空のクラゲ
天川という小学校からの僕の幼なじみは、変わった奴だった。
昔から漫画やアニメが大好きで、いつだってそれらが見せる幻想を手のひらいっぱいに抱えていた。
世界の滅亡を企むものとそれを止めるもの、平和な世界の裏側に立ちこめる邪悪な真実――そんな荒唐無稽なものが現実に現れて欲しいと、彼女は本気で願っていた。
けれど彼女は現実を見ていないなんてことはなく、むしろ逆だ。
天川はちゃんとわかっていた。現実はアニメや漫画のような不思議は存在しないということが。だから彼女が僕に語るそれらは全て妄想だ。あまりにも熱のこもった、本気の妄想。
だからこそ僕は、もう十年以上もずっと天川の話を聞き続けているのかもしれない。彼女が僕に語るいつか体験したい非現実は、確かな面白味があった。
作家にでもなればいいのにと、何度か言ったことがある。その度に、天川は僕を鼻で笑ってから気軽にこう言うのだ。
「わかってないなあ、せん君は。あたしは生み出したいんじゃなくて体験したいだよ。作者じゃなくてその物語の登場人物。わかる?」
さっぱりわからない。
僕がそう伝えても、彼女は気にする素振りもなく、今日も他愛ない幻想を僕に聞かせてくるのだ。
高校三年生という、そろそろ子供から大人へと、自らのいる場所を移し替えねばならないそんな時期になっても――。
学校からの帰り道、僕たちは特に意味もなく夕暮れの河原に寝そべっていた。いや、寝そべっていたのは僕だけで、天川は綺麗に膝を三角に折りたたんで空を眺めていた。口はみっともなく半開きになっている。
こういう時、決まって天川はいつもの幻想を僕に向けて語りだすのだ。だから待つ。学校終わりの疲労からくる眠気をあくびで和らげながら。
「あたしさあ……空を旅したいんだよね」
始まった。
このまま黙って聞き流していたい気持ちもあるが、定期的に相づちらしきなにかを返さないと天川は不機嫌になる。
「海外旅行とか?」
「いじわる言うならそのまま上にのしかかるよ」
「勘弁してくれ……」
この勘弁してくれは、年頃の男子であるところの僕に、しっかり出るところが出ている女子高生である天川にのしかかられると、色々正常ではいられなくなるから勘弁してくれの意だ。
そして、そんな俺の意識を感じ取ったのか、天川はニヤリと笑う。そう長くはない黒髪をわざわざ耳にかけて僕を見下ろしてくる。こいつの顔はずっと見てきたにもかかわらず、心臓が跳ねてしまうのは悲しい男の性だ。
なんだかんだ、自分の魅力というものをしっかりと理解しているのだ天川という女は。
「ああもう悪かったよ。まじめに付き合うから」
「ふふん――ええとね、例えば雲の中にはなにがいると思う?」
「なにもいないんじゃないか?そもそも雲っていうのは水滴とか氷晶とかぐわあ!?」
本当にのしかかられた。豊満な感触を腹部で堪能したい所だが、同時にのしかかりの衝撃も腹部で味わうことになったためそれどころではない。そして絶対に口には出せないがシンプルに重い。――いやこれは天川が太っているとかそういうことではなく、人の体は人の体に耐えられるようにできていないという話だ。
二人合わせて十字架ののような体勢のまま、天川は続ける。
「あたしはねークラゲがいると思うなー」
「クラゲ……」
「そ。東京ドームぐらいの大きさのクラゲが、空に漂ってるの。そんであたしはそのクラゲを見つけて、傘みたいなやつの上に乗せてもらって一緒に空を漂うんだ~」
そのまま、天川は僕の上で体を半回転させる。大きく漏れた僕のうめき声は無視された。
そして天川は、小学生の時と変わらない輝きを住まわせた目でまた空を見ていた。
その顔を見ると、僕はなんだか色々どうでもよくなってしまう。呆れの意味もあるだろうが、それ以外も――。いうなれば、焦がれだ。
何年経っても瞳を汚さない彼女を、僕は胸の奥底で好ましく思っていた。
けれどそれをはっきりと認めてしまうのがなんだか嫌で、僕はイチャモンをつける。
「僕はその辺りあんまり詳しいわけじゃないけどさ、そういう空を飛ぶ不思議で大きい生き物って鯨がセオリーなんじゃないの?」
