ザマァされた悪役令嬢のリスタート
これは――。
今度こそ、貴方を。
今度こそ、貴女を。
幸せにするための、リスタート。
※※※※
体の下にあるのは硬く冷たい床。頬にはぬるりとした液体。液体が放つ酸味のあるツンとした臭いが鼻を刺す。
嗅ぐと嘔吐を誘う強烈な臭気だが、あいにくともう出せるものがない。えずくことさえ出来ず、横たわるのみだった。
「ど、うして」
辛うじて絞り出した声が、疑問の形を取る。
麗子は思う。
どうしてこんなところで、目覚めてしまったのだろう、と。
白くきめの細かい肌。くるりとカールした長いまつ毛に縁どられた瞳。細く美麗な眉。形のいい唇。豊満な二つの果実に折れそうなほど細い腰、まろやかな臀部。
かつては豪奢なドレスを纏っていた彼女の肢体には、ぼろ切れ同然のワンピース、首には、きらびやかな宝石の代わりに犬のような首輪。手足には金属の枷が嵌められ、床に打ち込んだ杭に繋がれていた。
スマホ配信の乙女ゲーム『ローズコネクト』に登場する、悪役令嬢イザベラの断罪イベント。
ヒロインのアメリアを陥れたことがばれ、激怒したヒーローによって国外追放、死刑、奴隷落ち、地下牢投獄、自殺などのルートを辿る。
今麗子の体験しているのは、奴隷落ちルートだった。
趣味の悪い変態で有名な貴族に買われ、毎日思い出したくもない仕打ちを受けた。来る日も来る日も、何度も欲望のはけ口にされ、ついに心が壊れた。現世の人格が壊れてしまったおかげで、前世の人格が目覚めてしまったのだ。
「ううぅ……」
何故、今このタイミングなのか。
前世の麗子も美人だった。何人もの男に貢がせ、金がなくなれば容赦なく振った。そうして振った男の一人に刺されて死んだ。
転生しても性根は変わらなかったらしい。蝶よ花よと育てられ、贅沢三昧。我儘放題。思い通りになるのが当たり前。
そんな時、ヒロインが現れた。幼少からの婚約者である王子に近付き、奪った。それだけではない。取り巻きの令嬢たちも、王子以外にキープしていた公爵家の子息も、全てがヒロインに寝返った。
もっと前に目覚めていたなら。ヒロインを決定的に追い詰める前なら。否、ヒロインに嫌がらせをする前なら。そもそも王子に出会う前なら。
まだやりようはあった。回避できたかもしれない。
世の中に数ある悪役令嬢ものの物語だと、そうだ。ある日、前世の記憶が蘇って、破滅ルートを回避すべく奮闘する。
なのに、これはあんまりだ。
すでに破滅ルート真っただ中。今現在、地獄を味わっているその時に目覚めてしまうなんて。
もうどうしようもない。
押し寄せる絶望感に、つう、と涙が一筋流れた。
「なんだ。壊れたと思ったが、まだ涙を流せるのかぁ。ひっくひひっひひ」
ねっとりと気持ちの悪い声が、耳から侵入してくる。イザベラを買った貴族のものだ。
「いいぞ、いいぞ。いい反応だぁ。これでまだ遊べるなっ!」
腹を蹴られて、反射で体がくの字に折れ曲がる。
「ぐ、ぇえ、え」
口から出た胃液が床に散った。
ビクビクと体全体が痙攣を始める。蹴られた時の強烈な痛みはふわふわと溶けて、地下牢の陰惨な景色も白く光っているように感じた。
男の不快な笑い声も聞こえなくなり、キーンとした耳鳴りに変わる。音も景色も遠くなって、白色に塗りつぶされていく。気持ちがいい。
ああ、死ぬんだ。
心底、ほっとした。これで地獄が終わる。
ゴガッ!
