入する。プシュッという音が鳴って、ビー玉はラムネ瓶の穴の中に沈んでいった。
やおら、陽葵が顔を上げた。
「あのね。二人に聞いてほしい話があるの――」
陽葵はラムネ瓶を机の上に置くと、そう呟いた。
新は陽葵の横顔を見る。二之宮も膝の上にタブレットを下ろした。
「何だよ陽葵? 急にそんな神妙に?」
「う~ん。二之宮くんには話さなくちゃいけなくて、新には話すかどうか迷ったんだけど、やっぱり、ちゃんと言っておいた方がイイかなって思って」
新の視線を陽葵は横を向いて受け止める。陽葵は下唇を愛らしく付き出した。少し困ったように。
「何だろう?」と思う。新には心当たりが無いのだ。陽葵が神妙にならないといけないこと、二人に話さないといけないこと。
「あのね。……私、出来ちゃったみたいなの」
「……何が?」
「赤ちゃん」
ちなみに、最近、幼馴染のことが異性として気になりだした新であったが、彼女にはまだ「好きだ」とも告げられていないし、付き合ってもいない。ましてや男女の行為に至るなどもっての他である。
「……誰の?」
「二之宮くん」
陽葵はラムネ瓶に結んでいた焦点を向かいに座る少年へと滑らせた。新も弾かれたように振り向く。
「……言ってなかったけれど、私達、二ヶ月前から付き合ってて――」
「え?」
新の視界で、二之宮は表情を変えずに小さく首を前に出した。
「……生理が一週間以上遅れているの」
「えっ?」
その日常では聞きなれないフレーズを、保健体育の知識に照らして、新はその理解に至る。
「……二之宮くんの赤ちゃんを妊娠しちゃったみたいなの」
そう言って、少女は自分の下腹部をそっと撫でた。
「えええええええーーーーーーっ!!」
絶叫する新の横で、穴を抜けてラムネ瓶の底に落ちたビー玉は気泡と戯れていた。
夏が始まる。