「――確かに」
てっきり怒るかとおもったが、天川は僕のイチャモンを正面から受け止めて小さく頷いていた。
でもね――、と彼女は続ける。
「クラゲの方が乗り心地良さそうじゃん」
「……いや、うん……否定はしない……」
「鯨ってさ、なんか硬そうじゃん?なんかヌメヌメしてそうだし、生臭そうだし」
酷い偏見だった。
そういえば、天川は生魚が嫌いなのだった。寿司を食べに行ったときも、たまごとかコーンとかばかりを食べていた。
というか、生臭さなら同じ海洋生物のクラゲも同じなんじゃ――
「うーるさい。とにかくあたしは空のクラゲに乗りたいの!クラゲ!わかる?魚は嫌」
「ってもなあ……クラゲって結構危ないぞ?昔刺されたとき腕に結構でかいミミズ腫れができたし」
「……」
「あと鯨は厳密には魚類じゃなくて――」
「おらあ!」
「おぶぅ――!?」
的確に、天川の肘が僕のみぞおちを穿った。これが昼食直後とかなら間違いなく食べたものを外に出してしまっている。それぐらいの気持ち悪さだった。
天川はいつのまにか立ち上がり、自業自得だと言わんばかりの目で、草の上でうごめく僕を見下ろしていた。
「まったく、せん君は少し理屈っぽすぎるんだよ」
「はあ……はあ……天川が理屈っぽくなさすぎるだけだろ……」
無駄に体力を消耗したせいで、息絶え絶えな返答になってしまった。
軽く息を吐いて、今度は尻と足だけを草の上に付けて座り直す。すると同じように天川も、僕の横に小さくまとまるように座り直した。
「いつからそんな風になっちゃたんだか……。出会った頃はもっと……もっと……。……出会った頃からそんなだったよねせん君は。駄目だこの人」
「おい、自己完結で僕を罵倒するな」
第一、変わらなさで言えば天川も僕といい勝負だ。というか余裕で勝っている。
――けれどまあそこが
「そこがせん君のいいところでもあるんだけどね」
はにかみながら、天川は言った。
「……え、なに?どういう顔なのそれ?」
「別に……」
思う。向いている方向が違うだけで、僕たちはなんだかんだ似ているのだと。
悔しいが、気分がいい。
最初は面倒だなと思っていても、いつのまにかいい気持ちになっているのだ。天川と話ていると。
なんとなく、天川の頬を指でつついてみた。抗議の声が聞こえてくるが無視してぷにぷにと。段々と天川の顔が赤くなってきた辺りでつつくのを止めた。
その後、結構強めに殴られた。天川は、どちらかといえば口より先に手が出るタイプだ。
「……いや、いまのはせん君が悪いでしょ」
「ごもっともだ」
笑う僕を、天川は鋭い目で睨む。怖い。
天川はつり目だから、睨まれるとある種の凄みが出る。長年の付き合いのある僕だから、表情ほど怒ってはいないと見抜けるが、知らない人だと土下座ぐらいまではいってしまうんじゃないだろうか。
――冗談はさておき、僕は天川を見る。そしてその後、雲がまばらに広がる空を見た。
ご機嫌取りというわけじゃない。ただ純粋に僕が聞きたくなったから、聞いた。
「もっと、詳しく聞かせてくれよ。空のクラゲの話」
僕の隣には、昔と変わらないキラキラ笑顔の女の子がいた。
心地いいままに、僕は天川の幻想に耳を傾ける。余計な茶々はいれず、熱の入った彼女をさらに燃え上がらせるように、僕は相づちを打つ。
それは空のあかね色が消えそうになるまで続いた。
一通り満足した後、天川はおもむろに鞄を片手で持ち上げて、はにかみながら言った。
「そろそろかえろっか!」
思えばこれが、僕が最後に聞いた彼女の幻想だった。
一週間後――つまりは現在、天川は僕の前から姿を消した。
小学校から一緒だったけど、そこまで家が近いわけでもない。だから僕は一人で勝手に学校に行って、教室に入って、そこから天川を待っていたり、時には待たれていたりする。
けれどその日、天川は学校にこなかった。
ただぽつんと、僕の机の上に手でちぎられたルーズリーフが置かれていた。
そしてそこには間違いなく、お世辞にも綺麗とは言えない天川の字でこう書かれていた。
『クラゲを見つけた』