心地よい浮遊感に思考がまどろみかけたその時、地下牢の壁が爆発した。
やめて、もうたくさんだと叫ぶ心と裏腹に、思考が、痛みが、悲しみが戻ってくる。
爆発を受け、床に転んだ貴族の男が顔を上げ喚いた。
「なんだ、貴様。こんな事をして……がっ」
言葉の途中で殴られ、口から血泡をだらだらと溢し、白目を剝いて倒れた。
「イザベラお嬢様」
聞き覚えのある、穏やかで優しい声。
「セ……ス?」
信じられない気持ちで、イザベラの護衛騎士の名を呼んだ。
「そうです。セスです。貴女を助けに来ました」
何故、という言葉が出かかって喉に引っ掛かり、止まる。驚きと、こんな時だというのに不可解に上がろうとする心に戸惑った。
セスが戸惑いを隠せない麗子の手首の鎖を、剣で叩き壊し、背負う。
「……ッ……ァッ……ッ」
「申し訳ありません。少しだけ我慢してください」
苦痛に音の形を取れない悲鳴を上げると、気遣うようにセスが麗子を背負い直して走り出す。
「助けに来るのが遅くなって、すみません。この世界が『ローズコネクト』の世界だってもっと早く気付いたら、貴女が監禁されないルートを探したのに」
『ローズコネクト』。それは前世でスマホ配信されていたゲームの名だ。麗子の記憶が蘇るまでイザベラが『ローズコネクト』の世界だと認識していなかったように、知る筈のないことなのに。
「なぜ、それを……?」
「僕は、神宮司 祐助なんです」
「神宮司、祐助……」
懐かしい名を聞いて、麗子は自分を背負って逃げる男の肩に顔を埋めた。
「馬鹿、ね」
揺れる男の背で、温かく湿っていく衣服をぎゅっと掴んだ。
祐助は、貢がせた男の一人だった。
麗子に言い寄る男の中で、唯一、肉体関係を持たなかった男。金はあまり持っていなかったから、手酷くふってやった。それでも、麗子を好きだとほざいた、馬鹿な男。
体どころかキスの一つも許さなくても、夜中に呼びつけようが八つ当たりして喚き散らそうが、離れなかった。刺されるなら、この男だと思っていたのに。麗子を刺したのは別の男だった。
それどころか、麗子が男に刺されるあの時。あの男は麗子を庇おうとして、自分も刺されたのだ。
「逃がすなぁっ! 殺せぇ、女もろとも殺せェッ」
ねっとりとした怒声、銃声が響いた。
銃声と同時に祐助の体が硬直し、倒れる。麗子は背中から放り出された。石で頬や手足に擦り傷が出来、口の中に砂利が入る。
地面に転がった麗子は必死に顔を上げ、男を探す。
目と鼻の先の距離に男が転がっている。霞む麗子の目にも、男の服が赤く染まる様子が見て取れた。
「セス……祐助」
名を呼んでも、ぴくりとも反応しない。あの時と同じだ。麗子を庇って刺されたあの時と。
「本当に、馬鹿。馬鹿。馬鹿。馬鹿。あんたって本当に馬鹿で、苛つく」
唯一、麗子に欲を向けなかった男。ただ側に寄り添い、離れなかった男。
前世でも、今も。
ずりずりと、這って近付く。
「返事、しなさいよ。してよ、馬鹿。お願いよ」
麗子の懇願に男は答えない。蒼白い顔の中にある、虚ろな目が麗子を映している。男のガラスのような瞳に映る、涙を流して微笑む女の顔が少しずつ歪んだ。
這いずっていた麗子の手が男に届く。自分の体を男に寄せながら、麗子は男の体を抱いた。
「本当に馬鹿なのは、私、ね」
震える両手で男の頭を持ち上げて、膝に乗せる。
涙で歪む女の顔が、男の瞳いっぱいに広がっていく。麗子の唇に、まだ温かい唇が重なった。
この男と初めてするキスは、涙と死の味だった。
「クソ女がぁ、死ねェッ」
貴族の男が唾を飛ばして叫び、麗子に銃口を向ける。
ダガン。銃声が響き血飛沫が散った。胸に灼熱が走り、麗子は死んだ男の上に突っ伏した。男が流した血と、麗子から流れた血が混ざっていく。
「ああ……」
こんな筈ではなかったのに。麗子と違い、貴方はもっと幸せになるべき人だったのに。
神様、仏様。この人だけは助けて。私の命ならあげるから。お願い。
祈っても奇跡は起きない。
男はもう死んでいる。死を覆すなど、神でも出来ないだろう。してはいけないだろう。
こんな自分の祈りなんて神に届かない。届いたことなんてない。
麗子は神に愛されるような人間じゃなかった。悪役令嬢のイザベラも同じ。
――いいえ。貴女は愛されていた――。
死の間際だからだろうか、幻聴が聞こえた。
なんておかしな幻聴だろう。愛されていたなら、こんなことにならなかった。
なによりも。彼をこんな形で死なせなかった。
手足に感覚がなくなり、視界も暗くなっていく。耳障りな貴族の男の声も聞こえない。頬に当たる男の胸の感触もゆっくりと消えていく。
死は覆らない。なら次こそ。
麗子は祈った。
次こそ、あなたが幸せになりますように、と。
――愛し子よ。その祈り、必ず――。
それを最後に、麗子の何もかもが消滅した。
※※※※
胸の真ん中で鼓動が波打っている。胸が上下している。手足があると認識し、体が温かいとぼんやりと感じる。
「……嬢様……イザベラお嬢様……」
誰かに呼ばれて、意識がすうっと上がっていく。心地よい、聞き覚えのある声だ。けれど、泣きたくなる。
ああ、早く。目を覚まさなくては。
「お嬢様。良かった。目が覚めたのですね」
目を開けた麗子の視界に、ほっとしたように微笑む顔が飛び込んできた。血色のいい、直前の記憶よりも幼いセスの顔が。
「ゆ、うすけっ」
ベッド脇にかがむ彼に手を伸ばした。彼の首に手を回し、ぎゅうっと抱きしめる。
温かい。……温かい。
溢れて止まらなくなった自分の涙も、温かかった。
「ど、どうなさいました、お嬢様」
おろおろとうろたえる彼の首元に顔を押し付けて、麗子は誓った。
今度こそ、この人を幸せにしてみせる、と。





