第八十話 「越冬」(その四)
来る日も来る日も雪と薪と格闘していたためか、この年になってもデルターは自分の筋力が増強されたような気がした。
ランスと共に各家家を回って雪を屋根から下ろす。
「どうだ、ランス。少しは体力ついたか?」
隣で息を荒げながらスコップを振るう相棒を見てデルターは尋ねた。
「ええ、実感はありませんが、おそらくは」
ランスは汗を布切れで拭いながら曖昧な表情で応じる。
「心配すんな。必ず成長してる」
「ありがとうございます」
デルターがランスの背中を強く叩くとランスは苦笑いで応じた。
「ハゲの旦那、それに若い人も、本当にありがとうね、助かるわ」
家の持ち主の中年の女性が出て来て礼を述べる。
「良いって、こっちも家から食糧から薪まですっかり頼りきりだからな、その分の恩は返させてくれ」
「そうですよ」
デルターが言うとランスも微笑んで同調した。
「まぁ、良い方達が来られて本当に今年は恵まれてるわ」
それは自分とランス、医者のヴェロニカと、キンジソウのことを含めて言っているのだろう。そうとも一歩間違えた結末が脳裏を過ぎる。あの惨劇はもう起こしたくはない。最終的には村人を説得できたのは、このデブでガッシリした体格の男よりも、どことなく強者の雰囲気を出しているキンジソウの言葉だった。
もしもキンジソウがいなかったら。
自分ではどうにもできなかった未来を変えることはできなかっただろう。
そして黒猫のペケさんの奇跡が無かったらこの村は血の海に沈み、廃村となるばかりか、自分はヴェロニカとランスを失っていた。
そんなことを考えていると、村の男達が数人、猟銃を手に慌ただしくこちらへ向かってきた。
「ハゲの旦那!」
「おう、どうした?」
ただ事では無いことは察することはできた。
「クマだ、クマが出やがった」
「クマが?」
家の持ち主である中年の女が驚愕に目を見開いていた。
「クマは今の時期、冬眠しているはずじゃ無いですか?」
ランスがのんきな口調で言うと男の中の一人が唾を飛ばして答えた。
「出たんだよ! 村の中に! 今、数学の先生が向かったらしいが、ハゲの旦那、アンタの力も貸してくれ」
デルターは家に飾られたショットガンが無いことを悔やんだ。これからは常時持ち歩くべきだろうな。
「ピストルしかねぇが?」
「何も無いよりマシだ! 大勢で撃ち殺す算段になってる! さぁ!」
「分かった」
「私はデルターさんの家に向かいますね。ヴェロニカに知らせないと」
ランスが言った。
「そうだな、外に出るなと伝えておいてくれ。お前は二階にあるショットガンを使ってヴェロニカを頼む!」
「分かりました!」
踏み固められた雪の上をランスは危な気なく駆けて行った。
「案内してくれ」
そういうとデルターは村人の先導を受けて家とは反対側、村の中心部へと走った。
二
疲労に息を荒げている暇は無かった。
茶色のクマは三メートル近くあった。それが村長宅の扉を狂ったように手で叩いている。
まだ誰も到着していない。いや、近隣の家屋からおっかなびっくり様子を窺っているようだ。
「おおい! 扉が限界だ! 早く始末してくれ!」
二階の窓から村長一家が顔を出してデルター達に言った。
デルターは頭上に一発発砲した。
乾いた音だったが、それでもクマの気を引くには十分だったらしい。クマはこちらを振り返り、咆哮を上げて、四つ足で駆けて来た。
今の位置だと、村長宅が背後にあるため、村人達は猟銃を向けることはできなかった。
「いったん散れ!」
村の男の一人が声を上げた時、風の唸りと共に細い影がデルター達の間を抜けていった。
クマの右目に突き立ったそれは矢だった。
クマが後足で立ち、痛みと憎悪の咆哮を上げた時にはもう一本の矢がクマの左胸を貫いていた。
デルター達はそれぞれ銃を構えながらクマの様子を見た。
クマの声はか細くなり、そして後ろに倒れた。
「諸君、脅威は去った」
男の声が後ろから聴こえた。
振り返れば、やや細身の体格の良い男が立っていた。手にはピストルやショットガンではなくクロスボウが握られていた。
右目を黒い眼帯で覆っている。茶色の頭巾と同じ色の外套を纏っている。並々ならぬ男だ。デルターは、キンジソウを、コモをユキを、ついでにヤマウチヒロシを思い出していた。彼らと比肩する腕前だ。それに銃では無く矢だ。
村の男達が警戒しながら銃口をクマに向けながら歩んで行く中、隻眼の男は近付いてきた。
「良い腕してるな」
デルターが驚愕しながら言うと相手は微笑みも浮かべず近寄って来た。
「俺の本当の特技は数学だ。弓術は旅のついでに学んだに過ぎない」
「と、いうことはこの時期に無理して隣町に行こうとしてる男ってのはアンタのことだったのかい」
「ああ」
「目はどうしたんだ?」
デルターは思わず尋ねていた。
「ああ」
相手は眼帯を取った。そこには何の異常も傷も見られない健康な茶色の目玉があった。
「伊達さ。最近の生徒どもは多少脅しが効いていた方が素直に授業を受けるようだからな。グランロウだ。アンタが噂のハゲの旦那だな?」
「そう言ったところだろう。デルターだよろしく」
相手側から手を差し出してきたのでデルターも握手に応じた。すると相手が握る手に力をこめて来た。
これは、俺の握力を試しているな。
デルターも負けじと握り返す。
「鍛えられてるな」
相手はそう言うと力を抜いた。
「まぁな」
デルターも手を放した。
「一つ頼みがあるんだが」
「何だ?」
グランロウの言葉にデルターは首を傾げた。
「俺は隻眼ってことで通してくれ。この右目は昔盗賊に矢を受けて、それを引き抜いた時に取れた目玉を自分で食べたことにしている」
「その方が生徒を脅かす材料になるからか?」
「その通りだ。雪が明けるまで俺はここで教鞭をとる。無論、数学のな」
すると、クマを囲んでいた村の男達が声を上げた。
「大丈夫だ! クマは死んでる! 数学の先生の腕前は大したもんだな!」
すると初老の村長が傷ついた扉を開けて出て来た。
「数学の先生、アンタの望み通り、ここで雪が越えるまで、その数学を村の子供達に教えることを許可する。無論、給金は村から出す」
「賢明な判断だ。俺の数学の教え方は一味違うからな。どんな脳無しでも王立アカデミー程度を通り越える知力を得るだろう」
グランロウが満足げに言うと、彼は声を上げた。
「フハハハハッ! 諸君、今日はクマ鍋だ! さぁ、急いで血抜きと解体だー!」
側にいたデルターは相手に狂乱ぶりに驚いた。
「あ、ああ、そうだな」
村長も村の男達も呆気に取られてグランロウを見ていた。
するとグランロウは腰から大振りのナイフを取り出した。
「どうした、解体するぞ! 解体! ヒャハハハハッ! 俺の特技は数学だからな!」
その様子に村人達は村長始め困惑しきっていた。
「血を抜くのは早い方が良いって聞いたことがある。まぁ、このグランロウの言う通りにしようや」
デルターが言い、ようやく我に返った村人達は解体作業に参加する者、村中にクマの脅威が去ったことと、クマ鍋が振舞われることを伝えに走ったのだった。
「本当に教師なのかね、この人は?」
村長が困ったようにそう言うのがデルターに聴こえたのだった。




